じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



02月のインデックスへ戻る
最新版へ戻る

 講義棟南のエンジェルトランペットに1つだけ莢がついいたが、茎の部分はすでに枯れており、外側にはカビも付着していたので中を開けてみたところ、種は確認できたが、発芽できる状態になっているのか、寒さで熟す前に枯れてしまったのかは不明。

2016年02月27日(土)


【思ったこと】
160227(土)『嫌われる勇気』(83)100分de名著(11)「ありがとう」と「偉かったねえ」

 放送最終回の後半では、「勇気づけ」と「勇気くじき」の話題が取り上げられた。

 「勇気くじき」とは、立ち向かわないといけない課題を達成しようと思わない方向に向かわせてしまうことであり、具体的には、相手のダメなことばかり指摘することが挙げられる。そういう指摘者は、子どもや部下に対してレベルの高い理想像をイメージし、現実の相手を理想像からの引き算として見てしまう傾向があるという。

 これに対して課題に立ち向かっていける気持ちにさせるように援助をするのが勇気づけということになる。具体的には
  • 共同体への貢献感を感じられるようになることで
  • 自分に価値があると感じられるようになり、
  • 勇気が持てるようになる
というプロセスがうまく機能すれば勇気づけになるというように説明された。

 番組ではさらに、「ありがとう」と「偉かったねえ」の違いが取り上げられた。カウンセリングに親子連れで来られるケースがあるが、子どもが1時間静かに待っていた時にしばしば発せられる言葉は「(静かにして待つことができて)偉かったねえ」となるが、勇気づけの考えを適用すれば「(きょうは静かにしてくれたので、先生の話をじっくり聴くことができた)ありがとう」となる。前者の「偉かったねえ」は能力のある人が無い人に上から下に向かって発する褒め言葉であるが、後者の「ありがとう」と言われた子どもは、親に役に立てたという貢献感を持てるようになるということであった。

 以上の内容については、昨年8月14日の日記およびその前後で私なりの考えを述べたことがあるが、言葉というのは、話し手と聞き手で異なる効果をもたらす場合があり、なかなか難しいところがある。

 上掲の「ありがとう」というのは、相手が何かをしてくれた時にそれが私への貢献になったという感謝の意味を込めて発せられる言葉であると思うが、日常生活ではそうした感謝を含まず、あいさつ言葉として機械的に発せられる場合も少なくない。例えば、どこぞの相談窓口に問い合わせのメールを送ると、「ご利用いただきありがとうございます」という決まり文句の返事が返ってくるが、相手にとって何がアリガタイのかはイマイチ分からない。京都や大阪のほうに行くと「毎度、おおきに(ありがとうございます)」という言葉をかけられることがあるが、殆ど、店先での活気づけにすぎないという場合もある。

 何かの作業をしている人に向かって「ご苦労様」を使うか「お疲れ様」を使うかについては、テレビの雑学系番組でもしばしば取り上げられる。『大辞泉』では、
「おつかれさま」は「相手の労苦をねぎらう意で用いる言葉。また、職場で、先に帰る人へのあいさつにも使う。「ご苦労様」は目上の人から目下の人に使うのに対し、「お疲れ様」は同僚、目上の人に対して使う。
[補説]文化庁が発表した平成17年度「国語に関する世論調査」では、(1)自分より職階が上の人に「お疲れ様(でした)」を使う人が69.2パーセント、「ご苦労様(でした)」を使う人が15.1パーセント。また、(2)自分より職階が下の人に「お疲れ様(でした)」を使う人が53.4パーセント、「ご苦労様(でした)」を使う人が36.1パーセントという結果が出ている。
というように解説されており、私自身も同僚の教職員に対しては「おつかれさま」、学生に対しては「ごくろうさま」を使うことが多い。もっとも大辞泉によると、「ねぎらう」というのは「苦労や骨折りに感謝し、いたわる。現代では、同等または下の人に対して用いる。」とされており、横の関係ではどう表現されるのかはよく分からない。

 元の話題に戻るが、「ありがとう」と発する時には、機械的に発する挨拶言葉としてではなく、何が自分にとって有難いのかをよく考えてみる必要がありそうだ。

 次回に続く。