じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 岡大では、全学の委員会や部局の教授会などでペーパーレス化が導入されている。これまで、会議に持ち込まれるタブレットやノートパソコンの中には、会議が長引くとバッテリーが切れてしまうものがあったが、今回より、机上に電源分配コンセントが設置された。これにより、長時間のペーパーレス会議も万全。もっとも「バッテリーが切れたので会議は終わりにしましょう」という言い訳はきかなくなった。

2015年05月27日(水)


【思ったこと】
150527(水)哲子の部屋「どうしたら“恋”できるの?」(2)

 昨日の続き。番組では、

“これ性”(出来事が持つ唯一無二の特異性)

が取り上げられていた。ドゥルーズの著作は全く読んでいないので、もともとどういう経緯で定義された概念なのか、またどなたが「これ性」という訳語をあてたのかについては確認できていない。もっとも、ウィキペディアによれば、この番組では、國分功一郎先生が2012年と2014年に出演されており、単行本の監修もつとめておられる。『ドゥルーズの哲学原理』という御著書(岩波書店、2013年)もあり、そのあたりに繋がりが見出せそう【さっそく、これを機会に『暇と退屈の倫理学 増補新版』と合わせて注文させていただいた。】

 それはそれとして、番組で説明された限りの知識から推測すると、“これ性”というのは、「おふくろの味」のような、比較できない唯一無二の特異性のことを意味するようである。

 もっとも、「唯一無二」という捉え方には2つの意味がある。
  • 1つは、「ただ一つあって、二つとないこと。」という辞書的な意味【大辞泉】。しかし、ある対象が1つしかないということは、原理的に言って、それと出会った瞬間には決して検証することができないはずである。世界中、あるいは宇宙のあらゆる場所を捜索しても2つ目が見つからなかったことを確認したあとで初めて唯一無二であったことが分かる。現実には、そんな時間もないし宇宙の果てまで行くわけにもいかないので、これは、当事者が行動できる範囲において、過去、現在、さらには将来の見通しをもった上で「唯一無二」であろうと推定するしかない。
  • もう1つは、すべての対象は「唯一無二」であると考えること。そもそも、世界のあらゆるモノは唯一無二であり、さらにはそれと関わる個々人の出来事も一期一会であるからして、別段、身構えるまでもなく日々の出来事のすべてに「これ性」を見出すことができる。


 そもそも、同じとか違うというのは、人間、外界のさまざまな事物を分類して、あるまとまりの中にあるモノは「同じ」として扱い、同じように反応するためにこしらえた概念であって、本来は、同じモノなどはあり得ない。ちなみに動物でも、刺激の弁別や般化、分化強化・分化弱化といったプロセスを通じて、同じか違うかという対処をしている。そうしないと無限の事物に対してうまく適応できないからである(「そのような弁別・般化がうまくできた動物だけが生き残った」)。

 あと、おふくろの味であっても、世界でたった一人の大切な恋人であっても、他の対象から完全に孤立した特異な存在ではありえない。その周辺には必ず似たものがあり、それらとの比較なしには、特異な存在を語ることはできない。要するに、個人をとりまく外界の事象は、すべて、何らかの比較のベクトルによって結ばれている。特異な存在といっても、そのベクトルから切り離された孤立点ではなくて、あくまでベクトルの中の特異点であるということだ。

 もし、今まで一度も見たことがない、喩えようのない未知の物体に遭遇したとしたら、その人は、原理的に言って、何を見たのかということを他者に伝えることはできない。実際には、少しでも似たものと結びつけて「モヤモヤの煙のように見えた」、「太陽のように明るい光を放っていた」、「タコのような形をしていた」、といったように、何らかの比較をして語ろうとするはずだ。未知との遭遇といっても、けっきょくは、既知のベクトル空間のどこかに位置づけられなければ、これ性の対象にもならないはずだ。

 次回に続く。