じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 スキナーの著書『Beyond Freedom and Dignity』とその翻訳書。
写真中央は、

波多野進・加藤秀俊 共訳 『自由への挑戦 : 行動工学入門』、番町書房、1972年.

行動分析学の専門家による訳ではないが、分かりにくいことで知られるスキナーの著書の翻訳として、比較的正確で分かりやすかった。出版社の事情によりその後絶版に。

写真右は、2013年に刊行された山形浩生氏による新訳。タイトルは、原題に近い『自由と尊厳を超えて』になっている。


2014年7月16日(水)

【思ったこと】
140716(水)長谷川版「行動分析学入門」第13回(6)人間と社会に関する諸問題(6)自由とは何か?(2)

 前回、本質的な「自由」なるものは存在せず、すべてのオペラント行動は、行動随伴性によってコントロールされているというような話をしました。しかしそうは言っても、自由の対義語としての、被支配や束縛は明らかに存在します。人類の歴史はまた、少数の特権階級の抑圧・支配を打破し自由を勝ち取る歴史であったと言っても過言ではありません。

 こうした「被支配や束縛からの自由」は「ネガティブな自由(negative liberty)」と呼ばれています。要するに、行動が「嫌子消失の随伴性」、「好子消失阻止の随伴性」、「嫌子出現阻止の随伴性」のいずれかによって強化されている時は、人々は、束縛や義務感を感じます。それらを打破することは、「○○からの自由(freedom from 〜)」の獲得を意味しています。

 いっぽう、これとは別に、「ポジティブな自由(positive liberty)」すなわち、「○○する自由(freedom to 〜、○○してもよいという自由)」が指摘されています。これは主として、好子出現の随伴性によって強化されている状態のことです。前回も述べたように、この状態のもとでの行動は、好子出現無しには強化されません。しかし、差し迫って追い詰められているわけではありませんから、人々は、「したいから行動している」と感じます。本当は強化されているから行動しているのですが、そのことには必ずしも気づきません。また、行動の直後に好子が出現しなくなると、その行動を止めてしまいますが(=消去)、人々は、それを「つまらなくなったから止めた」、「飽きた」というように感じます。本当は、行動が消去されたから起こりにくくなったのですが、自分の意志で行動を止めたように錯覚します。ですので、行動が好子出現の随伴性だけで強化されている人がいたら、その人は、完全に自由人であると思っているはずです。上掲の『Beyond Freedom and Dignity』、あるいは慶應義塾大学での講演「The Non-Punitive Society(罰無き社会)【こちらから無料で閲覧可能】」でスキナーが言いたかったことは、いまなお人為的に設定されている「好子消失阻止の随伴性」などの束縛をできるだけ無くし、「ポジティブな自由(positive liberty)」のもとで、好子出現の随伴性だけで構成されるような社会を目ざすということにつながります。スキナーは、ホンモノの自由の創造を目ざしていたといってもよいのではないかと思います。

 もっとも、私個人としては、好子出現の随伴性だけで構成されるような「完全な」自由社会の構築には否定的です。その理由として、以下を挙げることができます。
  • すでに述べたように、ずっと先になって実現するような大きな目標(大きな好子)を達成するためには、さまざまな手段的行動、例えば、大学合格という目標を達成するための受験勉強、を遂行せざるを得ません。受験勉強が楽しくてたまらないという人を除けば、それらの行動は、好子消失(=不合格)阻止の随伴性によって義務的に強化されるという宿命を持っています。「行動するのが良いが、行動しなくても安泰」というような好子出現の随伴性だけで行動を遂行しようとしても、手段的行動はしばしば先延ばし(procrastinate)されてしまいます。
  • 「ポジティブな自由(positive liberty)」のもとで自由に選べる選択肢があふれかえると、人々は逆に、それらに戸惑い、選択の妥当性について後悔するようになります(=「選択のパラドックス」)。この問題については次回に言及します。
  • 社会の中で生きていく限りにおいては、人々は、他者にサービスを提供し、その一方で、他者からのサービスを受けて生活していきます。小さなムラ社会であれば、相互のサービスは互助互酬によって成り立ちますが、お金が無ければ成り立たないという社会の場合には、必ず、好子消失阻止の随伴性が必要です。なぜなら、お金は、いっけん、般性習得性好子であるように見えて、本質は、「他者を働かせるツール」であるためです。このことについては「お金とは何か」で後述します。


次回に続く