じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 19時過ぎ、途切れ途切れに出現している飛行機雲が見えた。同じ高度で飛んでいるにもかかわらず、なぜこのような変化が起きるのだろうか。なお写真の右端にある白い点は飛行機本体で右方向(西方向)に進んでいた。

2018年7月1日(日)


【連載】

大モンゴル(7)フビライ(2)

 昨日の続き。

 シリーズ第四集では、フビライによる首都の建設や国歌の経済への貢献が取り上げられていた。
  • 雲南地方を制圧したのち、カラコルムから2000kmも離れたドロンノール(現在の内モンゴル自治区)に上都を建設。
    ※上都は、都が大都に移された後も元朝皇帝の避暑地となっていたが、「華北から上都までの水路はなく交通や物資輸送は不便で、都市としての発展には制約があり」、しだいに衰退し草原に戻った。
  • いまの北京の地に大都を建設。
  • 銀本位による税の徴収と、王族への馬蹄銀支給による統制。なお番組では「馬蹄銀」という名称が使われていたが、ウィキペディアの銀錠の項目によると、「実際には明治期の日本人が名づけたものとされ、実際には多種多様の形式の銀錠が存在し、中国においても馬蹄銀の名称はほとんど用いられてはいなかった。」と解説されていた。
  • 古来より中国の皇帝は塩を専売としていたが、フビライは銀としか入手できない「塩引(えんいん)」と呼ばれる塩の引換証を発行。「塩引」による収入は、大ハーンの全収入の80%にものぼった。番組では特に言及されていなかったが、ネット上で検索したところでは、この時代の経済を近代資本主義の萌芽とみる向きもあるようだ。

 フビライの貢献は、裏を返せばフビライ死後のモンゴル帝国の衰退にもつながる。こちらの記事の中で杉山先生は、
【モンゴル帝国滅亡の】一番の理由は、クビライの死後、巨大な帝国を治めるだけの器を持った人がいなかったからです。これにより中央政局内で暗殺が起き、内戦が勃発し、軍事力が弱まりました。ちょうど同時期に、黄河の大氾濫のため近くにあった塩の大生産地を失いました。そしてこの氾濫を防ぐために召集した農民たちが反抗し、反乱軍となってしまったのです。
と述べている。

 なお、第四集では元寇についても言及されているが「フビライの目的は南宋を孤立させることにあり、日本襲撃はその一環であった【それゆえ、あっさりと撤退した】」という程度で、詳しく取り上げられてはいなかった。元寇に関しては、ウィキペディアの当該項目に詳しい解説がありこちらのほうが遙かに参考になる。

 次回に続く。