じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
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 台風一過後の岡山の最低気温は、9月5日が21.2℃、9月6日が20.2℃となり、めっきり涼しくなった。写真は9月5日の夕空。秋の訪れが感じられる。

2018年9月5日(水)



【小さな話題】
関空の「水没」と利用者「監禁」

 9月4日、台風21号の高潮により、関西国際空港のA滑走路と駐機場が広範囲にわたり冠水し、また、強風による走錨で漂流したタンカーが連絡橋に衝突して連絡橋の空港方面行きの橋桁が破損、9月5日夜の最新情報では、4日の夜には従業員を含めて最大8000人が空港島に取り残されたと推定されている。関空はそのごずっと閉鎖されており、利用客は夜を明かした後、5日朝から高速船で神戸空港まで、さらに長蛇の列に並ばされた上、シャトルバスで対岸の泉佐野駅駅まで運ばれたという。もっとも、行き場の無い外国人旅行者や、関空に自家用車を駐めている旅行者、さらに長蛇の列で並ぶ体力のない高齢者などが今なお空港内に滞留しているとのことである。

 関空は私自身も、7月上旬に利用したばかりであった。ちょうど西日本豪雨の前日であり、JRやバスはすでに運休となっていたが、私は日根野のホテルに前泊しており支障なく予定された便に搭乗することができた。鉄道がすべて運休した日でも空港のほうはちゃんと機能していたことから、関空は大雨に強い空港だという印象を受けていたが、まさか高潮で「水没」することになるとは思ってもみなかった。復旧が長引くと日本経済に大きな打撃になるのではないかと懸念される。

 この台風被害については、翌日になって、報道内容が一部訂正された部分があった。まず取り残された人数については当初は3000人と伝えられていたが、その後「最大8000人と推定」になっている。要するに空港当局を含めて、誰も人数を把握できていなかったようである。

 連絡橋に衝突したタンカーは、当初は橋の南側に係留されていたなどとも伝えられていたが(←なので、強い南風が予想されているのになぜ移動しなかったのかなどという批判も出た)、どうやら、もっと沖合に錨を下ろして停泊していた模様である。【但し、推奨されていた海域よりは関空に近い場所に停泊され、危機管理が不十分ではなかったかという指摘もされている。】

 「水没」した滑走路や駐機場は、当初、平均海面より5メートルの高さにあると伝えられていたが、実際は地盤沈下などで標高2メートル前後になっており、5メートルというのはどうやら地盤沈下後に周辺に張り巡らせた壁の高さだったようである。

 このほか、関空施設内はたびたび停電し、しかもスマホやWi-Fiがつながりくくなったため、取り残された人たちに最新の情報が伝わりにくくなっていたこと、一部冷房が効かなくなっていたこと、コンビニの在庫食料が空になってしまったことなども伝えられた。

 今回の災害は、過去に無い強風や高潮によるものであり自然災害としてやむを得ない面もあり、また空港従業員の方々も大変なご苦労であったと拝察されるが、災害後の対応に不備があるように思わざるをえない部分もある。

 まず、空港に取り残された人々の移動であるが、連絡橋の一部が損壊したとはいえ、北側の片側3車線は全く損傷が無かったはずである。台風はその日の夜には過ぎ去っていたので、この片側2車線を使って、当日の夜からバス輸送を開始できたはず。また、緊急用の食料なども対岸から運び込めたはずである。このほか、空港内で逐一、被害状況や復旧のメドなどを伝えることもできたはずだ。適確な情報を伝えることは、取り残された人たちを安心させるし、デマの防止にもつながる。

 こうした対応がとれるはずなのにとれなかったとすれば、これは空港当局の災害対策に問題があったことになる。そもそも、当時、どこで誰が陣頭指揮をとっていたのかさえ伝えられていない。

 ま、関空に閉じ込められた人たちは、機内泊や乗り継ぎのための長時間待ち合わせに慣れた体力のある人たちが大部分であると拝察されるので、高齢者の多い避難所などに比べればある程度は我慢してもらえるかもしれないが...。