じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 半田山植物園近くの踏切を通過するノスタルジー号。「みまさかノスタルジー」企画のあった昨年と異なり、今年は毎週土曜日に当該車両が運行する以外には、特段の企画はなさそう。

2017年5月30日(火)



【思ったこと】
170530(火)ボーム『行動主義を理解する』(18)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(9)ラクリンの巨視的行動主義(3)

 5月27日に続いて、

ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.

の話題。

 前回も引用したように、ラクリンの巨視的行動主義では、私的出来事はスキナーほどには重視されない。巨視的行動主義では、私的であれ公的であれ、瞬間的な事象や個別化された行為は強調されないからである。あくまで私の理解であるが、私的と呼ばれている愛も痛みも巨視的な行動の中では公的に示されることになるので、わざわざ、個別的な私的出来事に立ち入る必要はないとことのようである。巨視的なカテゴリーに属する公的な活動が一切起こらなければ、そのような私的出来事が存在する必要はない。
実際に人々が自分自身や他者について語る場合、いつも公的な行動にかなり依存しているからである。巨視的な見方からすれば、私が自分自身を知る方法は、他者が私を知る方法と同じであるとまさに言えるだろう。
 確かに、スキナーが私的出来事の例としてしばしば取り上げる歯痛も、公的に観察可能は一連の出来事として「歯痛」として感じられるようになる。歯に炎症があっても、他の活動に専念している時には痛みを感じていない。少なくとも「同じ外傷は同じ痛みを生じるということが求められる」ということはない。

 ボームは、ラクリンが私的事象を否定したことは、必ずしも方法論的行動主義への回帰ではないとしている。【英文は第三版による】
方法論的行動主義もラクリンも、公的事象を研究することを提唱した。しかし、その理由は両者で異なる。方法論的行動主義者たちは、公的事象を客観的ととらえ、精神的な事柄や事象を、それらが主観的であるからという理由で研究の対象から排除した。彼らは、微視的な見方で行動を理解しながら、瞬間的な行為を予測することを望んだ。ラクリンは、客観と主観の区別を問題にしないし、精神的な事柄や事象を排除しない。その代わりに彼は、精神的な事柄や事象は研究できると主張した。なぜなら、それらについて言及していると考えられる用語(痛み、愛、自尊心など)は、実際は巨視的な活動のラベルだからである。したがって、私たちは、精神的な事柄や事象を研究するには、そのようにラベル付けされた活動を詳しく述べる公的な事象を研究するのである。/Both methodological behaviorists and Rachlin advocate the study of public events, but for different reasons. Methodological behaviorists regard public events as objective and rule out-of-bounds mental things and events because they are subjective. Approaching behavior with a molecular view, they hoped to predict momentary acts. Rachlin never raises the objective-subjective distinction and never rules out mental things and events. Instead, he asserts that one can study mental things and events, because the terms (pain, love, self-esteem and so on) that supposedly refer to them are really labels for extended public activities. Therefore, we study mental things and events by studying the public events that make up the activities so labeled.


 次回に続く。