じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 2月25日早朝の月と木星と日の出。月と木星は2月24日の13時02分に1°41′まで接近した。日の出のほうは、備前富士(芥子山)山頂からの日の出を期待したがあいにくの雲でその一部しか見られなかった。

2016年02月25日(木)


【思ったこと】
160225(木)『嫌われる勇気』(82)100分de名著(10)共同体感覚

 100分de名著も、2月24日放送で第4回=最終回を迎えた。最終回はアドラー心理学の鍵概念「共同体感覚」がテーマであった。

 番組ではまず「アドラーは、他者を仲間と見なしそこに自分の居場所があると感じられることを共同体感覚と名付けた」と説明された。「生きる喜びや幸福は他者との関係からしか得ることはできない。そのためには自己への執着を他者への関心に切り替える必要があるとアドラーは考えた」。

 そして、「共同体というのは、身近な家族から社会、国家、人類、宇宙というような同心円構造をなすものであり、また人は全体の一部である全体とともに生きている。」。さらに、共同体感覚のために必要なこととして、
  1. 自己受容:ありのままの自分を受け入れる。大切なのは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかだ。短所だと思うところを長所に置き換える。「集中力が無い→散漫力がある」、「記憶力が低い→忘却力が高い」、「臆病→慎重」といった受け入れ方略もある。
  2. 他者貢献:自分が何らかの形で“貢献”していると感じられる。
  3. 他者信頼:他者に貢献するには、(他者は)仲間だと信頼できないといけない。
が挙げられた。このあたりは、『嫌われる勇気』に関連して10月10日およびその前後の日記でふれたことがあるので重複は避けることにしたい。

 ここからは私の意見になるが、上掲の考え方は、世界が比較的平和であり、国内の経済がうまくまわり、治安が維持されているといった前提のもとで、仲間うちのようなローカルな人間関係を良好に築く上では大いに有効であろうとは思う。しかし、ひとたび外国との戦争、あるいは(日本ではまずありえないが)国内での民族間、宗派どうしの対立による内戦状態が起こった時には、共同体というのは、殆ど幻想に過ぎないことに気づくだろう。

 NHKの新・映像の世紀などを見ていて思うのは、人間というのは、ひとたび戦争状態になれば、自分や国を守るためにいくらでも残虐な行為をするものであるということ。そのいっぽう、平和が回復すれば、みなニコニコと笑顔で接し、困った人に手をさしのべようとする。どこが人間の本質かと考えるよりも、人間というのは、状況や文脈により、どのようにも変わりうるものだと考えるべきであろう。

 さいわい今の日本は何とか平和な状態が保たれているが、これは、周辺諸国を含めて平和意識が浸透した結果ではなく、ゲーム理論でいう均衡が保たれているからにすぎない。いずれそのバランスが崩れ人類を滅亡に追いやるような大規模な戦争が勃発する恐れは消えていない。というように考えてみるに、「共同体感覚」というのは地球規模で見れば殆ど幻想にすぎないという気がしないでもないが、繰り返し述べているように、平和な社会の中で、自分を取り巻く人間関係を良好に保つという上では役立つであろうというのが私の考え。

 ここで少々脱線するが、では、民族が融和し、宗教・宗派間の対立が解消すれば恒久的な平和が実現するのかというと、そんなことは無いと思う。本質的な原因はあくまで、利害や資源をめぐる対立であり、そのさい、敵味方としてまとまりやすいのが民族や宗派といった単位であるゆえに、見かけ上そのような紛争になってしまうのに過ぎない。争いの根底は、おそらく、他者を働かせるツールにある。奴隷制時代には、そのツールは鎖やムチといった暴力的手段であった。いまの自由主義社会のもとでは、資源や生産手段、居住空間などを占有し、それを使わせてもらうために働くというのが一般的となっている。となれば、その占有権をめぐって争いが起きる。争いがおさまるのはゲーム理論でいう均衡であって、恒久的な安定とは言いがたい。互助互酬で自給自足のムラ社会に戻らない限りは、対立の火種が消えることは期待できない。良い悪いということではない。ありのままの自分を受け入れるとするなら、ありのままの現代社会を受け入れるほかはなく、その前提のもとで最善の生き方を見出していくほかはないということである。

次回に続く。