じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 岡大・東西通り北側の歩道に見られる「さつきロード」。5月22日(金)の楽天版にも掲載したが、それから2週間経ってもまだ咲き続けている。ミツバツツジクルメツツジキリシマツツジヒラドツツジなどに比べると、キリシマツツジは花期が最も長いように思われる。

2015年06月05日(金)


【思ったこと】
150605(金)NHK 100分 de 名著43「荘子」(2)渾沌

 6月1日の続き。今回から放送順に感想を述べていく予定。なお書物の『荘子』と4回にわたる放送回の構成は必ずしも対応していないそうだ。

 まず1回目では「尾を泥中に曳く」というライフスタイルに言及された。これは、外篇の「秋水(しゅうすい)」にある話だそうだ。私自身も老後はこういう人生でありたいとは思う。

 続いて「渾沌」という重要なキーワードが取り上げられた。

 ランダムハウス英語辞典で「混沌」を英訳するとまずは「カオス、chaos」が上がるが、厳密には異なるらしい。カオス(無秩序)という概念はコスモス(cosmos、秩序)の対義語であって、秩序を感じる人間の頭が、そうでないものを無秩序と呼んでいるだけである。いっぽう、「渾沌」というのは「何が生まれてくるかわからない、わけのわからない活発なもの」という意味らしい。ネットで検索したところ、福永光司先生(孫引き)の「渾沌:大いなる無秩序、あらゆる矛盾と対立をさながら一つに包む実在世界そのものの象徴」、「大切なのは生きていることであり、知的統一と体系ではない。ただ生きる渾沌を愛する。生命なき秩序よりも命ある無秩序を愛する。」といった言葉がヒットした。

 次に「ないがまま」、「感覚もすでに“私”に染まっている」についての説明があった。「あるがまま」というのは、一見、主観や感情を含めず、対象をそっくりそのまま受け止めているように思われる。しかし、けっきょくのところ、「あるがまま」というのは自分の感覚というフィルターを通じて受け止めているにすぎない。人為を加えない自然というのは、「ないがまま」、つまり渾沌そのものであるということらしい。

 ここからは私の考えになるが、自分の感覚がある種のフィルターであるという点は私も同意できる。このWeb日記でもしばしば、
科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」
という佐藤方哉先生(1976)のお言葉を引用させていただいているが、それを引用すれば「あるがままに受け止める」というのも
あるがままに受け入れるというのは「自然のなかに厳然と存在する秩序を、主観や感情に染まらずそのまま自分の中に取り込む作業」ではなく、「混沌とした自然を人間が秩序づける作業」の1つに過ぎない
と言えるのではないかという気がする。

 もっとも、大自然が全くの無秩序であれば、人間や動物がどのように振る舞っても適応的に有利な変化をもたらすことはできない。例えば、ある時点での状態と、そのすぐ後の状態が不連続で独立しているとすれば、ある時点でのいかなる行動もその後の有利な結果を保証できない。

 じっさいには、この宇宙の、そしてこの地球上の世界はある程度安定してゆっくりと連続的に変化しており、人間や動物たちは、それぞれのニーズに応じて、「こうすればこうなる」という形で、環境に能動的に働きかけ(=オペラント行動)適応しているのである。
  • 少なくとも地球上の大自然は、ある程度安定し、ゆっくりと、連続的に変化している。不連続・独立的な変化が起こりにくいという意味では、一定の秩序がある。
  • 但しその「秩序」をそっくりそのまま記号化することはできない。人間や動物がそれぞれのニーズに応じて、異なったやり方で「秩序づけ」ているだけである。
  • 同じ環境、文化の中で共同生活をする人間の場合は、ニーズが共通しているため、秩序づけのスタイルも共通してくる。さらに、教育、しつけといった形で、同じスタイルが伝承される。それゆえ、その集団内では、自然界には厳然と存在する秩序があるというように錯覚されやすい。(もっとも、その集団内で暮らすぶんには、そのように錯覚して生活していても何ら不都合は起こらない。)
  • 自然をありのままに受け入れるというのも、けっきょくは、自然を、あるスタイル(たくさんの種類のフィルターのうちの1つを使ったスタイル)で秩序づけているに過ぎない。
というのが私の考え。

 そもそも、生きている人間や動物が、自然をそっくり受け入れるということはできないと思う。人間や動物は、レスポンデント行動、オペラント行動という2つのタイプの行動で環境に適応しているのであって、これらの行動を介さずには自然に触れることはできない。

 このうち、レスポンデント行動というのは、刺激によって誘発される行動でありパヴロフによって定式化されている。このうち、無条件反射はまさに、刺激をそっくり受け入れていることにはなる。といっても、繰り返し同じ刺激に晒されれば馴化が起こってくる。さらには、中性的な刺激が条件刺激と化すことで、同じ刺激に対して異なる反応をするようになる。番組で取り上げられた話題で言えば、おにぎりの味が、おにぎりの好きな日本人と、一度も食べたことのないアメリカ人で異なるというようなことだ。

 いっぽう、オペラント行動は、人間や動物のほうから外界に働きかけ、その結果によって出現頻度や行動の質(より精緻化された反応、複合的、連鎖的な行動など)を変えていくという適応スタイルであり、言わば、レーダーで外界を検知しているようなものである。よって、人間も動物も、みずからが持ち合わせているレーダーの範囲でしか自然を受け止めることはできない。例えば人間の場合、測定機器を使わなければ、超音波、放射線、紫外線などは検知できない。いまの世の中、大概の場所では、無線LANの無数の電波が体の中を通り抜けているが、これまた検知できない。【もっとも、旅行先などで普段と違う無線LANサービスを利用したいというニーズが発生すれば、それに合わせて、ノートパソコンやタブレットの置き場所を変えることはできる。】

 繰り返しになるが、少なくとも地球上の大自然は、ある程度安定し、ゆっくりと、連続的に変化している。だからこそ、レスポンデント行動やオペラント行動は、人間や動物にとって有益な適応方略になるのである。というか、だからこそ、結果として、地球上で生き残り、繁殖してきたのである。そういう意味では、大自然は純然たる渾沌とは言えない。しかし、大自然をどう秩序づけるか(一定の規則性に基づいて行動していくか)は、それぞれの動物がどういうレスポンデント、オペラントを持ち合わせているのかに依存しており、同じ種の中にあってもニーズにより異なったり、経験により変容したりする、ということを考えると、秩序付けのスタイルは千差万別であると言わざるを得ない。

不定期ながら、次回に続く。