じぶん更新日記・隠居の日々
1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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ネガフィルムから復元した、建て直し前の生家のマイ風景。↓の記事参照。


2018年5月20日(日)


【小さな話題】

ネガフィルムのデジタル化で復元されるマイ風景の価値

 定年退職後に、保存してあったネガフィルムのデジタル化作業を進めている。私の場合、自分で撮った写真(おおむね中学2年頃から)のネガは原則としてすべて保管されており、デジカメに切り替えた1998年頃までの写真枚数は相当の数に上っている。ごく一部はカビが付着していたが、おおむね保存状態は悪くない。カラー写真の場合、保管条件もしくは現像の良し悪しによりかなり退色しているものもあるが、いまの画像処理技術ではそれなりに復元できる。ネガ自体のキズは人工的に修復するしかないが、後からついたホコリは原理的に除去可能。

 復元作業をしていて思うのは、私個人にとって懐かしい写真は、私以外にとってはどうでもいい写真であるということである。例えば上掲の写真は、私の生家を建て直す前に記録を残す目的で撮ったものである。天井板の模様というのは、風邪で寝込んだ時に一日中目に入る風景であり、そこで寝ていた人だけが懐かしく感じる画像である。風呂場や流しのタイルの配置なども、幼少の頃はとても興味がひかれた対象であった。

 家を建て直したため、これらの風景はもはや世界中のどこにも存在しないが、画像ファイルとしては永久保存も可能。といっても、こういう画像に価値を見出す人もいずれ存在しなくなる。このことに限らないが、人生にとって価値のあるモノというのは、その個人がかかわった対象であって、公共的価値の高いものではない。

 子育て時代の画像についても、マイ風景としての価値は親と子では異なる。子どもが3歳頃に旅行先で撮った写真というのは、親にとっては懐かしい写真になるが、子どものほうは全く記憶に残っていないため、懐かしさの対象にもならない。(自分が3歳の時の写真を見て懐かしさを感じるとすれば、それは3歳時の記憶が甦っているからではなく、後になってからアルバムを繰り返し眺めたり、親から思い出話を聞くことで徐々に懐かしさがしみついていくからである。)