じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 クォーター制実施により岡大では、4月1日(金)が在校生ガイダンスと4月2日(土)が新入生オリエンテーション、4月4日(月)より平常授業が開始されることとなった。私が学生だった1970年代は、4月中は顔見せ程度、5月のGW明けからが本格授業となっており、エライ違いである。しかも、従来は1時限90分だったものが、60分×2=120分となるから大変である。

 そんななか、公開されている新年度シラバスをチェックしたところ、なっなんと私の授業のシラバスの「授業計画」の一部がカットされていることに気づいた。
 白背景がもともとの入力原稿。右上のカラー背景が、公開されているシラバスであり、1クォーター14回目以降の内容がカットされていたのであった。調べてみると、このほかにもう1科目、さらにこれらの英語版シラバスでも同様のエラーが発生していることが分かった。

 さっそく事務方を通じて調べてもらったところ、原因は、授業計画を入力するフォームで先頭文字に「-」が入っていたため【←実際には「-----1クオーター-----」という区切り線の一部のつもり】、入力データをいったんCSV形式のファイルに移した時に、文字列ではなく、「マイナス符号のついた数値」として解釈され、数値データの規定の桁数でレコード長をカットしてしまったためであると判明した。
「-----1クオーター-----」 の部分を
「_____1クオーター_____」
というように「−符号」を全角のアンダーバー「_」に置き換えたところエラーを回避することができた。

2016年03月30日(水)


【思ったこと】
160330(水)行動分析学における自己概念と視点取得(13)自然科学における私的な出来事(4)

 昨日の続き。

 私的出来事は定義上、個人のからだの中(=皮膚の内側)で起こる出来事ではあるが、当事者であるからといって、からだの中の出来事をすべて知り尽くしているわけではない。そもそも、「自分を知る(knowing himself/herself」という時の「知る」というのは、何かを弁別し、言語的手段等を通じて他者に伝えることによって初めて成立するものである。また、仮に、感覚器レベルで弁別できる能力があったとしても、それを弁別する行動が言語共同体によって強化されなければ、それらは1つのカテゴリーとしてひとくくりにされてしまう。

 この良い例は、日本人が「r(アール)」と「l(エル)」の違い、「ra、ri、ru、re、ro」と「la、li、lu、le、lo」を聞き分けること、あるいは自分で区別して発音することが困難であることはよく知られているが、これは日本人の聴力あるいは発声器官に欠陥があるためでは決してない。日本語の共同体の中では「ra、ri、ru、re、ro」と「la、li、lu、le、lo」をいずれも「らりるれろ」として区別せずに聞き取ることが強化される一方、舌の位置を変えて「ra、ri、ru、re、ro」と「la、li、lu、le、lo」を区別するように発音するという分化強化が日本語共同体の中でなされてこなかったことが発音の区別を困難にしていると言える。

 3月28日に述べた虹の色や、異なる色彩カテゴリーを持つとされているヒンバ人の色覚なども同様である。それぞれの人の目に入る色の波長や種類は変わらないが、それをどうカテゴライズして知覚し、言語的に表明するのかは、言語共同体の違いに依存している。

 余談だが、「欧米人は肩こりがない」という俗説もある。確かに英語では「肩が凝る」にピッタリの言葉はないそうだが、ネットで検索すると、Stiff Neck(首こり)とかStiff Back(Back=背中こり)という言葉はちゃんとあるという。実際に凝るのは、日本人でも首と背中の両方であるゆえ、英語のほうが正確な表現であると言えないこともない。いずれにせよ、からだの内部状態を言語的に表明するには、言語共同体の慣習的表現に従うほかは無い。

 以上を含めて、「自分を知る」というのは、周囲(=言語共同体)のリクエストに応じて、自分自身の内部状態を何らかの形で弁別し、それを、言語共同体が用意しているような随伴性に応じて発し、強化まされるということが不可欠となる。Skinner(1953)スキナーはこの点に関して、
Now, self-observation is also the product of discriminative contingencies, and if a discrimination cannot be forced by the community, it may never arise. Strangely enough, it is the community which teaches the individual to "know himself."【原書260〜261頁】
自己観察も、弁別的な随伴性の産物である。弁別がコミュニティによって強められないならば、自己観察は決して生じないかもしれない。奇妙に思われるかもしれないが、人に“汝自身を知れ”と教えるのはコミュニティである。【翻訳書309頁】
と論じている。




 Skinner(1953, 260頁)が述べているように、私的出来事の言語的表明は必ずしも信用されていない。
Everyone mistrusts verbal responses which describe private events. Variables are often operating which tend to weaken the stimulus control of such descriptions, and the reinforcing community is usually powerless to prevent the resulting distortion. The individual who excuses himself from an unpleasant task by pleading a headache cannot be successfully challenged, even though the existence of the private event is doubtful. There is no effective answer to the student who insists, after being corrected, that that was what he "meant to say," but the existence of this private event is not accepted with any confidence.【原書260頁】
私的な出来事を記述した言語的な反応を誰も信じてはいない。そのような記述に関する刺激コントロールを弱める傾向にある変数が作用していることがよくあるものである。しかも、強化するコミュニティは私的な出来事を結果的に歪曲することを防ぐには力不足であるのが普通である。例えば、頭痛という私的な出来事の存在が疑わしいときでさえ、頭痛を理由にして面白くない課題を遂行しない言い訳をしている人には挑戦することができない。誤りが指摘された後、「私も、そう言いたかったのです」と言い張る学生への効果的な回答はない。しかしそのような私的な出来事の存在は全く受け入れられない。【翻訳書308頁】

 心理学の授業の1回目に「人はなぜ○○するのか?」の「○○する」の部分に思ったことを書き入れてもらうというアンケートを行うと、しばしば「人はなぜ嘘をつくのか?」と書く人がいるが、私自身は嘘をつくのはそれほど不思議ではない。嘘をつくことのほうが強化されやすい状況では嘘をつくし、正直に答えたほうが有益であれば(←例えば、問診で自分の症状を報告するような場合)できるだけ精密な言語報告につとめるであろう。

 次回に続く。