じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 日本語の「AはBだ」を「Ais B」のように訳すととんでもない英語になってしまうという例。↓の記事参照。

2018年11月19日(月)



【連載】

日本語と英語の違いをめぐる議論(10)「AはBだ」は「Ais B」ではない

 チベット旅行などで間があいてしまったが、9月25日に続いて、日本語と英語をめぐる話題。

 11月19日(月)朝、NHK・Eテレの「エイエイGO!(土曜日放送の再放送。番組自体は2016年度の再放送)で、日本語の「AはBだ(AはBです)」を「Ais B」という形に直訳するととんでもない英語になってしまうという話題を取り上げていた。

 上掲の画像にあるように、例として挙げられたのは、
  • 【レストランで注文を聞かれて】私はスパゲッティです。→I'm spaghetti. 【正しくは、I will have spaghetti.】
  • 【父の住んでいる場所を聞かれて】父は京都です。→My father is Kyoto. 【正しくは、My father lives in Kyoto.】
  • 【明日の予定を聞かれて】明日は買い物です。→Tomorrow is shopping.【正しくは、I will go shopping tomorrow.】
の3文であった。

 これらの「AはBだ」という日本語文は、いわゆるウナギ文「ボクはウナギだ」とかコンニャク文「コンニャクは太らない」などと同じで、「〜は」の役割を特徴的に表す例となっている。すなわち、「〜は」は、主語ではなく、主題を提示する役割を果たしており、これにより文脈が明確化されている。
 いっぽう、「する」言語である英語では、質問に対する解答は常に「誰が何をするか」という形で表現しなければならない。上記の3例に当てはめれば、「私はスパゲッティを注文する」、「父は京都に住んでいる」、「私は買い物する」が、それぞれの質問に対する「○○は××をする」という答えになる。

 番組での以上の説明はほぼ納得できる内容であったが、日本語文で「主語が省略されている」というような説明をしていたのは少々納得できないところがあった。「主語が省略」という発想は、「あらゆる言語には主語が必要だ」という固定観念に囚われているためである。金谷武洋先生がたびたび指摘しておられるように、日本語には主語はいらないという見方もあり、耳を傾ける必要があるだろう。




 ところで、番組の設定にはいくつかツッコミを入れたくなる部分があった。まず、「英語でどう答えるか?」というのは、英語での質問に対してどう答えるという文脈でなければ不自然になる。例えば、「父の住んでいる場所を聞かれて」という場面設定では「Where does your father live?」というように質問されるであろうから、その形に合わせて「He lives in 〜.」と答えればよいのであって、「A is B」型の答えが頭に浮かぶ余地は無さそうに思う。

 次に、上掲の「AはBだ(です)」という日本語文の妥当性についてツッコミをいれてみよう。
  • レストランで注文を聞かれた時は、「私はスパゲッティです」は冗長であり、「スパゲッティ!」で充分。丁寧に言うなら「スパゲッティにします」か「スパゲッティをお願いします」であって、いずれにしても「私は」は要らない。強いて言うなら、グループでメニューを見ている時に他の仲間がみなカレーライスを選んでいる時に自分だけスパゲッティにしたいという場面や、店員さんが注文のお客の注文を順番に確認するような場面であれば、「私」と注文内容の対応を明確にするために「私は」を使うぐらいのものであろう。
  • 父の住んでいる場所を聞かれた時も、「父は京都です」は冗長であり、「京都です」で充分。強いて言うなら、「ご両親はどちらにお住まいですか?」と聞かれて、父母が別居しているような場合には、「父は京都ですが、母は大阪です」と区別するかもしれない。
  • 明日の予定を聞かれてた時も、「買い物です」や「買い物に行きます」で充分。明日の予定を聞かれている時に「明日は」と繰り返すのは不自然。「朝は自宅です。午後は買い物です。」なら分かるけれど。
ということで、日本語学習者に日本語の自然なしゃべり方を教える場合は、「誰が何をするか」という発想は捨てて、
  • 会話がどういう文脈(空気)のもとで交わされているか?
  • 両者で文脈のどういう部分が共通しているのか?
を把握した上で、共通していない部分(つまり、相手にとって情報的価値のある部分)のみを答えるように気をつければ、より自然な日本語になるはずである。