じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 岡大構内のツツジの中では最も遅いサツキツツジが見頃になってきた。写真は東西通り北側の植栽。

2017年5月20日(土)



【思ったこと】
170520(土)ボーム『行動主義を理解する』(11)公的事象・私的事象・自然事象・架空事象(2)

 昨日に続いて、

ボーム(著)森山哲美(訳)(2016).『行動主義を理解する―行動・文化・進化―』 二瓶社.

の話題。

 まったくの偶然だが、日曜日の朝、テレビのスイッチを入れたところ、NHK Eテレで、

こころの時代〜宗教・人生〜 シリーズ 唯識に生きる 第2回「自分とは何者か」

を放送していた。途中から視たことと、所々に仏教の専門用語が出てきて、全体を理解することは困難であったが、「この世の存在はすべて自分の心が作り出したもの」という唯識の考え、(仏教に基づく)マインドフルネスの実演など興味深い内容であった。5月27日に再放送が行われるので、録画予約をしておくことにしたい。ちなみに、放送によれば、マインドフルネスで呼吸が重視されるのは、身体活動の中で呼吸のみが、一定程度までにコントロールできることにあるようだ【←長谷川の記憶のため不確か】。確かに、レスポンデント行動一般、心臓の動き、体温、体のいろいろな場所で生じる感覚(圧迫感、痒み、痛み、しびれなど)などは、観察はできても、自分でコントロールすることは殆どできない。呼吸だけは、一定時間であれば息を止めることもできるし、意図的に呼吸回数を増やしたり、深呼吸をすることができるという点で、自立神経系とオペラント行動との接点であるとも言える。このほか、植物の発芽をメタファーとした説明もなかなか興味深かった。再放送を視聴した上で、感想を書かせていただく予定である。

 ちなみに、心理主義というのは、上記の唯識論(一元論)とは異なり、二元論であったはずだ。心理主義に出てくる「心、意志、エゴ(自我)」といった説明虚構は、上記の放送に出てきた阿頼耶識末那識といった一元論とは異なる概念であるはずなのだが、勉強不足のため私にはうまく区別ができない。日常生活でしばしば使われる「意識」や「無意識」についても同様。多くの人は素朴な二元論的立場からこれを使っているとは思う。唯識論でいう八識(九識、十識とする宗派もあるらしい)については私のような無信心者は足元にも及ばないし、それが絶対的真理であるかのように説かれると私などは頭ごなしに否定したくなる。しかし、「意識のレベル」なるものを派生的関係反応のように捉えるならば、当人が言語化できない反応の機能として分類することはできるようには思う。さらに、純粋に実用主義的にとらえるならば、唯識論的なツールを活用してそれなりのライフスタイルを構築することは決して間違っていないと思う。そのほうが 大ざっぱでちゃらんぽらんに生きるよりは遙かに充実した、価値にふれる人生をおくることができるはずである。

 さて、元の話に戻るが、本書(翻訳書52頁以降)では、上記にも関係する心理主義への批判が行われていた。批判の一番の理由は、心理的虚構を説明に使おうとしている点である。この批判はさらに、自律性(autonomy)と余計(superfluity)という論点に分けられる。後者の「余計」という訳語はちょっと妙な印象があり、「冗長」という訳語でもよさそうに思ったが、「冗長」であればふつうは「redundancy」でよいはずで、原書でわざわざ「superfluity」を使ったのには何か意味があるのかもしれない。

 次回に続く。