じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 北京で食べた「日式」ラーメン。2005年11月撮影。↓の記事参照。【2005年12月1日の楽天版にも関連記事あり。】

2018年9月8日(土)



【小さな話題】
ラーメンの起源

 NHK「歴史秘話ヒストリア」で、

波乱万丈!ラーメンと日本人 震災・革命・復興 激動のドラマ

という話題を取り上げていた【第320回、本放送2018年9月5日】。歴史上の有名人物を取り上げる番組だと思っていたが、たまに、人物以外も対象となるようだ。

 でもって今回の話題だが、まず「ラーメン」の語源については、札幌市の北大の前に開業していた「竹屋」という食堂が、「肉絲麺(ロースーメン)」を「ラーメン」という呼称で提供するようになったのが始まりという説を紹介していた。この竹屋は、仙台出身の大久昌治が北海道大学の向かいで開業した食堂であったが、当初は客の入りはイマイチであった。ある時、ロシア革命でニコラエフスクから逃れてきた中国人の王文彩という男を紹介されさっそく雇用したところ、文彩の作る「肉絲麺」が人気を呼び大勢の学生が利用するようになった。そのさい、大久昌治の妻の大久たつが文彩が口にする「好了(ハオラー)」の「ラー」をヒントに「ラーメン」という命名したとのことであった。

 もっとも、竹屋の肉絲麺はあくまで中国の麺料理であった。日本独自の醤油ラーメンは浅草にあった来々軒が大正時代に提供したと紹介されていた。その後、ラーメン店は関東大震災で大きな痛手を受けるが、その被災者向けに刊行された『裸一貫生活法』の中で屋台ラーメン屋が大きな利益を上げるなどと紹介される。戦後にはいったん途絶えたが、食糧不足の日本で不満がつのり共産主義勢力が台頭することを恐れたGHQが小麦粉を提供したことで復活。その後ラーメンは、東日本大震災などの復興などで大きく貢献した。

 以上が番組の概要であるが【あくまで長谷川のメモに基づく】、いくつか疑問が残る。

 まず、カタカナ書きの「ラーメン」という呼称の元祖が竹屋食堂であることは、当時の文書や写真などがあれば証拠づけられるとは思う。しかし、その呼称がなぜ定着していったのかは別に探っていく必要があるだろう。「ラーメン」は、私が子どもの頃にももちろんすでに存在していたが、その呼称は店によって「支那そば」とか「中華そば」とも呼ばれていて、必ずしも統一されていなかった。このうちの「支那そば」の「支那」という呼称は、中国の蔑称であるという主張もあり、私が子どもの頃に比べるとあまり見かけなくなっているが、岡山の餐休(さんきゅう)という系列店のように今でも堂々と「支那そば」というメニューを提供しているお店もある。なお電子辞書で「支那」を調べると、
  • 〔秦(シン)の変化と言われ、もと、中国の仏教書で、自国を呼んだ語〕【新明解】
  • 《王朝名の秦(しん)が西方に伝わりそれが変化したものという》外国人の中国に対する古い呼び名【大辞泉】
  • 中国に対してかつて日本人が用いた呼称。王朝名の秦(しん)が音変化して西方に伝わり、それを音訳したものといわれる。日本では江戸中期から次第に広まり、第二次世界大戦末まで用いられた。【日本国語大辞典】
となっていて、もともとは蔑称として使われていたわけではなかった。しかし、『新明解』に
〔江戸時代の中ごろから第二次世界大戦終結時までの日本における呼称。侮蔑(ブベツ)を含意するとして一般に使用を避ける傾向がある〕「東支那海・支那そば」
と追記されており、「東シナ海」、「シナチク」などを除けば、使用を避ける傾向があるようだ。

 ま、「支那そば」の呼称は別としても、中華そばのほうは今でもかなり使われているが、日本独自のスープを使用している「札幌ラーメン」とか「博多ラーメン」などが「札幌中華そば」とか「博多中華そば」と呼ばれることは全くない。地名とセットで料理名を記す時には、カタカナの「ラーメン」のほうが分かりやすいという理由もあったのではないかと思われる。

 このほか、「ラーメン」という呼称は、即席めん、特に1958年から発売されている日清食品のチキンラーメンの宣伝により広まったという説が有力であるように思う。

 いっぽう、味のほうの由来だが、これについては、多くのラーメン通による詳細な資料があるので、来々軒の醤油ラーメンがどこまで影響力を及ぼしたのかは分からない。味噌ラーメンや豚骨ラーメンの起源についても資料が多すぎてはっきりしたことは言えない。

 番組では、戦後のGHQによる小麦粉提供がラーメン復活の決め手になったようなことを言っていたが、小麦粉からはうどんやパンも作れる。提供された小麦粉がすべてラーメンの原料になったわけではあるまい。ラーメンが戦後の復興の原動力になるほどの食べ物であったかどうかはさらに検証が必要であろう。

 ちなみに私自身は、子どもの頃、デパート最上階の食堂で中華そばを何度か食べたことがある。当時から中華麺は売られていたと思うが、家の中で食べたのは即席麺ばかりだったと記憶している。高校の頃は、学校の帰りに環七通り沿いの中華料理店で何度かラーメンを食べたことがあるが(たぶん60円〜70円くらい)、これは醤油ラーメンであり、具は、チャーシュー1枚とメンマとネギ、ほうれん草少々であったと記憶している。空腹を満たすには好適であったが、それほど美味しいという印象はなかった。また、高校の近くで初めて味噌ラーメンを食べたこともあった。味噌を入れたラーメンなど食べられるものかと躊躇したが、実際何度か食べているうちに好物になっていった。

 学生時代、生協食堂のラーメンはどうしようもないほどに不味く数回しか食べなかったが、下宿の近くにあった味噌ラーメン、また大学近くには天下一品の発祥の地や、さっぱり系の「らんたんラーメン」(←今でも営業)などを何度も利用していた。長崎在住時はもっぱらリンガーハットなどのちゃんぽん麺、岡山に移り住んでからも、何カ所かのラーメン屋を定期的に訪れていたが、最近は、塩分や脂肪の取り過ぎを控えることもあって、月に数回以下となっている()。
]ラーメン屋の中には店内での喫煙を認めているところがあり、一度、岡山市内のラーメン専門店で食事中、隣の席のお客のタバコの煙がまともに流れてきて不快な思いをしたことがあった。その系列のお店にはそれ以降いっさい足を運んでいない。最近では殆どのお店は店内全面禁煙になっているようであるが。