じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 文法経グラウンドの水たまりに映る半田山の紅葉。大きな水たまりができた時は「岡大湖」と勝手に呼んでいる。過去の写真【抜粋】は以下の通り。


2018年12月5日(水)



【連載】

PPKとSOCの死生観(1)

 今年も残り1カ月となり、そろそろこの1年を振り返り総括する時期となってきた。
 今年は定年退職という大きなイベントをこなし、その後、ニュージーランドキルギスチベットに出かけたり、孫たちと旅行したりして隠居生活を満喫してきた。これまでのところ、健康状態や体力には特段の異状はなく、来年も旅行資金が確保できればトレッキングに出かけたいと思っているところであるが、いつまでもこういう生活が続けられるわけではあるまい。

 人生の終わり方としてよく言われるのが、
  • ピンピンコロリ型(PPK):病気に苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝付かずにコロリと死ぬ。
  • ネンネンコロリ型(NNK):長期間寝たきりとなり、介護を受けながら生きる。【PPKの対義語】
である。もっとも、これはあくまでPPK志向の立場から設けた対立軸であって批判もある。リンク先のウィキペディア該当項目では、
  • 謙虚さと遠慮による要介護状態の忌避ではないか。
  • PPKを唱えながらも一方では孤独死もまた強く忌避する傾向があるのは理に合わない。
  • 宝くじに当たるようなPPKを望むのではなく、人生の晩年において自立した生活に向けて努力し、自分が納得した介護を受け容れ、障害をもったとしてもいかに幸福な人生と感じ、満足して死ぬことができるか」が重要。
  • 長寿になって、認知症や障害を持っても、よりよく生きてもらうことを考える。ケアの必要な人とも一緒の社会に生きていく覚悟がないと、長寿社会はよりよいものにならない。
  • 「ピンコロは要するに突然死」であるとし、数日間危ない状態が続いた場合と違って、家族や親しい人が最期の別れの時間を作ったり、死に水を取ってやることも出来ないのだから、そうした場面に立ち会うことが出来なかった死なれる側の人間には悔いが残るだろう、ピンコロ希望者はそれが分かっているのだろうか。
といった批判意見が引用されていた【引用元省略】。

 PPKかNNKか、というのは自分で選択できるものではないし、また、必ずしも明確に分かれるわけでもない。現実には、体力が少しずつ衰える中で、「補償を伴う選択的最適化」(selective optimization with compensation; SOC) という形で価値に接触していくことが求められるものと思われる。

 もっとも、PPKは自分で選択できるものではないといっても、それなりの努力と覚悟が必要であろう。

 まず、「PP」(ピンピン)の段階でするべきことがいっぱいある。少なくとも、
  • PP(ピンピン)を保持していくための健康管理。日頃の運動、食べ物。
  • PP(ピンピン)のうちに、終活をしっかりやっておき、いつK(コロリ)となっても周囲に迷惑をかけないようにしておくこと。
という2点は必要であろう。

 そして、この2点よりももっと必要となるのが、PPからKに切り替わる時の覚悟である。PPKは定義上は突然死だが、実際に突然死となるのは事故による即死くらいのものであり、たいがいは、PPからKまでの間に数日間から数ヶ月(←数ヶ月を上回る闘病生活に入る場合は定義上NNKにならざるをえない)の猶予がある。具体的には、癌による余命宣告、重篤な病の突然の発症などが考えられる。このように、近い将来にKが必至であると分かった時にあたふたしないためには、やはりPPのうちにちゃんとした準備をしておく必要がある。この点で大いに役立ちそうなのは、自分が生物の一個体であるという覚悟、ほかに、仏教の死生観、日本古来の武士道精神なども参考になりそうだ。

不定期ながら次回に続く。