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日本園芸療法学会第1回大会


2008年12月14日(日)
東京大学医学系研究科教育研究棟鉄門記念講堂

目次
  • (1)初めに
  • (2)園芸療法の効果検証の問題
  • (3)口頭発表(1)
  • (4)口頭発表(2)
  • (5)口頭発表(3)
  • (6)口頭発表(4)
  • (7)中村桂子氏の基調講演(1)動詞で考える生活世界
  • (8)中村桂子氏の基調講演(2)「名詞よりも動詞」という議論
  • (9)中村桂子氏の基調講演(3)
  • (10)中村桂子氏の基調講演(4)複雑系としての園芸療法
  • (11)中村桂子氏の基調講演(5)残されたいくつかの疑問
  • (12)シネマ・サイキアトリー
  • (13)広井氏の話題提供(1)
  • (14)広井氏の話題提供(2)


【思ったこと】
_81214(日)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(1)

 表記の学会の記念すべき第1回大会が東京大学医学系研究科教育研究棟鉄門記念講堂で開催された(公式サイトは、こちら)。

 公式サイトにもあるように、この学会は
園芸療法についての情報交換および、学術研究を高めるとともに、園芸療法のわが国での発展、さらに心身の健康と治療、予防、福祉領域への活用を目指すことを目的に、2008年(平成20年)3月に設立され
た、できたてホヤホヤの学会である。もっとも、

 冒頭の理事長(大会長)講演:

「園芸療法の現状と展望」

でもふれられていたように、園芸の療法的活用については、海外ではもとより、国内でもいくつかの病院施設などで個別に実施されていた。また、関連する研究会組織や教育機関もいくつか存在していた。

 その後、人間・植物関係学会2001年に設立され、園芸療法についてはその中の部会として資格認定制度が開始されていた。なお、今回の園芸療法学会設立に合わせて、「人間・植物関係学会が整備してきた園芸療法士資格認定制度を,日本園芸療法学会へ移譲すること」が,3月22日の人間・植物関係学会理事会で承認されている。

 そのような経緯もあり、新しくできた学会の理事諸氏の面々は、人間・植物関係学会を通じて存じ上げている方々が多い。但し、どちらかというと人間・植物関係学会のほうが農学部園芸系の方が多いのに対して、新しくできた学会のほうは医療系や福祉施設系の関係者が多いようにも見えた。

 私個人としては、すでに、いくつかの全国学会に入っていて、毎年の大会に参加する時間的余裕が乏しくなっていることもあり、この園芸療法学会については、11月になってから遅めに入会。今回は、一会員として講演や発表を聴きに行くというだけにとどめた(但し、大学院生の連名発表者には名を連ねている)。




 さて、この新しい学会は、「園芸療法についての情報交換および、学術研究を高めるとともに、園芸療法のわが国での発展、さらに心身の健康と治療、予防、福祉領域への活用を目指すことを目的」としているわけだが、今回の大会の基調講演やパネルディスカッションなどでも出たように、これを達成するためには、複雑系、そして全人的、長期的視点における療法的効果をどのように検証するかという問題がある。これはおそらく、20世紀型の自然科学では対処しきれない課題を含んでいる。単に「園芸」という領域に特化された研究を行うことにはとどまらず、むしろ、「園芸」を1つの検討ツールとして、さまざまな療法、セラピーに一般化可能な、複雑系、全人的、長期的視点に関わる諸課題を広く検討していくことになると期待される。

【思ったこと】
_81215(月)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(2)

 園芸療法学会というと、土いじりの好きな人たちがお互いの親睦を深める団体、あるいは、園芸療法であらゆる病気を治せると信じている新興宗教団体のように思う方もおられるかもしれないが、実際はあくまで、園芸療法の効果に関する実証的研究と、資格認定という形で実践場面での質の向上をめざして設立された学術団体であると私は理解している。

 会員数はまだ3桁そこそこではないかと推測されるが、今後、各種の医療施設や福祉施設などで園芸活動の効用が認知され、園芸療法士という認定資格をとることが有利にはたらくような仕組みができれば、飛躍的に発展する可能性もある。また、これまで資格認定を行ってきた人間・植物関係学会のほうは、園芸に限定せず、森林療法、農業、植物観察、二次利用など、人間と植物とのかかわりを幅広くテーマに含んでいるので、競合することはあるまいと思う。

 いずれも小規模な学会ではあるが、あまり大きくなりすぎるとかえって弊害も出てくる。少し前まで感想を連載していた日本心理学会の年次大会のような規模になると、人は大勢集まるものの、同じ時間帯に10も20もの会場に分かれて講演やシンポやワークショップが並行して開催されるため、全日程をフル参加しても、全体の企画の1/20程度の会場にしか顔を出すことができない。しかも、それぞれの会場の参加者は、ワークショップであればせいぜい50人程度、時には10数人ということもある。100人規模の学会が全日程1会場制で講演や口頭発表を行ったほうが情報を共有でき、経験が蓄積されていくのではないかという気もする。




 さて、昨日の日記でも述べたように、園芸療法学会の研究活動では、単に「園芸」という領域に特化された研究を行うことにはとどまらず、むしろ、「園芸」を1つの検討ツールとして、さまざまな療法、セラピーに一般化可能な、複雑系、全人的、長期的視点に関わる諸課題を広く検討していくことになることが期待される。大げさに言えば、園芸療法という領域で、全人的かつ長期的な効果を検証する方法が確立できれば、そのかなりの部分は、他の何百何千にも及ぶような「療法」、「セラピー」にも適用できる可能性があるということだ。

 もちろん、検証ツールの一般化とは別に、園芸療法固有の特性というのもある。いくつか挙げてみると、
  • 1つは、すぐには結果が表れないということ、つまり、世話をしても、すぐに芽を出したり花を咲かせたりすることはなく、それゆえ、ゆったりと待つという姿勢が求められるようになるという点である。これは、TVゲームのようにすぐに結果が出る遊びとは明らかに違う。
  • 第二に、アニマルセラピーの場合は動物の死は重大なダメージをもたらすが、植物が枯れるということは当たり前であって、むしろ、次の年の新たな生命を生み出す礎として位置づけられる。
  • 第三に、何かを組み立てたり加工したりする場合と異なり、対象物としての植物は、それ自体、育つ力を持っている。人間側がいくら一方的に働きかけても応えてくれない場合もあるし、ほったらかしにしておいても勝手に育つ場合もある。要するに双方向的な関わりであるということだ(無生物対象の創作活動であっても、比喩的な意味で、素材との双方向性が語られることはある。例えば、彫刻家は、一方的に削るのではなく、対象物からの目に見えない働きかけを感じ取って作品を作っているなどと言われることがある)。
これらもまた、独自に検討していく必要があると思う。




 もとの一般化の話題に戻るが、園芸療法の効果検証は、全人的、長期的に行われなければならない。伝統的な実験的方法を否定するというわけではないが、例えば、
被験者を2群に分け、実験群のグループは園芸作業に従事。対照群のグループはその時間は何もしない。作業開始前と終了後に、いくつかの生理的指標、種々の評定で変化を測定し、有意差があるかどうか検討する。
というようなやり方で効果を測定しても、それは全人的、長期的な効用の1%にも満たないような些細な検証にすぎない。測りやすいとか、研究業績としての成果を出しやすいという理由だけで、この種の実験室実験を繰り返していても本当の効果検証にはならないのである。この種の限界があることは、第一回の大会参加者の中ではかなりの共通認識になっているように感じられた。




 心理学実験法の話をする時、「柱時計の効果」と「柱の効果」の違いを例に出すことがある。室内の柱時計がどれほどのリラックス効果をもたらしているのかを検証しようと思えば、単に、柱時計を取り付けてある条件と、それを取り外した条件で気分評価を行えばよい。しかし、室内の真ん中に大黒柱があったとして、その柱のリラックス効果を検証しようという場合には、そう簡単には取り外しはできない。柱を取り除いてしまったら建物そのものが崩壊してしまう。つまり、柱というのは、建物全体の構造に影響を及ぼしている要因であって、独立的には操作することができない。

 園芸療法の場合、見かけ上は、「園芸療法を行った条件」と「行わなかった条件」を比較するという形で柱時計型の実験検討を行うことは可能ではある。しかしそれは、高貴なお方が、お手植え松の行事でほんのちょっと土をかける程度の作業についての効果検証のレベルである。園芸活動が、日常生活行動の一部を構成し、日々の生きがいにもなっているようなケースでは、園芸活動と他の諸活動は必ずしも独立ではなく、相互に連携し影響を及ぼしている。その全体の効用を調べようとするのは、ちょうど、建物の一部を支えている柱の効果を調べるようなものである。実験群と対照群の比較とか、ベースライン条件と実験条件を交代させる単一事例実験だけで片付けられるような問題ではなかろう、と思う。

【思ったこと】
_81216(火)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(3)口頭発表(1)

 今回からは、第一回大会のプログラムに沿ってメモ、感想、意見を述べることにしたい。なお、原則として、個人発表については発表者名を伏せさせていただく。

 さて、午前中はまず、fMRI(機能的磁気共鳴画像)を使った園芸療法の効果測定という研究発表が行われた。被験者は40歳代から70歳代の脳血管障害患者であり、屋外の花壇や室内でのテラリウム作り、押し花作りなど、各種の園芸療法プログラムが用意され、被験者の状態や天候を考慮して適宜実施された。被験者には、上記のfMRIのほか、機能的自立度評価表(FIM:Functional Independence Measure)、日常生活動作、自己評価式抑うつ尺度(SDS:Self-rating Depression Scale)などを用いた変化が測定された。専門的なことは分からないが、脳血管障害(半身麻痺、失語など)の患者さんはしばしば、うつ傾向に陥りやすいということであった。園芸療法プログラムの主たる目標は
  • 新しいことへの挑戦によるやる気と自信の回復
  • 屋外作業でのエネルギー消費(ダイエット)
  • 入院生活のストレス解消や気分転換
にあったという。

 園芸療法プログラムの回数を重ねるごとにFIM指標では5例中4例、SDS指標では5例中3例で改善が見られたが、5例中5例すべてという達成には至らなかったようだ。fMRIのほうも改善が見られた事例があったが、全員というわけではなかった。

 以上の発表に対しては、フロアから、
  1. 園芸療法と同時に、各種の治療やリハビリテーションが実施されており、時間の経過による自然の回復もありうるので、数値の改善があても直ちに園芸療法の効果とは言えないのではないか。
  2. 脳の血流量の増加にはネガティブな増加もありうるので、いちがいに改善の証拠とはならない。
といった指摘がなされた(いずれも長谷川のメモと記憶に基づくため、表現は不確か)。

 このうち2.については私には専門知識が無いので何とも言えない。いっぽう1.は、単一事例実験一般でしばしば指摘される典型的な問題点であると言えよう。

 ではどうすればよいかということになるが、ベースライン条件(A条件)と実験条件(B条件)を反復するというABAB実験計画(こちらの論文参照)を導入することは倫理的にも、また治療上の制約から言っても困難であると言わざるを無い。

 園芸療法を実施するグループと実施いないグループに分けて指標値を比較するというオーソドックスな群間比較実験も倫理的には実施が難しい(「何もしない」という対照群に振り分けられた人たちから文句が出るだろう)。何十人かの患者さんたちに、園芸作業のほか、アニマルセラピー、手芸、木工、絵画、写真、,,,といったメニューを自発的に選んでもらい、どのプログラムを選んだ場合にいちばん良い改善が見られたのかを比較し、結果的に園芸療法が相対的に有効であった、...という比較実験をするのであれば可能ではあると思う。

 ま、それはそれとして、とにかく、特定の療法の単独効果を検証するという試み自体に限界があることは、昨日の日記でも言及した通りである。それよりもむしろ、患者さんたちがどれだけ自発的、能動的、主体的に園芸活動に参加したのかということを行動の生起頻度と、行動随伴性の質という点から評価したほうが遙かに建設的であろう。ここでいう生起頻度とは、1日の生活時間の中でどのくらいの比率で園芸活動に取り組んだのかということを意味する。自発性は、それぞれの患者さんにおいて、日常生活諸行動の中で園芸活動の優先順位が何番目に位置しているか、あるいはどの程度重み付けしているかといった調査・観察で把握できる。能動性や主体性は、園芸活動を強化している行動随伴性の中味(好子出現なのか、好子消失阻止なのか、あるいは、付加的な随伴性なのか行動内在的な随伴性なのか)を把握することで評価可能である。でもって、それぞれの患者さんにおいて、園芸活動が生活行動の一部に組み込まれ、かつ、自発性、能動性、主体性が保証される形でちゃんと強化されていることを確認できれば、私はもうそれでポジティブな効果は検証されたと判定してよいと思っている。fMRIで把握できる血流増加が見られるのはそれはそれで良いことだが、それを増やすことが患者さんたちの人生の最終目標では無い。あくまで治療や予防に必要な情報を得るという目的の範囲で利用すればよいのではないだろうか。

 ここでもう一度、「園芸療法プログラムの主たる目標」を再掲するが、
  • 新しいことへの挑戦によるやる気と自信の回復
  • 屋外作業でのエネルギー消費(ダイエット)
  • 入院生活のストレス解消や気分転換
園芸療法が、こうした目標を達成する1つの手段として有用であることは誰も否定しないだろう。但し、それを達成する手段は、軽いスポーツ、散歩、楽器演奏など多種多様にあるはずで、最終的にどれを選ぶかは御本人次第ということになろう。園芸が嫌いな人に「新しいことへの挑戦」が必要だといってそれを無理強いすることは禁物である。園芸療法の一般的な効果検証ではなく、むしろ、園芸活動を希望していながら障害などの事情でそれがうまくできない人に対して、いかに安全で効率的で、自発性、能動性、主体性が最大限に保証されるようなメニューを提供できるかという、選択、対応、実践上の技法開発の問題に目を向けるべきであるようにも思う。


【思ったこと】
_81217(水)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(4)口頭発表(2)

 午前中2番目の発表は、デイサービス利用の高齢者への園芸療法の効果を長期的に検討したものであった。対象者は要介護1の70〜80歳代の女性3名。園芸活動は、施設の中庭と屋内のサロンで月1〜2回、各1時間実施された。園芸活動の内容は、園芸活動のほか、クラフト(フラワーアレンジ、押し花など)、さらに活動後のお茶の時間では参加者相互の会話を促したということであった。評価には、ICFを基盤とした初期評価、さらに、認知機能検査MMSE、淡路式園芸療法評価表(HT-T3)が使用された。

 3名の対象者の方々の健康状態、心身機能、環境因子、主観的次元などが初期評価され、これに基づいて、「意欲の低下抑制」、「自信の低下抑制」、「精神機能の低下抑制」などが園芸療法目標として設定された。

 実施日ごとの各評点の推移をグラフで拝見したところ、全般的に顕著は上昇は認められないものの、特段の低下もなく、「低下抑制」という目標は最低限達成されているようにも見受けられた。

 このほか、行動観察により、「自主的行動の増加」、「他者への援助行動の増加」などが見られたということであった。




 以上の報告について思ったのは、まず、園芸療法の実施が、それぞれの人に対する各種評価の評点にどの程度影響を及ぼしていたのかという点である。発表の考察部分では「月2回の園芸療法とデイサービス来所時の自主的な植物の世話などは,対象者の認知機能の維持や日常生活における意欲の維持・向上に一定の効果があることが示唆された」というような記述があったが、フロアからも同様の指摘がなされていたが、月2回、各1時間程度の園芸活動が、それぞれの人の全般的な認知機能維持や日常生活の意欲にどの程度のポジティブな影響を及ぼしていたのかは何とも言い難い。

 では、園芸療法は全く無意味なのかと言えば、それもまた断定はできない。すでに何度か述べているように、園芸活動という部分だけを切り取って単独の効果を検証してもあまり意味がない。それよりも、個々の対象者において、園芸活動が日常生活全般にどのように組み込まれ、(無理強いではなく)自然の強化随伴性のもとで自発的、能動的、主体的な活動として持続できるようになったのかどうかを評価した方がはるかに生産的であるように思う。

 次に、園芸療法の目的として「意欲」や「自信」の低下抑制が掲げられたという点であるが、もともとこれらは、エネルギー源のように貯えられて何にでも使えるというようなものではない。稀には「すべてに対して意欲がある人」、「何をやっても自信満々(←自信過剰?)」という人も居ないわけではないが、たいがいの人は、個々の行動のうちある部分には「意欲」を示し、また、限られたジャンルに対して「自信」を見せるにすぎないのである。肝心なことは、園芸活動なり種々の日常行動が、(無理強いではなく)正の強化という形でどれだけ活発に生起しているのか、また、個々の活動が相互に強化しあい、中長期的な方向性をもって連動しているのかといった点にある。活動に熱中している人や何かに興じている人は、その行動が起こっているということ自体が十分なエビデンスなのであって、その人に改めて、何とか尺度の質問紙調査をしたり、生理的指標で客観的(?)数値を得ようとするのは時間とカネの無駄と言わざるを得ない。

 あくまで(今回の発表とは直接関係の無い)一般論としての感想になるが、心理学の卒論研究などでも、対象者の顔や行動には全く視線を向けず、対象者が回答した質問紙の評点だけで行動現象を分析しようとする風潮が無いとはいえない。恋人が自分のことをどれだけ愛しているのかを知ろうとして、恋人の顔も見ずに「愛情尺度」の質問紙検査をやってもらうようなものだろう。

【思ったこと】
_81218(木)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(5)口頭発表(3)

 3番目の発表は、そらぷちキッズキャンプの紹介であったが、用意されていたDVDが提示用パソコンの規格に合わず、順番を後にまわして、静止画のみの紹介となった。キャンプの取り組み自体は大変意義深いものであると感銘を受けたが、うーむ、このキャンプ自体は園芸療法の範疇には含まれないように思えた。いっぽう、病院内の取り組みのほうでは、免疫が低いために屋外に出られない子どもが、窓の外の大根を病室からロープでひっぱって収穫する写真などが紹介されていたが、むしろこちらの実践活動を組織的なプログラムとして実践報告されたほうが、園芸療法学会の発表としては適していたのではないかという気もした。そらぷちのほうは、むしろ、人間・植物関係学会の発表テーマになるのではないかと思う。




 4番目の発表は、統合失調症の30歳代女性に対する個別園芸療法の症例報告であった。まずスタッフによる印象評価、心身機能、活動・参加実態にすいての初期評価が行われ、続いて、8月下旬から10月上旬までの2カ月余りの間に個別園芸療法プログラムが23回にわたり実施された。そのうち、9月頃には15回にわたり「目指せ! 花博士」というようなタイトルで、当人が興味を持つ花の名前を1日ひとつ覚え、自身がまとめてファイリングし、スタッフや他の患者さんとの交流に活用するという特別プログラムが実施された。ここでの園芸療法の目標は
  • 長期目標:植物を介して他者との交流を増やし、表情豊かに日常生活を送れるようにする。
  • 短期目標:園芸に関わる時間を増やすことで病気にとらわれる時間を減らす。
ということであったという。

 プログラム実施後の再評価では、花の名前を覚えることについては意欲が高まり、また、スタッフとの交流面で、硬い表情で凝視する場面が減る、親しげに話し冗談を言って笑う、といった改善が見られたいっぽう、全般的なコミュニケーションや対人関係では特段の変化は見られなかったということであった。

 この4番目の発表では、単に植物との関わるだけでなく、集団への関わりを発展させるという目標が設定されていた。しかし、現実には、個別園芸療法の場のみで意欲が高まり、集団での他者との関わりについてはさらに練習が必要であるというような結論となっていた。このことに関しては、私自身フロアから質問させていただいたのだが、
そもそも、植物に静かに向き合い、植物と一対一で関わりを持つということはそれ自体に意味があるのであって、必ずしも、集団場面での交流や対人関係の改善を前提とはしていない。私自身などまさにそういう傾向があるのだが、対人的な接触を必要最低限にとどめ、できるだけ静かに花を育てたい、自然とふれあいたいという「人付き合いを好まない人のための園芸療法」だってあっていいのではないかと思う。発達障害(障がい)児の場合であれば、将来の自立をめざして対人関係スキルを身につけることは大いに有用であろうとは思うが、成人になって、それなりの生活の場が確保できている人であるなら、ことさらに対人スキルを磨く必要はないのではないか。
というような疑問が出てきた。しかしこのケースでは、御本人が他者との交流を増やすことを望んでおられるということであったので、それであるならばその方向を目指すことに特に異論はない。

 なお、今回報告の症例では、花の名前を覚えたりファイリングをするという行動は、病院内のスタッフや他の患者さんとの交流場面に限って、成果として発揮されていたようであった。しかし、今やデジカメやネットがいつでも使える時代である。花をテーマにした写真ブログや花図鑑サイトを開設したり、花の名前を教えあうような掲示板に投稿したりすれば、ごく気軽なレベルでの対人的交流が始められるのではないかと思う。生身の人間との交流が苦手な人、あるいはそれを好まない人でも自由に参加できるのでぜひオススメしたい。

【思ったこと】
_81219(金)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(6)口頭発表(4)

 5番目の発表は、特定不能型摂食障害のため入院している12歳女児に対する植物介在療法の症例報告であった。この女児の母親は、児の出生以前から統合失調症を発症していると推定され、かつ未治療の状態で育児を行ったために、母親の尋常でない言動によって心的外傷を重ね、パニック的な激しい自傷行為、さらに、自殺企図、摂食障害、発話困難といった症状がおこるようになった。報告を拝聴した限りでは、退院して家に戻されることが最大の恐怖であり続けたようにも見えた。

 この女児に対する植物介在療法(挿し木、苔玉、サツマイモケーキ、ハーブ類の世話、野菜の世話、土作りなど)は、ラポール形成から積極的な治療導入の段階へと周到に計画され、週1回程度(ラポール形成段階では2週に1回)実施された。その結果、
  1. 植物介在療法のセッションが安全な時間・空間となり心身の安定をもたらした
  2. 植物への働きかけとそのゆるやかな反応が児にマッチし、喜びをもって環境に関わることが体験され、人間との非言語的・言語的コミュニケーションの再構築の基礎になった
  3. 制作や植物を育てる作業を通じて成功体験を重ね自尊心の回復をもたらした
  4. 共同作業や成果を他の人と分かち合うことで、社会的存在としての“生きがい”を少しずつ形成。
というような成果が示唆され、また、当人も「木のお医者さんになりたい」と語ることがあったという【以上、抄録から、長谷川が要約引用】。

 以上の症例はかなり衝撃的な内容を含んでおり、私がこれまで拝聴した園芸療法・植物介在療法の事例の中では、最も程度の重いレベルにあったと言ってよいと思う。

 医療に関する専門的なことは分からないし、また、薬物投与を含め、種々の治療が総合的に行われていたことからみて、上記の改善が主として植物介在療法によってもたらされたかどうかは何とも言い難い。また、根本原因と思われる母親との関係、あるいは母親自身の治療は、ここで紹介された植物介在療法とは直接連携していない。しかし、植物介在療法として実施された各種作業が、当人の生活諸行動の中にうまく組み込まれ、前向きで安定した行動の歯車の1つとして機能するようになったことは間違いない。

 何度も表明していることの繰り返しになるが、園芸療法を単独で切り離して効果を検証しようとしても、きわめて局所的、断片的、短期的な成果の確認しかできないことが多い。それよりも、
  • 園芸活動という歯車を、日常諸行動の歯車の1つとしていかにうまく組み込むか。
  • 園芸活動を他の日常諸行動とどれだけ関連づけ、全人的視点、長期的視点に立ったQOLの向上に繋げるか
といった検討にエネルギーを注いでいくことが、生産的な研究につながっていくように思う。

【思ったこと】
_81220(土)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(7)中村桂子氏の基調講演(1)動詞で考える生活世界

 この日は、午前中は5件の発表、昼休みにはポスター発表、午後は2つの基調講演とパネルディスカッションが行われた。なお、私は翌日1コマ目に授業があって当日中に岡山に戻る必要があったため、パネルディスカッションは終了予定時刻より10分ほど早く退席させていただいた。

 午後のセッションではまず、JT生命誌研究館の中村桂子館長から

自然の中にあることの再認識を

という基調講演Iが行われた。

 中村氏は著名な生物学者、遺伝学者であり、たくさんの御著書、編集、訳書、監修があることで知られている。私も何冊か拝読させていただいているが、講演を拝聴するのは今回が初めてであった。

 講演の中でも言及されていたが、肩書きの「JT生命誌研究館」には、「生命誌」と「研究館」という2つの重要なキーワードが含まれている。生物学や生命科学ではなくてなぜ「生命誌」なのかについては当該サイトをご参照いただきたい。なぜ研究所ではなく研究館なのかも、当該サイトでだいたい理解できる。

 ところで、この研究館では、主要なキーワードは「研究する」、「表現する」、「語り合う」、「集う」というようにすべて動詞形で表現されている。この経緯については、こちらに説明がある。一部を引用させていただくと、
その理由は、動詞にすることで、物事をていねいに扱うことができるのではないかと考えたからです。
...【中略】...物事を考える時は、「何」が「どのように」ということが大事です。「何」ということだけを名詞でポンと投げ出すと、それはすでにわかっていることのように受けとめられてしまい、詳細に考えることをせずにすませがちになります。
...【中略】...動詞で考えるということは、別の表現をするなら、日常を対象にすること、生活世界を考えるということだと思っています。
 フッサールが、“自然科学の研究者も含めてこの世界に生きている人間が、実践的と言わず、理論的と言わず、そのすべての問いを向けるのは生活世界にだけなのである。無限に開かれた未知の地平をもつこの世界にだけなのである”と、生活世界こそ知の対象になるものであると語っています。確かにそうなのですが、生活世界に向き合うのは難しいので、つい私たちは、たとえば科学と称して特別の世界だけを理解し、それがすべての理解だと思ってしまいます。それではいけないとフッサールは指摘し、それをしていると学問も人間生活も危機に陥ると言っているわけです。更に彼は、“科学者や教養人は、自然科学という理念の衣(または記号の衣)を「客観的、現実的で真の」自然として生活世界の代理をさせてしまう”と言っています。確かにそうですね。...【後略】
 中村氏の講演内容は全体としては園芸療法に直接関係なさそうにも見えたが、この「動詞で考える」というのは、園芸活動の意味づけを考える上できわめて大切であると思う。

 中村氏はフッサールを引用しておられたが、動詞で考えるというのは結局、行動することを基本にして考えるということであり、私的出来事を研究対象に含め、かつ個体本位で具体的な行動を扱うという点ではスキナーの行動分析学に通じるところがあるように思う。

【思ったこと】
_81222(月)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(8)中村桂子氏の基調講演(2)「名詞よりも動詞」という議論

 まず、前回取り上げた「動詞で考える生活世界」という話題についての補足。中村氏の「ちょっと一言」では、「動詞にすることで、物事をていねいに扱うことができるのではないか」というようなお考えが表明されていたが、ここで少々脱線して、「名詞よりも動詞」ということに私自身の過去日記の記述を振り返ってみたい。

 このうち、2005年9月3日の日記では、大学教育に関連して、「具体的な事象との関わりを動詞で学ぶ」という考え方に言及したことがあった。
名詞ではなく動詞で考える教育をするということも大切。例えば、「椅子」について理解するためには、椅子にまつわる動詞、おそらく「座る」、「(高い所の物を取るために)立つ」、「(インテリアとして)飾る」、「(通行止めの印として)ふさぐ」などを幅広く考えることで創造性が身に付く。なおこの「動詞で考える」ということについては、神田駿氏の「日米学生比較-----創造性をめぐって」(『21世紀フォーラム』、46号、1992年12月)に関連記事があるという。このことでふと思ったが、英語を日本語に翻訳する時にはしばしば「動詞に直して訳せ」と言われる。もともと日本語のほうが述語表現が多様かつ繊細であるというのは、それだけ創造性豊かな言語であるという意味にもとれそう。
 この前半部分は、確か、寺崎昌男氏の基調講演に関するものであったと思ったが、日記の記述が不足しており、はっきりとは思い出せない。なお、後半部分の「英語を日本語に翻訳する時は動詞に直して訳せ」というのは、分かりやすい翻訳の基本。もともと日本語は、動詞を使ったほうが豊かな表現ができるような特徴を備えていると言ってよいだろう。

 それより前の2002年、2002年12月刊行の紀要論文で、岩谷宏、松井力也、金谷武洋氏ほかの著作を引用して、「英語が使える日本人」の諸問題を取り上げたことがあった。その中では、、日本語というのは基本的に「モノではなくコト」を表すのに適した言語であること、また、動詞は、単純な自動詞と他動詞の二分ではなく、(1)受身/自発/可能/尊敬(2)自動詞(3)自or他動詞(4)他動詞(5)使役という5つを連続した態(ヴォイス)をなしていることなどを引用させていただいた。

 中村氏ご自身が挙げた「動詞で考える」には、「研究する」や「表現する」というような「漢語+する」型の動詞も含まれていたが()、これらを、「くわしくしらべ、ときあかす」、「とらえ、あらわし、つたえる」というようにヤマトコトバに置き換えれば、いっそう、動詞で考えることに繋がるのではないかと思う。
別のスライドでは、「愛づる」、「語る」、「観る」、「関わる」、「生る」、「続く」というようなヤマトコトバが使われていた。


 あと、中村氏の御講演、あるいはこちらの記事ではフッサールのことに触れられていたが、私はむしろ、東洋哲学の中に、生活世界こそ知の対象であるとする考え方が多く取り入れられているような気がしている。といって、勉強不足のため、具体的な思想家を挙げて論じることはできない、あくまで知ったかぶりにすぎない。

 余談だが、東洋と言えば、中村氏の講演の中では、源氏物語にも言及があった。中村氏によれば、源氏物語の中には金銀財宝のたぐいは全く出てこない。平安貴族にとっては、自然とのふれ合いがこそが至宝であったらしい。一例として、出家した女三宮の御殿の庭に、光源氏が鈴虫(←今のマツムシ)を予め放つように命じ、十五夜の夕暮れになってそこを訪れるという描写を挙げておられた。ちなみにこの様子は岡田元史氏のインターネットギャラリーに描写されている(Topはこちら)。中村氏はさらに『虫めづる姫君』の素晴らしさにも言及されていた。『虫めづる姫君』の話は、私自身にとっても大好きな物語ではある。但し、姫君の価値観が当時の平安貴族一般の自然観、生命観であったとは考えにくい。「変人」であったからこそ物語として読み継がれてきたのではないだどうか。

【思ったこと】
_81223(火)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(9)中村桂子氏の基調講演(3)


 中村氏の御講演は長年にわたる御研究、教育、啓蒙活動の集大成的な内容を含んでおり、今回のお話だけですべてを理解することは困難な部分があった。ここでは特に印象に残った点を中心に、感想を述べさせていただくことにどめたいと思う。

 講演の前半のほうでは、生命誌研究館のTopページにもある、こちらの絵巻が投影され、人間は自然の一部であるという見方が強調された。生きものたちは、変わりながらつながっていくが、そのつながりには、進化の歴史、生態系、個体の一生という3通りがあるろいう。

 余談だが、スキナーも、系統発生と個体発生については何度も言及しているが、生態系という発想はあまり無かったように思う。近年、心理学の中でも生態系を重視した新しい考え方が登場しているようであるが、心理学で、ニッチ(niche)とかアフォーダンス(affordance)などと言われている場合には、生物学的な意味での生態系には殆ど言及されず、実質的には、環境や文脈との関わり、つまり行動分析学で言うところの行動随伴性や強化・弱化とそれほど差違が無いように思える。

 元の話題に戻るが、ご講演では、生命科学と生命誌の違いについていくつかの点が強調された。特に重要な点は、生命科学は遺伝子を対象として、「科学」の名の通り、分析、還元、数理という方法で無矛盾性を追究していくのに対して、生命史はゲノム(生命子)を対象とし、文節、統合、論理を重視している。この場合、矛盾は許容される。なお、このあたりの話題は、こちらの記事でも論じられている。

 講演では引き続き、生命誌から生まれた「世界観」、大昔から現在に至る、自然、人、神、人工の重み付けについてのお話があった。若干気になったのは、それらが主として、西洋哲学の思想の変遷として語られていたことであった。前回も述べたが、自然と人との関わりの歴史はむしろ、仏教、中国の古代思想、そして日本古来の自然観で語られるべきであろうと思う(前回も述べたように、講演の後半では源氏物語や『虫めづる姫君』への言及があったが)。

【思ったこと】
_81224(水)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(10)中村桂子氏の基調講演(4)複雑系としての園芸療法

 中村氏は御講演のあと、16時からのパネルディスカッションにも登壇され、いくつかの貴重なコメントをされた。その1つは生物との関わりの中でも植物には特別な力があるということ。2つめは、植物と関わることには人的交流を含めた広がりがあるということ、3番目は、「複雑系としての園芸療法」、4番目は「べてるの家」についてのコメントであった(※)。

追記]「べてるの家」については2番目の小澤氏の講演の中で言及されていた。

 このうち3番目の「複雑系」という言葉はたいへん気に入った。私自身が執筆予定の論文のタイトルとしてぜひ、使わせていただこうと思っている。

 中村氏が意味するところの「複雑系」とは要するに、Evidence-basedが重要視される時代であるからと言っても、過去の自然科学の方法で園芸療法単独の効果を検証してもあまり意味がない、もっと全人的な効果や相互作用に目を向けるべきであるということではなかったかと思う。数量的には捉えにくいとしても、例えば「笑顔を取り戻す」ということには重要な意味がある。




 中村氏はまた、「Evidence-based medicine」から「Narrative-based medicine」へというお話をされた。このこととに関連してフロアから、「エビデンスというのは、誰のためのエビデンスなのか? 理論検証のためのエビデンスが重要なのではない。当事者にとってのエビデンス、つまり、当人に対してある療法を実施することが正しかったのかを示すエビデンスは必要ではないか」といったような質問が出された(←文言は長谷川の記憶によるため不確か)。なおこの質問は、豊富な実践経験をお持ちのソーシャルワーカーの方らの質問であったようだ。

 この質問は、要するに、一口にエビデンスと言っても、外的妥当性(一般化可能性)に関わるエビデンスと、当事者個人に対する効果検証という意味でのエビデンスの2通りがあるということだろう。風邪薬を例にとれば、「この薬はすべての人に効くか」というエビデンスと、「この薬は、当事者にとって有効に働くか」というエビデンスがある。前者は薬の認可や製造販売にとって必要なエビデンスであるが、そうは言っても、最終的には、それを飲む人個人において有効に働かなければ何の意味もない。なおこの種の議論については、心理学研究における実験的方法の意義と限界(4)単一事例実験法をいかに活用するかという論文を書いたことがある。合わせてご参照いただければ幸いである。

 この件に関しては、他のパネリストからも、「独りよがりにならないためのエビデンス」、あるいは「勝手に自分の物語を作らないよう、独走を抑えるためのエビデンス」というのはやはり必要であろうというような指摘もあった。それぞれごもっともだとは思うが、忘れてならないのは、要素を取り出してきて効果検証を行うのことは、「エビデンス」と呼ばれている中のごく一部を示そうとしているにすぎないという点である。私自身は、長期的視点を持ちつつ、Rachlinの言う「目的論的行動主義」の視点で行動の相互の連関をさぐることがエビデンス獲得にとって最も有効ではないかと考えているが、このことについては近々論文にまとめる予定。

【思ったこと】
_81225(水)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(11)中村桂子氏の基調講演(5)残されたいくつかの疑問

 中村氏の御講演はまことに貴重で興味深い内容であったが、私自身の理解不足のせいか、いくつか疑問が残ってしまった。その主たる内容は以下の通り。これらの疑問については、次の機会、あるいは、私自身の勉学を通じて解決していきたいと思っている。
  1. 「物語る」とか「語り合う」という表現がしばしば使われているが、これらはしょせん人間の言語行動に依拠したものではないだろうか。生物世界はもともと、人間とは独立に存在しており、果たして、言語行動ですべてを語れるのかどうか疑問である。
  2. 上記1.とも関連するが、ナラティブセラピーなどで言われている「物語」は、当事者の都合でいろいろな形に書き換えが可能である。もし、生命誌における「物語る」に、もしそのような書き換えの権利を与えてしまうと、それこそ、進化論否定、さらにはカルト宗教による一面的な「創世記」も否定できなくなってしまうのではないか。
  3. 上記1.とも関連するが、「物語る」は結局、人間本位、それも、ある時代のある文化に都合のよいような形で語られることにはならないだろうか。
  4. 生物は必ずしも手を取り合って進化してきたわけではない。共存や共生もあるが、基本的には生存競争のもとで、強い者、適応できた者、運の良かったものだけが生き残ったのではないか。それゆえ、生命誌という流れの中からは必ずしも「生命を大切にしよう」という帰結は出てこないのではないか。
  5. 上記5.とも関連するが、「地球に暮らす多様な生きものは皆、38億年前の細胞からゲノム(DNA)を受けつぐ仲間です。」であったとしても、だからといって、「生命みな、きょうだい」ということにはならないし、ご先祖さまに感謝しなければならないという結論は導けないのではないか。
  6. 人間あるいは地球上の生物がお互いに「関係」しあいながら生きてきたのは確かであるが、これは、基本的な個体維持のための生活レベル(衣食住の範囲)にとどまるのではないか。「関係しあう」ことが大切であるということは、個人の自由や価値観の多様性を許容することにつながるのだろうか。逆に、個人を協同体の部品のように捉えてしまうことにはならないだろうか。


【思ったこと】
_81227(土)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(12)シネマ・サイキアトリー

 中村桂子氏の講演に引き続いてもう一題、小澤寛樹氏(長崎大・医学部精神神経科)による、

シネマ・サイキアトリーへの招待〜映画の世界からみる緑と癒し〜

という基調講演があった。

 講演の最初のほうでは「べてるの家」の活動において徹底した当事者性の追求がなされており、これは、これからの医療のヒントになるというようなお話であった。

 このあと、いくつかの外国映画についての紹介があった。講演によれば、映画の中には精神医学・心理学的な問題をテーマにしたものもあり、教材としては一級品というのもあるという。内容はたいへん興味深いものであったが、うーむ、園芸療法とはあまり関係なさそうな印象を受けた。

 ちなみに私自身は、高校時代には2週間に一度は渋谷の東急名画座館に通うほどの映画好きであったが、大学に入った頃からあまり興味が無くなり、最近では1年に1〜2回、もらった映画券を無駄にしないために観に行くという程度になってしまった。それも、どちらかと言えば、映画で無ければ描けないようなファンタジーものに限られている。今回紹介された、 は、いずれも私にとっては馴染みの無いタイトルであった。

 映画の中で描かれる統合失調や認知症は、観客どうしが映画の1シーンという共通「体験」に基づいてさまざまな考えを述べ合うという点では良い教材になるかもしれないが、所詮フィクションであり、現実をそっくり反映するというわけにはいくまい。時としては誤解や偏見を与えることにもつながるのではないかという気もする。

 そう言えば、昔よく観ていた「刑事コロンボ」の主役のピーター・フォークさんがアルツハイマー症であることが今年になって公表された。しかし、いくら名優のピーター・フォークさんであっても、映画の中で認知症を演じるということはできないだろう。映画で演じるということは、動作や表情やセリフを通じてホンモノが持つ特性を観客に伝えるということなのであって、ホンモノが登場すればいちばんリアルであるということにはならない。

 なお、私が観た映画の中で、精神科関連の話題を取り上げたものとしては、「サウンド・オブ・サイレンス」というのが記憶に残っているが(←確か、国際線の飛行機の中で観たと記憶している)、邦題タイトルとはあまり関係の映画であり、原題の「Don't Say A Word」のままのほうが良かったと思う。映画そのものは面白かったが特にオススメというほどでもない。

【思ったこと】
_81228(日)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(13)広井氏の話題提供(1)

 2つの基調講演に続いて、パネルディスカッションが行われた。
パネルディスカッション「園芸療法の多分野への可能性」

広井良典 [千葉大学教授] 「園芸療法と医療・福祉制度」
山根寛  [京都大学教授] 「園芸療法の治療の多様性」
中村桂子 [JT生命誌研究館館長]
小澤寛樹 [長崎大学医学部精神神経科教授]

指定討論者 大森健一 [日本芸術療法学会理事長]
指定討論者 公文 康 [西日本園芸療法研究会代表]
座長 高江洲義英 [日本園芸療法学会理事長]
 パネルディスカッションでは、まず、広井氏から、園芸療法と医療・福祉制度との関係、園芸療法とコミュニティ・都市政策との関係についての話題提供があった。

 広井氏によれば、現在の医療・福祉制度では「急性疾患モデル」が中心となっているが、医療消費者団体(COML)会員へのアンケート調査によれば、もっと幅広いケアが求められているということであった。またそれを充実するには診療報酬においても広いケアを行う視点が必要である。では現行の診療報酬にはどういう問題点があるのか。

 今回の話題提供を拝聴して初めて知ったのだが、なんと、このシステムの原型ができたのは今から50年も前の1958年であり、当時は診療所(開業医)がモデルになっていたのだという。それゆえ、病院、とりわけ入院部門への評価が薄く、また「高次医療」、「チーム医療」、「医療の質」という点でも評価が低くなっている。

 もう1つ、現在の医療は、「1つの病気には1つの原因物質が対応しており、それを除去すれば病気は治療される」という特定病因論に依拠しているところが大きいという。そこでは「原因物質によって病気がもたらされる」という単線的な因果関係が想定されている。この特定病因論は、感染症の治療や外傷治療には絶大な効果をもたらしたところであるが、現代日本では、そうした感染症治療(公衆衛生、開業医中心)よりもむしろ、慢性疾患(病院中心)、さらには老人退行性疾患(高齢者ケア)が大きな比重を占めるようになっている。またいっぽうで、精神疾患も拡大している。

 スライド資料によれば、一人の人間が必要とする医療費の49%は70歳以上になってからであるという。また、一生の前半(15〜44歳)で罹る病気は、精神的・社会的なもの(精神疾患、交通事故)が多いという。

 というような現状からみて、病いは「複雑系」、つまり、心理的要因、環境との関わり、社会的要因を広く含み、異なるケアモデルの融合が必要であるというのが広井氏の御主張であった。なお、この連載で、中村氏が「複雑系」に言及されたと書いたことがあったが、話題提供の中でこの言葉を正式に使ったのは、中村氏ではなく広井氏のほうが先であったことをお断りしておく。

 話題提供ではさらに、
  • 個体に注目するか、個体をとりまく環境に注目するか
  • 自然科学的か人文科学的か
という2つの軸の4象限に、「医療モデル」、「心理モデル」、「予防・環境モデル」、「生活モデル」「社会モデル」が位置しているということが論じられた。




 ところで、現在、世間では「医師不足」の問題が大きく取り上げられている。このことに関しては私は全くの素人でよく分からないところがあるが、ウィキペディアの当該項目によれば、
医療費抑制政策に転換以降、厚生労働省は長らく、1948年の医師数算定法に定められた「標準医師数」に基づき「医師不足はなく、偏在しているだけである」という見解を守り通していたが、新臨床研修医制度の影響などもあって、地域医療の崩壊(医療崩壊)が現実化するなかで、現場の勤務医の訴えが国民の耳に届くようになり、ついに、2008年6月、舛添要一厚労相のもと「安心と希望の医療確保ビジョン」が打ち出され、「医学部定員削減」閣議決定の見直しとともに、医師養成数の増加の流れが確かなものとなった。
という流れになっている模様である。同じくウィキペディアの当該項目には、日本の医師不足の原因として、
  • 医師の絶対数の不足
  • 病院での必要医師数の不足
  • 地域偏在による不足
  • 診療科に属する医師の需給不均衡による不足
といった問題が挙げられている。

 産婦人科の救急医療や地方の公立病院閉鎖、ニュースを見る限りでは「急性疾患モデル」に基づいて解決しなければならない問題は山積しているように見受けられる。

 一般論として、我々にはみな、平均寿命程度まで生きる権利があり、それを奪うような急性疾患やさまざまな難病、障害に対しては最大限、命を守るための医療体制を保障していくことが不可欠であろうと思う。合わせて、さまざまな事故や犯罪も防止していかなければならない。

 そのいっぽう、我々はどんなに長命な方でも120歳程度まで、一般には90歳程度までで死を迎える宿命を背負っているのであって、いかなる医療をもってしてもこれをくい止めることはできない。そこではむしろ、いかにより良い形で人生を全うし死を迎えるかということのほうが遙かに重要な課題となる。それを支えるためには、「急性疾患モデル」とは別のモデル、もしくは、今回提唱されていたような「異なるケア・モデルの融合」がぜひとも必要であるということが、今回の話題提供前半部分を拝聴して、よく理解できた。

【思ったこと】
_81230(火)[心理]日本園芸療法学会第1回大会(14)広井氏の話題提供(2)

 広井氏の話題提供の後半は、園芸療法とコミュニティに関する内容であった。スライド資料によれば、ここでの論点は、
  • 狭義の臨床場面ないし「1対1モデル」を超えた、より広いコミュニティへの視点で園芸療法の重要性をとらえる
  • 園芸療法はそれに準ずるサービスの気軽に接することのできるような、地域社会の空間システム作りの重要性をとらえる
といった点にあった。

 スライド資料によれば、高齢者が単独世帯を形成する比率は年々高まっており、特に女性では、未婚時の20歳代前半と同じくらいの比率のピークが70歳代前半を中心に形成されている。ちなみに、高齢単身世帯の割合と介護の軽度認定率を都道府県別にプロットすると、0.5695という正の相関があるという(厚生労働白書平成17年版による)。単身世帯の比率はそれぞれの地域の家族構成や住宅環境の違いにも影響されるので一概には言えないとは思ったが、単身世帯が多いほど介護の軽度認定率が高まるという傾向がある程度示唆されるようだ。人と人とのつながりやコミュニティのあり方に関する概念として「ソーシャル・キャピタル」という概念がある。これらは、病気・健康を自然やコミュニティとの関わりにおいて包括的に捉えるという点において、園芸療法等と共通する認識枠組みを持つという【スライド資料による】。

 以上の部分について感想・意見を述べさせていただくと、まず、コミュニティとの関わりにおける「園芸療法」は、実際には「療法」というよりも、目的を持った「園芸活動」あるいは「園芸福祉」と同じような意味を持つことになる。もっとも、「高齢者福祉におけるセラピーの2つの役割」で論じたように、そもそも「療法」とか「セラピー」という言葉自体、必ずしも特定疾患の治療効果を狙ったものではなく、すでに複雑系の中に組み込まれ、全人的な対応の中で一定の役割を担うものとして位置づけられているという見方も出ていることを指摘しておきたい。

 次に「コミュニティとの関わり」であるが、12月18日の日記でも述べたように、
そもそも、植物に静かに向き合い、植物と一対一で関わりを持つということはそれ自体に意味があるのであって、必ずしも、集団場面での交流や対人関係の改善を前提とはしていない。私自身などまさにそういう傾向があるのだが、対人的な接触を必要最低限にとどめ、できるだけ静かに花を育てたい、自然とふれあいたいという「人付き合いを好まない人のための園芸療法」だってあっていいのではないかと思う。
というに、「人付き合いを好まない人のための園芸療法」はあってもよいと思っている。というか、各種の療法的活動の中でも、園芸はそのようなタイプの人に最も適しているとも言える。少なくともスポーツ、合唱、演劇、各種ゲームなどは、集団単位でないとなかなかできないところがあるが、園芸活動だけは、無人島で暮らすロビンソンクルーソーであっても実行が可能である。

 しかし、コミュニティの中での園芸活動にももちろん、個人単位で取り組む園芸活動とは違った意義がありうる。だいぶ以前、第10回エコマネー・トークの参加感想の中で

●環境問題をコミュニティで解決することは、「がまん」を「楽しみ」に変える

という、中島恵理氏のご講演内容を引用させていただいたことがあったが、単に、地域からゴミをなくすというだけではポジティブな成果には繋がらない。スポーツや合唱と異なり、園芸を中心とした活動は、自分たちの住むエリアの環境に目に見える変化、しかも持続的な変化(←木を植えれば花が咲くといったように)をもたらすという点で大きなメリットがあると言えるだろう。

まだまだ書き足りないところが多々ありますが、年内をもってこの連載は終了とさせていただきます。