じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 9月12日の13時50分から14時頃、激しい雷雨があった。写真左上は、その水たまりに映る月齢7.0の月。1ヶ月前の8月13日夜に、トルクメニスタンの地獄の門上空に輝いていた月齢6.8の月が思い出される。

 なお、写真右上に示すように、9月12日の雷雨はきわめて局地的であり、岡山の気象台(北緯: 34 度 39.6 分 東経: 133 度 55.0 分)の雨量は一日中ゼロのままであった。いっぽう、岡大より北のほうにある日応寺(ニチオウジ:岡山空港) (北緯: 34 度 45.4 分 東経: 133 度 51.3 分)では13時台に2.5ミリの降水量が記録されていた。レーダーは13時55分時点の画像。


2013年09月12日(木)

【思ったこと】
130912(木)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(17)選択と後悔(11)結果に対する責任の重さ

 今回は、第七章で「後悔をもたらす第三の要因」として挙げられている「結果に対する責任の重さ」(Responsibility for Results)を取り上げてみたい。もっとも、このことに関する記述は、原書では実質9行程度に過ぎず、挙げられている例は、
友人にレストランに招待されて、友人が選んだメニューが美味しくなかった場合、ガッカリはするが後悔はしない。しかし、もしあなた自身がメニューを選んで同じ結果を招いた場合には後悔するだろう。
 なおこれに関する文献としては、
  • Gilovich & Medvec (1994). JPSP, 67, 357-365.
  • Zeelenberg, van Dijk, & Manstead (1998). Organizational Behavior and Human Decision Processes, 74, 257-272.
が挙げられていたが、まだ入手していない。

 決定にあたって自分がどれだけ関与したのかということは、それがきわめてあきらかの場合もあるが、結果に及ぼす影響は複合的で、自分の関与の度合いが主観的に評価される場合もありうる。例えば、自分は反対していたが上司の判断で決定された、上述のメニュー選択のように、自分では無く明らかに相手が選んだ、...という場合は論理的には自分の責任は100%無いと言える(ま、その場合でも、もっと強硬に反対しておけばよかったとか、相手に選ばせなければよかったというような後悔はありうるだろうが)。いっぽう、自分も参加した協議の場で決定した場合、偶然的要因が大きく関与する中での自分の判断(登山ツアーのガイドを例に挙げれば、悪天候になるという予報が出ている中で敢えて登山を強行した場合と、好天という予報のもとで予期しない天候急変に巻き込まれた場合の責任の重さの程度)などは、その人自身の「責任」についての考え方にもよるし、一般的な原因帰属の個体差にもよるものと考えられる。

 このほか、通常、事故を防止するためには何重ものチェック体制、つまり、そのうちの1つでエラーが起こっても別の段階でチェックされて未然に防げるというような安全装置がセットされている。実際に事故が起こった場合は、複数それぞれの安全装置の責任者が独立して責任を問われることになるが、過失責任の重さは裁判に委ねるとしても、それを本人がどう受け止めるのかは別問題であろう。

次回に続く。