じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 5月7日の下り検測に続いて、5月8日の昼過ぎ、ドクターイエローの「のぞみ上り検測」を撮影することができた。下り検測は日没直前であまり目立たなかったが、今回の上り検測は日射しが強く、金色に輝いていた。


2019年5月8日(水)




【小さな話題】「じぶん更新日記」執筆開始22周年(3)このWeb日記はいつまで続くか?

 執筆開始22周年を機会に、このWeb日記の今後について考えてみる。結論から先に言えば、「私が死ぬまで続く」ということになろうかと思う。もちろん、要介護・寝たきり状態になれば、執筆手段が制限されるが、それでも周囲の人々に支えてもらう中で、音声入力、さらにはセンサーを活用した入力、という形で、生きている限りは何らかの形で執筆を続けることができると考えている。

 「他者が読んでも大して役に立たないコンテンツをなぜ発信し続けるのか? 時間のムダではないか?」という見方もあるとは思うが、私の場合、Web日記はあくまで自分のために執筆しているのであって、自分のために有用である限りは、執筆を止める理由はどこにもない。

 時たま、旅行などで執筆を休止する日がある。もっとも、旅行先ではたいがいデジカメでその日に見た風景を撮影しているので、記録が全く残らないということはまずありえないが、ごく稀に、デジカメが使えなかったりすると、何だかその日1日が丸々失われてしまったような気になることがある。

 旅行した時の記録を旅行記として発信するのも同様の理由によるものである。私が撮った素人写真やメモ書き程度の感想が、他者に有用な情報になるとは思えないが、かといって、旅行記を執筆しておかないと、すっかり記憶から消えてしまって、旅行した意味が失われてしまうような気がする。

 「記録が残らないと丸々失われたような気がする」ということは、歩数計携行についても言える。散歩の途中で歩数計を携行していないことに気づくと、その先歩き続けることがムダになってしまうような気がする。こうなるとかなり病的かもしれない。

 ちなみに、「記録を残す」というのは、あくまで、いま生きている自分にとってのみ意味のあることだ。自分が死んだ後に名前を残したいとは思わない。ま、私が書いた文章や写真記録をすべて合わせても2〜3TB(テラバイト)に過ぎないので、後世の好事家のために、ポータブル・ハードディスクか、何枚かのブルーレイディスクに保存しておいても損はないと思うが、仮にそうした保管品が間違って処分されても、災害や戦争で一瞬のうちに失われたとしても、死後のことであれば何ら気になることではない(というか、私は一貫して無宗教であり、魂の存在などはこれっぽっちも考えたことがない。)