じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 1月13日と14日の夕刻は、センター試験を終えた受験生があふれ、時計台前にはバスの列(バスを待つ行列だけでなく、バスそのものの行列)が続いた。入試当日の臨時シャトルバスは前期・後期試験にも運行されるが、こんなに遅い時間にバスが行列を作るのはセンター試験のみであり、私にとってはこれが人生最後の光景となった。

2018年1月14日(日)


【思ったこと】
180114(日)自分とは何か(3)

 長谷川版・行動分析学入門(教養教育科目の電子版教科書)の第9章 行動分析学の発展(1)関係フレーム理論の加筆修正が終わったところで、続く、

第10章 行動分析学の発展(2)行動分析学からみた自己概念

の整備に取りかかっている。時間数の関係で、この章は授業では簡単にふれるだけにならざるをえないが、これを機会に私なりの「自己論」を遺しておきたいと思っている。

 この話題については、昨年12月に、入門科目準備のための備忘録として、触れたことがあった。【12月18日12月19日の日記参照。】そのさいの問題提起を含めて、以下のような構成となる予定である。
  • 10.1. 自分とは何か?という疑問
  • 10.2. スキナーの自己概念
  • 10.3. 関係フレーム理論における3つの自己
  • 10.4. 「活動の束」論からみた自己論
  • 10.5. 巨視的行動主義とプラグマティズム
  • 10.6. まとめ

 さて、改めて「自分とは何か」について考えてみるに、これでナットクというような正解がなかなか見出せない一番の原因は、「他のものに喩えようがない」ところにあるのではないかという気がしてきた。人間は、未知の現象を言語化しようとする際に、当たり前の事象とのアナロジー、メタファーで、関係ネットワークの輪を広げようとするものである。例えば、宇宙船が何光年も離れた未知の惑星に降り立ちその体験を報告しようとした時には、まずは、地球環境とどの程度似ているのか、どこが違うのかという形で言語化していく。その惑星で未知の動物が発見された時も、「恐竜に似ている」、「三葉虫のようだ」といった報告になる。ところが、「自分」というのは、生まれてからの体験の積み重ねの中で徐々に形成されていったため、謂わば「当たり前」の原点のようなものであって、それ以上に「当たり前」の存在が浮かばないため、それ自身の方向に比喩や比較の矢印を伸ばすことができないのではないかと考えられる。それゆえ、「自分は○○さんのようになりたい」とは言えても、「自分は○○さんみたいな人間だ」というメタファーは成り立たない。

 もう一点、プラグマティズムの視点についての簡単にふれる予定である。これは要するに、「自分とは何か」という問題の立て方を変更し、「自己概念を持つことのメリット、デメリットを明確にしよう」という発想である。合わせて、「自分とは何か」を一切考えなかった場合に、どういうメリット、デメリットがあるかも明らかにしておきたいと思っている。