じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 ケヤキの紅葉のグラデーション。紅葉が始まったばかりのこの時期は、同じ樹であっても枝によって紅葉の進み方が異なるため、なかなか趣のある彩りとなっている。


2014年10月11日(土)

【思ったこと】
141011(土)オリンピック・メダル獲得と2020ターゲットエイジ育成・強化プロジェクト

 土曜日朝のNHK「ニュース深読みで、

東京五輪で金メダルラッシュ!? トップアスリート育成は...

という話題を取り上げていた。焦点となったのは、「2020ターゲットエイジ育成・強化プロジェクト」であった。

 番組から聞き取った要点をメモすると、
  1. ターゲットは17〜21歳。応募者の身体能力や精神力などを検査した上で選ばれた「金のたまご」を適性に合わせて各競技団体に送り込み育成。
  2. 国のスポーツ関係の予算は全体で260億で、このプロジェクトの14億はそれほどの額ではない。公的なお金を使う以上は、効率に配慮し、システマティックに使わなければならない。
  3. よりメダルを取りやすい競技団体に配分に重点配分。
  4. 各国のメダル獲得数はGDPと人口で50%くらいは説明できる。残りはアスリート育成のシステムである。これを改善すれば、いまの3倍のメダルが獲得できる。
  5. これまでのスポーツ環境というのは、子どもの頃にたまたま接した競技に参加し、それを続けるかどうか、ダメなら挫折という、きわめて限られた選択肢であった。そうではなく、いろいろな複数競技を体験しながら、自分にいちばん合うスポーツを選んでいけるようなシステム。
  6. ライバルが少ない種目(ブルーオーシャン)に注目し、お家芸を増やしていくという取り組みもある。
  7. 監督と選手の二人三脚でメダルを取るという話は美しいが、今や、組織がスポーツを支える時代となっている。
  8. スポーツ文化は、「する人」、「観る人」、「支える人(育てる)」が必要。
  9. 地域スポーツとアスリートの好循環を確立することで持続可能なスポーツ文化が育つ(そのサイクルが確立できなければ、オリンピックでメダルをたくさん取っても、それっきりで終わってしまう)。
 番組では、こうしたプロジェクトが開始された背景として、従来型の有望人材発掘システムの限界が指摘されていた。学校体育、部活動、スポーツ少年団や企業スポーツに任せきりではダメだということであった。

 番組を視ていてまず思ったのは、中途で脱落した「負け組」の人たちをどう支えていくのかという点での不安であった。ある程度実績をあげた人であれば、次世代育成の指導者としての道が約束されてているが、初期段階でふるい落とされてしまうと別の道に進む可能性が閉ざされてしまう恐れがある。そういうリスクが相当程度ある限りは、「さとり世代」以降の若者たちは、毎日何時間も練習に明け暮れるよりは、よりリスクの少ない職業を目ざして、英語力アップや資格取得などを選択し続けることになりそうな気もする。

 さて、ここからは少し脱線するが、そもそもスポーツとは何だろうか? ウィキペディアでは
人間が考案した施設や技術、ルールに則って営まれる、遊戯・競争・肉体鍛錬の要素を含む身体や頭脳を使った行為。日本においては身体を使ったものが主体の「フィジカルスポーツ」だけをスポーツとみなす考えが強いが、思考力や計算力といった頭脳を主体の「マインドスポーツ」も本来はスポーツに含まれている。競技として勝敗や記録を主の目的として行う場合はチャンピオンスポーツ、遊戯的な要素を持つ場合(楽しむ事や体を動かす事を主の目的として行う場合)はレクリエーションスポーツと呼ぶこともある。
というように定義されているが、私自身は、以下のような考えを持っている。
  1. 「このように行動すれば、こういう結果がもたらされる」という、ひとまとまりの閉じた行動随伴性(ルール)環境のもとで、特定の行動が強化されている状態。
  2. 行動随伴性(ルール)は恣意的に変更が可能。通常は、最も強化されやすい基準が採用される(例えば、野球の塁間距離や投手と打者の距離、サッカー場や土俵の広さ、競走距離など)。
  3. もたらされる結果は、相当程度、努力の質と量に依存するが、ある程度は不確実に変動する。【変比率強化スケジュールの効用】
  4. 競争的環境のもとで社会的好子(メダルや順位など)を付加するチャンピオンスポーツと、心身健康を向上させる目的で自らが参加してその結果によって強化されていくレクリエーションスポーツとがある。
 要するに、日常社会ではあまりにも多種多様な随伴性が同時に作用しているため、偶然的要因によって、努力の質や量が必ずしも結果に反映しないということがあまりにも多すぎる。スポーツは、偶然的要因が関与する大きさを必要最小限にとどめた上で、「努力の質と量の積み重ね」がもたらす感動を現実化する効果を、「する側」にも「観る側」にも、もたらしているように思う。

 元の話題に戻るが、本来選手個人の努力と栄誉を称えることが目的であるはずのオリンピックにおいて【2010年2月18日の日記参照】、なぜ、メダル数を増やすための国家プロジェクトが必要なのかについては、番組でも多少言及されていた。「他の国がみな取り組んでいるから」では説得力は少ないし、商業主義とのリンクについてもいろいろな批判がある。確かに、観るスポーツだけの活性化を目的とするならば、プロスポーツ各界が独自に宣伝・普及活動を行い、興行収益を上げればそれでよいという気もする(大相撲のような伝統的な国技は守るべきだろうが)。

 結局のところは、今回のようなエリート育成システムを定着させることが、観るスポーツと、レクリエーションスポーツの両方を活性化できるような好循環の確立につながるかどうかにかかっており、メダル獲得数というのはあくまでその結果に過ぎないと考えるべきであろう。