じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 生家の縁側でかごの鳥を見るわたし。1953年9月撮影。

2018年10月12日(金)



【小さな話題】

居住スペースと移動の自由

 昨日の日記で、狭い檻に閉じ込めらて飼育されることは最悪の虐待だと述べた。そのいっぽう、弱小の野生動物にとっては、自然環境は、常に空襲に怯えながら生き延びている人々と変わらない地獄のような世界であるとも述べた。

 以前、何度かハムスターを飼っていたことがある。小さなケージの中で飼うと、ハムスターは籠の隅に寝床を作って昼間は丸くなって眠る。夜になるとかごの中を動き回り、回し車があれば回し続ける。これは、ハムスターの先祖が、夜になると巣穴から出て餌を探し回る習性を持っているからであり、この行動機会を奪うことは虐待につながると言えよう。飼育ケージの中で毎日どんなに美味しい餌を与えても太りすぎで早死にするだけであり、それよりもできるだけ多様な運動の機会を与えることが必要と思われる。

 子どもの頃、生家ではセキセイインコや文鳥を飼っていたが、小さな鳥かごで一生を終える鳥たちは可哀想に見えた。もっとも、ひとたび籠の外に放せば猛禽類にたちまち襲われてしまう。人間の手で育てられた鳥たちは外敵から身を守るすべを知らないし、餌の採り方も知らないので、おそらく数日以内に死んでしまうことだろう(ワカケホンセイインコのように野生化して大繁殖する鳥もいるが)。

 体の大きい草食動物の場合はまた別である。牛などは、草を食べて反芻し消化することで生涯の大半を費やす。草原を自由に駆けめぐることよりも、繋がれたままで草をいっぱい食べることを好むかもしれない。草は消化が悪くカロリーも少ないので、とにかく食べ続けなければ生きて行かれない。

 結局のところ、地球上の動物にとって理想的な生息環境というのは、安全な居場所(もしくは巣穴)と、食料確保に必要な空間(縄張り)であり、だだっ広い自然空間は必ずしも必要ではなさそうだ。

 実際、人間の場合も、生涯の大半を村の中だけで過ごす人がいる。たまには旅行に出かけることもあるが、体が不自由になって旅行できなくなっても、日々の日常生活がしっかり持続できていれば充分に満足している人もいる。都会でも、別段引きこもりというわけではないが、結果的に、大半を自室で過ごす人がいる。

 私の場合、からだが健康であるうちはできるだけいろいろな場所を旅行したいという気持ちがあるが、からだが不自由になって旅行できなくなったからと言って生きがいのすべてが奪われるというわけでもない。その時はその時で、結果的に制約を受けた居住空間の中で、できる範囲での楽しみを見つけていくつもりである。

ということで(←何が「ということ」なのか不明だが)、11月1日頃まで、旅行のためこのWeb日記の執筆をお休みします。ではでは。