じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 昨日の日記で、秋分の日に太陽が真西に沈む写真を掲載したが、同じ9月23日には、月齢18.0の月が、一般教育棟C棟入り口付近にある「南極の蜂の巣岩」を照らしていた。蜂の巣岩は、以前はC棟入り口左側の目立たないところに置かれていたが大規模環境整備工事によって現在の場所に移設され、月に照らされる写真が撮れるようになった。今年の4月にも写真あり。


2013年09月25日(水)

【思ったこと】
130925(水)ローカルを重視するか、より広い世界に接するか

 昨日の日記で、
離脱理論型の老後は、現実のローカルな人付き合いを最小限度にとどめることで、ローカルでない普遍的な存在(自然や宇宙)との関わりを最大限に確保できるというメリットがあるが、...
と述べたが、「ローカル」には、現実の対人接触機会を意味する場合と、関心領域を意味する場合、貢献領域を示す場合があるように思う。

 家族、友人、ご近所との人付き合いが多い人は、対人接触機会という点でローカルを重視した生活を送っていると言える。それらの人々は、自室に引きこもって読書や調べ物をしている人に比べると交際範囲が広いという点では外向的であるように見える。しかし、いつも特定の友人仲間でかたまってワイワイやっているというのは、見方を変えれば、集団で引きこもっているようなものとも言える。しかも、集団内部の共通の関心領域ばかりに目を向けるので、それ以外の世界には疎いというケースも少なくない。いっぽう、一人で自室に引きこもっている人であっても、いろいろな思想家の本を読んでいるとすると、はるかに多くの人たちと「交流」していることになる。

 貢献領域というのは、例えば、離島の開業医になるか、基礎医学研究者になるか、というような問題である。離島の開業医になれば、その島の住人1000人程度としか接することができないが、その島の人たちの命を救うという大切な役割を果たすことができる。いっぽう、もっぱら基礎医学の研究に没頭する人は、直接的には誰一人の病気を治すこともできない。しかし、研究の結果、新しい治療法を開発すれば、世界中の多くの命を救うことになるかもしれない。

 上掲の例に限らず、ローカルか普遍性重視かという問題は、別段どちらが大切かという議論にはならない。それぞれの人が結果としてたどり着いた自分の持ち場で役割を果たせばそれでよいと思う。もっとも私の場合は、今のところ普遍性志向が強い。とりわけ歳をとってくると、人生の残り時間が限られてくるため、できる限りの時間を、普遍的な課題に取り組みたいと望むようになる。そうなると、友人との交流や人間関係上のトラブルで貴重な時間を費やすのは全くのムダ。できるだけそういう機会を減らしていったほうがいいということになる。

 では、花壇やプランターで花を育てたり、どこぞに旅行に出かけるというのはムダではないのか? 多少言い訳がましくなるが、私の場合、植物を育てるというのは、『星の王子さま』とプライドの高いバラの花のような個別的な関係ではなくて、バラという品種、さらには植物全般との関わりを重視しているところがある。また、旅行というのは、私の場合、地球の自然環境の体験であって、テレビ番組でやっているような旅先での人々との個別的な交流には全く興味がわかない。どっちも自己満足と言えばそれまでであり、こんなところでいちいち大義名分を立てるまでのこともないのだが...。