じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典



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 9月10日朝の岡山はよく晴れて、日照時間は11.9時間となった。日の出から日の入りまで、100%晴れていたことになる。気象庁統計によれば、日照時間が10時間を越えた日は、8月中は4回のみ。9月は9日と10日の2日連続となっている。

 写真は、9月11日の日の出。昨日の日の出に比べると、若干モヤがかかっていて、その分、太陽の輪郭がはっきりしている。


2013年09月10日(火)

【思ったこと】
130910(火)高齢者における選択のパラドックス〜「選択の技術」は高齢者にも通用するか?(15)選択と後悔(9)オミッション・バイアスの補足

 今回は、昨日の日記で取り上げたオミッション・バイアスについてもう少し補足させていただく。

 まず、リンク先のウィキペディアの当該項目にも記されていたが、この種の話題は、倫理的な問題、あるいは、功利主義に関する議論においても取り上げられており、ハーバード白熱教室の1回目の講義でも、犠牲になる命やサバイバルのための殺人に関連して取り上げられたことがあった。

 もっとも、そうした思考実験では「行動した場合の結果」と「行動しなかった場合の結果」が明示された上で回答を求める形になっている。昨日取り上げた、株の買い換え問題もより細かく引用すると、
  • Paul氏は、A社株を持っていたが、昨年、B社株に買い換えることを検討した。しかし、結局、買い換えないと決断した。その後B社株が大きく値上がりし、もし買い換えていたら1200ドル儲かっていたことが分かった。
  • George氏は、B社株を持っていたが、昨年A社株に買い換えた。その後B社株が大きく値上がりし、もし買い換えをせずにB社株を持ち続けていたら1200ドル儲かっていたことが分かった。
  • どちらが後悔が大きいか?
ということになる。2人とも儲からなかった額は同じであるが、回答者の92%は、George氏の「行動したことについての後悔」のほうが、Paul氏の「行動しなかったことについての後悔」のほうが大きいであろうと答えたという。

 しかし、日常生活においては、上記の思考実験のように、特定の行動を「した場合」や「しなかった場合」の結果が単線的に示されることはむしろ少ない。因果関係はもっと複合的であり、生じる結果も、損得の金額だけに限定されるものではない。

 また、「しなかった場合」というのは、行動分析学の「死人テスト」の発想から言えば、行動とは言い難い。「しなかったこと」をすべて後悔するとなると、我々は、生まれる前の出来事についても後悔しなければならないし、死後のできないこともまた後悔しなければならないことになる(←何かの課題を遂行していて病に倒れた場合は達成できないことを悔やむだろうが、何十年後、何百年後にできないことまで悔やむ人はおるまい)。

 もっとも、「行動しなかったことについての後悔」というのは、何も行動しなかったのではなくて、何か別の選択肢を能動的に選んだと考えるべきであろう。上掲の株の買い換えの場合でも、Paul氏は、何も行動しなかったわけではない。じっさいは、A社株を持ち続けるという行動をしていたのであるし、買い換えを検討する時にはおそらく、B社のみならず、C社、D社というようにもっとたくさんの選択肢を検討したうえで、最終的にA社を保持し続けることになったのである。いっぽう、George氏の場合も、じっさいには、B社からA社に買い換えたあと、再びB社に戻すことや、A社からさらにC社やD社への買い換えも検討していたのかもしれない。となると、「買い換え」とか「保持」というのは頻繁に行われる株売買の1プロセスに過ぎず、買い換えが「行動した」で、保持することが「行動しない」というように単純に、「する、しない」で分類することはできないように思われる。

 一般論として、「特定の行動Xをするか、しないか」という時の「しない」には、別の行動YをしたのでXをしなかった」という行動間の能動的選択がなされる場合と、単に「行動X」の実行をダラダラと先延ばしする場合があり、区別が必要であると思う。




 次に、後悔と追求者(maximizer)との関係について補足させていただくが、行動分析学の強化・弱化理論から言えば、「したことを後悔する」ことは、「したこと」に「後悔」関連の嫌子が随伴することとなり、結果的に「したこと」は弱化されるものと予測される。したことを次々と後悔していると、何もできなくなってしまい、おそらく学習性無力感に似た不活発状態に陥るであろう。

 いっぽう、「しなかったことを後悔」するというのは、しなかったことによって嫌子が出現することを意味しており、おそらく、嫌子出現を阻止するために、次から次へといろいろな行動に取り組む傾向が生まれる。これが追求者であるというのであればある程度説明がつきそうだ。




 もう1つ、シュワルツの著書ではもっぱら欧米人対象の実験・調査研究が引用されているが、日本人でも同じ傾向があるかどうかについては、別途調査が必要である。じっさいアイエンガーの研究にもそういうものがあった。

 あくまで推測であるが、日本人の場合は、「やってしまった失敗」、「やらなかった失敗」のほか、自分自身が主体的に関与しないような事態について広く「自然にそうなった」と受け止める傾向があるように思う。要するに、何から何まで自分で決めるのではなくて、周りとの調和を重視するなかで「なるようになった」と考えるのである。こういった場合の成功は「みなさんのおかげ」、失敗は「仕方がない」となり、必ずしも後悔の対象にはならない。

次回に続く。