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日本心理学会第72回大会


2008年9月19(金)〜9月21日(日)
北海道大学高等教育機能開発総合センター

目次
  • 乱数生成課題研究の応用的展開に向けて
    • (1)はじめに
    • (2)なるべく速く、なるべく魚のように泳ぐ?
    • (3)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(3)ウナギのように泳ぐか、トビウオのように泳ぐか?
    • (4)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(4)研究の目的対象なのか、研究の手段なのか?
    • (5)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(5)ワーキングメモリ・モデル/男女差の原因
    • (6)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(6)ドライビング場面における精神負荷の評価
    • (7)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(7)Mentalizing容量と音調テスト
    • (8)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(8)乱数生成課題における音声認識・分析のシステム化
  • 超高齢者研究の現在
    • (9)超高齢者研究の現在(1)
    • (10)超高齢者研究の現在(2)
    • (11)超高齢者研究の現在(3)百寿者の現状と生きがい
    • (12)超高齢者研究の現在(4)超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being(1)
    • (13)超高齢者研究の現在(5)超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being(2)well-beingのパラドクス(1)
    • (14)超高齢者研究の現在(6)超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being(3)well-beingのパラドクス(2)
    • (15)超高齢者研究の現在(7)心身の健康と長寿(1)
    • (16)超高齢者研究の現在(8)心身の健康と長寿(2)
    • (17)超高齢者研究の現在(9)老年的超越(1)
    • (18)超高齢者研究の現在(10)老年的超越(2)
    • (19)超高齢者研究の現在(11)老年的超越(4)ライフサイクル、その完結
    • (20)超高齢者研究の現在(12)老年的超越(5)
    • (21)超高齢者研究の現在(13)虚弱の定義の多様性
    • (22)超高齢者研究の現在(14)
    • (23)超高齢者研究の現在(15)
  • 認知症の生と死を考える
    • (24)認知症の生と死を考える(1)
    • (25)認知症の生と死を考える(2)アルツハイマーと「Auguste D」
    • (26)認知症の生と死を考える(3)
    • (27)認知症の生と死を考える(4)
    • (28)認知症の生と死を考える(5) 認知症にならないための4つの秘訣?
  • well-beingを目指す社会心理学の役割と課題
    • (29)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(1)
    • (30)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(2)
    • (31)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(3)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(1)
    • (32)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(4)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(2)認知-感情パーソナリティ・システムモデル
    • (33)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(5)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(3)
    • (34)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(6)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(4)主観的充実感
    • (35)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(7)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(5)主観的確率判断と主観的充実感の共通性?
    • (36)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(8)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(6)質問紙でどこまで分かるか?
    • (37)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(9)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(7)
    • (38)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(10)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(8)
    • (39)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(9)Well-beingとソーシャルスキル(1)
    • (40)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(10)Well-beingとソーシャルスキル(2)
    • (41)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(11)航空機事故遺族の“well-being”(1)
    • (42)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(12)航空機事故遺族の“well-being”(2)
    • (43)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(13)航空機事故遺族の“well-being”(3)
    • (44)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(14)航空機事故遺族の“well-being”(4)
    • (45)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(15)航空機事故遺族の“well-being”(5)
    • (46)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(16)ポジティブ心理学からの指定討論(1)
    • (47)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(17)ポジティブ心理学からの指定討論(2)
    • (48)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(18)まとめ
  • 環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物
    • (49)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(1)
    • (50)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(2)
    • (51)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(3)
    • (52)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(4)
    • (53)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(5)
    • (54)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(6)
    • (55)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(7)
    • (56)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(8)
  • 因果帰納推論と随伴性学習:認知的アプローチと連合的アプローチ
    • (57)因果帰納推論と随伴性学習(1)
    • (58)因果帰納推論と随伴性学習(2)嶋崎氏による趣旨説明
    • (59)因果帰納推論と随伴性学習(3)漆原氏による話題提供(1)
    • (60)因果帰納推論と随伴性学習(4)漆原氏による話題提供(2)
    • (61)因果帰納推論と随伴性学習(5)嶋崎氏による話題提供/と服部氏による話題提供(1)
    • (62)因果帰納推論と随伴性学習(6)服部氏による話題提供(2)
    • (63)因果帰納推論と随伴性学習(7)Cheng氏による話題提供
    • (64)因果帰納推論と随伴性学習(8)まとめ


  • (番外編)日本心理学会第72回大会の感想、今年も400字詰め原稿用紙で200枚に


【思ったこと】
_80919(金)[心理]日本心理学会第72回大会(1)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(1)

 2008年9月19日から北海道大学高等教育機能開発総合センターで開催された日本心理学会第72回大会に参加した。会場となった「高等教育機能開発総合センター」というのは、どうやら旧・教養部の施設であり、岡大で言えば「一般教育棟」に相当するようであった。

 まず1番目に、1日目の午後に行われた、

乱数生成課題研究の応用的展開に向けて 19日 13:00-15:00
  • 企画 亜細亜大 板垣文彦
  • 企画 Aberdeen大学 Turk David
  • 企画 福島県立医大 丹羽真一
  • 企画 東京大 伊藤憲治
  • 司会 福島県立医大 丹羽真一
  • 話題提供 亜細亜大 板垣文彦
  • 話題提供 日本大 吉田宏之
  • 話題提供 福島県立医大 三浦恵
  • 話題提供 東京大 伊藤憲治
  • 指定討論 千葉大 若林明雄
  • 指定討論 京都大 苧阪直行【当日ご都合によりご欠席】
というワークショップから取り上げさせていただく(敬称略)。

 さて、この乱数生成課題であるが、私自身がこのことに最初に興味を持ったのは、日本心理学会の年次大会に初めて参加した学部3回生の時であった。このときは37回大会であったから35年も前のことになる。その中の口頭発表(当時は、すべての個人発表は口頭発表で行われた。発表論文集は大部分が手書き原稿のオフセット印刷)。その時、松田先生(旧姓、国武先生)のご発表を通じて、初めて、乱数生成の研究があることを知った
]その時の松田先生のご発表内容は、その後、刊行された、
Matsuda, K. (1973). Creative thinking and random number generation test. Japanese Psychological Research, 15, 101-108.
で拝読することができる。

 さて、その後、私自身は、乱数生成行動を選択行動の変動性と関連づけて、いくつかの実験研究を行ってきた。その概要は、

スキナー以後の行動分析学(17)乱数生成行動の研究が目ざしたもの岡山大学文学部紀要, 46, 1-18.

および、

乱数生成行動と行動変動性:50年を超える研究の流れと今後の展望. 行動分析学研究, 22(2), 164-173.

にまとめてあるので、ご高覧いただければ幸いである。

 さて、今回のワークショップの企画者の板垣氏のご研究内容はずっと以前(たぶん20年以上前)から存じ上げていたが、最近はすっかりご無沙汰してしまっていた。これは、私自身が怠け者であったという点に加えて、乱数生成課題研究の方向性に関して、以下のような相違があったためではないかと考えている。
  1. 言語的教示の有効性?
    そもそも、心理学の実験において、「なるべく速く、なるべくでたらめに0〜9(あるいは1〜10)の数字を言ってください」というような教示は有効と言えるのか?

  2. 動機づけの必要性?
    「乱数生成」という退屈な課題に対して被験者が「投げやり」に振る舞うことはないのか?

  3. 学習による変容の可能性
    被験者が生成する「乱数」列のランダムネスは、訓練や経験によって変容するのではないか? それゆえ、ランダムネスの質的差違は必ずしも当人の性格(特性)を反映するとは言えないのではないか?

  4. 他の選択行動との関連づけ
    「乱数生成課題」は人間固有の行動なのか? 例えば、動物がランダムに隠れ場所を変えたり、T型迷路の左右の選択をランダムに変えたりする行動と共通性は無いのだろうか?
 特にクリティカルと考えられるのは、やはり1.に関わる問題であろう。ここで私は、言語的教示一般が無効だと言っているのではない。例えば「0〜9の数字をその順番に言ってください」という教示は、幼児でも十分に有効であろう。しかし、「なるべくでたらめに」というのは、「でたらめ」という言葉の意味を理解していない被験者にとっては無効である。当然、人間以外の動物を被験体とした研究とは共通性を持たない。「でたらめ」とは何かについて十分な知識を持たない幼児はもちろん、障がいのある人たち、あるいは認知症のお年寄りにご協力いただくこともできない。このこともあって、私自身は、研究を初めたかなり早い時期から「なるべく速く、なるべくでたらめに0〜9(あるいは1〜10)の数字を言ってください」という言語的教示を前提としない方向に研究を進めていった。

【思ったこと】
_80920(土)[心理]日本心理学会第72回大会(2)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(2)なるべく速く、なるべく魚のように泳ぐ?

 昨日の続き。昨日の日記で、以下の4点をどう考えるかによって、乱数生成課題をめぐる研究の方向は大きく変わってくるのではないかと論じた。
  1. 言語的教示が有効であると考えるか?
  2. 乱数生成行動を何らかの形で動機づける必要があると考えるか?
  3. 学習によって、ランダムネスが変わると考えるか? それとも特性論的な見方をするか?
  4. 人間以外の動物の選択行動の変動性と関連づけようとするか

 あくまで独断であるが、板垣氏を中心とした御研究の流れと、私が目指してきた方向では、上記1.〜4.について、以下のような相違があるように思われる。

  板垣氏ほか 長谷川
1. 言語的教示の有効性?    肯定   疑念
2. 動機づけの必要性?    否定(性善説?) 非常に必要(強化の必要)
3. 学習による変容の可能性    否定 肯定(ある程度強化可能)
4. 他の選択行動との関連づけ

 
   否定

 
広く検討(低次の動物でもできることは動物と共通の原理で説明する)


 もっとも、だからといって、お互いに排他的な態度をとることにもならないと思う。

 ここで少々乱暴な喩えを持ってくるが、乱数生成課題というのはある意味では、プールに要る人たちに、

●なるべく速く、なるべく魚のように泳いでください。

というような言語的教示をするようなものではないかと思っている。この場合、人間はどのように努力しても魚になりきることはできない。しかし、それぞれの人は、できるだけ、魚に似た格好で、もしかすると潜水時間を長くして、泳ぎ切ろうとするかもしれない。

 この場合、板垣氏らの研究の流れと同じ方法をとるならば、それぞれの人の泳ぎ方のパターン(手足の動かし方、潜水時間、魚のように体をくねらせる回数など)をいくつかの指標で特徴づけして、個体差とそれをもたらす要因を明らかにしようとするであろう。

 いっぽう、私を含めて、行動分析学的なアプローチをとる人であれば、「魚のように泳ぐ」という言語的教示ではなく、とにかく、泳ぐという行動のうち、手足の動かし方、潜水時間、魚のように体をくねらせる頻度などの、あるコンポーネントや反応クラスを部分強化/弱化し、魚と似たような行動(もちろん、事前に、魚の泳ぎ方の特徴についていくつかの指標をつくっておく)の形成を試みようとするであろう。

 いずれの研究の流れも、それなりの生産的な成果を上げられる可能性はあると思っている。

【思ったこと】
_80921(日)[心理]日本心理学会第72回大会(3)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(3)ウナギのように泳ぐか、トビウオのように泳ぐか?

 連載の3回目。

 まず、昨日の喩え:

  • 【乱数生成課題】なるべく速く、なるべくでたらめに0〜9の数字を言ってください。
  • 【喩え】なるべく速く、なるべく魚のように泳いでください。

についての補足。

 さて、「なるべく魚のように」と言われた場合、被験者はどのような行動を示すであろうか。これは、実験条件(実験環境、量的な条件)や、被験者自身の「魚」のイメージの違いによっても変わってくると思われる。

 例えば、その実験が50mプールで行われたとすれば、「魚のように泳いてください」と言われた被験者は、とにかく、魚と似たような泳法で泳ぎ切ろうとするであろう。しかし、実験が川や海、あるいは無重力の国際宇宙ステーション内で行われた場合には、行動の中味は変わってくる。元の乱数生成課題にあてはめれば、乱数を声に出して言うか、紙に書くか、ボタンを押すかといった違いがこれに相当する。

 次に、「魚のように泳いで」と言われた被験者が、どのような種類の魚を「代表的魚」と見なしているのかという問題がある。ウナギをイメージしている人は、体全体をくねらせる。深海魚をイメージしている人は、プールの底にできるだけ深く潜って泳ぐ。カレイをイメージしている人は、たぶん仰向けになって泳ぐし、トビウオをイメージしている人は、何と言ってもバタフライであろう。乱数生成課題で「なるべくでたらめに」と言われた被験者の場合も同様であり、等頻度性を重視する人もいれば、円周率を丸暗記して「3141592653...」とその順に声に出す人もいる。また、「無限の桁数の乱数表の中には1が続けて1万回出現する可能性も否定できない」と、常に「1」だけを生成する頑固な人もいるかもしれない。

 「なるべく速く、なるべくでたらめに」という言語的教示は、被験者が「でたらめ」という概念を理解し、かつ、「でたらめの基準」を満たすために最大限の努力をするという、被験者の善意を前提としている。しかし、このことについては、すでに何十年も前から、困難性が指摘されている。

【思ったこと】
_80923(火)[心理]日本心理学会第72回大会(4)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(4)研究の目的対象なのか、研究の手段なのか?

 連載の4回目。

 乱数生成課題を考えるもう1つのポイントは、それ自体が研究目的対象なのか、それとも、何か、ある種の行動(あるいは、能力、機能など...)の一般的な法則を発見・検証するための研究手段なのか、という点にあるように思う。




 ここでまた少々脱線するが、例えば「100メートル競走」という行動を検討する場合にも、それ自体を研究目的するのかを、それとも、「走る」という行動を分析するための手段として研究するのか、によって、アプローチの仕方が変わってくる。

 言うまでもなく、ウィキペディアの当該項目にもあるように、100メートル競走とは、100メートルをいかに短い時間で走るかを競う陸上競技の1種目であり、2008年9月23日時点での世界記録は、男子が9秒69(ウサイン・ボルト)、女子が10秒49(フローレンス・ジョイナー)などとなっており、中学や高校の教育にも広く取り入れられている。従って、100メートル競走それ自体を研究目的対象とし、どうしたらいかに速く走れるようになるのかを検討することは社会的ニーズを満たすものであり、研究の意義は十分にあると言うことができるだろう。

 しかし、「走る」という行動の一般的な法則性を検討する、というもう1つの立場から見れば、100メートルという距離自体は、現在は1秒の299 792 458分の1の時間(約3億分の1秒)に光が真空中を伝わる距離の100倍というだけで特別の意味があるわけではないし、また、100という数字も、我々がたまたま10進法を使っていることから出てきたキリのいい数字であって、100メートル競走が、99メートル競走や101メートル競走に比べて特段の意味を持つということにもならない。もし、「走る」という行動自体を実験的に検討する必要が生じたとしたら、例えば、20メートル、40メートル、80メートル、...というように別の走行距離の条件を設定したほうがシステマティックな分析ができるかもしれない。その場合は、100メートルという距離条件は、あっさりと捨てられる。




 元の話に戻るが、もし、0〜9、あるいは1〜10を使った乱数生成課題自体を検討することに特段の意義や社会的ニーズがあるとするならば、そこで生成される数字列にどのような特徴(数学的な乱数列と比較した時の偏り)があるのかを詳細に検討することはきわめて重要である。

 しかし、本来の研究目的が、でたらめに振る舞うこと(←行動分析学で言うところの「選択行動の変動性」)にあるという場合は、10進数の乱数を生成するという課題は研究手段の1つに過ぎないということになり、もっと良い検討手段があればそちらに乗り換えるということは十分にありうる。

 例えば、板垣氏のご研究の中でもしばしば報告されているように、10進乱数生成課題では、「1、2、3、4、5、6、...」や「7、6、5、4、3、...」というように、自然数の順序あるいはその逆順の数列が特徴的に出現することがある。10進乱数生成課題それ自体を研究対象(目的)とする立場から言えば、そのパターンや頻度を研究することは大いに意義があると言える。しかし、選択行動の変動性一般を研究するという立場から言えば、自然数の順序の影響というのはむしろノイズであり、もしそれが深刻に影響を与えたり個体差を大きくする要因になっているというのであれば、おそらく、別の手段に乗り換えるという方法をとるだろう。例えば、「赤、白、緑、青、黄、黒」を次々と声に出して選ぶという選択課題であれば自然数順序の影響は受けないであろう。「ゾウ、キリン、シマウマ、カバ、ライオン」でも同様である。

 なお、上記の「研究目的対象」vs「研究手段」という対立軸は、あくまで行動変動性という枠内における区分であった。その枠の外との関連性をさぐる研究、例えば、
  • 乱数生成テストは、何らかの知能や職業適性、障害などを測るテストとして有効か?
  • ワーキングメモリーの検討手段として、乱数生成課題は有用か?
といった問題の立て方をした場合には、また別の観点が出てくる。もともと、日本国内で乱数生成課題が注目を浴びるようになったのは、適性テストや創造性との関連というところにあった。板垣氏のご研究や、今回の他の話題提供も、その流れに沿ったものと言える。これらの場合、

●10進乱数生成課題は、適性テストや記憶研究手段として有用である

という十分条件が示されればそれでよく、「なぜ10進乱数なのか、色名や動物名を選択肢としてはなぜダメなのか」といった必要条件を示す必要は必ずしもない。あとは、有用性の高さをどこまで示せるかという相対比較の問題になる。


【思ったこと】
_80924(火)[心理]日本心理学会第72回大会(5)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(5)ワーキングメモリ・モデル/男女差の原因

 連載の5回目。

 今回は話題提供の中味について感想を述べさせていただく【敬称略】。

 1番目の板垣氏の話題提供の前半のほうでは、ランダムネスの分解や軸モデルについての紹介があったが、行動分析学的なアプローチとはかなり違うなあという印象を受けた。行動分析学であれば、乱数生成行動のコンポーネントにおいて、どの部分がどのように強化可能なのかという方法をとるであろう。いっぽう、板垣氏のアプローチでは、軸モデル(計算モデルからワーキングメモリ・モデルへ)という方向に展開した。ワーキングメモリ・モデルについて全く素人であった私にはこのあたりは大いに勉強になった。板垣氏が引用された文献の中にCowan(2001)の「マジカルナンバー4」というのがあった。「マジカルナンバー7」は私が学生時代からよく知られていたが、これに対して、注意の範囲は4±1の記憶容量限界をもつという点が興味深い。

 もっとも、なぜ乱数生成課題がなぜワーキングメモリ・モデルに関連づけられるのかということについては、指定討論者の若林氏からも疑問が出されていた。もちろん乱数生成課題では、それぞれの反応の直前あるいはそれ以前にどういう数を生成していたのかということは大きな手がかりになる。しかし、過去の反応を忘れてしまったほうが、かえって系列依存効果が減るという可能性もある。このあたりの問題は、1992年の紀要論文で、私自身、言及したことがあった。





 次に、自然数系列(1、2。3、4、5、6、...)におけるSemantic distance effect とSmall number effectについての言及があった。前者は、大小の差が大きいほど大小判断の時間が速くなるという効果、後者は、、自然数系列は数学的には等間隔であるが、心理的には、小さい数字(例えば1、2、3、4)であればあるほど、大きい数字(例えば8、9、10、...)よりも心理的な間隔が大きく、そのぶん弁別しやすいという効果のことを言う。これらは、自然数系列が上昇方向(小さい数から大きい数へ)にある場合と下降方向(大きい数から小さい数へ)にある場合の乱数生成方略の切り替えに影響を及ぼすとのことであった。

 このあたりの分析は、10進乱数生成課題を研究目的対象とした場合(9月21日の日記参照)には大いに重要な分析の1つになると思う。しかし、10進乱数生成課題を、行動変動性研究の1つの手段と考えた場合には、かなりローカルなノイズ要因と言えないこともない。「なるべく魚のように及ぶ」(9月20日の日記参照)という喩え話に即して言えば、
ある種の被験者は、「魚のように泳ぐ」という教示を「深海魚のように泳ぐ」と解釈し、プールの底を潜るようにして泳ごうとした。この場合の行動には、被験者の肺活量や血中酸素濃度が影響を及ぼすことが分かった。
というようなローカルな発見にとどまる恐れも出てくる。




 話題提供の後半では、乱数生成課題における男女差について、興味深い仮説が紹介された。男女差というと何となく性差別を助長するような印象を受けてしまうが、種々の認知課題において男女間で差が見られることはよく知られている。今回の話題提供では、顔の左半分と右半分が異なる表情をしているようなイラストを見せ、左右の視野における視覚処理の優位性(←左脳と右脳の優位性に関連)を測るというテスト(Peter Brugger, 2007)が紹介された。このことと、「頭の中でサイコロを振る」というランダム生成課題を関連づけた上で、男性では、音韻シーケンスには依存せず、氏空間スキーマを利用して乱数を生成しているのではないかという大胆?な解釈が提案されていたように聞き取れたが、うーむ、このあたりはかなり慎重にならざるをえない。

 なお、総合大学の学生を被験者として上記のような実験を行うと、どうしても、理工系の男子学生と文系の女子学生の被験者の比率が増えてしまう。すなわち、男女差ではなくて、理工系vs文系の差という可能性も否定できない。

 認知課題における男女差については、指定討論者の若林氏からもご発言があった。主たる原因は、羊水のテストステロン(Testosterone)の差にあるとのことであった。と言っても、すでに大人になっている人を調べても、生まれる前の羊水が残っているわけではないから分析は不可能。どこぞの国では、長期間にわたる系統的な研究が行われているというようなお話もあったが、細かいことは忘れてしまった。


【思ったこと】
_80925(木)[心理]日本心理学会第72回大会(6)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(6)ドライビング場面における精神負荷の評価

 2番目は吉田氏・板垣氏連名による、

●ドライビング場面における精神負荷の評価

という話題提供であった。プレイステーション2のドライビングゲームを主作業、乱数生成課題を副次作業として、「運転」作業が乱数生成の質にどのような影響を及ぼすのかを実験的に検討するという内容であったと理解したが、実験研究としてはまだまだ途上であり、未完成であるとの印象を受けた。まず、なぜドライビングゲームなのかということについての理由づけがよく分からなかった。フロアからも複数の指摘があったように、ドライビングゲームは、実際に車を運転する作業とは相当に異なっておりシミュレーションにはならない。もし、交通安全対策への応用を目指すのであれば、最低限、教習所などにあるシミュレーターを活用するべきであろう。

 また、精神負荷を与える手段として用いる(おそらくそういうことであったと思う)のであれば、市販ゲームではなく、もっとシンプルで、負荷の内容が明解であるような作業を用いるべきである。

 もう1つ、今回は、運転歴や年齢が異なる被験者が実験に参加していると伺ったが、被験者数がきわめて少なく、多種多様な経歴をお持ちであるため、実験変数として何を操作したのかが不明確となっている。したがって、被験者間で何らかの差違が生じたとしても、何が主たる原因であるのかは同定できず、逆に言えば、いかようにも都合のよいように解釈できてしまうという問題点があるように感じた。

【思ったこと】
_80929(月)[心理]日本心理学会第72回大会(7)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(7)Mentalizing容量と音調テスト

 3番目は三浦氏、板垣氏、丹羽氏連名による、

●Mentalizing容量と音調テスト

という話題提供であった。この方面の研究は私にとっては全く未知の世界であり大いに勉強になった。

 三浦氏はまず、ToM(セオリー・オブ・マインド)能力に関して、Bora et al. (2006)を引用し、音声課題(音調テスト?)、相手が表出する心的状態を把握する課題(Mind state decording task)、場面や状況から相手の心的状態を帰属させる課題(Mind state reasoning task)という3者の関係について言及された。そして、今回は、その発展として、

乱数生成課題指標値と音調テスト得点の相関関係を調べ、Mentalizing容量とToM能力の関係について考察する

という大がかりなテーマを掲げておられた。対人場面において相手の気持ちを察するにあたって、相手の喋り方、顔の表情、場面や状況が基本的な手がかりになるという点まではよく理解できたのだが、うーむ、なぜここから、乱数生成課題が出てくるのかイマイチ分からないところがあった。乱数生成課題を遂行させた時に、その指標値の1つDRFAは長期記憶から外界に対応する表象を選んで内在化させることで作られる記憶容量を反映しており、これがMentalizing容量(表象を保持するスペース)と近い関係にある、よって、DRFAを調べればToM能力の推定に役立つ可能性があり、乱数生成課題の応用的展開に役立つというようなお話であったと理解したが、それでよかったのだろうか。

 でもって実際の結果だが、音調テスト得点とRNG指標値との間には有意な相関は見られなかったという。そして、さらに性差の検討にはいり、乱数生成課題における認知機能状態を把握することがToM研究において有用であるというように結論されていた。

 話題提供の後半では、アスペルガー障害・統合失調症のToM障害は、Mentalizing容量の問題が論じられたが、指定討論者にの若林氏からも御指摘があったように、健常者の個人差を説明するモデルと病理モデルとのアナログには飛躍やこじつけといった危険が伴うように思った。

 若林氏からは、他の話題提供を含めて以下のような御指摘があった。あくまで私が理解できた範囲であるが、それぞれまことにごもっともな御指摘であると思った。以下は、私の理解した範囲でまとめたメモ(若林氏ご自身のお言葉ではなく、私自身の言葉で翻訳・解釈したような内容であり、的外れになっているかもしれない点をお断りしておく)。
  • 乱数生成課題において、なぜワーキングメモリのモデル化が必要なのか?
  • 乱数生成課題は退屈であり、動機づけの差が出るのでは?
  • 健常者の個人差は難しい。乱数生成を課題として設定してしまうと測れなくなる。
  • 一般論として、何かのテスト(作業検査)を作ってしまうとそれで個体差は見つかるが、それによって、日常場面で実際に生起する特徴的な行動を説明することはできない(←この部分は、長谷川の解釈をかなり含む)。
  • 性差の原因は、羊水中のテストステロンの差にある
  • 男女と、SタイプとEタイプ(SQ/EQ)との組み合わせの4通りにおいて、不一致群の特徴を見ることが重要であるが、私立大の大学生を被験者とした場合、どうしても、理工系には男子、文系に女子が偏りやすく、Sタイプが得られにくいため、サンプルを集めて比較することが難しい)。


【思ったこと】
_80930(火)[心理]日本心理学会第72回大会(8)乱数生成課題研究の応用的展開に向けて(8)乱数生成課題における音声認識・分析のシステム化

 今回のワークショップでは、もう1つ、伊藤憲治氏による

乱数生成課題における音声認識・分析のシステム化に向けて

という話題提供があった。

 タイトルから、被験者が発声する「乱数」をデジタルに認識するシステムの精緻化のお話かと予想していたのだが、実際には、ソーシャル・スキル(SS)のお話から出発されたため、少々面食らってしまった。

 伊藤氏によれば、SSは
  • 他者の同様の権利、要求、謝罪、恩義をなるべく傷つけずに果たす
  • 願わくば、これらの権利等を他者と無償で隠し立てなく交換するために必要
という意義があるという。この定義は、少々打算的で利己主義的な定義ではないかと思ったので、念のためネットで「ソーシャルスキルとは」というキーワードで検索をかけてみたところ、
  • (はてなキーワード)対人関係をマネジメントする能力。人間関係を上手くやっていく能力。
    精神医学界では自閉症に対する治療などで使われ、対人関係能力に加え、料理、公共機関の利用など、社会生活を営む上で必要な技術のことを指す。
  • ソーシャルスキルとは「社会性」のことであり「体験を通して学んだ人づきあいの. やりかた」である(小林,2001 )。
    いじめ、不登校、軽度発達障害の問題は、子どもたちのソーシャルスキルの稚拙さが大きく関連。
  • ソーシャルスキルとは,人間関係. を構築したり,維持することを適切かつ効果的に行うための「人付き合いの技術」であり. (相川,2000),人事労務で日常的に使用されているところの「対人対応力」を表す概念. といえる。
  • ソーシャルスキルとは、良好な人間関係を作り維持していくための「人づきあいの技術」 です。
  • ソーシャル・スキルとは、相手を理解し、自分の思いや考えを適切に相手に伝え、対人関係を良好にしていく技術である。
といった説明がなされていることが分かった。これらの定義の大部分は、「良好な人間関係を築くことは良いことだ」という暗黙の前提の上に成り立っているように思える。ま、大多数の人はそれを信じて疑わないとは思うが、中には、できるだけ人との接触を避け、自分の世界や時間を確保したいと思う人もいるはずだ。「良好な人間関係を築くことは良いことだ」を前提にしてしまうと、それを必要としない人にはSSは必要無いということになる。いっぽう、伊藤氏の定義は、むしろ、人間が利己主義的であることを前提として、そういう人の間で円滑な関係を維持する必要性を説いているようにも見える。

 喩えて言うならば、ある人がアフリカのサバンナに置き去りにされ、どうにかこうにか生き延びようと思った時には、野生動物との「お付き合い」がどうしても必要になる。その場合、何も、猛獣と仲良くする必要はないが、お互いを傷つけることなく、どうにかこうにか共存していくというスキルが求められるのである。

 伊藤氏の定義がオリジナルのものなのか、何かの書物・論文等からの引用であったのかは確認できていない。




 さて、とにかくソーシャルスキルは、言語と非言語の2つの下位部門に分かれるという。このうち発話行為に関してはSSに絡む文の構造があり、これは日本語と英語の間でも異なっているとのことであった。例としてあげられたのは、英語の「Please」と「Do」の違いである。前者は「申し訳無いが私のために〜してください」、後者は「遠慮しないで、あなた自身のために〜してください」というような意味になる。よって、部屋に入るのを遠慮している人に対して「Do come in」と表現すべところを「Please come in」と誘うのは妙な表現ということになる。←日本語で言えば「どうぞお入りください」と「どうか入ってください」の違いのようなものか。

 次に伊藤氏は、音韻的特徴を除く音声情報のうち、ほぼ安定なものと変動性成分に分けて詳しく説明された。前者には、グループ(コミュニティ?)に共通な差と、個人特有な差がある。また後者には発話行為(発話内行為、発話媒介行為)と、態度や気分や情動に関するものがあるという。

 さらに伊藤氏は音声プロソディ(イントネーション、ラウドネス、テンポ)についても言及された。冒頭のSSと関連づけると、要するに、文字情報と異なり、発話情報では、声を荒げたり、口早に喋ったりすることがSSにも影響してくるということであろう。プロソディ条件の働き方には一定の法則性がある。

 発話ではもう1つ声質(嗄声、緊張、地声など)の影響が出てくる。但しこれらは特定の情動・気分・態度とは1対1には対応しないということであった。

 ということで、この研究領域に関する新しい知見を得ることができたが、乱数生成課題との関連についてはイマイチよく分からなかった。

 なお、ワークショップ終了時の質疑の中では、乱数生成課題の動機づけの不足の問題、ダイグラム(連続する2反応の組)の出現頻度ばかりでなく、3個以上の反応を組にしたときの独立性についても検討すべきであるといった意見も出された(実際には、このあたりの議論は、過去にも多数行われているが)。

【思ったこと】
_81002(水)[心理]日本心理学会第72回大会(9)超高齢者研究の現在(1)

 今回より、大会初日(9/19)の夕刻に開催された、

WS040 超高齢者研究の現在 19日 15:30-17:30

について感想を述べさせていただく。企画者、司会者、話題提供者、指定討論者は以下の通り【いずれも敬称は略させていただく】。
企画者 明治学院大学 佐藤 眞一
企画者 大阪大学 権藤 恭之
司会者 桜美林大学 長田 久雄
話題提供者 明治学院大学 佐藤 眞一
話題提供者 大阪大学 権藤 恭之
話題提供者 慶應義塾大学 山 緑
話題提供者 東京都老人総合研究所 増井 幸恵
指定討論者 同志社女子大学 日下 菜穂子 #
指定討論者 大阪学院大学 山本 浩市

 さて、ここでいう「超高齢者」は、概ね100歳以上のお年寄り(百寿者)のことを意味しているようであった。このように、高齢者を物理的な年齢(暦年齢)で区切ることについては、メリットとデメリットがあるように思う。

 まずメリットとして思いつくのは
  • 年齢は客観的な基準なので、容易にカテゴリー分けができる。誕生日が分かれば機械的に分類できる。
  • 同じ年齢の人は、共通した文化的背景を持っているに違いない。例えば2008年に100歳となる人はすべて1908年生まれであり、20世紀初期の文化や価値観を共有している可能性が高い。
  • 日本全体の年齢構成や年齢別の人口を正確に把握することで、年金や医療など種々の施策に役立てることができる。
 いっぽう、物理的年齢でカテゴライズすることのデメリットとしては、
  • 高齢者の生きがいは、暦年齢の多少ではなく、それぞれの人の健康状態、家族構成、生活環境などに依存する度合いが大きい。暦年齢で区分しても大ざっぱな実態しか把握できない可能性が高い。
  • 百寿者が増えているといっても、大多数の人は100歳になる前に死んでしまう。喩えて言うならば、「年収1億円以上の大金持ちについて研究することは、大金持ちに特化した生きがいを創造する上では大いに有用だが、貧乏人の生きがいには何ら適用できない」という、一般化可能性の問題も出てくるかもしれない。
といった点が考えられる。

 それから、これは、本ワークショップの話題提供とは直接関係無いが、実態調査の結果というのはあくまで現状の把握であって、将来に向けて何かを創造することには必ずしも結びつかない。仮に、100人の百寿者を調査して全員が将来の夢を持っていなかったとしても(←あくまで仮の話)、「百寿者は将来の夢持てない」という将来の可能性まで否定することはできない。何らかの心理学の知見を活用して新たな「夢」を創造したら、夢をいだく百寿者が新たに出現するかもしれないのである。

【思ったこと】
_81003(金)[心理]日本心理学会第72回大会(10)超高齢者研究の現在(2)


 ワークショップではまず、百寿者の現状について2件の話題提供があった。その中で興味深く拝聴した点を長谷川のメモに基づき列挙すると(「←」の後は、長谷川のコメント)、
  • 国立長寿医療センターが2004年に、20代〜70代の男女2025名を対象に行った調査によれば、「高齢になることに不安がある」と答えた人は85%、「長生きしたいと思わない」と答えた人が41%にのぼっていた。←「高齢」になることについては良いイメージを持っている人はあまり多くなかった。
  • こうした否定的イメージの一因には高齢者医療費の増加がある。じっさい、2006年度の国民医療費は33症1276億円であったが、このうち65歳以上の高齢者の医療費は17兆1233億円(1人あたりでは65万1000円)で全体の51.7%(1人当たりでは65歳未満者の約4倍)を占めている←個々人の医療費の負担も問題だが、高齢者の医療費が多いということはそれらの人々が何らかの形で通院や入院を余儀なくされており、その分、QOLが損なわれている可能性がある。
  • 65歳以上では心身の脆弱性が高まる。65歳以上の約15%や要援護高齢者であり、認知症率は7%(約197万人)。また85歳以上になると認知症率は25%に達する。男性高齢者の自殺率も高い(若者では自殺達成確率が100分の1だが、高齢者では4分の1に高まっている)。←要援護高齢者や認知症率が高いことは事実だが、逆にみると、65歳以上の約85%は援護を必要としておらず、85歳以上の75%は認知症でないということも言える。
  • 高齢者のライフスタイルや生きがいについては、引退前後から85歳頃までの第3年代と、それ以降の第4年代の超高齢者(Oldest Old)に分けて考えていく必要がある。第3年代では「補償を伴う選択的最適化(SOC)理論の適用でSuccesful Agingの達成が可能だが、第4年代になると、心身機能の著しい低下により、人間としての尊厳を保つことさえ困難になると言われる。
というようになる。

 確かに行動観察によれば、超高齢者では慢性的な生活機能低下や認知機能、アイデンティティの喪失が進む。しかし、こうした考え方では、超高齢者があまりにも悲観的にとらえられている。もっとポジティブな面に目を向けるべきではないか、Succesful Agingに代わるアイデアはないかといった考え方も紹介された。

【思ったこと】
_81004(土)[心理]日本心理学会第72回大会(11)超高齢者研究の現在(3)百寿者の現状と生きがい


 超高齢者というと、長いヒゲを生やした仙人のようなおじいさんを思い浮かべる人もいるかもしれないが、大多数は女性であり、夫に先立たれて独り暮らしをしていることが多い。また大多数は過去数年以内に入院経験をもち、最後は病院または高齢者施設で1人で死亡するという社会的側面を持っているという。昨日も述べたように、行動観察のレベルでは、超高齢者では慢性的な生活機能低下や認知機能、アイデンティティの喪失が進む傾向にある。

 こうした高齢者に対しては、「負の提言」という見方もあるという。

 その1つは「トリアージ(trierge)」と称される。いっぱんにトリアージというと、大規模災害時の治療や搬送の優先順位を思い浮かべてしまうが、ここでは「高齢者は治療を若い世代に譲るべきか」、「高齢者は生きる権利を若い世代に譲るべきか」といった意味に使われる。

 もう1つは「死の義務(duty to die)」と称されるもので、「若い世代に譲るために、高齢者は死すべき義務がある」といった意味に使われる。これは1984年、米国のコロラド州知事リチャード・ラムが「人生の黄昏時ともなれば、年少者に居場所を明け渡すのが道徳的な義務である。秋には木の葉が落ちるように、高齢者には死ぬ義務がある」とし提唱したことが始まりであるとされており、高齢者向けの医療費削減、脳死臓器移植、尊厳死、介護の共依存などにも関わってくるようだ。




 では、実際、百寿者の実態はどうなっているのだろうか。話題提供によれば、昭和40年時点での百歳以上の高齢者は全国で、男性36人、女性162人、合計で198人にすぎなかったが、平成17年には、男性3779人、女性21775人、合計で25554人に上っているという。そう言えば、NHKで「百歳バンザイ!」という番組があるが、100歳以上の方が2万5000人以上ともなると、1年以内にその番組に登場できる確率は50/25000=0.0008、そう簡単には出演できそうにもない。

 このほか、西暦2300年の日本人の平均寿命は、男性104歳、女性108歳になっているという国連レポート(2004年)もあるという。この情報は2006年7月28日の毎日新聞記事で紹介されたらしいが、出典を辿ることはできなかった。

 百寿者の日常生活環境については興味深いデータが紹介された。百寿者を「寝たきり(bedridden)」、「ある程度の介護・介助を要する(need some help)」、「自立(independent)」にカテゴリー分けして1973年と2000年で比較した場合、寝たきりの百寿者が24.1%から50.5%に増加している反面、自立者のほうも10.8%から19.3%に増えており、二極化が目立っているという点であった。

 この原因についてはよく分からない。寝たきりの百寿者が増加している一因は医療技術の進歩にあり、例えば、余命幾ばくもない99歳11カ月の寝たきりの超高齢者がおられた場合は、家族の多くはあらゆる延命治療をほどこして何とかして百寿者を達成させてあげたいと思うかもしれない。但し、その場合は、100歳ぴったりのあたりで死亡年齢のピークの1つができるはずだが、そういう根拠が実際にあるかどうかは不明である。




 最後に、超高齢者におけるSuccesful Agingに代わるアイデアとして、
  • 自立から自律へ(自己決定の重要性)
  • 他者への基本的信頼感を高める(Erikson, E. H. & Erikson, J.M.の第9段階)
    日本的な相互依存的人間関係
  • ハッピー・エイジング
    肯定的気分の維持
が提言された、いずれももっともなことだと思う。なお、エリクソンの第九段階については、

『ライフサイクル、その完結』ISBN 4-622-03967-2

という書籍が刊行されている。このほか、仏教的な見方も大いに参考になると思う。

【思ったこと】
_81005(日)[心理]日本心理学会第72回大会(12)超高齢者研究の現在(4)超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being(1)

 今回からは、3番目の高山氏による、

超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being

という話題提供について感想を述べさせていただく。なお、前回までの部分は、公開されている二次資料などの引用への言及が多かったので、パワーポイントスライドで提示されていたデータをそのまま転記させていただいたりしたが、今回から取り上げる内容はオリジナルのデータが含まれていることもあり、具体的数値についての言及は必要最小限にとどめさせていただく。

 話題提供ではまず、なぜいま、超高齢者研究が必要になっているのか、その理由がいくつか挙げられた。その1つは、第3年代(Thrd age、前期高齢者)との質的な違いである。これまでの生涯発達や老年学の研究によれば、第3年代では優れた可塑性や適応性が数多く発見されてきたが、第4年代ともなると明らかな脆弱性が出てくるという。長寿先進国の日本こそが先頭になって取り組むべき課題であるというように理解した。

 さて、ここで問題となるのは、どういう形で実証的な研究を進めていくのかということである。まずは対象の全体像を把握する必要があるが、これはかなりの規模となり、金銭的、人的な資源なしには実施できない。ここでは、いくつかの大学、学部の専門家が研究組織を作り、大規模な調査が行われた。ネットで検索したところこちらにその概要が紹介されていた。

 この種の調査で問題となるのは、対象者が比較的“健康”で“意欲のある”お年寄りに限られないかということである。対象者のプライバシーの問題もある。また、面接調査や質問紙調査の回答では、「自分をよく見せかける」、「体面を保つ」、「自分を支えてくれる周囲の人々をよく見せかける」といった歪みが生じる可能性がある。それと、調査が大規模であればあるほど、ごく少数の希有なライフスタイルが平均値や比率の中に埋もれてしまうという恐れも出てくる。なお、この調査では、縦断的研究方法による超高齢期のエイジングプロセスの解明も行われたということであった。

【思ったこと】
_81006(月)[心理]日本心理学会第72回大会(13)超高齢者研究の現在(5)超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being(2)well-beingのパラドクス(1)

超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being

という話題提供についての感想の続き。

 まず、前回も言及した「長寿社会における高齢者の暮らし方に関する学術調査」の結果であるが、85-89歳群、90-94歳群、95歳超群で横断的に比較したところADLやIADLなどの身体機能、MMSEで測定した認知機能、量的側面であるネットワークのいずれにおいても超高齢者では機能低下や規模縮小が認められたという。“健康”や“意欲”を標榜していてもやはり文字通り、寄る年波には勝てないという状況にあるようだ。

 しかしその一方、一部で“well-beingのパラドクス”を支持するような結果も見られたという。具体的にはPGC得点、あるいは精神的健康(WHO-05)や主観的健康感に関して、超高齢になっても平均値が上昇したり維持する部分が認められたということであった。なお、これに関しては、このあとの別の話題提供でも“エイジング・パラドックス”という形で言及された。要するに、一般に、高齢者の幸福感は身体機能の低下と比例関係にあると言われているが、超高齢者になると必ずしも正の相関関係が維持されない。また、高齢者より超高齢者のほうが幸福になるというようなパラドックスもあるらしいが、まずはそれをどのような形で実証するのか、またそれが真実であったとしても、個体内で変化するものなのか、超高齢者として生き残った人たちの固有・不変の特徴であるのかを検証することはなかなか難しいようである。

 さて、元の話題に戻るが、超高齢になると、身体機能は低下し、社会関係も狭まっていく反面、世話をしてもらうことによって誰かと一緒に時間を共有できる機会が増える。その際、受身的に面倒をみてもらうばかりでなく「自分も何かのかたちでひとを支えられる存在であることを実感し、自己効力感がある」という状況にあると、主観的幸福感の維持、増加につながるようであった。その場合、男と女では相違があり、男性の場合は、「家族がそばに居て、家族からサポートを受け、孤独感が低い」ことが重要となる。いっぽう女性の場合は、どうしても一人暮らしを余儀なくされることが多い。なぜなら、もともと女性のほうが平均寿命が長いことに加えて、結婚時にも、妻より夫のほうが年長であり、その分、先立たれる可能性が高いことに起因している。それゆえ、男性のように、「家族がそばに居てサポートを受ける」ことは困難であり、むしろ「自己効力感の高さや、家族以外の人たちとのつながりを保持し、自らもサポートを提供するなどの主体的存在でいられることが重要」となってくると指摘された。

 いま上に述べたことをもう一度私自身の言葉でまとめ直してみると、要するに、男性の場合は(私自身もそうだが)、夫婦関係が円満で、妻に支えてもらっている限りにおいては、家族以外との付き合いが全くなく、家にこもっていたとしても比較的幸せで居られる可能性が高いと言えそうである。もっともこれは、夫婦関係が円満であり、妻が献身的に支えてくれた場合に限ってのことである。実際には、一方的に妻に甘えるわけにもいかず、時には妻にも苛められることもあるだろう。そのいっぽう女性の場合は、友人や隣人、地域コミュニティなど、家族以外の人たちとの良好な関係を築き、相互のサポート関係を保っていくことが重要であるようだ。妻に先立たれた男性の場合もこのケースと同様であり、本質的な男女差があるわけではないと思う。

 いずれにせよ、いくら「生涯現役」とか「活動理論」とか言っても、中年期や前期高齢期の能動性や活動性をそのままの形で維持することには限界がある。むしろ、現実を受容した上での質的な変換、創造的適応が求められるというのが、話題提供者の論旨であると理解した。

 もっとも、中年期や前期高齢期に、組織や地域で先頭に立って活躍していた人たちがすんなりと上記の「質的転換」をはかれるのかどうかは不明である。スポーツ選手(←この場合は、かなり若い時期だが)、会社勤めの人たち、農業従事者、政治家、芸術家、学者などさまざまな職種において、どういう場合に転換がはかられているのか(あるいは転換に失敗しているのか)を縦断的に把握していく必要はあると思う。現役時代にはそれほど目立たず、マイペースでゆったりと暮らしていた人のほうが、高齢期になってもそのままのライフスタイルを維持して長生きしていく可能性もあるかもしれない。

【思ったこと】
_81007(月)[心理]日本心理学会第72回大会(14)超高齢者研究の現在(6)超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being(3)well-beingのパラドクス(2)

超高齢期の身体・心理・社会的機能とWell-being

という話題提供のうち、well-beingのパラドクスの問題について考えてみたいと思う。ここでいうパラドクスとは、超高齢者になると、身体機能が低下しても主観的な幸福感は必ずしもそれに比例して低下せず、項目によっては、前期高齢者より上回ることがあるというような逆転現象のことを言う。

 このことについてはまず、本当にそういうパラドクスがあるのかというエビデンスを得ることが必要であろう。例えば、前期高齢者と超高齢者のあいだで比較に耐えうる公正なサンプリングが行われているかどうかという問題がある。また、仮に、数値上有意差があったとしても、それが、個体内で変化するものでなければ、パラドックスであるとは必ずしも言えないように思う。例えば、現時点での調査で、超高齢者の住んでいる場所が温暖な農村地域に多いとするならば、そのことが、幸福感を増やす要因になっているかもしれない。また、縦断的研究の場合は、それぞれの時代の文化的背景の影響も受ける。現時点で百寿者に相当する人々は、20世紀初頭、ちょうど、日露戦争のころに生まれ、大正時代に青年期を過ごし、第二次大戦の時にはすでに30代に達していた世代であった。このことが何らかの影響を及ぼしている可能性もある。

 じっさい、今回の話題提供においても、パラドクスの原因についてさまざまな考察がなされていた。

 まず指摘されたのは調査参加者のサンプリングの問題である。例えば、調査方法として、直接面接で調査した場合と、留置法を併用した場合では、後者のほうがPGC得点が有意に高い傾向にあったという。これは要するに、留置法で協力してくれる対象者のほうが、もともとPGC高得点者に多いということを示唆していると言えよう。

 なお、これに関連して、それぞれの年齢別の得点分布をみると、95歳付近ころから、最高点が減少しつつ、低得点者も減り、全体として分散が狭まって平均点付近に収束する傾向があることも報告された。この原因はいくつか考えられるが、例えば、対象者が回答に無関心となり、差し障りのない「中くらい」に答える傾向が強まってきたということもありうるのではないかと思う。これは大学生対象の授業評価アンケートでもそうだが、関心が低いと、すべて「どちらとも言えない」に○をつけるといった、実質的な判断を回避するような中立的な回答に収束する傾向がありうる。また、回答者が御本人自身ではなく、お世話をしている家族の手によってなされた場合、ネガティブな回答は極力避けようとするかもしれない。

 いっぽう、well-beingのパラドクスが実際にあったことを前提にした上での考察として、「“主体”としての自分の人生を描いていくための認知の変化、目標の修正、価値の方向転換」という解釈も提案されていた。これらの複合体の1つは“老年的超越”という概念でとらえられる、新しい心的状態の出現を示すものとされていた。もっとも、そのエビデンスを得るには、やはり、同一人物内での変化を縦断的に把握しているほかはあるまい。

【思ったこと】
_81008(水)[心理]日本心理学会第72回大会(15)超高齢者研究の現在(7)心身の健康と長寿(1)

 ワークショップの後半では、心身の健康と長寿の問題や、超高齢期におけるエイジング・パラドックスをめぐって、興味深い話題提供や指定討論が行われた。なお、「エイジング・パラドックス」と昨日までの日記で言及した「well-beingのパラドクス」はほぼ同じ意味に使われているが、ここでは、話題提供者や指定討論者ご自身の表現に従うこととする。また、話題が交錯する恐れがあるので、ここでは、発言者のお名前とはいちいち対応させていない。一般的に「○○という指摘があった」というように言及させていただく。




 話題提供の後半では、まず、

心身の健康と長寿は両立するか

について、ギリシア神話(女神エオスとティトノスの話)やガリバー旅行記の不死人間の話題が取り上げられた。いずれも、不死は可能だが、不老は困難というのがそれぞれのフィクションでの結論となっている。また、老年学では「病気がないこと」、「社会参加をしていること」、「認知機能と身体機能が保たれていること」という3条件が揃ってサクセスフルエイジングが実現するというように考えられてきた(Rowe & Kahn, 1987)。このことが百寿者においてどう当てはまるのか、あるいは当てはまらないのか、について、「東京百寿者研究」のデータに基づく話題提供が行われた。ちなみに「東京百寿者研究」は、住民台帳に基づく当該対象地域における全数調査であったが、実際の参加者は該当者1785名のうち513名にとどまっている。少々意外であったのは、1785名のうち住所判明者が1194名、参加者が513名というようにかなり少ないということ。もしかすると、各種の人口統計やそれに基づく平均寿命推定、超高齢者施策のもとになる基礎データなども、かなり不確定の数値が使われている恐れがあるかもしれない。

 さて、実際の調査によれば、上述のサクセスフルエイジングに該当する百寿者の比率はきわめて少ない。心身ともに健康な百寿者の比率は約20%であり、病気知らずの百寿者も約20%であるが、すべての条件を満たす人たちはきわめて少なくなる。そうすると、機能維持を重視する「機能的サクセスフルエイジング」ではなく、心理的な幸福感や、機能低下を前提とした心理的適応を重視する「心理的サクセスフルエイジング」の枠組みのほうが重要となってくる。そうした中で、百寿者あるいは超高齢者において、身体機能の衰えに正比例しない幸福感というのはどのように実現しているのだろうか。この謎を解明するキーワードの1つとしては、「長寿達成者の特性」がある。要するに、長寿達成者は、もともと幸福感が高い、もともと開放的、もともと知能が高い、といったことを示すデータが実際にあるという。これに加えて、「SOC理論」、「社会情動的選択性理論」、「エリクソンの第9段階」、「老年的超越」などが、エイジング・パラドックス謎解きのキーワードになるということであった。

【思ったこと】
_81009(水)[心理]日本心理学会第72回大会(16)超高齢者研究の現在(8)心身の健康と長寿(2)

 昨日に続いて、エイジング・パラドックスの謎解きについて考えてみることにしたい。

 すでに何度か取り上げていることの繰り返しになるが、このパラドックスについては、まずそれが事実であることを確認した上で、さらに、「生き残り」の固定的な特性であるのか、それとも、個体内の経年変化であるのか、を精密に分析する必要がある。話題提供では、前者は「生き残りの効果」、後者は「エイジングの効果」と呼ばれていた。

 もし、「生き残りの効果」、つまり、もともとハッピーだった人だけが長生きしたことで超高齢者の平均値を上げているのであれば、同一人物の縦断的調査では初年度も5年後も同じ数値を維持するものと予想される。いっぽう「エイジングの効果」であった場合は、同一人物の中での数値上昇が予想される。今回報告された5年後フォローアップの結果では、
  • 男女差がある。超高齢女性では、身体機能と心理側面の両方の変化が大きく、幸福感の低下が顕著。
  • 主観的健康観は変化しない。
  • 「脱落者」の数値はもともと低い。
といった特徴が見られたということであった。ということで、「生き残りの効果」か「エイジングの効果」かについては、現時点では、はっきりした結論が出なかった。但し、男性では、どうやら「生き残り効果」、つまり、長寿者の特性が保持されるという傾向が高かった模様である。

 この話題提供ではもう1つ、「ランドマークエイジ」の可能性に言及されていた。ランドマークというのは、ここではおそらく「100歳達成」という意味で使われたものと思うが、ランドマークとして想定される効果にはおそらく、
  • 100歳になるまで頑張ろう
  • 100歳になったという達成感
  • 100歳を達成したことについての周辺あるいは自治体首長などからのお祝い
  • すでに多くの家族や知人と死別しているなかで、自分だけが長寿を維持できているという特別の感情
  • 都道府県、全国、全世界での最高齢保持者を目ざすというチャレンジ精神?
などがあるものと思う。もっとも、例えば調査対象者に「100歳になったという達成感はありますか?」と訊いて「はい」という回答があったら達成感の効果があったと証拠づけられるというほど単純なものではあるまい。「達成感」が効果をもたらしていることを実証するためには、そのお年寄りが日常生活のなかで「100歳達成」のことをどれだけ口にしているか、達成の前とあとでどういう行動変化があったのかを綿密に記録していかなければ真の実証には至らないであろう。

【思ったこと】
_81013(月)[心理]日本心理学会第72回大会(17)超高齢者研究の現在(9)老年的超越(1)

 このワークショップでは終わりのほうでもう1つ、かなり詳しい話題提供があった。私のメモによれば、この指定討論は16時49分に始まり、17時16分に終わるというかなり盛りだくさんな内容であった。その中で興味深く伺った点を、まずキーワードとして列挙してみると、
  1. Eriksonの第9段階
  2. 老年的超越タイプ
  3. 日本型の老年的超越の概念と尺度
ということになろうかと思う。

 1.や2.に関しては、スウェーデンのTomstam(1989)が提唱した理論が紹介された。これは、80歳代前半までの生きがいモデルでもあるサクセスフルエイジングのオルタナティブな姿として超高齢者のQOLの向上にもつながるし、また、離脱理論の再構築にもなるという。

 Tomstam(1989)によれば、この「超越」では、「新しい自己の発見」、「自己中心性低下」、「利他主義傾向」、「内なるこどもの復活」、「自我の統合」などの自己の変化が生じる。また、社会との関係でも、「少なくても濃い人間関係」、「社会的役割からの離脱」、「社会的価値からの離脱」、「物質主義からの開放」、「知恵の獲得」、といった変化が見られるという。自己の変化を象徴する表現の1つとしては「利己的な大人から利他的な子どもへ」、社会との関係変化を象徴する表現の1つとしては「文明社会からの離脱」といった言葉が使われていた。

 以上に加えて、「宇宙的意識の獲得」も重要な柱となっている。大ざっぱにまとめると、死の恐怖が消滅し、時空間の意識が変化し、神秘性や非合理的思考を受容し、大いなる存在との一体感の獲得などの特徴がある。

 以上までの部分について、行動論的な解釈を加えてみると、自己や社会的関係の変化というのは、
  • 自分が発する(自発する)オペラント行動の低下
  • そのオペラント行動を強化する好子(強化子)の質の変化(利己的な結果から利他的な結果で強化されやすい?)
  • 直後の強化(あるいは環境の変化)の影響減少
  • 他者との接触の頻度や質的な変化
  • 個別的、断片的な「行動→強化」ではなく、長寿によってもたらされた全人生の文脈に位置づけられた強化
といったことになり、それが、総合的な意味でも「宇宙意識の獲得」という独自の行動様式を作り出しているというなことになるかと思う。

【思ったこと】
_81014(火)[心理]日本心理学会第72回大会(18)超高齢者研究の現在(10)老年的超越(2)

 昨日の続き。今回はエリクソンの第9段階にまつわる話題について、新たに学んだことをメモしておきたい。

 エリクソンの発達理論というと、ふつう8つの段階が広く知られているが、今回のワークショップでは複数の話題提供者がその次にあたる第9段階に言及していた。その概要は『ライフサイクル、その完結【増補版】』(ISBN 4-622-03967-2、2001年3月23日発行)などで知ることができる。

 今回の話題提供では、この第9段階を量的に実証する試みが紹介された。このうち、外国の研究(Brown & Lowis, 2003)では、「私は死ぬことを怖いと思わなくなった」、「年をとってからも求めることができる新たな心の糧がある」といった20の質問項目(5段階評定)を用いて、53歳から93歳までの女性70人に対する調査が行われた。その結果、「第9段階尺度」の信頼性(内的一貫性)はα係数=0.84t高く、また、「年齢とともに上昇」、「超高齢者において特に高い」といった理論的な妥当性も確認されたという。

 また、Tornstam(2005)が行った「老年的超越」の高齢期における変化についての研究では。いくつかの男女差が認められた。グラフを拝見した限りでは、女性の「宇宙的意識」は単調増加から安定的、いっぽう男性は、年齢が上がると逆に低下するように見えた。「社会との関係」領域では、男女ほぼ同じような傾向があるように見えたが95歳超では女性が最も高い値を示している。これらに基づきて、老年的超越という適応機制がはたらくことで、「健康観」、「自己効力感」、「人生満足感」、「幸福感」といった主観的QOLの増加が見込まれるというような仮説が提唱された。

 しかし、上述の研究は外国人の高齢者を対象に調べたものであった。ところが長寿国を誇る日本では同じような調査を行ったところ、少なくとも東京在住の高齢者では、10項目の内的一貫性が低い(α=0.35)、また尺度自体の説明率も低い(20%)など、老年的超越尺度がうまくフィットしないという事実が明らかになった。

【思ったこと】
_81015(水)[心理]日本心理学会第72回大会(19)超高齢者研究の現在(11)老年的超越(4)ライフサイクル、その完結

 今回は、当該のワークショップの話題から少々脱線するが、エリクソンの第9段階について、もう少し詳しく言及することにしたい。昨日も述べたが、エリクソンの「第九段階」の概要は

『ライフサイクル、その完結【増補版】』(ISBN 4-622-03967-2、2001年3月23日発行)

で知ることができる。手元にその本があるので、もう少し詳しく紹介させていただくと、

まず、この本(訳書)の増補版は、エリック・エリクソンとその妻のジョウン・エリクソンの共著という形をとっているが、増補版訳者あとがきによれば、エリック・エリクソンの『ライフサイクル、その完結』が出版されたのは1982年、彼が亡くなったのは1994年。そしてジョウン・エリクソンによって増補版が出版されたのはその3年後の1997年となっている。すなわち、増補、共著という形をとっているが、増補版のまえがきと、第5章「第九の段階」、第6章「老年期とコミュニティ」、第7章「老年的超越」は、すべて、ジョウン・エリクソンの執筆によるものであるということだ。ちなみに、翻訳者のほうも、初版の共訳者のうちのお一人は亡くなられており、増補版は、もう一人の方が、大学院生や卒業生との共同作業を経て完成されたと記されている。訳文は、全般的にぎこちなく固い表現のようにも見えるが、これはもともとのエリクソンの文章に原因があるらしい。周知のように、エリック・エリクソンはドイツのフランクフルト生まれで、母はユダヤ系デンマーク人、父親は不明とされており英語は母語ではない。訳者あとがき(増補版)にも記されているが、エリック・エリクソンの英語表現の背後には、妻のジョウンの大きな支えがあったということである。Amazonのカスタマーレビューでは、「ジョウンが記しているところは前半のエリクソンと雰囲気が違う語り口」、「基礎知識がないと難解、...専門用語以外でもカタカナ英語が多い...一般読者には、80-90歳代の高齢期の部分が知りたいという人にのみお勧め」といった意見が載せられていたが、私も同感である。訳書・本文はおおむね180ページであり、今回の話題の中心は、5章と6章(←但し、本文では「章」という文字は入っていない)ということになる。

 なお、エリクソンに限らず、一般論として、よく知られている発達段階諸説の中には、西欧文化中心的、あるいは男性原理中心的であると批判されているものがある。また、和田秀樹氏が『痛快!心理学』の中でも指摘しておられるように(69ページ)、エリクソンの「モラトリアム」の考え方は間違った形で応用され、自由放任主義を導いたとも言われている。

【思ったこと】
_81016(木)[心理]日本心理学会第72回大会(20)超高齢者研究の現在(12)老年的超越(5)

 今回は、エリクソンの第9段階尺度として作成された質問紙調査を日本の高齢者に実施し、その妥当性を検討するという報告についてのメモ書き。念のためおことわりしておくが、「エリクソンの第9段階尺度」というと、「エリック・エリクソンが自ら開発した第9段階尺度」という意味にとられそうだが、これは2つの意味で違う。まず、昨日も述べた通り、第9段階というアイデアは、エリック・エリクソンの妻のジョウン・エリクソンによって増補版の中で公刊されたものである。もちろん、エリック・エリクソンの考えが多分に反映しているとは思われるが、著作権上は「ジョウン・エリクソンの第9段階」と言うべきであるように思う。第二に、「第9段階尺度」は、Brown & Louis(2003)が、そのジョウン・エリクソンの記述やトルンスタム(Tornstam)の老年的超越概念に基づいて20項目を抜き出し作成されたものが基となっている。『ライフサイクル、その完結【増補版】』の第七章では、冒頭からトルンスタム教授の言葉が引用されており、どのアイデアが誰のオリジナルであるのかはなかなか掴みにくい。私が理解している範囲では、「エリクソンの第9段階尺度」と呼んでも「トルンスタムの老年的超越尺度」と呼んでも変わりないように思える。

 前置きが長くなったが、今回の話題提供では、この尺度の日本版を1655人の高齢者(東京在住、60-98歳)に実施した結果が報告された。種々の分析によれば、「内的一貫性は低い」、「尺度自体の説明率も低い」という結果となり、どうやら日本の東京在住の高齢者に関しては、当該の尺度はうまくフィットしないというような結論が示された。

 そこで次に、SPSS大規模ファイルのクラスター分析(k-means法)で反応パターンの分類が行われた。要するに、日本の高齢者には、一律に「老年的超越」に至るのではなく、複数種類の適応型があるという分析に移行する。結果としては、「現世的ロッキングチェア型」、「平均型」、「離脱的内罰型」、「現世的円熟型」、「離脱的防衛型」、そして、もともとの話題の「老年的超越型(離脱的円熟型)」という6つのクラスターが見出された。なお、これらの名称は、「老いの受容」、「生きる希望」、「現世離脱」という3つの軸において、プラス(肯定、受容、該当するといった意味)なのか、マイナス(否定、拒絶、該当しないといった意味)なのか、どちらとも言えないのか、という組み合わせに対して与えられた呼称である。

 しかし、最後の「老年的超越型(離脱的円熟型)」は全体の14.5%にしかすぎず、ごく少数にすぎないことが分かった。もっとも、その比率を60歳代、70歳代、80歳代で比較すると、それぞれ、14.8%、18.0%、23.3%というように出現率は有意に増加しており、少数派ながら存在していることは確認された。

 ここまででちょっとだけ感想を述べるが、上記の「現世的ロッキングチェア型」、「平均型」、「離脱的内罰型」、「現世的円熟型」、「離脱的防衛型」、「老年的超越型(離脱的円熟型)」は、実態の分類であって、どれが理想型であるというものでもない。また、歳をとった時に、自らの意志でどれかを好き勝手に選べるというものでもあるまい。次回以降にもうすこし詳しく言及するが、こうしたパターンは、自らの健康状態、家族の有無と支援形態、住まいの周りの環境(今回は東京)によっても大きく左右される。横断的な比較よりはむしろ、個人内での縦断的な変化を追うということのほうが価値の高い情報を引き出せるのではないかという気もした。

【思ったこと】
_81017(金)[心理]日本心理学会第72回大会(21)超高齢者研究の現在(13)虚弱の定義の多様性

 話題提供の後半では、虚弱(Frailty)の定義の多様性について言及があった。

 じっさい、ランダムハウス英語辞典で「frailty」を調べると、
  • もろさ、はかなさ、弱さ
  • 性格の弱さ、誘惑に陥りやすいこと、意志薄弱
  • (性格的弱さから生じる)短所、弱点、欠陥
とうような意味が記されており、また、『新明解』では「虚弱」は「からだが弱くて病気がちの様子」とされている。しかし、高齢者や超高齢者は虚弱になっていくと言っても、上記のすべてが進行していくわけではない。

 話題提供者によれば、虚弱は大きく分けて、依存性(dependency)に基づく定義と、ぜい弱性に基づく定義、さらに病気の状態に基づく定義があるという。このうち前者はさらに、ADL(日常生活動作)に問題があるレベルと、IADL(道具的日常活動動作)に問題があるレベルに分かれる。例えば、歩く機能自体は満点だが、交通機関を利用できないという場合はIADLは低く評価される。今回の話題提供では、「ADLに問題はないが、IADLに問題があるレベルと虚弱とする」という定義が重視された。この定義に基づく調査では、老年的超越と虚弱との有意な関連性は示されなかったという。

 ネットでも種々解説されているように、道具的日常活動動作(手段的日常生活動作)とは、バスに乗る、電話をかける、掃除をする、などを含むものである。行動分析学であてはめれば、オペランダムへの操作を含むオペラント行動と考えることができるだろう。歩く、見る、聴くといったオペラント行動に比べると、刺激弁別、反応分化などが関与し、難易度の高いスキルが要求されることもある。但し、第三者からの適切なサポートがあれば引き続き行動を維持できる。広義の「セラピー」や「療法」は、(医療効果目的ではなく)こうした領域での系統的なサポートを含むものであると見なすことができる。

【思ったこと】
_81018(土)[心理]日本心理学会第72回大会(22)超高齢者研究の現在(14)

 話題提供で示されたように、日本人を対象にした調査の結果、エリクソンやトルンスタムの「老年的超越」に相当する特性は日本人高齢者にも見られることが分かった。しかし、尺度自体はうまくフィットせず、また、日本人の高齢者全体の中では老年的超越者の比率はかなり少ないという意外な事実も判明した。この原因について、話題提供者の方は
  1. 宗教観の相違
  2. 自己意識の相違:自己や自意識の弱さ
  3. 集団と個の関係の相違:個人主義vs集団主義
という3点を挙げておられたが、うーむ、どうかなあ、調査自体がきわめて堅実で確実性の高いエビデンスを提供していたのに対して、上記の解釈のほうは、かなりあやふやという気がしてならない。

 まず、宗教観に関してだが、西洋一般の宗教観に比べると日本人高齢者一般の宗教観のほうが希薄で多様であるということは言えるかもしれない。もっとも日本人高齢者の中でも熱心なクリスチャンもいるし、毎日、仏教や神道それぞれの様式で宗教行為を行っているお年寄りも少なくない。どの信者の場合に老年的超越が多いのかといった詳細な分析を行わなければ、説得力をもたせるのは難しいように思う。それと、老年的超越自体は、キリスト教よりも仏教や神道の宗教観に近いところがあるようにも思える。であるならなぜ、西洋人よりも相対的にそれらの宗教の影響を受けやすいはずの日本人高齢者において老年的超越者の比率が少ないのかが新たな疑問となってくる。

 2.の「自意識の弱さ」や3.の「個人主義vs集団主義」については、むしろ、俗流心理学や、一部の心理学者が流布した考え方が無批判に流布され固定観念化している恐れもあるので、注意が必要である。

 よく言われることだが、個人間で競い合う格闘技が盛んで、旅行先ではすぐに自分の顔入りの写真を撮りたがる日本人のほうが自意識が高く、また個人主義的であるという説もある。昨年の日本心理学会71回大会でも、「日本人イコール集団主義」という固定観念に対して様々な角度から批判的検討がなされていた。とにかく、みんながああそうかと分かった気分になっているだけではダメで、慎重な分析が必要である。

【思ったこと】
_81019(日)[心理]日本心理学会第72回大会(23)超高齢者研究の現在(15)

 話題提供の最後のところでは、トレンスタムのオリジナルインタビューガイドを用いた半構造化面接の結果も紹介された。その中で、特に興味深く拝聴したのは、日本人高齢者に見られたという以下のような特徴的であった。
  • 依存の肯定:離脱と同時に他者への依存も強まる
  • 宇宙的意識についての違い:日本人高齢者がいだく「神秘性」は、「生の神秘性」に限定される
 以上、かなり長期間にわたって連載を続けてきたが、老年的超越について私自身が考えることは以下の通りである。
  • 老年的超越は、そもそも尺度で測れるのか?(あまりにも多様であると、尺度で数量化評価しても意味がないし、ごく少数の人の特殊なスタイルが見逃されてしまう恐れもある)。
  • 老年的超越は、高齢者の理想なのか、他にとる道が無いという流れの中での妥協と適応の産物なのか。
  • 老年的超越に達することができないうちに最期をむかえる高齢者の生きがいはどう考えていけばよいのか。


【思ったこと】
_81020(月)[心理]日本心理学会第72回大会(24)認知症の生と死を考える(1)

 今回から、大会2日目午後に行われた

認知症の生と死を考える

というシンポジウムについて、メモと感想を記すことにしたい。

 ダイバージョナルセラピーの活動をしていることもあって、認知症関係のシンポやワークショップにはできるだけ多く参加する計画を立てていたのだが、今回のこの企画は、日本心理学会のシンポとしては一風変わったところがあった。

 まず、話題提供者3氏が、いずれも医師あり、日本心理学会の会員ではない方ばかりであった。また、通常、シンポやワークショップというと、それぞれの領域の最先端の研究成果を紹介するという内容を期待するところであるが、今回の場合は、長年、認知症医療に携わって来られた方々の体験談が中心という印象が強かった。

 もっとも、企画者ご自身も言っておられたように、今回招聘された3氏は、認知症医療では相当に名が知られた方々ばかりであり、しかも、3氏が揃って話題提供される場というのは、おそらくこれが最初で最後ではないかという貴重な機会でもあった。エビデンスに基づく最先端情報はもちろん必要だが、しばしば、大会直前に慌てて二次情報を集めてパワーポイントにまとめ上げるといった発表も少なくない。今回のような、豊富なご経験に基づくお話はそう滅多に拝聴できるものではないし、言葉の1つ1つに実感が籠もっていて、知識を伝授されたというより、医療に取り組む姿勢に共感するといった印象の強い2時間であったと思う。

【思ったこと】
_81021(火)[心理]日本心理学会第72回大会(25)認知症の生と死を考える(2)アルツハイマーと「Auguste D」

 大会2日目午後に行われた

認知症の生と死を考える

というシンポジウムについてのメモと感想の2回目。このシンポでは3人の医師が話題提供をされたが、ここでは順不同で、お名前は記さずに、印象に残った点だけを述べさせていただく。

 このうち、最初の話題提供は、アルツハイマーについての入門的な解説であった。アルツハイマーが「Auguste D」という最初の症例を報告したのは1907年であり、今から101年前のことであるという。なお、話題提供では1907年となっていたが、ウィキペディアの当該項目で1906年となっていて1年早い。複数の学会で報告したのか、どちらかが単純なミスなのかは調べていない。

 ちなみに、「Auguste (Auguste Deter)」というのは、患者さんがいつも口にする言葉からそう呼ばれるようになったのであって、御本名ではないらしい。また現在では、患者さんの顔写真や経歴などは個人情報保護の観点からみてまず公開されることはあるまいが、この方の顔写真はウィキペディアの当該項目にも掲載されている。

 もう1つ、「Auguste D」は初診時51歳、その4年後(年齢としては56歳)に亡くなっているという。いっぽう、症例を報告したアロイス・アルツハイマー(Aloysius "Alois" Alzheimer)のほうは、ウィキペディアの当該項目では、1864年6月14日 - 1915年12月19日となっていて、51歳と6カ月余りでお亡くなりになった、アルツハイマーが亡くなった時の年齢は「Auguste D」の初診時の年齢と同一であり、アルツハイマーのほうが若くして亡くなられているというのは何とも空しい。

 それから、アルツハイマーの名を知らしめたのは、何と言ってもエミール・クレペリン(Emil Kraepelin、1856年2月15日 - 1926年10月7日)という精神医学者である。心理学をやっている者であれば真っ先に「内田クレペリン精神検査(クレペリン検査)」が頭に浮かぶが、ウィキペディアの当該項目にも記されているように、いちばんの業績は精神病を早発性痴呆(現在の統合失調症)と躁鬱病に分類し、近代精神医学の基礎を築いたことにある。

【思ったこと】
_81022(水)[心理]日本心理学会第72回大会(26)認知症の生と死を考える(3)

 複数の話題提供者が指摘されていたように、認知症は、「置き忘れ、喚語障害」、「複雑な仕事でのミス」、「新しい場所でのミス」といった軽度の段階から、「信号無視」、「着衣失行」、「トイレの水が流せない」といった中程度、さらに、「攻撃的行為」「理解できる単語が1つ」、「歩行障害」、「笑う能力喪失」、「混迷・昏睡」という重度の段階へと進行する。これらはおおむね4つの段階に区分され、軽度の2段階までのところでは、進行を遅らせたり、ある程度の回復が期待できるということであった。それゆえ、この段階でいかにして適切な対処をするのかが重要なカギとなる。

 その1つとして、当人の言動を頭ごなしに否定せず、当人の生活史の文脈のなかで適切に肯定することが進行を遅らせたという事例が紹介された。「夫が浮気している」ばかり口にする人がいる。客観的にみて浮気の事実が考えられなかったとしても、そのことを肯定することがプラスになる場合があるということであった。また、息子さんを失った女性の場合、息子を求めるという行為が、ゴミやティッシュを集めるという行為に置き換わる場合がある。その場合、願っているものが実現できないと重度化が早まってしまう。脳細胞は死んでいるのではなく機能低下しているだけであり、満足感と安心を与えることが第一というようなお話であった。

【思ったこと】
_81026(日)[心理]日本心理学会第72回大会(27)認知症の生と死を考える(4)

 このシンポのタイトルには「生と死」というように「死」という言葉が含まれており、どういう話題になるのか大いに関心があったが、実際に言及されたのは、「認知症の死」というよりも一般的な「死」についての内容が中心であった。

 その中で興味深く拝聴したのは、まず、「死」は一瞬ではなく、徐々に進行する経過であるというお話であった。例えば、医師がご臨終ですと宣言しても、聴覚機能は少し後まで残るという。「遺体」に向かって感謝の言葉を述べたり、故人の好きな音楽を流すというのは、決してムダではなさそうだ。

 このほか、「死にたい」願望は、実は「生きたい」であるとか、ダーウィンがミミズの研究をしたことを引用して生き物としての視点を考えるというようなお話、英語の「life」は、命という意味のほかに「生活」という意味を含むことなど、長年医療に携わって来られた方からの重みのあるお言葉をいただいた。

【思ったこと】
_81027(月)[心理]日本心理学会第72回大会(28)認知症の生と死を考える(5) 認知症にならないための4つの秘訣?

 シンポジウムの終わりのほうで、認知症にかからないための4つの秘訣というようなものが披露された。これは、何かのエビデンスに基づくというよりも、この方面の医療に携わって来られた医師の長年の経験に基づく知恵に近いものであった。あくまで私が聞き取った範囲で不正確かもしれないが、その4つとは、
  1. 志をもって努力する姿勢
  2. よき友人
  3. 0〜3歳の時の育てられ方
  4. よき配偶者。やさしさ、海のように
ということであった。

 このうち1.はその通りだとは思ったが、うーむ、2.から4.については、自分の力ではどうにもならないという気がしないでもない。

 2.については、よき友人に恵まれるならそれにこしたことはないが、長生きするにつれてそれだけ離別の悲しみを重ねることになる。

 3.に関しては、例えば、「1、2、3、...」というように増えていく時の数え方を教えるのではなく、1つのものを2人や3人で分け合う心を教えることが大切というようなお話をされていたが、うーむ、その意味は分かるとしても、大人になってしまった後では、過去の幼少時の育てられ方を変えることはできない。

 4.も同様であり、これから結婚するならともかく、すでに目の前に配偶者が存在している状態で、海のようなやさしさを求めても限界があるだろう。

 以上、2日目夕刻に行われたシンポジウムについての感想を終わらせていただく。10月20日の日記にも述べたように、今回のこの企画は、日本心理学会のシンポとしては一風変わったところがあった。豊富なご経験に基づくお話はそう滅多に拝聴できるものではないし、言葉の1つ1つに実感が籠もっていて、知識を伝授されたというより、医療に取り組む姿勢に共感するといった印象の強い2時間であった。
【思ったこと】
_81028(火)[心理]日本心理学会第72回大会(29)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(1)

 今回より、大会2日目に行われた、
S10 well-beingを目指す社会心理学の役割と課題 20日 13:00〜15:00

企画者 大阪大学 大坊 郁夫
司会者 大阪大学 大坊 郁夫
話題提供者 東洋大学 安藤 清志
話題提供者 岩手大学 堀毛 一也
話題提供者 東京学芸大学 相川 充 #
指定討論者 東北学院大学 大竹 恵子
指定討論者 大阪大学 大坊 郁夫
について感想を述べさせていただくことにしたい。なお、学会年次大会に関する連載では、個人発表の場合は原則として発表者名を記さず一般的な感想を述べるにとどめ、ワークショップ、シンポジウム、講演は、すでにその内容が広く公開されているという趣旨で、話題提供者や講演者のお名前をそのまま引用させていただくこととにしている。但し、昨日まで取り上げてきた「認知症の生と死を考える」の連載は、話題提供者が全員、日本心理学会の非会員であられたので、あえてお名前は記さなかった。またそれよりもう1つ前に取り上げた超高齢者研究の現在というワークショップは、話題提供者間に共通の話題があったので、一般的な感想を述べる場合には、どの方の話題提供なのかをいちいち記さなかった部分がある。以上、改めてお断りしておく。

 さて、今回のシンポであるが、じつはこれと同じようなテーマの企画は、2005年9月11日午後の日本心理学会第69回大会で拝聴したことがあった。

菅原健介氏:羞恥心と対人不安
安藤清志氏:航空機事故遺族のWell-being
大坊郁夫氏:社会的スキルの向上を目指す
但し、前回の企画は、研究成果を発表するためのシンポではなく、認定心理士会の研修プログラムとして企画されたものであった。また、安藤氏と大坊氏による話題提供は前回と共通性があったが、他の方々は今回が初めて。もっとも、大竹氏のお話は、以前、ポジティブ心理学の企画のほうで拝聴したことがあった。

 余談だが、上記の2005年9月11日の研修企画は、毎年行われる、おびただしい数の諸企画の中でも、特に鮮明に記憶に残る内容であった。というのは当日、会場の慶應大学三田キャンパスは激しい雷雨に見舞われ、なっなんと、落雷・停電で会場のマイクが使えなくなるというハプニングがあったためである(2005年9月11日の日記参照)。今回は、昼下がりの晴天、すがすがしい風が吹き込む中でご発表を拝聴することができた。

【思ったこと】
_81029(水)[心理]日本心理学会第72回大会(30)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(2)


 シンポではまず、企画者の大坊氏が、企画趣旨説明をされた。まず、Well-beingに関係があるということで、複数の企業のネット記事が紹介された。ネットで検索するというどういう記事が出てくるかという趣旨ではなかったかと思うが、だいぶ昔の御講演であったため、定かではない。具体的には社名に「Wellbieing」を冠した会社と、こちらの薬草会社であった。

 次に、well-beingの位置づけについて、well-beingは人々の願いであり、いつの時代でもその実現をめざそうとしてきたが、それぞれの時代の社会制度によって制約を受け、さらに近代になっても、便利さや物質的な豊かさを希求してきたことが必ずしもwell-beingには直結していないとい現状が指摘された。今回は、特に、個々人の求めるwell-beingと、その個人が属する社会との関係を社会心理学的研究をベースにさまざまな角度からアプローチするという意図のもとで企画されたものであるということであった。

 以上拝聴した限りでは、「well-being」の概念は、欧米の個人本位の人間観に重きを置いているのかなあという印象があったが、実際の話題提供は、日本人を対象としているとうこともあって、当然、日本的な見方にも言及されていた。

 プログラムでは、話題提供は、安藤氏→堀毛氏→相川氏の順に記されていたが、実際は、堀毛氏→相川氏→安藤氏の順であった。以下、その実際の順番で感想を述べさせていただく。

【思ったこと】
_81031(金)[心理]日本心理学会第72回大会(31)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(3)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(1)

 シンポではまず、堀毛氏による

Well-Beingを目指す社会心理学の役割と課題〜コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求〜

という、副題に少々難しい言葉が含まれる話題提供があった。

 堀毛氏は、まず、ご研究の背景として、メインストリームとなる伝統的な特性論について言及された。主な論点は、特性の相違が個人差につながること、生涯発達的、通状況的に機能するような特性を同定することの是非についてであった。




 ここで少々脱線するが、特性論については、2006年に書いた総説(こちら)で、Vyseの

Vyse, S. (2004). Stability over time: Is behavior analysis a trait psychology? The Behavior Analyst, 27, 43-53.

という論文に言及したことがあった。この「trait psychology」は、今回話題提供で言及されている特性論とほぼ同じ意味といってよいだろう。中長期的にある程度一貫しちて状況の違いの影響をあまり受けないような行動傾向は、一般にその人の特性であると考えられる。但し、そういう一貫性が個人に属する特性なのか、それとも、その人の周りの環境や強化機能が安定しているからなのかは、直ちには判断できない。複数の人々が、同じ環境に置かれて違うことをした時には、「性格が違うからだ」などと解釈されがちであるが、そもそもそれらの人が同じ環境に置かれているのかどうかは疑わしい。それぞれの人が置かれているのは、「同じ」と見える全体環境の中の部分集合としての環境にすぎず、その部分集合に違いがあれば、違う行動をするのは当然である。しかしそれはそれらの人たちの特性の違いではなく、部分集合としての環境の違いに起因しているかもしれない。また、例えば政治家が一貫した行動をとろうとするのは、その政治家個人が首尾一貫という特性をもっているからではなく、一貫した行動をとらないと支持が得られず、かつ一貫した行動を示すという行動が強化され続けているからであるとも解釈できる。




 元の話題に戻るが、堀毛氏は、特性論的理解への批判として、Mischel(1968)を代表とする人間−状況論争(1968〜1990年代)について言及された。なお、このMischelの著書は、

Mischel,W. 詫摩武俊監訳:Personality and Assessment.Wiley,1968. パーソナリティの理論〜状況主義的アプローチ,誠信書房,1993

として刊行されているが、Amazonの情報では、「この本は現在お取り扱いできません。」と表示されていた。なお、その本の翻訳にも携わっておられた渡邊芳之氏の関連論文がこちらから閲覧可能である。

【思ったこと】
_81101(土)[心理]日本心理学会第72回大会(32)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(4)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(2)認知-感情パーソナリティ・システムモデル

 昨日の続き。昨日も述べたように、特性論的理解は、Mischel(1968)を代表とする人間−状況論争(1968〜1990年代)により批判を受けることになる。その後、Mischel & Morf(2003)らによってなされた論点をまとめると以下のようになる(当日配付資料から要約引用)。
  1. 現実場面への適用性、予測性が低い。
  2. 特性は行動パターンから推測されたものなので、説明変数には使えない
  3. 人と状況の相互作用やそこでみられるパターンこそ探求すべき
  4. パターンの特徴をもたらす認知、感情、動機過程の追求を研究目標とすべき
 なおこれらの議論については、昨日もリンクした渡邊芳之氏の論文をご参照いただきたい。なお渡邊芳之氏の最新の情報はこちらにあり。




 さて、上にも述べた経緯から、人間の行動傾向を「特性」あるいは「性格」として固定的に捉えることには大きな問題があることは疑いの余地が無いように思う。しかし、仮に、ある人の行動が状況により変わるといっても、「変わり方」自体にはそれなりの一貫性がありそうなことは経験的に推測できる。配付資料にもあったが、例えば、Aさんは親や先生から助言を受ける場合にはすんなり受け入れるが、友人やきょうだいから助言を受けるとイライラするという傾向を持つとする。いっぽうBさんは、友人やきょうだいからの助言ならOKだが、親や先生からの助言を受けるとイライラする。この場合、AさんとBさんで、イライラの頻度は同程度であるので、従来の特性論では区別がつかないが、状況を設定して「if-then」という記述をすると、それぞれ一貫した行動傾向を示す可能性が出てくる。すなわち、パーソナリティというのは、その人のもつ関係性(プロダクション)とセットで考える必要があるというわけだ。

 この考え方はさらに、認知-感情システム理論(Mischel & Shoda, 1995:認知-感情パーソナリティ・システムモデルを略してCAPSモデルと呼ばれる)として発展した。そこでは、ある状況に遭遇した時、そこで特有な認知・感情が活性化される。そのパターンには、符号化、期待、感情、目標、行動スクリプトが含まれ、具体的な行動に結びついてゆくという(配付資料からの引用)。今回の話題提供の副題「コヒアラント(首尾一貫的、統合的)」というのは、こうしたシステムについての一貫性のことを意味しているのだという。

 以上の部分は概説的な導入であったが、私自身は、状況に応じた「変わり方」の一貫性というのは、単純な、「弁別刺激→行動→強化」の履歴と、複数の行動間が入れ子構造をなして相互に強化しあうという目的論的行動主義の発想で十分に説明できると考えている。もっともこれは、何が正しいかという問題ではなく、どういう見方をしたら、どれだけ予測や制御力が高まるかで判断していけばよいと思っている。

【思ったこと】
_81102(日)[心理]日本心理学会第72回大会(33)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(5)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(3)

 今回は少々脱線し、昨日の補足にとどめる。

 昨日も述べたように、従来の特性論理解では、人間の行動傾向を固定的に捉えすぎていたため、Mischel(1968)やMischel & Morf(2003)から、
  1. 現実場面への適用性、予測性が低い。
  2. 特性は行動パターンから推測されたものなので、説明変数には使えない
といった批判を受けた。しかし、状況を設定して「if-then」という記述をすると、それぞれ一貫した行動傾向を示す可能性が出てくる。この研究の方向の発展型の1つが、認知-感情システム理論(Mischel & Shoda, 1995:認知-感情パーソナリティ・システムモデルを略してCAPSモデルと呼ばれる)であるというように書いた。

 しかし、私の理解する限りでは、上記の批判のうちの1.の適用性、予測性の難点は当然改善されるとして(状況を設定したもとでの行動傾向なのだから予測性が高まって当然)、そのいっぽう「説明変数には使えない」という問題点は相変わらず残っているのではないかと思わざるを得ない。また、「状況を設定して「if-then」という記述をすると、それぞれ一貫した行動傾向を示す」と言うのは簡単だが、現実には、状況を同じように設定するというのはそう簡単にできることではない。現実の状況では常に、無限に近い要因が同時に作用しており、それが同じというのは、実は状況全体のうちの部分集合の同一性あるいは類似性に言及しているにすぎない可能性が高い。また、異なる2人においては、そもそも同じ状況なるものが存在するのかどうかさえ疑わしい。私の授業では毎年度、
行動の個体差は必ずしも性格の違いだけに帰するものではない。「同じ」環境にいる3人が異なる行動をすると性格の差であるように見られてしまうが、実際は、「同じ」環境の中の、それぞれの部分集合に関わっているだけであり、部分集合の違いが異なる行動を生みだしているという可能性も大きい。
ということを図解つきで論じているところであるが、前回の「親や先生から助言を受ける場合」や「友人やきょうだいから助言を受ける場合」にしたところで、AさんとBさんで全く同一の「状況」を設定することは不可能である。

 心理学の実験・調査では、こういう時しばしば、場面想定法という形で、仮想の「同一場面」を設定しようとするが、いくら言語的教示を構成する文字列が同一であるからと言って、回答者たちが想定する「場面」はあくまでオリジナルであって、おそらく個々人に固有の状況がくっついて想定されてしまう。であるからして、仮想の場面に対してAさんとBさんが異なる回答をしたからといって、直ちに「同一場面で異なる行動傾向を示した」という証拠にはならない。これは現実の場面で行動観察をしても同様である。現実の場面が客観的に同一であっても、AさんとBさんが関与している空間はその中の部分集合にすぎないからである。AさんとBさんが同じ部屋に居て大地震に見舞われた時、Aさんは机の下に隠れ、いっぽうBさんは食器棚が倒れないようにとそれを支えたとする。この2人の行動の違いは特性あるいは性格の違いのように見えてしまうけれど(しかも、状況を設定して「if-then」で記述されている)、じっさいは、Bさんだけが大切にしていた食器が食器棚の中にあり、これを守るために食器棚を支えたのかもしれない。つまり、見かけ上2人は「同じ部屋」という同一場面には居たが、関与(関心)空間という部分集合に「食器棚の中の食器」が含まれていたかどうかは2人において同一ではなかったのである。

【思ったこと】
_81104(火)[心理]日本心理学会第72回大会(34)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(6)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(4)主観的充実感

 一昨日の続き。表記の話題提供では、認知-感情システム理論に続いて、主観的充実感(Subjective Well-Being、以下SWBと略す)の概念についての説明があった。余談だが、この話題提供は、パワーポイントのスライド枚数が48枚にも及ぶほどの盛りだくさんであり、御講演に1時間半、質疑に30分くらいをとってじっくりと拝聴させていただきたい内容であった(実際は、シンポ全体で、話題提供者3名、指定討論者2名、合計120分というすし詰め状態)。そのような時間的制約もあり、お話を伺っている最中には、認知-感情システム理論からなぜSWBに発展するのかということがよく理解できなかった。配付資料をもとに私なりに考えてみるに、まずSWBには
  • 感情的充実感(Emotional Well-Being、EWB)
  • 心理的充実感(Psychological Well-Being、PWB)
  • 社会的充実感(Social Well-Being、SoWB)
という3つの側面がある。過去においてとりわけ落ち込むような出来事を体験していないことに加えて、上記3つの側面のいずれにおいても高いWBを示すことが、元気感(flourishing)につながるというような考えがある。そして、SWBの規定因には個人に特有のパターンがあり(個人クラスタ?)、そこには(おそらく)一貫性がある。またPWBは「場面×関係性充実感」によって異なる。これらの点が、認知-感情システム理論に合致するということであろうと理解した。但し、この方面の諸説を精査したわけではないので、ここではあくまで「暫定的な理解」としておきたい。

 さて、元のSWBの話題に戻るが、SWBは「人々が自分の人生をどのように評価するか」に依存する(Diener, et.al., 1993)。そこには2つの原点があり、その1つは、Hedonic aspectと呼ばれる。これには幸福感、満足感、ポジティブ感情の高さ、ネガティブ感情の低さ、Hedonic balanceが含まれるという【配付資料からの引用】。もう1つの原点は、Eudaimonic aspectと呼ばれる。こちらは認知的、理性的成熟を反映し、目的や成長などが関係してくるようである。なお、私は拝聴できなかったが、昨年の日本心理学会71回大会で

eudaimonic, hedonic well-beingについての社会心理学的検討
講演者 大阪大学 上出 寛子
司会者 大阪大学 大坊 郁夫

という小講演があり、抄録には、
... よい人生については古くから様々な分野で研究されている。従来の研究を概観すると,よい人生は,苦労や努力から培われる意義(eudaimonic well-being)と,快楽や満足感などの幸福(hedonic well-being)の二側面から捉えられている。 ...
というように紹介されていた。この小講演をなぜ拝聴できなかったのかと思って過去記録を参照してみたところ、この時間帯は、「心理職の国資格化の最近の動向とゆくへ」という別の企画を聴きに行っていたことが分かった。

 SWBの原点の1つである幸福感・人生満足感はさまざまな要因によって規定されるが、数量的に分析すると、比較的低い相関を示す要因から高い相関を示す要因までいろいろあるという。ちなみに、今回引用されたのは、Peterson(2006)という文献であったようだが、そこでは、
  • 比較的低い相関を示す要因(0.0〜0.20程度):年齢、教育、知能など
  • 中程度の相関を示す要因(0.30前後):友人の数、既婚かどうか、信仰の有無、身体的健康など
  • 高い相関(.50以上):感謝の気持ちをもつ、楽観性、雇用、性交渉の頻度、ポジティブ感情体験の割合、自尊心
となっていて、「性交渉の頻度」が高い相関を示している点などはまさに、Hedonic aspectという感じがする。もっとも、こういう相関というのは、それこそ人によってマチマチであり、例えば、既婚者と独身者では幸福感・人生満足感が質的に異なるかもしれないし、また、信仰のある人と無い人でもおそらく中味が異なる。それゆえ、あらゆる人をひっくるめて数量的に分析すれば、幸福感・人生満足感の中味が多様であればあるほど相関は出にくくなり、結果的に、最大公約数の大きい要因だけが高い相関を示すことになりかねない。ま、最大多数の幸福を追求するのであればそれでもよいだろうが...。

【思ったこと】
_81106(木)[心理]日本心理学会第72回大会(35)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(7)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(5)主観的確率判断と主観的充実感の共通性?

 一昨日の日記のメモにあるように、SWBには、感情的充実感(EWB)、心理的充実感(PWB) 、社会的充実感(SoWB)があり、また、「eudaimonic well-being」と「hedonic well-being」という2つの原点を持っている。しかし、これらは混交しており、十分に整理されているとは言えない。このことに関しては、Kahnemann, et.al (1999)が関連概念レベルを整理し、統合的な視点を提供しているとのことであった。

 このうち、Kahneman, et.al (1999)というのは、どうやら書籍であるようで、残念ながら私のところでは閲覧できる状態にない。生協の書籍注文検索で調べたところ、
ISBN 9780871544230
タイトル Well-Being: Foundations of Hedonic Psychology
著者 Kahneman, Daniel
Diener, Edward
Schwarz, Norbert
出版社 Russell Sage Foundation Publications 出版年月 2003/02
というペーパーバックが出ていたのでさっそく注文しておいた。

 なお、私自身にとっては、Daniel Kahnemanというと、真っ先に浮かぶのがAmos Tverskyとの共著論文などで知られる主観的確率判断や「Heuristics and Biases」に関する研究であり、またノーベル経済学賞受賞者という栄誉である。ウィキペディアの当該項目を調べたところ、
単著
Attention and Effort, (Prentice-Hall, 1973).

共編著
Judgment under Uncertainty: Heuristics and Biases, co-edited with Paul Slovic and Amos Tversky, (Cambridge University Press, 1982).
Well-being: the Fundations of Hdonic Pychology, co-edited with Ed Diener and Norbert Schwarz, (Russell Sage Foundation, 1999).
Choices, Values, and Frames, co-edited with Amos Tversky, (Russell Sage Foundation, 2000).
Heuristics and Biases: the Psychology of Intuitive Judgment, co-edited with Thomas Gilovich and Dale Griffin, (Cambridge University Press, 2002).
というように、確率判断の本とWell-beingの本が並記されており、行動経済学の専門家がWell-beingに関わるというのはちょっと意外な気がする。もしや別人かとさえ思ったが、勉強不足のためよく分からない。ま、主観的確率判断の仕組みがそのまま主観的充実感につながるのは当然と言えば当然だが。

【思ったこと】
_81107(金)[心理]日本心理学会第72回大会(36)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(8)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(6)質問紙でどこまで分かるか?

 堀毛氏による話題提供では、主観的充実感についてご自身の手で調査・分析された結果についての紹介もあった。但し、その結果は、別の学会(2008年11月15〜16日)で発表後予定のものであり、今回はまだ予告というような内容であったので、ここではその内容についてのコメントは控えさせていただく。

 あくまで一般論になるが、私自身は、この種の研究を質問紙調査に依拠して行うことについては以前からかなり懐疑的な見方をしている。

 まず、充実感についていくつかの質問をすれば個人間で何らかの得点の差が出てくるとは思うが、それが主として「ポジティブな充実」の程度の差を反映したものなのか、「充実していないというネガティブな程度」を反映したものなのかを精査する必要があるだろう。一般論として、Well-Beingとか満足度についての量的な研究では、マイナス部分が大きく影響しやすく、実際に調べているのは、「Well-Beingではなくて、Ill-Being」であったり、「SatisfactionではなくてDissatisfaction」の程度の差であったりする可能性が大いにありうる。しかし、2003年2月15日の日記でも述べたように、阻害要因やマイナス要因を取り除いたというだけでその人がポジティブになるわけではない。このことについては、今回の指定討論者のお一人の大竹恵子も、ポジティブ心理学の立場から御指摘をしておられた。

 質問紙調査の2番目の問題点は、個々の質問の中で、ある「充実」対象についての短期的、長期的な評価、あるいは、そうした対象の充実が単発的に得られるのか、それとも長期的な連関や手段・目的、相互強化的な中で少しずつ増していくものであるのかという見極めがつけられるのかという点である。コヒアラント・アプローチというのはおそらくそういう長期的な連関について、いくつかのタイプがあることを明らかにしようとしているのであろうが、一般化、抽象化していけばしていくほど、生身の人間が具体的に関わっている内容が見えなくなってしまうようにも思える。

 例えば、人間植物関係学会や(まもなく第1回大会が開催される予定の)園芸療法学会などでは、植物と関わることによるWell-Beingについて具体的な課題が検討されることになるが、今回紹介されていたようなアプローチから、「こうすれば充実感が得られます」というような具体的なオススメ情報が出てくるのかどうかは不明である。

【思ったこと】
_81108(土)[心理]日本心理学会第72回大会(37)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(9)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(7)

 昨日の日記でも述べたが、堀毛氏ご自身のご研究紹介部分については、別の学会(2008年11月15〜16日)で発表後予定のものであり、今回はまだ予告というような内容であったので、ここでは詳細についての言及は避けておく。大枠としては、大学生とその両親・親族に対して、感情的充実感、心理的充実感、社会的充実感に関する質問項目を先行研究に基づいて選び出し、その結果について因子分析、さらに二次因子分析を行うというものであったと理解した。興味深いのは、感情的充実感については陽性と陰性の2因子(但し二次因子分析では一体化)でうまく収まったのに対し、心理的充実感と社会的充実感については尺度の見直しが必要であると示唆された点である。その原因としては、文化的相違(←外国の研究で用いられた項目を訳出していたため)のほか、社会的充実感については成人用と学生用の区別も必要であると示唆された点で、それだけSWBの個人差が大きいことを反映しているとも言える。昨日も述べたが、質問紙調査に基づく研究からはもちろんそれなりの成果も得られる反面、やはり、個々人ごとに具体的な行動の中味と相互の連関、中長期的なスパンにおける「入れ子」構造的な相互強化作用について調べていく必要があるように思う。




 堀毛氏による話題提供では次に、主観的充実感(Subjective Well-Being、SWB)の個人的予測因についてのお話があった。Compton(2005)を基に列挙された要因は以下のようなものであった(当日配付資料からの抜粋引用)。
  1. 自尊感情
  2. コントロール感
  3. 外向性(ポジティブな報酬への感受性は反応の強さ)
  4. 楽観性
  5. ポジティブな人間関係
  6. 人生の有意味感:信仰、目的意識、理解可能、対処可能、調和感覚
 原典にあたっていないので何とも言えないが、上に挙げた予測因?は一部重複しているようにも見える。また、上記で3.外向性と言っているのは、オペラント行動が十分に強化されている状態というようにも読み取れる。これは2.のコントロール感や6.の一部の対処可能にも影響してくるはずだ。

 さらにSWBの基盤にあるプロセスとして、報酬探求システムと罰回避システムがあるというお話があった(配付資料からの抜粋引用)
  • 報酬探求システム:外向性、BAS、促進焦点、学習目標、楽観性、ポジティブ・バイアス
  • 罰回避システム:神経症傾向、BIS、予防焦点、遂行目標、自尊心、ネガティブ・バイアス
 コヒアラント・アプローチでは上記のうちの特性レベルに相当する外向性、神経症傾向を除いた認知的・動機的変数のパスを検討することになる。

 ここでまた少々脱線するが、上掲の「報酬探求システム」と「罰回避システム」には、比喩的な意味での「ドーパミン型」の「ワクワク、ドキドキ」と「セロトニン型」の「落ち着き、ゆったり、癒し」が対応しているようにも思われる。但しこれらは個体差やパターンではなく、むしろ一人の人間の中でのバランスとして考えたほうが良さそうだ。ポジティブ、ネガティブという一次元上の違いではなく、直交軸として考えたほうがよい。この場合、「罰回避システム」というのはむしろ、「安全・安心・平穏」を志向するシステムということになる。

【思ったこと】
_81109(日)[心理]日本心理学会第72回大会(38)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(10)コヒアラント・アプローチによる主観的Well-Beingの個人差の探求(8)

 話題提供の後半では、クラスタ分析やパス解析に基づく様々な結果が紹介されていたが、私自身がこの方面の研究の流れを熟知していなかったことと、ご発表時間が限られていたこともあって、内容を十分に理解することはできなかった。

 そうした不十分な理解のなかでの感想であるが、ここで言われている「コヒアラント」とは、どうやら、
人間の行動傾向や充実感には、場面や関係性を超えた固定的な一貫性は見られない。よって、伝統的な特性論的理解はもはや破綻してしまっている。しかし、「if-then」型で条件付きで記述すれば、やはり、一貫性が認められる。
という観点を推し進めたものであり、例えば、Aさんが何人かの人たちと一緒にお酒を飲んでワイワイするという場合を考えた場合、
  • Aさんは、いつでもどこでもお酒を飲んで楽しむわけではない(←固定的な「社会的外向性」があるわけではない)。
  • Aさんは、長年つきあっている友人たちとお酒を飲む場合には充実感が得られるが、会社の同僚と飲む時はちっとも楽しくない(関係性)。
  • Aさんは、長年つきあっている友人たちとお酒を飲む場合には充実感が得られるが、同じ友人たちと観光旅行をしてもちっとも楽しくない(場面)。
というように、場面や関係性の影響による違いが明白である一方、同じ場面や関係性を設定すれば、そこでの充実感は安定しており一貫性が示される、という形で結論を導いていくことになりそうである。

 このことでふと思ったが、こうした捉え方では、充実感というのは、個々の場面や関係性の中で単独かつ断片的に発生し消失していくということになりはしないだろうか。しかし、ある長期的なスパンの中で人生を顧みたり、複数の行動の連関や相互作用として捉えてみた時には、より大きな充実感が得られるということもある。例えば「楽あれば苦あり、という起伏の多い人生こそが充実感を与える」と言った場合、「楽あれば苦」の中の「苦」は単独で評価すればどうみても充実感の得られる場面とは言い難い。いっぽう「楽」もその場面だけで楽しむのではなく、楽と苦のコントラストがあって初めて価値が出てくるというようにも見える。

 おそらく、いま例示したような見方は、「苦労や努力から培われる意義(eudaimonic well-being)」(11月4日の日記参照)を対象とした研究の中で重視されてくるのであろう。今後もこのあたりの文献を読んでいきたいと思っている。

【思ったこと】
_81110(月)[心理]日本心理学会第72回大会(39)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(9)Well-beingとソーシャルスキル(1)

 シンポジウムの2番目は、相川氏による、

well-beingとソーシャルスキルの関係をあきらかにするために

という話題提供であった。

 すでにシンポ開催日から50日余りが経ってしまって残念ながら詳細は思い出せなくなってしまったのだが、その概要としてはまず、
  • ラザラスらの心理学的ストレス・モデルの特徴:コーピングを重視
  • ライフイベントにおけるストレスを縦軸に、また脆弱性を横軸にとると、脆弱性が高いほど、病気になる可能性が高まる(病気になるストレス閾値が下がる)
  • ソーシャルスキルは脆弱性を規定する要因の1つ。
というような形で、ストレスとソーシャルスキルとの関係が論じられたと記憶している。

 心理学的ストレスモデルでは、ソーシャルスキルは
  • 潜在的ストレッサーである
  • コーピングの社会的資源であるソーシャルサポートを規定する
  • コーピングの実行を規定する
というような形で位置づけられており、重回帰分析・パス解析により検証されているということであった。



 ここで少々脱線するが、自分で言うのも何だが、私自身などははっきり言ってソーシャルスキルがゼロに等しい人間である。しかしそのことによってストレスが大きいとは思っていない。理由は単純であり、要するに、人と直接会う機会はできるだけ避け、懇親会などはすべて欠席し、もっぱら大自然(山、天体、植物、動物、昆虫)と関わることに喜びを見出している。会議での発言数は多いほうだが、これは要するに、対人関係に配慮せず言いたいことを言っているだけのこと。Web日記でも、特定の読者を想定していないので好き勝手なことを書いている。というように考えていくと、そもそもソーシャルスキルはすべての人間に絶対的に求められるものではないようにも思える。

 定年退職後ももっぱらコミュニティの中での交流や人的貢献に意欲を燃やす人がおられるが、その一方には、対人的な接触をできるだけ避け、自然とのふれ合いの中で静かな余生を過ごそうとしている人も居る。前者のタイプでは対人的なストレスは一生ついてまわるが、後者では無縁。そうは言っても、経済的な裏付けがあり、他者から自立できる状況になければ、後者の道を選ぶのは困難である。たいがいの人は集団に適応し協調的に行動していかないとやっていかれない。高齢者福祉施設に入居した場合もそういう側面があり、けっきょく一生ついてまわる。

【思ったこと】
_81111(火)[心理]日本心理学会第72回大会(40)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(10)Well-beingとソーシャルスキル(2)

 昨日も述べたように、ソーシャルスキルは少なくともストレスモデルの中では重要な位置を占めている。しかし、本題のwell-beingとはどういう関係にあるのだろうか。このことに関して、相川氏は、PsycINFOで「social skills」や「well-being」を文献検索した結果を紹介しておられた。査読付きジャーナルに限って言えば、これら2つのキーワードを共に含む文献は79件であって、「social skills」のみをキーワードとした時の3731件に比べるとかなり少ないことが分かる(1998年8月〜2008年7月)。また、それら2つを含む論文は、どちらかというと、精神障害、発達障害、青少年期の怒りのコントロールなど病院・臨床系に関するものが多いということであった。

 「social skills」と「Psychological well-being」を扱った論文としては、「Personality and Individual differences」誌に掲載されたSergin & Taylor(2007)があるという。その中では、Psychological well-beingとして、「Life satisfaction」、「Environmental masutery(←自分を取りまいている状況をどれだけコントロールできるか)」、「Self-efficacy」、「Hope」、「Happines in life」、「Quality of life」の6つが挙げられており(すべて質問紙で調査)、これらとソーシャルスキル(Riggio,1986のSocial Skills Inventory使用)、及び、Positive relationships with others(Ryffのscale使用)との関係が分析された。その結果、「social skills」は「Psychological well-being」を規定しており、Positive relationships with othersが両者を媒介していることが明らかになったという【配付資料からの要約引用】。




 上記の結果を少々乱暴な形で言い切ってしまえば、要するに、ソーシャルスキルに長けていて対人関係がうまくいっている人は、そうでない人に比べると心理的な充実感が高いということになるのだろう。もっともこれは、対人関係がうまく言っていないと「Psychological well-being」が損なわれるというネガティブな影響が反映しただけかもしれない。良好な対人関係が「Psychological well-being」を作り出すかどうかについては、一概には言えないように思われる。あくまでフィクションであるが、例えば、無人島で長期間にわたり単身生活をしていたロビンソンクルーソーであってもそれなりの「Psychological well-being」はあったはず。自分から隠遁生活を選ぶ人の場合であればなおさらであろう。そもそも隠遁生活を志向する人の「Psychological well-being」は「Life satisfaction」、「Environmental masutery」、「Self-efficacy」、「Hope」、「Happines in life」、「Quality of life」の6要素で測れるかどうかも疑わしく、測り方に妥当性が無ければエビデンスも得られないのが当然であるとも言える。

 話題提供者ご自身も言及しておられたが、これからの課題は、「なぜ、あることをするとwell-beingが達成できるのか」を明確にし、その過程に関与するソーシャルスキルを明確にするモデルづくりが求められる。

 このほか、相川氏は、第二の課題として、ソーシャルスキルには、直接効果(他者との良好な関係自体がwell-beingをもたらすという効果)と、間接効果(他者との良好な関係が第三者に影響を与え、その間接効果がwell-beingをもたらす)を挙げておられた。例えになるかどうかは分からないが、例えば、夫婦が仲が良いことは2人にとって直接的なwell-beingをもたらす。これが直接効果である。いっぽう、夫婦が仲が良いか悪いかは、同居する他の家族やご近所にも影響を及ぼす(←夫婦喧嘩が多いと家の中も殺伐とした雰囲気となり、ご近所からも敬遠される)。これが間接効果であろう。




 相川氏はさらに第三の課題として、ソーシャルスキルトレーニングは、認知、感情、行動の3側面を高めるために行うというような話をしておられた。配付資料から引用させていただくと、
  1. 認知的側面:サポート源としての他者認知/他者と関わることについての肯定的認知
  2. 感情的側面:他者の存在がもたらす肯定的感情の味わい方/共感の持ち方、示し方。
  3. 行動的側面:対人ストレスを減らし、肯定的結果を得る対人反応の獲得/サポート要請反応とサポート受容反応の獲得
 なお、9月30日の日記でも、ソーシャルスキルの話題について取り上げたことがある。ご参照いただければ幸いである。

【思ったこと】
_81112(水)[心理]日本心理学会第72回大会(41)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(11)航空機事故遺族の“well-being”(1)

 今回のシンポではもう1件、安藤清志氏による

航空機事故遺族の“well-being”

という話題提供があった。航空機事故は、あってはならないことだが、万が一起こってしまった時の遺族の悲しみは想像に絶するものであろう。そういうレアな事態を心理学の立場から正確に把握し、また、御遺族の体験からできるだけ多くのことを学び、“well-being”を見つめ直すことは大いに意義があると思う。

 なお、安藤氏の御講演は2005年大会の話題提供(但し、認定心理士会の研修プログラムとして企画されたもの)でも拝聴したことがあり、その後のご発展の様子をうかがい知ることができた。

 ということもあって、まず、2005年大会の時のメモを再掲しておく。
この種の事故は、まず悲惨な破壊状況(当人の遺体の損傷、他の犠牲者の遺体まで)を目の当たりにするという点で衝撃が大きい。その光景やニオイは何年経っても忘れられることができないという。このほか、「喪失の多重性」(当人を失うほか、グループ旅行の場合は複数の知人を失ったり、一家の大黒柱という経済的基盤を喪失するなど)、「回避可能性の認知」(「こういうことがしっかりできていれば事故は防げたはず」といった怒り)、「裁判の長期化」、「死の意味づけの困難」など、病死や老衰と異なるさまざまな心理的苦痛が持続してしまう。それぞれにどう対処していくのかが課題となる。直後のサポート、さらには長期にわたる持続的なサポートが求められる。

 遺族の立ち直りにおいては「遺志の社会化」も重要。要するに故人が目指していたことを引き継いで実現させていくこと、そうすれば、その過程で故人も生き長らえることになる。また、トラウマ後のポジティブな面として、「生の意義の認識」や「人間的成長」を挙げる人もいたという。
 今回はさらに3年が経過したことになるが、2008年にすべての損害賠償裁判(中華航空、エアバス社)が終了したという点が大きな変化として挙げられる。これにより、裁判への影響を気兼ねせずに調査を進めたり結果を公開することができるようになってきた。また、事故発生の1994年以降15年近くに及ぶ長期の流れの中で、、一部の遺族においては、「トラウマ後の成長」や「社会の変容を目ざす活動」が見られ、このことがwell-beingに関連づけられるということであった。このほか、こうした遺族の回復・成長を支えるメディアの役割という観点から「ジャーナリストのストレス」についても言及があった。

【思ったこと】
_81113(木)[心理]日本心理学会第72回大会(42)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(12)航空機事故遺族の“well-being”(2)

 昨日に続いて

航空機事故遺族の“well-being”

という話題提供についてのメモと感想。

 航空機事故による突然の死別は、病気や自然死などによる死別とは区別され、一般に「暴力的死別」と呼ばれている。その特徴については2005年大会のメモにも記した通りであり、このことが遺族にとって多大な衝撃を与える。今回の話題提供では、そのことによってもたらされた精神的(不)健康度が4年後、8年後にどう変化したのかというデータが紹介された。測定にはGHQ-12が用いられ、また、事故遺族群と一般遺族群との比較が行われていた。グラフをざっと拝見した限りでは、事故遺族群のGHQ得点は一般遺族群よりも高く、また4年後→8年後でもあまり変化していないように見られた。但し、事故遺族群の得点は8年後のほうが若干減少、一般遺族群のほうは殆ど同じ(見た目には微増)となっている。

 さて、今回のテーマは“well-being”との関係にある。一般に「トラウマ後の成長」というのは、何か事件(=「激震事象」)が起こった場合に極端に落ち込んだ“well-being”水準が、一定のプロセスを経て、元の水準(そのような事件が起こらなかった場合に持続すると想定される水準)を超えるレベルまで上昇するようなことをいう。こういう成長の可能性のある人としては、事故遺族のほか、職務上関わった人(災害支援者、ジャーナリスト、ボランティア)、カウンセラーなどが挙げられる。この成長モデルとして今回は、Calhoun & Tedeschi(2006)の研究が紹介された。

【思ったこと】
_81116(日)[心理]日本心理学会第72回大会(43)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(13)航空機事故遺族の“well-being”(3)

 話題提供の後半では、事故遺族の方々と一般遺族の方々において死別後にどのような変化が起きるのか、4つの因子について比較された。ここでいう4つの因子とは
  1. 生の意義:生命の大切さ。居ることが当たり前だとは思わなくなる。他人を思いやる気持ち。人の死を無駄にしない。
  2. 人間的成長:自分がひとまわり大きくなったような気がした。困難に立ち向かっていけるようになった。
  3. 死へ関心:自分の死についてもっと考えるようになった。
  4. 意欲低下・人生不信:新しいことに取り組もうという意欲が低下。人間の醜さや邪悪さを感じるようになった。
であり、スライドのグラフでは、いずれも事故遺族群のほうが高いスコアを示しているようであったが、そもそも、この4因子がどういう研究から抽出されたものであったのか、結果についてどういう解釈をされていたのかは、拝聴してからすでに2カ月近く経っていることもあり、残念ながらすっかり失念してしまった。




 改めて上記の「4因子」について自分なりに考えてみるに、上記の「生の意義」、「人間的成長」、「死への関心」は必ずしも独立したものではなく、特に、生の意義について考えれば考えるほど、それを阻害し消滅させる死への関心も高まるような気がする。2.の「人間的成長」は主としてストレス対処力や、困難に立ち向かう力のことを言っているのだと思うが、これも「死への関心」と無関係ではなかろう。

 最後の「意欲低下・人生不信」は、もう少し詳しく引用すると、
  • 新しいことに取り組もうという意欲が弱まった。
  • 困難を乗りこえられるという気持ちがうすらいだ。
  • 他人を信用しようという気持ちが弱まった。
  • 人間の醜さや邪悪さを感じるようになった。
  • 世の中は理不尽だと感じるようになった。
  • 以前ほど努力や善行が意味あるものとは思えなくなった。
というような内容であったようだが、これらは全般に、2.の「人間的成長」の対極であって、少なくとも意味内容としては独立していないようにも思えた。

 余談だが、上記の「意欲低下・人生不信」は、重大な事故や死別を体験しなくても、老化とともに自然にその傾向が強くなってくるような気もする。私などは、まだまだ、新しいことに取り組む意欲は強いものの、「他人を信用しようという気持ちの弱まり」、「人間の醜さや邪悪さ」、「世の中は理不尽」といった「気持ち」は若い頃からずっと持ち続けており、今さら訊かれても「そんなの当たり前やないか。それがどうした?」と答えざるを得ないところがある。そう言えば、最近では、私のところには一晩で100通近いSPAMが送りつけられ、また、たまに研究室にかかってくる電話は大半がマンション勧誘である。また、世間一般では相変わらず振り込め詐欺や諸々のインチキな勧誘が多い。今の時代、「他人はもともと信用できないものであり、醜く邪悪。世の中はもともと理不尽であり、すべてを善意に受け取っていたらボロボロにされてしまう」をデフォルトとして世間に接していたほうがリスクが少ないようにさえ思える。残念なことではあるが。

【思ったこと】
_81117(月)[心理]日本心理学会第72回大会(44)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(14)航空機事故遺族の“well-being”(4)

 後半のほうでは、「死者のwell-being」と「次世代のwell-being」というお話があった。遺族にとって、死者はもはや生き返らないし、「死ぬ間際に苦しんだのか」とか「亡き人は良い人生を生きたのか」という問いかけに対しても肯定的な回答は得がたい。そこで一部の遺族では、「遺志の社会化」、つまり、遺された人が個人の「遺志」を推測し、継承し、何らかの社会的活動を行うことで、個人の生命を永続させようという機制(野田,1992)が働くというのである。

 このあたりのお話の内容については一部記憶が曖昧になってしまったので、私個人の考えがかなり混入してしまうことになるが、「遺志」には引き継げるタイプと、そのままの形では継承困難なタイプがあるように思える。

 まず、亡くなられた方がその個人特有の「夢」を描いていた場合には、それを引き継ぐことは現実にはできない。例えば、故人が「将来、一流のピアニストになるという夢を持っていた」場合、遺族が故人に代わってピアニストになることはできない。

 しかし、故人が愛用していたピアノを他の人に譲って活用してもらうとか、ピアニスト育成のための奨学金を創設するというような形で、ある部分は引き継ぐことが可能であろう。

 第二に、故人が外的な世界において何かを作ろうとしていた場合、例えば、建造物、団体組織、ある種の環境などの建設・結成・実現に取り組んでいた場合は、ある程度まで、遺志を実現させることは可能であろう。但し、故人のオリジナリティが重視される芸術作品の場合は、制作を続けるとかえって遺志を損ねる恐れがあるが。

 さて、話題提供では、いま私が挙げたような内容にはあまり言及さず、代わりに「負の遺産を遺さない」という形の活動のことが論じられていた。一般に世代継承では「価値のあるものを伝える」ことが主要なテーマであるが、「二度と同じような事故を起こさないで欲しい」とか「こんな悲しい思いは私だけでたくさん」というような言明も、ポジティブな継承の阻害要因を無くすという点では同じような意味をもつということらしい。

 話題提供では、トラウマ後の成長モデルとして、感情や認知の側面に加えて行動的側面も考慮すべきかもしてないということも論じられた。

【思ったこと】
_81118(火)[心理]日本心理学会第72回大会(45)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(15)航空機事故遺族の“well-being”(5)

 話題提供のいちばん終わりのほうでは、「ジャーナリストの(惨事)ストレス調査」についての簡単な報告があった。このことに関する研究プロジェクトがあり、その報告を兼ねていた模様である。
 今回取り上げられている航空機事故のほか、殺人事件、自然災害、鉄道事故などは、遺族ばかりでなく、それらの事故や事件を取材したジャーナリストにも多大な影響を及ぼす。このことについての事案の内訳、様子、体験した内容などが分類され比率として紹介された。但し、ジャーナリストにおいても「トラウマ後の成長」があるのかどうかについては、特に言及されなかったように思う。

 凄惨な事案に直面した時には、ジャーナリストのみならず、救急隊員、医療関係者、警察官なども相当のストレスを受けるはずである。そう言えば、昨日の毎日新聞記事で、JR福知山線脱線事故で多数のけが人が搬送された病院の看護師が「事故の惨事に直面して心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症した」として18日、国に労災認定を求める訴訟を神戸地裁に起こしたというニュースが伝えられた。訴状によると、女性は事故当時、重症患者らの処置に当たった。数日後から涙が止まらなくなり、過呼吸や抑うつなどの症状も出て、同年9月から休職。「事故を想起することで情動が不安定になり、大きな心理的影響を受けた」とPTSDの診断を受けたという。門外漢の私にはその重大さは推し量ることができないけれど、医療関係者という職業にあるからといって、重症患者を看ても平気だということにはならないだろう。まもなく始まるという裁判員制度でも、ふだん平穏な社会に暮らしている人が半ば強制的に裁判員に徴用されて凄惨な事件に直面させられるということになれば、おそらく相当程度のPTSDが発症するはずである。非常に気にかかるところだ。

【思ったこと】
_81119(水)[心理]日本心理学会第72回大会(46)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(16)ポジティブ心理学からの指定討論(1)

 3人の方々の話題提供に引き続き、大竹恵子氏から

Well-beingを目指す社会心理学の役割と課題〜指定討論〜

というタイトルの指定討論があった。

 大竹氏の指定討論は、昨年の71回大会でも拝聴したことがあるが、前回同様、各話題提供者の論点と疑問点を手際よくまとめられていた。学会のシンポではしばしば、指定討論者に任じられても、話題提供と全く無関係の持論のみを展開する人がおられるが(←私などもその部類かも)、大竹氏の指定討論は少なくとも前半部分において、それぞれの話題に即してなるほどと思わせるような御指摘をされた。指定討論の模範であると言ってよいだろう。大竹氏は、各話題提供に対して、
  1. 相川氏:ソーシャルスキルとWell-Beingの関係について、ストレス理論の枠組みでは説明できない要因・視点があるか?
  2. 堀毛氏:コヒアラント・アプローチで、場面や関係性以外の要因は考えられるか? 例えばポジティブ、ネガティブの次元など。
  3. 安藤氏:トラウマ経験後の成長が見られる人と見られない人の間には何か特徴や傾向の違いがあるのか?
というような質問をされていた。

 もっとも、質疑の時間が限られていたこともあり、各話題提供者のお答えを十分に拝聴することはできなかった。

 そこで私なりに、上記1.から3.について考えてみるに、まず、1.の相川氏に関するご質問については、やはりポジティブな面でのソーシャルスキルの役割が重要ではないかと思う。人的交流や社会参加の中で充実感を得ている人たちにとってはやはりソーシャルスキルは大切である。但し、私のようにソーシャルスキルが極端に欠落していて、人付き合いをできるだけ避けようとしている者であっても、山や植物や動物とのふれ合いの中にそれなりのWell-Beingを獲得することはできるが。

 2.の堀毛氏に関するご質問に関しては、場面や関係性はもちろん重要だが、その中で、行動がどのような随伴性によって強化されているのかを詳細に分析することが大切であろうと思う。要するに、場面とか関係性というのは静的なものではなく、当事者が外部関係に能動的に働きかけ、その直後の結果で強化・弱化(あるいは消去)される中で動的に変化していくものである。少なくとも私の立場から言えば、行動随伴性の内容を把握することなしに、場面や関係性だけでWell-Beingを論じることは不可能である。但し、そうした文脈を調べるためには質問紙調査では限界があり、やはり、対象者個人個人についての行動観察、記録、質的分析がどうしても必要になってくる。

 3.の「トラウマ経験後の成長」に限って言えば、ご遺族の個体差というよりも、亡くなられた状況や、亡くなった方のご遺志の差違も反映しているのではないかと思った。また、「人によって何か特徴や傾向の違いがあるのか?」という問いかけは、堀毛氏の話題提供にあった認知-感情システム理論の立場から言えば、すでに「敗退」した、古典的な特性論的理解を連想してしまう。

【思ったこと】
_81120(木)[心理]日本心理学会第72回大会(47)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(17)ポジティブ心理学からの指定討論(2)

 昨日の続き。

 大竹氏の指定討論の後半では、ポジティブ心理学についての言及があった。ポジティブ心理学に関しては、第70大会の認定心理士企画プログラム(但し、この時はその直後に別のイベントがあったため、Web日記に感想を記す余裕が無かった)や、71回大会のワークショップで、最新の話題を拝聴したことがあった。昨日の日記で
学会のシンポではしばしば、指定討論者に任じられても、話題提供と全く無関係の持論のみを展開する人がおられるが(←私などもその部類かも)、大竹氏の指定討論は少なくとも前半部分において、それぞれの話題に即してなるほどと思わせるような御指摘をされた。指定討論の模範であると言ってよいだろう。
と書いたところであったが、そう言えば、71回大会の時にも、
指定討論者は、「話題提供者の講演内容について、やや違った角度から意義や問題点を指摘したり、聴衆が共通していだくような質問を出して、シンポジウム全体を盛り上げる」という役目を果たすことにあると思っているところであるが、大竹氏はまさにその模範であり、聴衆にわかりやすいように各話題提供の要点をコンパクトにまとめ、いくつかの質問を提示しておられた。
と同じことを書いていたことに今日になって気づいた。




 さて、今回の指定討論では、まず、ポジティブ心理学について
...心理学は、本来、弱さや障害だけではなく、人間のポジティブな感情や優れた機能、状態、強さを研究する学問である。心理学の応用は、人間のもつ良いものに焦点をあて、育むことにも向けられるべき
という趣旨が紹介された。さらに、PsychoINFOの学術雑誌文献数を検索したところ、1998年のAPA講演でポジティブ心理学が提唱された頃から、ネガティブばかりでなく、ポジティブなemotion/affectを扱った学術文献も急激に増えているというグラフが紹介された。この増加は、文献総数の増加を上回るものであるように見えたが、ポジティブだけが特段に増えているというわけでもない。全般的にemotionやaffect、あるいはwell-beingを対象とした研究が増加したということを意味しているように思われる。

 次に、well-beingと同時に用いられるキーワードの頻度を検索したところ(2007年)、838文献のうち、いちばん多いのは「health」で790件、次いで「social」が730件となっていること、また、「psychological health」と「well-being」の文献数の増加はほぼ同じカーブを描いているが、「psychological health」に対する「well-being」の比率は、グラフから読み取った限りで4割程度であるというようなグラフも紹介された。




 大竹氏によれば、「well-being」には個人ごとの「Individual well-being」とは別に「Group well-being」がある。このことは2008年のPetersonのリビュー(Applied Psychology誌)の中で取り上げられた。そこでは、ポジティブ心理学の立場から「Morale」という要因が強調されており、これには社会心理学の研究が大きく寄与する。であればこそ、well-beingの概念、定義、測定方法の問題について再度問い直し、社会心理学だからこそという視点で研究を発展させてほしいというような御主張が展開された。

 すでにこの日記で何度か述べているように、私個人などは、定年退職後は、社会から少しずつ離脱し、自然を相手にしつつ、いかなる集団ともできるだけ関わりを持たないような世界の中で「個のwell-being」を高めたいと志向しているところである。しかし、世の中全般の中では、「Group well-being」はやはり大切であり、かくいう私なども、相当の資産家にでもならない限りは、他者との連携なくしては、個だけのwell-beingを支えることは不可能であろうとは思っている。

 なお、大竹氏は、well-beingの階段は1本ではなく、ネガティブからゼロの状態にはい上がる階段とは別に、ポジティブな階段というようなものがあるということを強調されていたが、正確な文言は忘れてしまった。

【思ったこと】
_81121(金)[心理]日本心理学会第72回大会(48)well-beingを目指す社会心理学の役割と課題(18)まとめ

 シンポの最後に、企画者・司会者でもある大坊郁夫からの指定討論があった。私自身のメモによれば、論点は、
  1. ミクロ・マクロのwell-being
  2. Well-beingを磨く
  3. 国民総幸福量(GNH、Gross National Happiness)との関連
ということであったようだが、なにぶん、シンポから2カ月も経過してしまったため、詳細な記憶は失われてしまった。

 このうち、1.のミクロ・マクロというのは、個人単位のwell-beingと社会全体との関係に関することであった。2.の「Well-beingを磨く」というのは、「自己の把握」、「基礎力(コミュニケーション・スキル)」、「対処力」、「調整力(柔軟さ)」をどう磨いていくのかということであった。3.のGNHには、「基本的な生活」、「文化の多様性」、「感情の豊かさ」、「健康」、「教育」、「時間の使い方」、「自然環境」、「コミュニティの活力」、「良い統治」などが含まれているというようなお話であったが、well-beingが重視されるようになってきたという意味だったか、別のことを主張されていたのか、残念ながら記憶に残っていない。いずれ、御著書などを通じて確かめさせていただこうと思っている。

 ということで、このシンポについての感想・メモを終わりにさせていただくが、今回のシンポや、他の学会・研究会で得たこと、各種文献を総合した上で、現段階で私自身が考えるwell-beingは、以下のような形で固まりつつある。
  1. まず、基本的な前提として、安全であること。安全が脅かされる状況のもとではいかなるwell-beingもあっさりと瓦解してしまう。もっとも残念ながら、我々は100%安全な状況を保つことができない。戦争、環境破壊、犯罪、食品安全、飢饉、事故、病気、さらには、昨今の金融危機のあおりをうけて、老後の安定した収入すら脅かされる状況にある。現実には、「安全であること」は絶対的前提ではなく、「できるだけそうあることが望ましい」程度の条件にせざるをえない。
  2. 何かにワクワクすること。これは、ドーパミン系の喜びである。但し、今回のシンポでも言及されていたように、その中味には、おそらく、「苦労や努力から培われる意義(eudaimonic well-being)」と、「快楽や満足感などの幸福(hedonic well-being)」という2つがある。前者の「ワクワク」は主として、主体的・能動的な関わりの中で実現される。直接体験が必要だが、映画やドラマなどを通じて「共感」する場合もありうる。
  3. セロトニン系の癒し。安心。安寧。不安の無い状態。上記の2.のようなワクワクだけでは人間はやっていけない。というか、人は皆いつかは死ぬわけで、死ぬ間際にはワクワクではなく、安らぎを得ることのほうが必要。

【思ったこと】
_81124(月)[心理]日本心理学会第72回大会(49)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(1)

 今回からは、大会3日目の午前中に行われた招待講演:

The ten dragons that threaten pro-environmental behavior (And how psychologists can help to slay them)
環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物 (そして心理学者はいかに怪物を退治できるか?)
21日 10:00〜12:00
講演者 University of Victoria Robert Gifford
司会者 北海道大学 大沼 進
抄訳者 日本大学 畑 倫子


について、メモと感想を述べさせていただく。

 さて、今回のギフォード・ビクトリア大学教授講演は、グローバルCOE「心の社会性」共済の一般公開プログラムであり、講演は英語で行われていたが、日本語の通訳もついていた。

 ギフォード氏というと、日本では、

『環境心理学 原理と実践』(上下巻)、2005年7月、北大路書房

という著書(教科書)で知られているが、残念ながら拝読していない。ギフォード氏はまた、Journal of Environmental Psychologyの編集長でもあり、APAの人口・環境部門と、国際応用心理学会・環境心理学部門の会長でもあり、世界各地で持続可能性と環境心理学に関する招待講演を行ってきたそうである。というような事前情報もあったので、かなり内容の濃い講演を拝聴できると思っていたのだが、期待が大きすぎたせいだろうか、内容はイマイチ、インパクトに欠けており、少々物足りない感じがした。環境心理学の大家であるという触れ込みが無かったとしたら、どこぞの著名な心理学者が、環境問題について思いつくままに10個ほどの課題を挙げてみたという程度に受け止めてしまったかもしれない。




 そもそも、この講演のタイトルからして、少々、納得できない部分があった。原題の「The ten dragons that threaten pro-environmental behavior」、あるいはその訳の「環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物」だが、これらはいずれも、環境配慮行動を妨げるような何らかの敵があり、その敵は倒さなければならず、それを打ち破ればよりよい環境が実現する、というような印象を与えてしまう。しかし、実際はどうだろうか。少なくとも私の立場から言えば、環境問題は、人間行動の原因となる種々の行動随伴性において、環境に悪い影響を及ぼすような行動随伴性の中に非常に優勢なものがあり(例えば、行動の直後に随伴したり、生得的な好子を伴うような場合)、環境を守ろうとする行動の強化を妨げていることに主要な原因がある。要するに、何かの敵を倒すのではなく、いかにして、環境配慮行動を適切に強化できるのかが課題なのである。

 それから、これは原語のニュアンス、あるいは翻訳技術上の問題なのかもしれないが、日本では「dragon」も「怪物」も絶対悪ではない。ドラゴンはむしろ強さの象徴でもあるし、「怪物」は傑出した人物という意味にも使える。将棋で相手のコマを取ると持ち駒として活用できることにも象徴されるように、日本では、「鬼」も「妖怪」も「怪獣」もみな人気者であって、外に排除するのではなく、内の世界で共存し、なんとかしてうまくやっていこうと対処していくのである。「環境配慮行動をおびやかす10匹の...」というタイトルは、どうも、そういう発想とは相容れないような気がしてしまうのであった。

 もう1つ、仮に「10匹の怪物」を「10の難題」と言い換えたとしても、その難題が、どういう調査に基づいて選定されたものなのか、10個がどのように連関し、全体としてどう取り組む必要があるのかが明示されなければ「思いつきの列挙」に終わってしまう。次回以降は、このあたりのことを考えていきたいと思う。

【思ったこと】
_81125(火)[心理]日本心理学会第72回大会(50)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(2)

 昨日の続き。

 講演ではまず、環境心理学の成立とその概要について紹介があった。環境心理学が公式に始まったのは1960年代であり、当初は、建築物や景観のデザインが主要な研究テーマであったようだが、すでにいくつかの環境保護に関する研究も行われていた。また、現在では、環境配慮行動、持続可能性、回復について、重点的な取り組みが行われているということであった。

 紹介されたトピックの中で興味深かったのは、「国際宇宙ステーションの入居後評価」、「ブリティッシュ・コロンビア州における大型野生動物と人間との葛藤」、「社会的規範を変えることで車の使用を減らす」、「質の悪い住宅が子どもたちに与える影響」などの研究である。詳細は聞き取ることができなかったが、社会的ジレンマの一般モデルというのも提唱されていた。

 最近の世界規模の経済危機の中で特に気になるのは上記のうちの「社会的規範を変えることで車の使用を減らす」という部分だろう。最近のニュース(11/17)の中で、オバマ米次期大統領が「このような(米経済の)状況下で自動車業界が完全に崩壊すれば大惨事になる」と述べ、自動車業界への支援は必要との認識を示した、というようなことが伝えられているが、今の資本主義社会の中ではおそらく、経済的にある程度ゆとりがある時は環境問題にも関心が向くが、せっぱ詰まってくると、例え地球上が温室効果ガスに満ちあふれたとしても、できるだけ多くの人が自動車を購入し、それを乗り回すことが善であるとみなされることになってしまいそう。産油国の大金持ちの中にも、同じような考えをもつ人が多いのではないだろうか。

 というようなこともあり、「社会的規範を変えることで車の使用を減らす」ということが、うまく軌道に乗るのかどうかはかなり疑問と言わざるを得ない。

【思ったこと】
_81127(木)[心理]日本心理学会第72回大会(51)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(3)


 11月24日の日記で、この講演のタイトルからして、少々、納得できない部分があったと書いたが、そもそも、「ten dragons(「10匹の怪物」と翻訳)という喩えはどういう発想に基づくものなのだろうか。

 講演レジュメに基づいてその経緯を辿ると【いずれも長谷川のほうで要約改変】、
  1. 気候の変化の一部は自然のものかもしれないが、人間の行動が関与したことは疑いが無い。
  2. 環境の問題は、Corporate(「組織」と訳されていたが、企業などのことを言っているようだ)によるもの(だけ)ではなく、個人も問題発生源である。
  3. しかし、我々は「すべきこと」を全てやっているわけではない。したほうがよいと知っているのにしないのはなぜか。要するに持続可能な選択は心理的な障壁によって阻まれている。それが10匹の怪物であり、これを退治すれば改善につながる。
というロジックによるものらしい。講演でも言及されたが、持続可能な社会のために我々が何をすべきかについては我々はみな何らかの知識を持ち合わせている。各種Webサイトでも、「地球を救う50のこと」とか「我々ができる51のこと」というようにいろいろな項目が挙げられているが、知識として「すべきこと」を持ち合わせていてもそれだけでは行動は起こらない。

 行動分析学的に言えば、これは間違いなく、「その行動が強化されていないからだ」ということになるのだが、徹底的行動主義者でないギフォード氏は、これに代わるどういう方策を提唱されているのであろうか。これが今回の御講演のポイントになるのではないかと思った。

【思ったこと】
_81130(日)[心理]日本心理学会第72回大会(52)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(4)

 前置きが長くなってしまったが、いよいよ怪物の登場である。今回、ギフォード氏が列挙した10匹は以下の通りであった。
  1. 不確実性(Uncertainty)
  2. 環境に対する無関心(Einvironmental Numbness)
  3. 行動統制感の欠如(Lack of Perceived Behavioral Control)
  4. 否認(Denial)
  5. 相容れない目標と願望(Conflicting Goals and Asperations)
  6. 社会的規範、公平さ、公正感が感じられないこと(Social Norms, Equity, and Felt Justice)
  7. 心理的反発(Reactance)
  8. コミュニティへのアイデンティティの欠如(Lack of Identification with Ones's Community)
  9. 見せかけばかりのまがい物(Tokenism)
  10. 習慣(Habit)
 この10匹の怪物を列挙された時の私の第一印象は、あまり良いものではなかった。11月24日の日記でも述べたように、そもそもどういう経緯で10匹が選ばれたのか、つまり
  • 環境に悪影響を及ぼすという重大性のTop10なのか
  • 我々が気軽に実践できそうな行動の「容易さ」のTop10なのか
  • 何かの調査の結果、選択比率が多かった項目のTop10なのか
  • 何かの統計解析の結果、これらが原因の変数として重要な意味を持っていることが判明したという意味なのか
ということがよく分からなかった。それゆえ、「環境心理学の大家であるという触れ込みが無かったとしたら、どこぞの著名な心理学者が、環境問題について思いつくままに10個ほどの課題を挙げてみたという程度に受け止めてしまったかもしれない。」という印象が大きかったのである。

 もっとも、これら10匹が列挙された後、「オンタリオ州における10匹の怪物」に関する調査結果が紹介されていた。それは、「気候の変化について何かできないかと思うけれども」ということについての自由記述回答と、「この環境活動にさらに積極的に関わることはしていない、なぜなら、...」という形で「非常に反対」から「非常に賛成」までの5件法による評定の平均値の紹介であり、「10匹の怪物」なるものがオンタリオ州でどのように受け止められているのかという実態は理解できた。

【思ったこと】
_81201(月)[心理]日本心理学会第72回大会(53)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(5)

 本日は、ギフォード氏が列挙した10匹の怪物:
  1. 不確実性(Uncertainty)
  2. 環境に対する無関心(Einvironmental Numbness)
  3. 行動統制感の欠如(Lack of Perceived Behavioral Control)
  4. 否認(Denial)
  5. 相容れない目標と願望(Conflicting Goals and Asperations)
  6. 社会的規範、公平さ、公正感が感じられないこと(Social Norms, Equity, and Felt Justice)
  7. 心理的反発(Reactance)
  8. コミュニティへのアイデンティティの欠如(Lack of Identification with Ones's Community)
  9. 見せかけばかりのまがい物(Tokenism)
  10. 習慣(Habit)
について、ごく簡単に感想を述べさせいただく。

 まず1.の「不確実性(Uncertainty)」というのは、温暖化を証拠づけるような気候変動のデータが不確かであるという意味であると理解した。これは、純粋に科学的な意味での立証と、われわれ一般人がそのような変動を実感するために必要な説得的な証拠に分けて考える必要があると思う。後者は必ずしも科学的な推論とは一致しない。例えば、猛暑や日照りや局地的豪雨があると、何となく最近の気候は変だということを実感する。もっとも、今年の秋のように、各地で、記録的に早い初雪や低温を観測することもある。肌で体験できる「温暖化」には、やはり限界があるだろう。むしろ、中期的な変化、例えば、世界各地の氷河の減衰・崩壊や、北極圏の氷の溶解などを視覚的に示すことは大いに効果があるだろう。また、単に、温暖化に伴う自然風景の激変を示すだけでなく、そこに暮らす人々や動物たちの困惑ぶりを伝えれば、より共感的理解が得られるはずだ。行動分析学の言葉で言えば、これは、「温暖化という嫌子に対する確立操作」を意味することになる。

 次に2.の「環境に対する無関心(Einvironmental Numbness)」については、何を強調されておられたのかイマイチよく分からなかった。一口に無関心と言っても、
  1. 自分との関わりが薄いことによる無関心
  2. 他の関心事と比べて優先順位が低いための相対的な無関心
  3. 現状に慣れきってしまったことによる無関心(例えば、ゴミが散らばっている環境で生まれ育った人はそれが当たり前となり、無頓着になる)
  4. 何をしても無駄ということからくる無関心
などさまざまのタイプが思い浮かぶ。それぞれに対する心理学的な対応は異なるはずであるし、一部は「10匹の怪物」のうちの別の怪物とも重複する。とにかく、「無関心が元凶である」とか「関心を高めましょう」というだけでは心理学にはならない。心理学の知見に根ざした、有効と思われる対策とセットで「怪物退治」を提唱しなければ意味がない。

【思ったこと】
_81202(火)[心理]日本心理学会第72回大会(54)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(6)

 昨日に引き続き、ギフォード氏が列挙した10匹の怪物:
  1. 不確実性(Uncertainty)
  2. 環境に対する無関心(Einvironmental Numbness)
  3. 行動統制感の欠如(Lack of Perceived Behavioral Control)
  4. 否認(Denial)
  5. 相容れない目標と願望(Conflicting Goals and Asperations)
  6. 社会的規範、公平さ、公正感が感じられないこと(Social Norms, Equity, and Felt Justice)
  7. 心理的反発(Reactance)
  8. コミュニティへのアイデンティティの欠如(Lack of Identification with Ones's Community)
  9. 見せかけばかりのまがい物(Tokenism)
  10. 習慣(Habit)
について、感想・意見を述べさせていただく。

 3.の「行動統制感の欠如(Lack of Perceived Behavioral Control)」というのは、何をやっても無駄だと思っている人に対して「やればできるんだという感覚を生み出す(Create a sense that "this job CAN be done")」という意味だそうだが、うーむ、感覚を生み出すとはどういうことだろうか。行動分析学の考えに基づくならば、「感覚を生み出す」のではなく、個々人の、ごくごく小さな環境配慮行動が生じた直後に、確実に強化するということが肝要である。と言っても、個人が環境全体をダイレクトに変化させる度合いはきわめて小さい。であるからこそ、人為的に、強化や弱化の随伴性を追加することが必要になってくるのである。いま推進されているエコ・アクション・ポイントなどはまさにその例である。時間が限られていたせいだろうか、ギフォード氏の講演の中では、このことに関して特筆すべきような提案はなされていなかったように思うが、とにかく、「感覚を生み出す」のではなく「具体的な行動を強化する」ことが大切であると私は考える。

 余談だが、12月2日朝の「モーサテ」で、(ホンモノの)馬を使って、部下への対処スキルを体験するというような、風変わりなリーダー研修を紹介していた。受講生たちは、初対面の馬がハードルを越えるように躾けることを求められるが、馬はなかなか言うことを聞いてくれない。しかし、最初はハードルを低くし、少しずつ高くしていけば、確実に乗り越えられるようになる。そこのスタッフは「レベルを下げることが重要ではない。大切なことは、低いレベルから初めて、できるということを実感させならが、少しずつ積み重ねていくことだ」というような話をしていた。このアイデアはそっくり、環境配慮行動にも当てはまると思う。もっとも、これって、行動分析学で定式化されているシェイピングや分化強化の手法と同じことになるんだがなあ。

 次に、4.の「否認(Denial)」とは、私の記憶している限りでは確か、地球温暖化等の指摘に否定的な考えがあり、これに打ち勝つことが重要であるという意味だったと思うが、メモをとっていなかったので真意は不明。

 5.の「相容れない目標と願望(Conflicting Goals and Asperations)」とは、「「前進する」ことと「環境にやさしい」ことは両立できることを示す」という意味であるという。前にも述べたが、100年に一度という経済危機の中にあって、先進各国は、自動車産業への金融支援に見られるように、なりふり構わず立て直しに奔走している。こういう中で、「環境にやさしい」技術がどこまで優先されるのかは心もとない。もっとも、日本に限って言えば、今こそ、地球環境を守る技術を主軸とした活性化が求められており、世界に向けて主導的役割を果たしていくことができるとも言えよう。

【思ったこと】
_81203(水)[心理]日本心理学会第72回大会(55)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(7)

 引き続き、ギフォード氏が列挙した10匹の怪物:
  1. 不確実性(Uncertainty)
  2. 環境に対する無関心(Einvironmental Numbness)
  3. 行動統制感の欠如(Lack of Perceived Behavioral Control)
  4. 否認(Denial)
  5. 相容れない目標と願望(Conflicting Goals and Asperations)
  6. 社会的規範、公平さ、公正感が感じられないこと(Social Norms, Equity, and Felt Justice)
  7. 心理的反発(Reactance)
  8. コミュニティへのアイデンティティの欠如(Lack of Identification with Ones's Community)
  9. 見せかけばかりのまがい物(Tokenism)
  10. 習慣(Habit)
について、感想と意見。

 6.の「社会的規範、公平さ、そして公正感が感じられないこと(Social Norms, Equity, and Felt Justice)」についても、一般論として言っているのか、環境配慮行動に特徴的な問題があるのか、よく分からないところがあった。趣旨としては、「正しいことをする」ことがイコール「普段通りのこと」になっていないという問題点であったようだ。

 例によって少々脱線して、一般論として感想を述べるが、今の世の中では、モラル、信頼、思いやりを学校教育だけに頼って身につけさせていくということは非常に困難であると思う。仮に道徳の時間に最高点を取ったとしても、その優等生が社会に出て道徳的に振るまい、他者を思いやることになるという保証は全くない。

 その一因は、現代社会において、他者を騙して金を儲けようとする人たち(=振り込め詐欺、ネット上の詐欺)、他者に配慮せず自己の利益のみを追求しようとする人たち(=SPAMメイル発信者、空売りなどの種々のテクニックを使って株取引、外国為替、商品先物などで儲けようとしている人)が明らかに存在し、それらから身を守らなければ生きて行かれないということにあると思う。実際、私のアドレスに送信されてくるメイルなどを見ても、95%以上は傍若無人な迷惑メイルである(←実際には自動削除しているので迷惑ではないメイルも含まれているかもしれないが)。また、時たま、SPAM排除フィルターをくぐり抜けて受信されるメイルもあり、私のアドレスを詐称して送りつけてくるものもある。こういうヤツらはどうみても悪人であり詐欺師、ペテン師である。また、人格高邁と評されている人であっても、路上で歩行喫煙したり、車の窓から吸い殻を平気でポイ捨てすることがある。こういう状況に日常的に接していると、「社会的規範、公平さ、そして公正感が感じられないこと」など当たり前ではないかという気もしてくる。

 じゃあ、世の中はそんなに悲観的なものなのかということになるが、行動分析学的な発想に立てば、もう少し違った見方もできないわけでもない。要するに、世の中には善人も悪人も居ない。すべての(オペラント)行動は、何らかの行動随伴性によって強化、弱化されているのである。SPAMメイルも吸い殻ポイ捨てが無くすためには、それを強化している行動随伴性を排除するか、もしくは、それらの行動を撲滅するための弱化の随伴性を設定しなければならない。もっとも、この考え方に立てば、冒頭の「社会的規範、公平さ、そして公正感が感じられないこと」というのは不正確で改善困難な言明にすぎず、これを具体的で実現可能な状態に引き写すためには、「社会的規範、公平さ、そして公正を維持するための新たな行動随伴性」を追求していくほかはないということになる。

【思ったこと】
_81204(木)[心理]日本心理学会第72回大会(56)環境配慮行動をおびやかす10匹の怪物(8)

 引き続き、ギフォード氏が列挙した10匹の怪物:
  1. 不確実性(Uncertainty)
  2. 環境に対する無関心(Einvironmental Numbness)
  3. 行動統制感の欠如(Lack of Perceived Behavioral Control)
  4. 否認(Denial)
  5. 相容れない目標と願望(Conflicting Goals and Asperations)
  6. 社会的規範、公平さ、公正感が感じられないこと(Social Norms, Equity, and Felt Justice)
  7. 心理的反発(Reactance)
  8. コミュニティへのアイデンティティの欠如(Lack of Identification with Ones's Community)
  9. 見せかけばかりのまがい物(Tokenism)
  10. 習慣(Habit)
について、感想と意見。

 7.の「心理的反発(Reactance)」は、「心理的リアクタンス」などとも呼ばれ説得的コミュニケーションでしばしば言及されている。環境配慮行動との関係で言えば、あまりにも一方的にリサイクルや省エネなどを呼びかけると逆に反発を招くというような意味ではないかと思ったが、詳しいことは忘れてしまった。配付資料には、対応策として「信頼を築く(Build trust)」と記されてあったが、これまた、心理学の立場からの提言としては抽象的すぎるという印象を受けた。




 次に8.の「コミュニティへのアイデンティティの欠如(Lack of Identification with Ones's Community」だが、これはむしろ「関心空間」として捉えるべきであろうと思う。「関心空間」(「関与空間」のほうが正確かもしれない)についてはこのWeb日記でも何度も取り上げている(例えば、2006年8月3日の日記)。大昔であれば、狭い村の中から一歩も外に出ずに一生涯を終えるという人も居たであろうが、現代社会では、人々は、日々、通勤や通学のために移動し、複数の異なるコミュニティの中に一定時間身を晒すことになる。また、趣味や自己研鑽のために特定のサークルに通うこともある。配付資料では「場所への愛着を育む」ことが重要とされていてそのことには異存はないが、1つのコミュニティへを特定してアイデンティティを確立するということには限界があり、環境配慮行動はもうすこし別の形で高めていく必要があると思う。コミュニティの外の世界であろうと、海外旅行先であろうと、とにかく地球の環境全体が1つの関心空間となり、どこへ行っても同じように美化や省エネに務めるよう行動を強化することである。

 9.の「見せかけばかりのまがい物(Tokenism)」というのは、原語の「Tokenism」の意味から言えば、「申し訳程度の努力をすること」というような意味ではないかと受け止めた。米国であれば、大富豪が環境保護イベントに多額の寄附をして協力的に振る舞う一方、小型ジェット機を乗り回したり資源を散財したりしているようなことを言うのではないかと思ったが、詳しいことは忘れた。環境保護を宣伝文句に使っていながら実際には殆ど効果を及ぼさないような商品も多々ある模様である。

 もっとも、何かの啓発イベントで、「こういう小さなことでも役立つ」という象徴的な意味で、行動に参加することは決して無意味ではないと思う。

 なお配付資料では「非効果的なコミュニケーションを避け、明確で力強い言葉で」と記されており、抽象的で曖昧な態度表明ではなく、具体的で検証可能な行動を呼びかけているという意味にもとれた。

 最後の10.の「習慣(Habit)」は、具体的な目標を定めた上でその実践に励みましょうということだとは思うが、うーむ、その提言自体が抽象的でよく分からなかった。




 以上、8回にわたり意見と感想を連載してきたが、11月24日の日記でも指摘したように、今回の御講演はやはり
期待が大きすぎたせいだろうか、内容はイマイチ、インパクトに欠けており、少々物足りない感じがした。環境心理学の大家であるという触れ込みが無かったとしたら、どこぞの著名な心理学者が、環境問題について思いつくままに10個ほどの課題を挙げてみたという程度に受け止めてしまったかもしれない。
という印象が否めない内容であった。もう少し具体的な実践活動についての紹介があればよかったのではないかと思う。

【思ったこと】
_81205(金)[心理]日本心理学会第72回大会(57)因果帰納推論と随伴性学習(1)

 今回より、大会3日目午後に行われた、

S16 因果帰納推論と随伴性学習:認知的アプローチと連合的アプローチ 21日 13:00〜15:00
企画者 関西学院大学 嶋崎 恒雄
企画者 立命館大学 服部 雅史
司会者 関西学院大学 嶋崎 恒雄
話題提供者 University of California, Los Angels Patricia W. Cheng #
話題提供者 関西学院大学 嶋崎 恒雄
話題提供者 立命館大学 服部 雅史
話題提供者 北海道医療大学 漆原 宏次
指定討論者 University of California, Los Angels Patricia W. Cheng #
指定討論者 東京大学 繁桝 算男
というシンポ【敬称略】について感想を述べさせていただく。なお上記は、大会のプログラム(CD版)に掲載されていた予告であり、実際には、まず嶋崎氏が導入、漆原氏と嶋崎氏と服部氏が話題提供、Chen氏は「Comment and more」、さらに繁桝氏の指定討論が続いた。

 まず全体的な感想として、このシンポは非常に盛りだくさんな内容を含んでおり、新しい知見をいっぱい学び取ることができた。しかし、あえて苦言を呈するならば、時間配分には完全に失敗しており、結果的に尻切れトンボで終わってしまったと言えないこともない。特に、Cheng氏の「Comment and more」は、私のメモによれば、14時44分頃から始まり、終了予定時刻の15時を過ぎても延々と続いた。同じ会場では15時半から別のシンポが予定されていたらしく、会場の外からはたびたび早く終わって下さいというクレームが届く。けっきょくChen氏の講演は15時15分頃に終了し、繁桝氏はせっかく用意されたパワーポイントを提示する間もなく、演壇の前で数分のコメントを発するだけにとどまってしまった。

 もともと、あれだけの内容を2時間以内でまとめるということには無理があった。それぞれの話題提供は1時間、Chen氏のお話はおそらく2時間が必要ではないかと思うほどのボリュームがあり、別の機会のもっとじっくりと拝聴したかった。また、せっかくの繁桝氏のコメントが大幅短縮されてしまったことはまことに悔やまれた。

【思ったこと】
_81206(土)[心理]日本心理学会第72回大会(58)因果帰納推論と随伴性学習(2)嶋崎氏による趣旨説明

 昨日の続き。なお、このシンポは、日本人発表者は日本語、Cheng氏は英語で話題提供・指定討論を行ったが、パワーポイントスライドのほうはChen氏にも分かるよう英語で表記されていた。よって、ここで用いられる日本語表現は長谷川が勝手に訳したものであり、もしかすると誤訳があるかもしれないことをお断りしておく。

 シンポではまず、嶋崎氏による趣旨説明があった。人間(動物)が事象間の関連性(ここでは「因果帰納推論」とほぼ同じ意味)の強さをどのように評価するかを解明し、諸結果をうまく説明するようなモデルを構築することであると理解した。

 因果推論の研究はもともとピアジェの発達心理学の研究(Inhelder & Piaget, 1958など)や、学習心理学(Somedslund, 1963など)、帰属理論(Kelly, 1967, 1972など)に起源があるという。

 この位置づけ自体には異論はないが、推論や原因帰属がもとになって行動が遂行されるかどうかについてはもっと別の見方がありうる。例えば、スキナーらによって創始された強化スケジュールの研究は、行動と結果のあいだのさまざまな関連性が遂行の量やパターンに影響を及ぼすことを明らかにしているが、そのさい、人間や動物は別段、推論や原因帰属に基づいて行動を起こしているわけではない。同じことは主観的確率判断の問題についても言えるが、このことはまた別途論じることにしたい。

 さて、元の課題については、これまで3つの研究の流れがあったという。1つは、連合主義的なアプローチでありその代表格がレスコーラ・ワグナーのモデルである。これらの研究は主として動物を被験体とした学習心理学の実験研究の中で発展してきた。もう1つは、今回の指定討論者(「Comment and more」)のChen氏らによる「Causal approach」である。後者は前者と異なり「generic knowledge」を暗黙に前提としているが、その後、動物実験でも証拠が得られているということであった。3番目は、「Causal Bayesian nets」と呼ばれるものであり、この研究の第一人者はもちろん繁桝氏である。もっとも、昨日も苦言を呈したように、時間配分のミスにより、繁桝氏の指定討論はほんの数分間しか拝聴することができなかった。

【思ったこと】
_81207(日)[心理]日本心理学会第72回大会(59)因果帰納推論と随伴性学習(3)漆原氏による話題提供(1)

 シンポでは次に漆原氏による、「Cue competition」をめぐる話題提供があった。「Cue competition」の代表的な事例は、動物の学習でひろく知られているブロッキング(blocking)である。例えば、パブロフ型の条件づけにおいて、中性刺激Aと一定の大きさの無条件刺激(US)が対呈示されたとする。

A→US

この対呈示が十分な回数繰り返されると、Aは条件刺激となり、一定の大きさの条件反応を誘発するようになる。

そのことを確認した上で、新たにXという中性刺激を付加し、

AX→US

という対呈示操作を行ったとする。USの大きさは「A→US」の時と何ら変わらない。この条件のもとで、Xのみを単独提示しても、条件反応はあまり起こらない。つまり、「A→US」という先行する条件づけによって、Xが条件刺激(CS)となる条件づけはブロックされたのである。この証拠は、統制群として、Bという別の中性刺激に対して、「B→US」という対呈示操作を行い、そのあとで「AX→US」という複合提示を行った条件との比較によって得られる。すなわち、単なるUSへの「馴れ」がブロッキングの原因ではないことなどが確認できる。この現象をうまく説明できる理論としては、レスコーラ・ワグナーモデルがよく知られている。

 さて、上記の条件づけの手順は、人間の因果推論実験でも同じように適用できる。Aを太郎君、Xを次郎君であるとし、1人または2人でジャガイモの皮むき作業をしたと仮定する(もとの話題提供内容を長谷川が改変)。USは1時間あたりに皮を剥いた個数である。太郎くんが1人で作業した時に100個の皮を剥き、そのあとで太郎くんと次郎くんが一緒に皮剥きをしたが、2人合わせて剥いたジャガイモの個数は100個であってちっとも変わらないとする。そうすると、次郎君は何も働いていないと推論されてしまう。いっぽう、今述べた条件とは別の場面で、まず花子さん(上記のBに相当)が100個のジャガイモの皮を剥き、そのあとで太郎君と次郎君が共同で100個の皮を剥いたとしても、次郎君はサボっていたという証拠にはならない。では、人間の因果推論行動は、動物の学習モデルと全く同じような形で説明できるのだろうか?

【思ったこと】
_81208(月)[心理]日本心理学会第72回大会(60)因果帰納推論と随伴性学習(4)漆原氏による話題提供(2)

 漆原氏による話題提供では、人間の因果推論においても、ブロッキング同様の現象が起こるという実験研究がいくつか紹介された(主としてBeckersらの一連の研究)。このほか、AとX(昨日と同じ使い方)の強さ、複合提示した場合と単独提示した場合の結果の差違などの違いによって、AやXを原因とみなすかどうかについての程度・有無に差が生じるということも紹介された。

 ところで、昨日の日記では、
Aを太郎君、Xを次郎君であるとし、1人または2人でジャガイモの皮むき作業をしたと仮定する(もとの話題提供内容を長谷川が改変)。USは1時間あたりに皮を剥いた個数である。太郎くんが1人で作業した時に100個の皮を剥き、そのあとで太郎くんと次郎くんが一緒に皮剥きをしたが、2人合わせて剥いたジャガイモの個数は100個であってちっとも変わらないとする【←所要時間も同じであるとする】。そうすると、次郎君は何も働いていないと推論されてしまう。
と書いたが、漆原氏のお話によれば、人間の場合は、いつもそんなに単純というわけではない。このあたりはクリティカルシンキングの話題にもなりそうだが、例えば、
  1. もともとジャガイモが100個しか無かったら、それ以上の個数を剥くことはできない。
  2. 皮むき器が1個しかなかったら、2人で交代で使うほかはないので、生産性は必ずしも上がらない。
といった可能性もありうる。

 いずれにせよ、もともと原因というのは、常に独立的、加算的に作用するわけではない。因果推論では、そうした高度な判断が働く場合もあるようだ。

 漆原氏による話題提供の後半では、ラットを被験体とし、床からの電気ショックをUS、クリッカーとトーンという2つの音刺激をCS(今回の枠組みで言えば、AとX)、恐怖の大きさを水飲みの潜時で測るという実験研究が紹介されたが、「印刷中」の論文紹介ということだったのでここでは詳細なコメントは控えさせていただく。余談だが、AやXが味覚刺激や嗅覚刺激、USが催吐作用を伴うような不快刺激である場合のブロッキングの有無については、私自身もかつて実験に取り組んだことがあった。

 レスコーラ・ワグナーのモデルというのはもともとパヴロフ型条件づけ(古典的条件づけ)の枠組みの中で提唱されたものであったが、因果推論というのは、そのような条件づけの強さではなくて、むしろ、手がかりとしての情報的価値に関連しているように思う。動物の学習実験をするなら、むしろオペラント条件づけ場面で、弁別刺激の複合的な効果を調べていったほうがよいという気もするのだが、最近はこの分野からすっかり遠ざかっているため、その後の発展について詳しいことは分からない。

【思ったこと】
_81209(火)[心理]日本心理学会第72回大会(61)因果帰納推論と随伴性学習(5)嶋崎氏による話題提供/と服部氏による話題提供(1)

 シンポジウム2番目は、嶋崎氏による

ヒトの因果推論における可能化条件の無視

という話題提供であった。こちらの教員紹介にもあるように、嶋崎氏は「因果帰納」や「随伴性学習」のご研究の第一人者であり、今回、最先端の話題を拝聴できるものと期待していたのだが、なにぶん、時間のほうが13時57分頃から14時17分頃までの20分間に限られており、その中で20枚近い盛りだくさんのスライドを使ってご説明されたこともあって、内容を消化するのはなかなか困難であった。

 嶋崎氏によれば、PCMには5つのタイプがあるという。Eventはまず、「Causality irrelevant factor」、「Effect(outcome)」、「Enabling condition」、「Cause」に分けられ、「Cause」はさらに、見せかけの原因とホンモノの原因に分かれ、全部で5タイプを構成する。今回の話題提供は、このうちの「Enabling condition」に関わるものであり、HCMにおける因果推論への影響についての予測が、連合主義モデルと、PCM(Probabilistic contrast model)などの別の立場の非連合主義モデルで逆方向になされるということに注目したものであると理解した。これを検討するために、新種の微生物を繁殖させるというようなビデオゲーム実験が行われた。結論的には、連合主義モデルでは説明できない結果があり、PCMのような非連合主義モデルの予測が適合しているということであったと思う。話題提供では、アルファベットの略称がいろいろ使われており、何の略だったか忘れてしまった部分もあり、私のような門外漢には、全体のロジックを理解するのは困難であった。





 3番目は服部氏による、

Looking for a needle in a haystack? A heuristic for discriminating probale causes.

という話題提供であった。

 話題提供ではまず、ワイングラスを落として割れるかどうかという事例と、アスベストによる肺癌発生の事例を取り上げて、「“Natural”causality」と「“Learned”causality」の違い、さらに、CorrelationとCausationは必ずしもイコールでないという導入があった。ワイングラスの事例は、「ワイングラスは落としたら割れるから、手で握っていなければならないというのは、因果推論に基づく行動であるとは必ずしも言えない」という事例であると思ったが、スライドでは、グラスを握っていて壊れたという事例(グラスは強く握れば割れるということだったか?)が1つあって、One-trial学習であると記されていた。このあたりが何を意味するのかは忘れてしまったが、とにかく、「○○という行動をすると、××が生じる」というのは、1回限りの体験で習得することがあり、必ずしも、2×2のすべての条件の生起頻度の相関係数をもとに判断しているのではないことは理解できた。次に、アスベストの事例だが、(医学的な実証研究は別として)われわれ素人が直感的にアスベストは危険だと判断するのは、アスベストに晒されて肺癌で亡くなった人(スライドでは10万人のうち58人)が、アスベストに晒されないで肺癌で亡くなった人(スライドでは10万人のうち11人)より圧倒的に多いというデータに影響されることが多い。しかし統計的には、アスベストに晒されても健康を保てた人(残りの99942人)と晒されないで健康を保てた人(残りの99981人)のほうがサンプル数が圧倒的に多く、通常の連関係数ではそれほど大きな値をとらない。つまりCorrelationとCausationは必ずしもイコールでないという意味であったと理解した。

 次に「“Natural”causality」と「“Learned”causality」の違いだが、前者はグラスが割れたという1回の事例で判断されるもので生得的なプロセスという可能性もある。いぽう後者は、二段階から構成され、その1つは今回取り上げるヒューリスティックな段階、もう1つは分析的な段階であり、これはアスベストの事例にあるように、見かけとホンモノの見極めを意味している。なおここでアスベストの事例が、見かけ上の相関という意味で使われたのか、稀に起こる現象についての別の相関分析をすれば因果関係が分かるという意味で使われたのかは、忘れてしまった。

【思ったこと】
_81210(水)[心理]日本心理学会第72回大会(62)因果帰納推論と随伴性学習(6)服部氏による話題提供(2)

 服部氏の

Looking for a needle in a haystack? A heuristic for discriminating probale causes.

という話題提供についてのメモ・感想・意見の続き。

 話題提供によれば、未知の病気の原因を探るという因果推測においては、Backward型の推測と、Forward型の推測があるという。前者は、その病気に罹った患者さんの共通点をさぐることであり、これは「病気にかかっている条件のもとでの要因Xの確率」の大きさからの推測となる。後者は、可能であれば実験的手法を用いて、要因Xという条件のもとで病気に罹る確率を計算する。このあたりの議論は、クリティカルシンキングにおける原因同定の話しにもよく出てくる話題である。

 次に、まことに興味深いと思ったのは、Dual-Factor Heuristicモデルの考え方である。これはΦ係数の式

Φ=(ad-bc)/√[(a+b)(c+d)(a+c)(b+d)]

において、dが∞になるときの極限値、つまり

H=a/√[(a+b)(a+c)]=√[P(E|C)P(C|E)]

の大きさが影響するという考え方である。ここでP(E|C)という部分がForward型の推測、P(C|E)という部分がBackward型の推測に相当しているということであった。

 話題提供の後半では、大学生を被験体として、上記a、b、c、dが与えられたもとでの因果帰納推論の実験研究や、種々のモデルの適合の当否についてのお話があったが、いずれも、最近発表されたご自身の論文に関わることなので、ここでは詳細には触れない。なお、この服部氏の御研究においても、レスコーラ=ワグナー・モデルはあまりフィットしていない模様であった。

 ここで改めてレスコーラ=ワグナー・モデルのことを考えてみるが、この理論は1970年代初めに提唱され、その後10年以上にわたって、動物を被験体とした古典的条件づけの実験研究に大きな影響を与え続けた。当時の関連領域の実験論文では最も引用頻度の高い論文であったと言ってもよいだろう。その魅力は、数式がきわめて単純であり、対応する実験操作が明確であること、さらに、常識的な予測とは異なる現象が予想されるなど、意外性を備えていたところにあったように思う。

 現時点においてはすでにそのモデルはすでに博物館入りしているといってもよいかとは思うが、とにかく、10年以上にわたって大きなインパクトを与えたという点では特筆に値する。もっとも、そのモデルを、今回のような因果帰納推論の場に持ちだして適合度を検証するということにはもともと無理があったのではないか、少々、論理的な飛躍があったのではないかという気がしないでもない。

【思ったこと】
_81211(木)[心理]日本心理学会第72回大会(63)因果帰納推論と随伴性学習(7)Cheng氏による話題提供

 シンポではもうお一方、Patricia W. Cheng氏による、

A Causal Bayesian Approach to Causal Inference

という話題提供?が行われた。「話題提供」のあとに疑問符をつけたのは、嶋崎氏の企画趣旨説明のほうでは、「Comment and more」として紹介されていたためである。但し、大会プログラムでは、話題提供者と指定討論者の両方にお名前が挙げられていた。

 12月5日の日記にも書いたように、この方の話題提供は14時44分から始まり、終了予定時刻の15時を過ぎても延々と続いたため、次のシンポのために会場を使う人たちからたびたび、早く終われというようなクレームが寄せられていた。そんなこともあって、内容のかなりの部分が飛ばされてしまい、全容を理解することは到底困難であった。

 もっとも、Cheng氏は、9月19日にも、
SL03 Causal assumptions for coherence and compositionality
帰納学習における因果的仮定:一貫性と合成 19日 15:30〜17:30

講演者 University of California, Los Angels Patricia W. Cheng
司会者 関西学院大学 嶋崎 恒雄
抄訳者 関西学院大学 大対 香奈子
という招待講演をなさっており、そちらのほうをちゃんと拝聴していれば、十分に理解できた可能性があった。但し、この時間帯は、私は、超高齢者研究の現在のほうに参加していたので、1つのからだで同時出席することは不可能であった。

 また、今回は数分の指定討論しか拝聴できなかったが、繁桝先生が登場されるベイズ推定やベイズ的アプローチに関する企画は別にもあり、この問題に強い関心を持っている人であれば、それらをセットにして参加することで理解が深められたのではないかと思う。




 ということもあって、今回の因果帰納推論に関する連載はこれで終わりとさせていただくが、この種の研究に関連して、そもそも「因果帰納推論」をどうとらえるべきかについて、このさい、もう少し別の見方にもふれておきたい。

 そもそも因果的推論というのは、何をする行動なのだろうか。心理学の実験場面では確かに、被験者に対して「○○が起こりました。××はその原因だと思いますか? YES or NO」、あるいは、「××はどの程度、○○の原因になっていると思いますか?」というような質問を浴びせることはできるし、被験者も大して戸惑うことなく、それらに回答することができる。

 しかしだからといって、日常生活行動において、確率的な変動を伴う選択が因果推論に基づいて行われているという保証はどこにもない。因果的帰納推論とはやや異なる領域になるが、Rachlinは、

Rachlin, H. (1992). Teleological behaviorism. American Psychologist, 47, 1371-1382.

という論文の中で以下のような指摘をしている【長谷川による翻訳、要約引用】
  • 認知モデル(Kahneman & Tversky's, 1979, prospect theory) の研究者による一連の典型的な実験では、それぞれの群の被験者多数に、以下のような仮定に基づく質問が行われている。「50%の確率で賞金1万ドルを手にする場合と、確実に5000ドルを手にする場合のどちらを選びますか(この質問に対しては、被験者の圧倒的多数が確実な場合のほうを選ぶ。)
  • この認知モデルの第一段階では、内部表象において、与えられた問題をまず「編集」し、それを4つの要素に加工するという処理が行われる(確率が1.0および0.5、 賞金が5000ドルと10000ドル)。内部表象は直接的に情報を伝えるが(上の破線)、しかしそこで発出されたものは、意志決定の第一段階にすぎない。それらの情報は、決定に至るある理論によって記述されるような形で複合され、そこから決定結果が伝えられる。
  • 現実の選択場面、つまり、被験者は、時々、仮想の確率現象の結果ではなく、現実の結果について選択を求められる。この場合の決定についての言語報告内容は、きわめて信頼できる予測を含んでいる。(もちろん、現実の選択実験では、扱われる金額は遙かに少ない)。認知理論が想定する極端な対象は、現実世界や実験場面を超えた広範な決定、選択を予測するものである。
  • 我々の視点から見ると、ここで重要なのは、確率が基本的に1つの内部状態であると考えられている点である。実験者が「1万ドルを貰える確率は0.5である」と教示するのは、プロスペクト理論(そして大多数の認知論者たち)によれば、内部状態の活性化操作にすぎない。真の確率とはその表象なのである。これは、確率についての主観主義者の見解を反映している。すなわち、将来起こりうる事象についての確信、あるいは確からしさの度合いを反映しているというものである。そして、その確信度や確からしさが後の選択を決定する (Lucas, 1970)。気象予報士が「降水確率は90%です」と言うと、雨降りについての確信度が高まり、これが、聞き手が雨傘を持って出勤する原因として働く。気象予報士の言葉は、この確信の動力因となる。少なくとも部分的に、それが傘を持ち歩くという決定の動力因となったのである。
  • いっぽう行動主義者は、実験者が「1万ドル貰える確率は0.5です」と教示することは、内部表象の誘発ではないと考えている。それはもともと、すべて、外的な確率事象のクラスを表現したものになっている。言語的教示が与える機能は、これらの事象にまつわる文脈を心理学実験という狭い場所に条件を限定することである。言い換えれば、言語教示はある強化履歴に対する弁別刺激となっているのである。
  • 【行動主義者の立場から見れば】ある人にXが生じる確率は0.5であると教示することは、「この実験では、コインを投げて、表が出た場合には賞金が貰えたと仮定して行動してください」と言っているようなものである。被験者が強化履歴のようなものを持っていなかったとしたら、実験者の教示は無意味なものとなる。
  • 行動主義の観点から言えば、真の確率は、その事象自体の相対出現頻度である。これは確率についての客観主義的な見方である。行動主義的観点から見れば、気象予報士が「降水確率は90%」と言明することは、一般のあらゆる弁別刺激の形成と同様、出勤時に傘を携行する弁別刺激として同じように形成される。与えられたオペラント随伴性のセットの中で、その刺激が信頼できるような情報を提供することによる(1つ前の機会において、同じような予報が出され、雨傘を携行して出勤しそれが強化されるというように)。
  • 行動主義の観点から言えば、確率事象を言明することの本質的な意味とは、外部世界で表現されるということ(弁別刺激として機能するということ)であり、いっぽう認知主義者の観点からは、確率事象についての言明はそれが、内部表象としてどのように表象されるのかということに意味がある。これは、行動主義と認知主義の用語の意味の違いである。
  • 但し、行動主義的アプローチも認知主義的アプローチも統語的な構造を扱ったり説明しようとしたりはしていないという点に留意する必要はある。複数の統語的に等価な言明が同一の内部表象を引き起こすことのほうが、複数の統語的に等価な言明が外部行動の同一の弁別刺激となることよりも明確であるかどうかは定かではない。
 以上の要約引用にもあるように、気象予報士が「降水確率は90%」と言明することは、一般のあらゆる弁別刺激の形成と同様、出勤時に傘を携行する弁別刺激として同じように形成されているにすぎない。因果帰納推論と言われている行動現象も、実験室から一歩外に出れば結局のところ、同じように、

弁別刺激→選択→結果(強化あるいは弱化)

という体験のプロセスで形成されていく行動の一部を言語的に表明したにすぎないのであって、いちいち因果帰納推論が行われ、厳密に確率の大きさを計算した上に行動しているというわけではないように思う。

 では、12月9日の日記に記したような、ワイングラスが割れるという1回限りの体験、あるいはアスベストが原因で肺癌になるという事例のように、Φ係数の中のdが∞になる場合はどう考えたらよいのか。この場合、数学的な相関に基づく因果推論ではないことは確かだが、
  • ワイングラスが割れるという1回限りの「行動→結果」が、強烈な弱化をもたらしたと考えればよい。
  • アスベストの事例は、(自分の直接体験が含まれない)第三者からの情報のどの部分が弁別刺激になりやすいかという議論として扱えばよい。
というように扱っても、行動の予測や制御は十分にできるようにも思える。

 以上のほか、もっと根本的に、そもそも因果とは何かという議論もあるが、時間が無いので次回に続く。

【思ったこと】
_81212(木)[心理]日本心理学会第72回大会(64)因果帰納推論と随伴性学習(8)まとめ

 昨日も述べたように、心理学の実験場面では確かに、被験者に対して「○○が起こりました。××はその原因だと思いますか? YES or NO」、あるいは、「××はどの程度、○○の原因になっていると思いますか?」というような質問を浴びせることはできるし、被験者も大して戸惑うことなく、それらに回答することができる。しかし、日常生活行動において、確率的な変動を伴う選択が因果推論に基づいて行われているという保証はどこにもない。また、仮に日常場面にマッチしていたとしても、もう少し別の捉え方もできるはずである。

 昨日はそのうちの1つとして、Rachlin (1992)による行動主義的な見方に言及したが、Rachlin (1992)はもともと、アリストテレスの四原因説を議論の発端に持ち出し、目的論的行動主義の新たな考え方を提唱しているのであった。目的論についてはいろいろな考え方があろうが、とにかく何事においても、物事を生み出したり変化させたりする原因というのは無限に近い要因が絡み合い、直接的、間接的に作用していると考えるのが妥当であろう。人間が考える因果帰納推論というのは、そうした複雑な現象のうちの一局面を自身のニーズにおいて切り出し、その先の予想をしたり、有利な方向に加工したり、対処したりする行動にすぎない。また、そのニーズには短期的な視点もあれば長期的な視点もある。微視的な視点もあれば巨視的な視点もある。因果の入れ子構造にも留意しなければならない。

 よく挙げられる例として「腕時計のガラス面をハンマーで叩いたら壊れた。その原因は何か?」というクイズがある。通常は、「ハンマーで叩いたこと」が「ガラスが壊れた」原因であると受け止められるが、かりにそれが、耐衝撃構造の腕時計の検査場面であったとすると、壊れた原因は、製造工程の欠陥というように違った形で処理されることになるだろう。

 我々が因果推論しているのは、無限に近い十分原因うち、当人にとって操作可能、あるいは暗黙の前提として排除できないようないくつかの必要原因をピックアップしているだけのことに過ぎないのである。ということで、この種のテーマは、現実のリスク判断や「直観」理解の誤謬などと絡めて検討を進めていく必要があると考える。




 日本心理学会第72回大会では、これまで取り上げた6つのシンポ、ワークショップ、講演などの他にもいくつかの発表を拝聴したが、すでに大会開催日から3カ月近くが経過して記憶もあやふやになっており、今回をもって、連載を終了とさせていただく。