じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 先月あたりから、津山線、白っぽい色で妙に明るい前照灯をつけた列車が走っていることに気づいていた。3月16日の散歩時、ちょうど津山方面行きの列車がそれに該当していたのでさっそく撮影。
 ネットで調べたところ、白っぽい色をしているのはLEDに交換されたためで、すでに1年以上前からキハ40系列の一部車両の前照灯がLED化されていることが分かった。なぜこれまで気づかなかったのだろう。


2019年3月16日(土)



【連載】唯識の科学性(3)人間と独立した世界(3)

 昨日の日記では、番組内容から外れて「存在」の問題に言及したが、けっきょくは、実在論か実用主義かという徹底的行動主義の入門的な議論にいきつくようである【例えば、ボーム2016『行動主義を理解する』の第2章参照】。実用主義の考え方は以下のようなものである。
科学的探究の力は、客観的な宇宙の作用の仕方についての真理を発見することにあるのではなく、 客観的な宇宙が私たちに何を行わせるのかということにある。【ボーム(2016)29頁】

 何かが存在するかしないかという議論は、そもそもその「何か」がしっかりと定義されていなければ意味がない。何かを定義するには、その対象の形態、特徴、作用などを明示する必要がある。それが「存在」しても「存在」しなくても何の影響も与えないのであれば、それはオッカムの剃刀で排除されなければならない。さらに、あるものを定義したとしても、それを他のものと区別する価値がなければ意味が無い。

 ここでまたさらに脱線するが、例えば、ウルル(エアーズロック)は「世界最大の一枚岩」として紹介されることが多いが(実際はマウント・オーガスタスのほうが大きいという)、地質学的にはカタ・ジュタ(マウント・オルガ)と同じ砂礫層の一部であって、その地層がU字型に褶曲して地上に突出し、浸食を受けて残った部分(U字型の上部の2つ)がそれぞれ「ウルル」、「カタ・ジュタ」というように名づけられたことが地質学的に解明されている。なので「一枚岩」というのを「どこにも割れ目の無い連続した塊」としてとらえるのであれば、ウルルとカタ・ジュタをすべて含んだ岩盤層が「一枚岩」ということになる。地上に突出した部分に別々の名前をつけるのは人間の恣意的な関係反応にすぎない。にもかかわらず、ウルルという独立した名称が広まっているのは、乾燥した台地にぽつんと突出する風景が、先住民にとっては聖地となり、現在では多くの観光客をひきつけているからにすぎない。つまり、一枚岩としてのウルルが存在するかどうかという議論は地質学的にはともかく、実用的にはどうでもよいことであり、とにかく「ウルル」と名づけられた対象が人間に対してどう機能しているのかを考えることが重要なのである。

 話題が変わるが、「神が存在するかどうか」という議論もそれ自体は大した意味はない。ある社会において、「神」についての共通認識があり日々の生活に影響を与えているのであれば、その影響の範囲において神は存在していると言えるし、全く影響されていない人がいれば、その人にとっては神は存在しないと言ってよいだろう。

 もっとも、自然界の出来事についての非恣意的な関係を記述した自然科学の世界に宗教が干渉するようなことがあれば問題となる。宗教者は自分の信じるところをすべて「正しい」、「真実」であると主張するかもしれないが、宗教というのは、どこかに必ず、暗黙の恣意的な前提が潜んでいるはずである(恣意的な設定が何もないような宗教はあったとしても自然科学と区別できない)。それゆえ、自然界に起こる出来事の出現確率を高めたり低めたりすることはできない(宝くじの当選確率を高めたり、自然災害の確率を低めたりする力はない。) また、現代医学では治るはずなのに、教義に縛られて治療手段を拒否するというのはもってのほかである(例えば輸血拒否など)。 さらに、繁殖・個体維持・競争などの生物進化の法則と似て、特定の宗派が勢力を維持するためには、信者の獲得、宗派内部の統制、他宗派の排除が不可避であるゆえ、どうしても個人への価値観を強制し、宗派間の争いをうむことになる。

 もちろん、宗教が常に悪いというわけではない。狩猟民族が信じる宗教ではしばしば野生動物を神として崇める傾向があり、これが結果的にその地域での乱獲を防ぎ生態系を守る結果をもたらしていることがあると聞く。また、人間はとかく目先の利益ばかりを追求する宿命にあるが、宗教の力によってより長期的な環境保護の対策が推進されるのであれば、神が存在しようとしまいと、結果的には人類の繁栄をもたらすことにつながる【←そのような実例があるかどうかは不明だが】。

 不定期ながら次回に続く。