じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 東西通りの歩道から、朝日を反射するピーチユニオン(南福利施設)が見えた。手前は保健管理センター。太陽が南東側から出ている季節のみ見られる。

2018年1月15日(月)


【思ったこと】
180115(月)自分とは何か(4)私的事象のタクト

 昨日の続き。

 「自己」の問題を考えるにあたっては、私的事象をタクトすることと、視点取り(視点取得、perspective taking)の仕組みについて理解することがぜひとも必要である。

 もし我々が、私的事象と公的事象を区別できなかったとすると、自分の世界と周りの世界を弁別することができず、「自己」について考える余地が無くなる。これは、例えば、私たちの生活を考える時に、「自分の国」と「外国」を区別することと同じである。もし、世界に国境がなく、どこへ行っても同じ文化、同じ法律、同じモノが同じ値段で流通していたとすると、形式上(地域名のような形で)は国名があったとしても、「自分の国」について語ることは意味が無くなる。「自分の国」について語るというのは、自分の国に、他の国の人たちが知らない何かがあり、かつそれを報告することが双方にとって有益な結果をもたらすからである。

 私的事象について語ることは、幼少時の言語訓練を通じて可能になる。よく挙げられる例は、子どもが怪我をした時に「痛いの?」と訊かれて「痛い」と答えるようになること、さらには第三者から観察できない歯痛や頭痛についても「痛い」と発せられるようになることで身についていくというような説明である。

 もっとも、「痛い」というのがタクトにあたるのか、何かの手当を要求するマンドにあたるのかは見分けがつかないところがある。この種の文献を詳しく調べたことがないのであくまで個人体験に基づく私見ということになるが、子どもの言語発達ではまず、マンドが発達し、マンドとタクトが一体化する形で私的事象のタクトの発話が多様化していくように思われる。

 例えば、「お腹が減った?」と訊かれた子どもが「減った」と答えるのは、私的事象のタクトであるが、その「タクト」は当然、「ご飯を食べたい」というマンドとして機能するだろう。

 「何が食べたい?」と訊かれて「カレーライス」と答えるのも、形式上はその子どもが食べたいメニューを報告するタクトにはなっているが、これまた「カレーライスを食べたい」というマンドとして機能している。

 小さな子どもの場合、欲しいものがあったり、体のどこかに具合の悪いところがあっても、それらをうまく言語化できないことがある。要求内容が不明確である場合、形式上はタクトであるように見えてしまうが、これはあくまで成長の過渡的な段階と見るべきであろう。

 次回に続く。