じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 4月29日の楽天版で、小石川植物園内にある次郎稲荷について取り上げた。↓の記事参照。
 なお、写真右は、画像処理ソフトで、今回撮影した写真をモノクロに加工し、私自身の子どもの頃の写真を貼り込んだものである。貼り込んだ写真は1958年7月に世田谷城址公園で撮影したしたもので、5歳9ヶ月の頃。

2017年5月2日(火)



【思ったこと】170502(火)3通りの「タイムスリップ」

 4月29日の楽天版で、小石川植物園内にある太郎稲荷、次郎稲荷について取り上げた。次郎稲荷の鳥居をくぐってお参りしたあと、180度方向転換して、目を閉じて鳥居をくぐると55年前の世界にワープできそうな気分になったものの、
じっさい、試してみたのですが、.....鳥居の外に立っていたのは55年前の10歳の少年ではなく、あと半年で65歳となる爺さんの私でした。
という結末に終わった。

 このことでふと思ったが、この種の「タイムスリップ」としては次の3通りの展開が考えられる。私自身の年齢に合わせて言えば、
  1. 鳥居の外に広がっていたのは55年前(昭和37年頃)の世界であり、私は10歳の少年に戻っていた。
  2. 鳥居の外に広がっていたのは55年前(昭和37年頃)の世界であったが、私自身は今と同じ65歳の爺さんであった。
  3. 鳥居の外は今の世界のままであったが、私自身は10歳の少年に変身していた。
 私が小石川植物園で期待したのは、このうちの1.であり、鳥居の外に出たら、↑の写真のごとく私自身は10歳に変身しており(但し↑のモノクロ写真は6歳)、ウロウロしていたら、「早くこっちにおいで」と、当時の家族に声をかけられたというような展開であった。
 しかし、普通、ドラマなどでタイムススリップと言う場合は、上記2.のように登場人物の年齢は変わらず、何百年も前の世界と行ったりきたりする現象を意味している。もっとも今回の例に当てはめると、2.のタイプでは私は昭和37年頃に65歳の爺さんになっていなければならず、そうなると、当時の家族関係に接することはできない。単に、タイムマシンで過去の世界を旅しただけのことになり、それだけだったら、デジタルリマスター化された過去の映像を視聴するのと大して変わらないことになる。同じ人物が、過去の世界と現在でそれぞれ別の役を演じるというドラマのシーンは、第三者がそうしているから面白いのであって、自分自身がタイムスリップする場合には、いったいどっちがホンモノの自分なのか分からなくなり、混乱するばかりになるであろう。

 いっぽう、3.のタイプは、映画の「ビッグ」のような展開である。但し、映画では、登場人物自身が子どもから大人に変身し、再び元の子どもに戻るという設定であったが、上記の例では、2017年という時代において、65歳の爺さんが10歳の子どもに変身し、いずれ元の爺さんに戻るという逆の展開になる。この場合、10歳の子どもに変身した私には、帰る家もないので児童保護施設で生活することになる。映画を作ってもあまり面白そうな展開は期待できない。またこれは、過去や未来の世界に移動するわけではないので、厳密にはタイムスリップとは言えない。

 けっきょく、上記の3つのタイプの中で、ワープ先の世界で、ワープした自分自身が、周囲と齟齬をきたすことなく、ちゃんと生活できるケースというのは1.のみであり、単に、回想しているのと同じことになってしまう。

 少し前、息子や娘が幼い頃に撮影したビデオをDVDに移し変える作業をしたが、ちょうど、息子が生まれた頃にはビデオカメラが出回ってきた時期でもあり、録画の総時間は150時間を超える膨大な量になっていた。そして、最近の孫たちの映像はさらに高画質化し、膨大な量になっている。1年間にせいぜい20枚前後のモノクロ写真しか残っていない私の子ども時代と比べれば、これから先の人々は、何十年も前の自分自身の体験を動画を見ながら容易に回想できるようになるだろう。それが、自己像の形成にポジティブに働くかどうかは定かではないが。