じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 一般教育棟構内・中庭のモクレンが開花。ソメイヨシノほど目立たないが、毎年それなりの花をつけている。

2016年04月04日(月)


【思ったこと】
160404(月)行動分析学における自己概念と視点取得(18)自然科学における私的な出来事(9)

 第17章では、昨日取り上げた「レスポンデント行動としての見る」に続いて、オペラント行動としての「見る(operant seeing)」についても詳しい記述がある。

 『科学と人間行動』(Skinner, 1953、270〜275頁)では、「見る」という行動についての6頁にのぼる詳しい記述がある。ここでの「見る」は「seeing」ばかりでなく「Xを注視する(looking at X)」、ばかりでなく「Sを探す(looking for X)」という行動のしくみについても語られている。節の後半では、「頭の中で立方体の問題を解く、チェスの先の手を読む」といった行動についても考察されている。

 次の「問題への伝統的な取り組み(traditional treatment of the problem)ではさらに、「イメージを描く」や「アイデアが浮かぶ」といった行動についても考察されているが、1950年代での考察は多分に推測的であり、行動分析学以外の立場からは批判されることもある。昨日引用したStanford Encyclopedia of Philosophyの中の批判記事を再掲しておく。【下線は長谷川による】
Skinner briefly describes his own experiences of auditory, musical imagery, and in his influential Science and Human Behavior (Skinner, 1953), he discusses, in a speculative way, the causes of what he calls “conditioned seeing” and “operant seeing” (1953 ch. 17), which are clearly intended as non-mentalistic ways of referring to the experiencing of imagery, that will not violate Behaviorist principles. In his About Behaviorism (1974), Skinner reiterates essentially restates his earlier position, but allows himself to speak more freely of “visualizing,” “imaging,” and “seeing in the absence of the thing seen.”
 いずれにせよ、1950年代の段階では、この問題は宿題として残されている。原書276頁ではこの点について、
Sensations, images, and their congeries are characteristically regarded as psychic or mental events, occurring in a special world of "consciousness" where, although they occupy no space, they can nevertheless often be seen. We cannot now say with any certainty why this troublesome distinction was first made, but it may have been an attempt to solve certain problems which are worth reviewing.
感覚やイメージ、それらの類は、“意識”という特殊な世界で生起する心的な、あるいは精神的な出来事として特徴的に見なされる。それらは空間的位置を占めていないにもかかわらず、度々見られる。今の時点では、このやっかいな問題である物理的な世界と非物理的な世界との区別がなぜ最初になされたのかという理由を、確信を持って言うことはできない。しかしそのような区別は、再検討する価値のある問題を解決する一つの試みであったであろう。【翻訳書328頁】

 ちなみに、この節では、オッカムの剃刀についてのスキナーの考えが述べられておりまことに興味深い。スキナーは、何でもかんでもそぎ落とすという立場はとっていないことに留意する必要がある。
Science does not always follow the principle of Occam's razor, because the simplest explanation is in the long run not always the most expedient. But our analysis of verbal behavior which describes private events is not wholly a matter of taste or preference. We cannot avoid the responsibility of showing how a private event can ever come to be described by the individual or, in the same sense, be known to him.【原書280頁】
もちろん、経験している生活体のみが近づきうる出来事であるために完全に私的である非物理的な性質を持った出来事が存在すると想定するのは差し支えない。科学は、オッカムのかみそり(Occam's razor)の原理に常に従うとは限らない。というのは、最も単純な説明が、長期的に見て最も得策とは限らないからである。しかし、私的な出来事を記述する言語行動の分析は、それをするのが好きだからというのではない。私的な出来事が、どのようにしてその個人によって記述されるようになるのか、あるいはそれと同じ意味でその個人に分かるようになってくるのか、ということを示す責任を避けることはできない。【翻訳書332〜333頁】


次回に続く。