じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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お盆休みは短期間、妻の実家のある北九州に帰省することになった。写真は、中国道・吉和SA(下り線)の風景。山陽道と異なり、SAも道路もガラガラに空いていた。

2015年08月12日(水)


【思ったこと】
150812(水)『嫌われる勇気』(32)世界の中心

 昨日の日記
「わたし」に執着している人は、すべて自己中心的です。だからこそ「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えなければならないのです。

と記されているが、ここまでを読んだ限りでは、なぜ「だからこそ」なのか、の理由がよく分からない。
と述べた。この疑問は、「あなたは世界の中心ではない」という節を読み進めることで果たして解決するであろうか?

 まず、
自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。こうした人たちにとっての他者とは、「わたしのためになにかをしてくれる人」でしかありません。みんなわたしのために動くべき存在であり、わたしの気持ちを最優先に考えるべきだと、半ば本気で思っています。【185頁】
という指摘であるが、うーむ、「自分にしか関心が無い」ことと「自分は世界の中心であると考える」ことは、そんなにつながっているのだろうか。すでに何度か書いているが、孤高のライフスタイルを実践している人にとっては、他者は「わたしのために何もしてくれない人」にすぎないはずである。

 続く、
彼らは「人生の主人公」を飛び越えて、「世界の主人公」になっているのです。そのため、他者と接するときにも「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ばかりを考えています。...【しかし】その期待が毎回満たされるわけではありません。なぜなら「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」のですから。【185〜186頁】
という部分も同様に疑問が生じる。孤高に生きる人は、自分の関心空間の中では「世界の中心」でありうるが、そもそもその世界には他者は含まれていないので、他者が自分に何かをしてくれるなどと期待することすら無いはずだ。

 第四章ではつづいて、四角い世界地図と地球儀の違いに言及されていた【186〜187頁】。各国で使われている世界地図では自分の国が真ん中になるように配置しているが、地球儀ではどこかに中心があるというわけではない。

 もっとも、世界はどういうふうにできているのかということと、個々人が世界をどう見るのかということは別の問題であるように思う。前者であれば、いま現在の世界に一要素として自分が存在していることは確かであるが、自分の存在がどう位置づけられるのかは他者それぞれによって異なる。家族にとっては重要な存在でありうるが、遠い外国に住んでいる人からみれば、日本人のうちの1人であってそれ以上でもそれ以下でもない。さらに、10光年離れた星に住む宇宙人が巨大で高精細な望遠鏡で私の顔を眺めることができたとしても、それは10年前の私の姿に過ぎない。ま、とにかく、宇宙の成り立ちや、それが将来どうなってしまうのかについては確度の高い予想ができるにしても、世界をどう見るのかは多種多様であって、視点フリーの世界などはあり得ないように思う。

 いっぽう、世界をどう見るのかというのは、見る人(動物)のニーズや文脈に依存している。要するに、ある地点からレーダーを照射して、跳ね返ってきた情報をもとに世界を構成しているようなものである。当然そこには照射の中心がある。要するに世界の中心だから偉いというわけでもなんでもない。火星に降り立った探索車が、移動しながら撮影していく風景は、その探索車を中心としているが、だからといって探索車の居る位置が火星の中心というわけでないのと同様である。

 養老孟司さんが「自分探しは、地図上の矢印探しのようなもの。」と言っておられたように【2014年9月3日の日記参照】、もともと自分は世界のどこかに存在する固定点というより、移動点を中心としたベクトルのようなものであるようも思う。

 不定期ながら次回に続く。