じぶん更新日記

1997年5月6日開設
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 岡大西門を入って西側の花壇を昨年と比較。昨年はホウキギ(コキア)を育てていたが、水やりの手間がかかるため今年はポーチュラカ(花スベリヒユ)とセダム(黄緑色)主体とした。もっとも、今年の8月は雨が多かったので、ホウキギを植えていても水やり不要であったかもしれない。



2014年9月1日(月)

【思ったこと】
140901(月)2014年版・高齢者の心と行動(14)

 レジャーを楽しんでいただけない可能性の3番目として、もう1つ、

●社会貢献の欠如。自分だけが楽しむのは気がとがめる。家族や親族、地域、社会のためにお役に立つことが生きがい。

を挙げました。こうした考え方は、団塊世代やそれより高齢の世代の方々に多いように思います。それは、時代背景や当時の教育に根ざしたものであって、他者や社会のために苦労してきたという誇りや、「利己的」な遊びは時間の無駄だという強い信念に基づいており、もしそういうお考えをお持ちの方がおられたらやはり尊重するほかはないと思います。

 少し前、ガイアの夜明けという番組で、

枯れてたまるか! 〜老後の生き方...新常識とは〜

という放送がありました。興味深く拝見したのは、悠々自適な生活を送るために造られた高齢者用マンションの住民が、個人の趣味や教養の向上では飽き足らず、社会参加・社会貢献の機会を求めていたということです。

 このほか、若い時には私利私欲を最優先にしていたような人が、晩年に篤志家になる場合があります。これは別段、クリスマス・キャロルのスクルージのように改心してそうなったとは限りません。佐伯啓思『反・幸福論』の中でも指摘されていたように、個人が生きている間に享受した楽しみ、自身の向上、努力、能力などなどは、自分の死によってすべて消失します。その虚しさを逃れる【=「好子消失阻止の随伴性」】ためには、家族や世間のために何かを残すか、あるいはすべての執着を捨てて隠遁生活に入るほかはありません。前者の場合、傍目には、あの人は、子どもや孫のためばかりにお金を使っているというように見えても、実際は、そのことが、自分自身の最善の消費になっているのかもしれません。利他的行動には、互恵的利他主義もあるが、自分自身の死によってすべてが消失ことを恐れる利己主義者は、家族や世間に何かを残すという「代替」によって、何とかして消失をくい止めようとしている場合もあるのではないかと考えています。

 ま、いろいろ申し上げましたが、とにかく、世間のために何か貢献することに価値を見出しておられる方については、できうる限り、社会貢献の機会、例えば、公園のお掃除や花壇の世話、幼稚園児との交流、障がい者支援などへの参加機会を保障していくことが大切ではないかと思います。




 次に、レジャーの質に関係して「高級な喜びはあるか?」という話題を取り上げます。

 あくまで孫引きの知識ですが、功利主義者として知られるジェレミー・ベンサム(1748-1832)はかつて
  • 社会から苦痛を減らし幸せを増やす。
  • 幸福が苦痛を上回る。
  • 幸福の最大化→効用の最大化。
  • 喜びの量が同じであればプッシュピン【ピンをはじいて相手のピンの上を越えさせる子供の遊び。児戯、ささいな事。】は 詩と同じように良い(喜びに優劣はない)。

と説いたそうです。これに対して、ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)は、
  • 高級な「喜び」低級な「喜び」の区別は可能
  • 2つの喜びのうち 両方を経験したものが全員または ほぼ全員 道徳的義務感と関係なく迷わず選ぶものがあればそれがより好ましい喜びである。
  • 満足した豚であるより 不満足な人間であるほうがよい。満足した愚者であるより 不満足なソクラテスであるほうがよい。その愚者が もし異を唱えたとしてもそれは愚者が自分の側のことしか知らないからにすぎない。

と説いたそうです。私にも分からないので難解な哲学の議論はここでは避けますが、レジャーにおいて、高級なレジャーと低級なレジャーがあるのかないのかは、一考に値します。といって正解があるとは思えませんが、おそらく宗教家は、宗教的価値によって高級と低級を区別するでしょうし、俗世間の低級な喜びを廃して戒律を守ることこそに真の価値を見出していると思われます。




 少し脱線しますが、喜びの階層という考え方に関連して、マズローの欲求段階説に言及しておきます。ご存じの方も多いかと思いますが、以下に、ウィキペディアから概略を要約引用しておきます。
  • 人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである
  • 人間の基本的欲求を低次から述べると、以下の通りとなる。
    1. 生理的欲求(Physiological needs)
    2. 安全の欲求(Safety needs)
    3. 所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
    4. 承認(尊重)の欲求(Esteem)
    5. 自己実現の欲求(Self-actualization)
       以上4つの欲求がすべて満たされたとしても、人は自分に適していることをしていない限り、すぐに新しい不満が生じて落ち着かなくなってくる。自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりえるものにならなければならないという欲求。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。
  • マズローは晩年、5段階の欲求階層の上にさらにもう一つ、「自己超越」(self-transcendence)の段階があると発表した。

 マズローの考え方を高齢者ケアに適用したほうがよいのか、それとも、段階ばかりにこだわることはかえって弊害になるのか、議論はいろいろあり得ると思いますが、ここでは時間がありませんので参考情報の提供にとどめておきます。私個人としては、上記1.から5.はいずれも大切ではありますが、高齢者に適用する場合には必ずしも階層として捉える必要はなく、「5本柱」をできる限りそろえるという考え方をとったほうがよいのではないかと考えております。

 もとの話題「高級な喜びと低級な喜び」ですが、行動分析学自体はそのような区別はしていません。しかし、
  • ひとくちに好子出現による強化といっても、すぐに満たされて飽和化してしまう好子と、長期間の累積的結果として価値をもつ好子がある。
  • 日常生活行動は全人的視点で捉えるべきであり、個々ばらばらの行動の強化ではなく、さまざまな行動のバランスを保つことが必要。
  • 当たり前の、普通で変わらない生活こそが最高、という見方もできる。甚大な自然災害や重い病気にかかった人にとっては、まずは、当たり前で変わらないことを望んでいるはずです。
といった点で、好子の質や累積的効果、全人的視点を重視する必要はあると考えます。

次回に続く。