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人間・植物関係学会2008年大会


2008年6月7日(土)〜6月8日(日)
滋賀大学教育学部

目次
  • (1)最近の考え
  • (2)災害時における植物の役割−私達は植物といかに関わるか−
  • (3)ガレキに花を咲かせる効果
  • (4)咲かせる花の種類と外来植物の問題
  • (5)園芸療法とQOL
  • (6)童話に登場する果物・野菜/デジカメで植物と関わるセラピーの可能性
  • (7)数理社会学的手法の有用性
  • (8)質問のしかた次第で、意識調査の結果も変わる
  • (9)賑やかな農作業と無言農作業
  • (10)色彩の選択による気分測定
  • (11)カッティングガーデン
  • (12)観葉植物は音楽に反応するか?
  • (13)「二次視覚」の意義
  • (14)とりあえずのまとめ


【思ったこと】
_80605(木)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(1)

 表記の大会が、2008年6月7日(土)から8日(日)まで、滋賀大学教育学部で開催される(主催校の案内サイトはこちら。このことに関連して、最近の考えをまとめておくことにしたい。

 最近私がますます確信を深めているのは、私たちの日常行動は

●「単一の行動→直後の強化」

という行動随伴性の断片的な寄せ集めではなく、相互に連関し、かつ「入れ子」となるような構造を持っているということである。

 これを園芸関連行動にあてはめてみると次のようになる。

 例えば、「苗に水をやる」という行動は、その部分だけに目を向ければ、
  • 水をやる(行動する)→苗は枯れない(やがて苗が育つ)
  • 水をやらない(行動しない)→苗は枯れる
という、好子出現もしくは好子消失阻止の随伴性によって強化されている考えられてきた。もう少し厳密に言うと、「水をやると、やがて苗が育つ」というのは好子出現だが、水をやった直後にニョッキリと苗が伸びるわけではないからこれは強化モドキ。「水やり」という行動は、そういう強化モドキよりも、実際には「水をやらないと苗が枯れる」という好子消失阻止の随伴性で強化されていると考えた方が妥当である。

 もしこの「好子消失阻止」という回避の随伴性だけで水やりを続けているのであれば、これは全くの義務的な行動であり、あまり楽しくない行動ということになってしまう。




 しかし、この「水やり」という行動は、「苗を育てる」という長期的視点から見れば、園芸関連活動の1つのパーツを構成していると見なすこともできる。「苗を育てる」という行動は最終的には、開花や収穫といった大きな成果によって強化されるので、形式上は「好子出現の随伴性」で強化されていることになる(もっとも、それはずっと後のことなので、やはり「強化モドキ」)。

 ここで重要なのは、直接効果的な強化随伴性と強化モドキを区別することではない。とにかく、長期的・総合的にみて「好子出現の随伴性」という形式を整えている行動があった場合、そのパーツを構成する種々の準備行動は、たとえ嫌悪的統制(回避の随伴性)を伴ったとしても、必ずしも義務的になるとは言えず、むしろ、そのような形で自分の行動を律していくことのほうが、より質の高い生きがいを獲得できるのではないかということを言いたいのである。

 園芸関連活動に話題を絞ると、ある人にとって園芸活動が生きがいになるかどうかは、園芸活動がどのように強化されているのかというだけでなく、その園芸活動が生活全般の行動の中でどういう位置をしめ、他の生活行動をどのように関連しているのか。によって規定されるのではないかということである。このあたりのことは、ダイバージョナルセラピー研修会に関連して、4月21日の日記や、その翌日の日記で考察したところである。問題は、これをどういう形で研究のレールに載せていくのかということだ。

【思ったこと】
_80608(日)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(2)

 6月7日から8日に開催された、人間・植物関係学会2008年大会(学会サイトは、こちら)の参加報告と感想の連載1回目。なお、昨年度大会の感想はこちらに1つのファイルとしてまとめてある。それ以前の大会の感想もこちらにあり。

 さて、大会1日目の午後には、
  • 基調報告1.中瀬勲氏(兵庫県立大学教授) 災害時における植物の役割−私達は植物といかに関わるか−
  • 基調報告2.天川佳美氏(まちづくり有限会社きんもくせい) 植物に助けられた震災復興の取り組み
という2つの基調報告が行われた。

 最初の中瀬氏の講演では、まず、日常時と非常時の共生、緑概念の再構築ということに関連するいくつかのトピックが紹介された。絶滅危惧種の保護の問題などは、スポット的な保護ではなく、地域全体の環境を考える必要があるというようなお話があった。

 次に植物との伝統的な関わりとしては、
  • キッチンガーデン
  • 鎮守の森(畏敬の念、耕地拡大により自然破壊が進んだことへの「お詫び」)
  • 宗教空間(八百万の神)
  • 園芸としての楽しみの場
  • レクリエーション空間
  • 近代的なガーデニング空間
が挙げられ、さらに21世紀型の「植物・緑の機能・効用」についての提言がなされた。

 「従来型」と比べ「21世紀型」では、
  • 単なる環境保全ではなく、生物多様性に配慮した地域生態系の保全
  • 単なる防災機能ではなく、安全と安心を兼ね備えた場の構築
  • 単なるレクリエーションではなく、憩いと癒しとしての場
  • 新たに、文化、歴史、宗教の場、コミュニティ形成、食料生産の場
などの特徴が含まれているというように理解した。

 このことが、具体的に何を意味するのかということだが、例えば街路樹を植える場合、樹種の選定や1本あたりの生育環境基準などは、それぞれの地域の生態系や土壌を考慮して決めるべきであろうということがこれに含まれるようだ。

 また、次の天川佳美氏の講演とも関連するが、大地震などの災害時、植物は、災害現場で新たに芽を出したり花を咲かせたりすることで被災者を癒し、さらには、亡くなられた方の思い出となる植物の成長、復興時の園芸活動など、多面的な形で人々を支える力があるという御指摘もあった(いずれも、長谷川の記憶に基づくため、不確か)。

【思ったこと】
_80609(月)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(3)ガレキに花を咲かせる効果

 基調報告の2番目は、天川佳美氏による、

●植物に助けられた震災復興の取り組み

という体験事例の紹介であった。

 天川氏は、神戸市で長年にわたり都市計画・設計のお仕事をされていたが、阪神淡路大震災により社屋が倒壊、その後、被災地のガレキの上に花を咲かせる運動に取り組み、その後も、国内外の地震、テロ、水害などの被災地での復興支援活動を続けておられる。ネットで検索したところ、こちらに、『ガレキに花を咲かせましょう』という御著書の紹介があった。震災復興時の貴重な写真はこちらにも紹介されており、今回のお話の内容の一部は、それらに大体沿ったものであった。
 1番目の中瀬氏の基調報告にもあったが、ガレキの中や被害を免れた樹木の花が被災者を元気づけるということがある。やや性格を異にするが、被爆地広島のキョウチクトウは、草木も生えないといわれた焦土でいち早く花を咲かせ、市民に復興への希望と光を与えてくれたことで知られている。

 また、震災で亡くなった方の思い出をつなぐような花が、残された人々を癒してくれることもある。今回の講演では、はるかちゃんのひまわりが紹介されていた。震災で亡くなったはるかちゃんの隣の家の人がオウムを飼っており、はるかちゃんはそのオウムにヒマワリの種を与えて可愛がっていたという。その種が散乱し見事な花を咲かせたことから、この運動が始まったということである。

 こうした体験談には、言葉では尽くせないほどの御苦労があり、またその一方で、当事者にしか分からないような大きな感動もあると思う。従って、「花を植える活動は、被災者を励ます上でどのような効果があったか」というような厳密な効果検証をすべきであるといった野暮な提言は差し控えておくほうがよいかと思う。少なくとも、この活動に関わった人々にとってはポジティブな効果があったわけだし、また、放っておけばガレキのまま取り残されゴミが散乱するような場所で花を育て、人が集まる場所に変えることができたということは、それだけで十分に有効性があったと言うべきであろう。

 なお、現在、四川大地震の被災状況が連日伝えられているところであるが、阪神淡路大震災の時の「花を咲かせましょう」活動体験を、そのまま四川省被災地に活かすことは難しいように思う。阪神淡路大震災や、その後の中越地震、ニューヨークでのテロなどは、いずれも多くの犠牲者を出したものの、被災面積はそれほど大きくなく、従って、「衣・食・住」のうちの「衣・食」については、行き届いた支援態勢がとりやすい状況にあった。しかし、今の四川省の震源地付近では、「衣・食・住」すべてがきわめて不十分である上に、せき止め湖決壊による二次災害も心配されている。マズローに与するわけではないが、生理的欲求や安全欲求が満たされない限りは、花を植えましょうなどという余裕は到底出てこないのではないかという気もする。但し、人間・植物関係学の基本的視点から言えば、植物に関わるということは、それ自体、生理的欲求や安全欲求といった、最も基礎的なレベルの「欲求」と一体化しており、決して「ゆとりが出てから始める」というようなものではない。例えば、スプラウトの栽培は病室の患者さんを元気づけるというような話を聞いたことがあるが【←但し、あくまで長谷川の記憶に基づくので不確か】、これなども、精神的余裕があってスプラウト栽培をするというより、生きる力を分けてもらうという形で効果をもたらしていると考えることができる。

【思ったこと】
_80610(火)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(4)咲かせる花の種類と外来植物の問題

 天川氏の講演:

●植物に助けられた震災復興の取り組み

についての感想の2回目。

 今回の講演によれば、ガレキの上に咲かせた花には少なくとも2つのタイプがあったようだ。

 1つは、6月9日の日記でも取り上げたはるかちゃんのひまわりであり、これは、震災で亡くなられた方の思い出をつなぐという象徴的な意味があった。

 もう1つは、園芸会社から善意で提供されたコスモスやペチュニアなどの種である(こちらに写真あり)。また一部では、ペチュニア、 マリーゴールド、 ナデシコなど15種類の種をブレンドしたものを蒔いたということである。全体的にはコスモスやヒマワリが主体であり、うまく咲かなかった時のピンチヒッターとしてペチュニアが加えられたというような話もあった。

 「はるかちゃんのひまわり」のような場合は、ひまわりを育てる目的が明確であって、他の品種に代えることはできない。いっぽう、後者のケースでは、どういう種類を選ぶべきか、について、開花の可能性、育てやすさのほか、その地域の風土、景観、在来種にも配慮する必要があり、このあたりは、人間・植物関係学の1つの課題になるのではないかと思う。どのような花であっても、いったん育てられ、多くの人々に感動を与えれば、後の世まで思い出として語り継がれることになるわけだから、初期条件として何を選ぶのかはかなり重要となる。

 当日、私を含めて、フロアからも意見が出されたが、そのさい、外来種を排除すべきかどうかについては、まだまだ議論が必要ではないかと思う。

 単純に「いっぱい花を咲かせる」ことだけを目的とするのであれば、殆ど手がかからず、確実に開花しそうな花としては、オオキンケイギクや、ハルシャギクがオススメということになるが、これらは特定外来生物のリストに含まれており、のちのちの環境に重大な影響を及ぼすおそれがある。もっとも、そのオオキンケイギク()でさえ、特攻隊の発信基地であった知覧では、特攻花と呼ばれているほどであり、「外来生物だから駆除しましょう」で片付けるわけにはいかない。

]ネットで調べたところ、「特攻花」と呼ばれている花としては、オオキンケイギクのほか、ハルシャギク、テンニンギクの写真が掲載されている場合があり、真相は不明。

 外来種か在来種かというような問題をエスカレートさせていくと、コスモスのお花畑も外来種ではないかといった議論も出てくる。天川氏ご自身は、外来種であっても、その地域で何十年も前から生息している場合は、すでに市民権を得ていて排除すべきではない(区別すべきではない)というお考えのようであった。

【思ったこと】
_80611(水)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(5)園芸療法とQOL

 今回より、口頭発表についての感想を述べさせていただくこととしたい。なお、このWeb日記の最近の方針として、著名人の講演の場合は実名で御紹介させていただくいっぽう、学会発表については、個人情報に配慮し、発表者のお名前は省略、もしくはイニシアル程度で引用させていただくことを原則としている。

 さて、今回の大会では、園芸療法の効果測定に関連した口頭発表がいくつかあった。このうち、長期的な効果に関しては、ICF(国先生活機能分類)、ADL尺度、QOL-D、などを用いて、園芸療法(あるいは園芸活動)の実施前と実施後のスコアの差をもって比較するという方法が用いられる。いずれも、対象者自身が答える場合のほか、支援者・介助者が評価するという場合がある。

 単に「イキイキとしてきたように見えます」、「笑顔が増えてきました」といった、実施推進者の主観的な印象を述べるだけの場合に比べて、こうした客観的な効果測定は実証的であり、第三者に効果をアピールするさいのエビデンスになるほか、更なる改善のための具体的な方策を探る力にもなり、意義のあることと言えよう。

 もっとも、このやり方で園芸療法の効果がどこまで検証できるのかは、少々疑問がある。というのは、園芸活動というのはそれぞれの人々の日常生活の中のごく一部にすぎない。生活全般の質を測るような尺度で、園芸活動だけの効果を独立的に取り出して検証することができるかどうかは心もとない。

 第二に、ひとくちに園芸療法といっても、土いじり、種まき、移植、共同作業、デジカメでの記録など、さまざまなコンポーネントから構成されており、ある条件のもとで効果が検証されたとしても、それをそっくりそのまま別のケースにあてはめて同じ効果を期待できるかどうかは定かではない。しかしだからといって、それらコンポーネントのうちの1つだけを取り出して、実験群と対照群に分けて検証しても意味があるとは言い難い。例えば、園芸用土を鉢に移すという作業は、園芸活動全体の中では1つのコンポーネントとして意味を持つのであって、その作業だけを断片的に取り出して検証しても、効果が確認できるとは限らない。いや、仮に効果が確認されたとしても、それを、一連の作業のコンポーネントに組み戻した時に、その効果が加算的に働くという保証はない。それぞれのコンポーネントが相互にどのように影響し、相互強化、時には競合、葛藤をもたらしているかもしれない点を把握する必要がある。

 第三に、何らかのスコアについて集団の平均値を比較したとしても、個人単位での有効性を保証できるとは限らないという問題がある。このことについては、今回、フロアからも同じような指摘があった。

 高齢者施設のように、日常生活空間が比較的閉じられていて、行動リパートリーの種類が限られているような環境では、園芸活動を実施するかどうかというのは大きなイベントであり、それだけ総合的な効果が検証されやすくなる可能性は期待できる。そのいっぽう、一般社会人が自宅の庭やベランダで毎日30分程度の園芸作業をするというような場合は、仮に尺度のスコアが上昇したからといって、それが園芸作業の効果であると断定することはきわめて難しい。そういうケースではむしろ、園芸関連活動が、他の日常生活諸行動とどのように連関し、前向きな生活を推進する力としてどのように働いているのかを、別の形で把握していく必要があるだろう。

【思ったこと】
_80612(木)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(6)童話に登場する果物・野菜/デジカメで植物と関わるセラピーの可能性

 大会1日目には、このほか、外国の童話に出現する果物・野菜の種類や出現頻度、また、道端の植物との関わりを考察する口頭発表があった。

 どちらの発表も一連の研究の一部をなすものであり、前者に関しては、前回は、日本の民話が取り上げられていたと記憶している。童話の世界で、人々がどのような植物と関わってきたかということは、その時代の食文化を知る手がかりにもなるし、特定の植物に象徴的な意味を持たせている場合もあるだろう。例えば、グリムやアンデルセンの童話ではいずれも、果物としてリンゴの登場が多く、全体の約3割を占めているという。リンゴには、アダムとイヴの時代からの象徴的な意味があるように思う。もっとも、ウィキペディアの当該項目によれば、当時旧約聖書の舞台となったメソポタミア地方にはリンゴは分布せず、またその時代のリンゴは食用に適していなかったことからみて、後の時代に創作された俗説であると考えられているようである。

 この発表で少々気になったのは、調査対象となった童話が、いずれも原語ではなくて、日本語の翻訳書を対象としているという点であった。翻訳者は必ずしも植物や食文化の専門家ではないので、原語の果物や食物の名前を取り違えている可能性もあるように思う。また、翻訳の専門家の別宮氏が「What color is a brown bear?」を「シロクマは何色かな?」と訳したことでも知られているように、原語の対象物をそのまま正確に訳すよりも、文脈に配慮して、日本語の特性を活かすように別の言葉に置き換えたほうが効果が大きい場合もある。

 このほか、上述のアダムとイブの俗説にもあるように、同じ「リンゴ」という名称であっても、それが食用とされているかどうかは時代や文化によって変わるし、品種改良により形そのものもが変わることもある。グローバル化が進んだ今でこそ、世界各地の街角で同じような形の果物や野菜が売られるようになってきたが、一昔前には旅行した頃には、名前の分からない果物や野菜が、街角にいっぱい並んでいたものである。そう言えば、白雪姫の絵本ではとても大きな毒リンゴが描かれていることがあるが、こういう大きなリンゴが、グリムの時代から栽培されていたとはちょっと考えにくい。




 もう1つの道端の植物との関わりに関する研究も、一連の研究の流れをくむものであった。昨年度大会のご発表はまことに難解であったが、今回はいくらか理解できた。

 ちなみに、このWeb日記や、楽天版にもあるように、私自身も常にデジカメを持ち歩き、道端の花や樹木の写真を一日に何十枚も撮ることを楽しみとしている。翌日の別の方の発表でも、樹皮がガードレールを包み込むように肥大した樹と、その後、同じ樹が伐採されて切り株だけになってしまった写真が紹介されていたが、とにかく、デジカメというのは、ある瞬間を記録するだけでなく、継時的な変化を捉える上でもきわめて有用なツールになる。このWeb日記でも何度か言及したが、最近では、「フォトセラピー」や「写真療法」という言葉も知られるようになった(2006年11月21日の日記参照)。植物を育てることを主体とする園芸療法とは別に、デジカメで記録をとりながら、長期的な視点で思いを綴るような、人間・植物関係に特化したフォトセラピーのようなものがあってもよいのではないかと思う。

【思ったこと】
_80613(金)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(7)数理社会学的手法の有用性

 大会2日目ではまず、人間・植物関係を分析するための、数理社会学的手法についての提言があった。具体的な適用事例が無かったのでよく分からない部分もあったが、大いに可能性があるとの期待感が持てた。

 これまでの大会で私自身指摘したことでもあるが、単純な群間比較による実験、例えば、対象者を実験群と対照群に分けて実験群のみが園芸活動を行い何らかの評定スコアの平均値の有意差を検定するというようなやり方は、第三者を説得するエビデンスとしては有用かもしれないが、きわめて人工的な環境条件のもとでの限定的な効果検証に終わってしまう恐れも大きい。平均値の差で比較する限りは、それぞれの個人にカスタマイズされた長期的な効果というのは検証できないし、また、個々人の日常生活諸行動全般の中で、園芸活動がどう位置づけられどう機能しているのかというところが見えてこない。

 では、聞き取りを主体にした質的分析なら良いのかということになるが、言語的報告に依拠する限りは、対象者自身が気づかない(=言語的に報告できない)諸要因を探り出すことは困難であるし、また今回の発表でも指摘されているように、「言語による推論の場合、暗黙の仮定が存在するのにそれに気づかないといった曖昧なところが多くなる」という恐れもある。これらを補い、新たな発見をもたらすツールとして、数理社会学的手法は大いに有用であろうとは直観できる。但し、今回までのところでは、具体的事例へのあてはめが無いので、これ以上のことは何とも言えない。

 なお、今回の発表を通じて、「エージェント」という概念が有用であるということも直観できた。このほか、発表者ご自身が指摘しておられたように、数理モデルというのは、ともすれば、単なる思考実験的な「数遊び」に終わりがちである。これを避けるために
  1. 経験的データにより支持されることを重視
  2. 多くの命題や意外な発見の可能性があること
  3. 社会をよりよくするために有用であること
といった見通しを持つことが必要であるという御指摘もよく理解できた。ちなみに、経験的データに支持され、また具体的な提言に結びつけるためには、現実に操作可能な変数と乖離しないような形でモデルを作ることが肝要ではないかと思う。心理学ではありがちのことだが、現実世界の環境、行動、随伴性からあまりにもかけ離れた構成概念に依拠してしまうと、構成概念オンリーの閉じた世界の中で、現実とは無関係の、モデルの妥当性の検証だけを目的としたような「モデルのための研究、論文増産のための研究」といった研究ばかりが繰り返されることになり、上記の3点のうち2.や3.がどこかに追いやられてしまう恐れが大となる。

【思ったこと】
_80614(土)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(8)質問のしかた次第で、意識調査の結果も変わる

 大会2日目・午前中の発表の中で、認可保育所における園芸活動の実態調査についての報告があった。この中で、保育所が、園芸活動の狙いをどうとらえているかという結果が紹介された。自由記述回答によれば、「命を知る」、「命の大切さを知る」、「生長の過程を体験する」、「生長を喜ぶ」、「食べられるようにする(食育)、といった回答があったのは、中小都市の保育所では25%前後と意外に少ない。また、園芸活動後の園児の様子についての回答(「嬉しそうにした」、「関心を示した」、「食べた」など)も意外に比率が低かった。この調査が行われたのは食育基本法施行の1年4カ月前であり、現在ではもう少し比率が増えているものと思われる。

 ここで面白いと思ったのは、同じような調査を、自由記述回答ではなく、予め項目を用意して4件法で評定させると、肯定的回答の比率がかなり高くなるという傾向である。要するに、単に「園芸活動後、園児はどういう様子でしたか?」というように自由記述で回答してもらうのではなく、「園芸活動後、園児は嬉しそうにしていましたか? 4.そう思う、3.ややそう思う、2.ややそう思わない、1.そう思わない」などというように評定をしてもらうと、4.や3.の回答比率が増えるというようなことを意味しているものと思う。

 この種の調査は心理学一般のみならず、種々の世論調査でもありがちのことである。自由記述では、その場でたまたま思い浮かばない回答や、言われてみなければ気づかないような回答もありうる。反面、予め項目を用意してしまうということは、回答をある方向に誘導してしまう恐れもある。単に、回答結果の比率の大きさで結論するのではなく、その質問がどのような形式で回答を求めていたのかにも留意する必要があるという、良い事例であった。

 なお、この発表の本題に戻るが、大都市と中小都市の保育所における園芸活動や食育の取り組みの違いを把握するというのが、この研究の主要なテーマであったようだ。その場合、都市単位で比率を比較するよりも、大都市通勤圏や農村地域というエリア単位で比較したほうが違いが見えやすいように思えた。最近は特に合併が多く、大都市の行政単位の中に、農村地域が相当程度含まれている可能性があるからだ。私の住む岡山市なども、かなりの比率で農村や山村エリアを含んでいる。

 あと、全保育所対象の調査であるなら、全数調査扱いで分析すればよく、わざわざχ2乗検定を行う必要はないように思う。仮に回答率が20%であったとしても、それは全数からのランダムサンプリングとは言い難いからである。回答を寄せなかった施設は、回答を引き受けた施設と比べて何らかの事情があるかもしれない。

【思ったこと】
_80615(日)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(9)賑やかな農作業と無言農作業

 大会2日目・午前中の発表の中で、他者とのコミュニケーションが自由にできる条件と、無言状態で作業する条件で、農作業中の心身に及ぼす影響を比較した研究が報告された。二人一組で、園芸作物の管理・収穫・調整などの作業をしてもらうさいに、コミュニケーションが自由にできる条件と無言状態を保つ条件を設定し、作業後の心理状態(リラックス因子や快感情因子)、作業状態の主観評価、生理的変化(心拍や唾液成分濃度)などを比較するというものであった。発表内容を拝聴した時の大ざっぱな理解としては、生理的な変化には違いはなく、また、心理状態に関しては一部の作業で「自由」条件のほうが良好、作業状態に関しては、一部で、「無言」条件のほうが作業に集中できるという結果が得られているように見受けられた。

 こうした傾向は、園芸活動以外の一般作業からも類推できそうだ。一般的に、精密さを要求されるような作業では、集中を妨げるようなコミュニケーションはマイナスとなる。そのいっぽう、比較的単純な作業を反復するような場合は、退屈さをしのぐためにも適度のコミュニケションが有用である。フロアからも質問が出ていたように、こうした一般的な作業能率に及ぼす影響と、園芸作業に特異的な影響をどう区別するのかが今後の課題ではないかと思う。

 なお、私自身も発言させていただいたことであるが、ひとくちに園芸関連活動と言っても、ワイワイがやがや、賑やかにお喋りしながら共同で園芸作業に取り組む場合と、一人静かに植物と向き合う園芸作業では、それぞれ異質な効果が生じるはずである。あくまでアナロジカルな表現になるが、前者はドーパミン型のアクティブな楽しみ、後者はセロトニン型の静かな「癒し」である。私個人としては、後者の効果に期待しているところであるが、前者のような、「園芸」を手段として集団で楽しむというタイプの園芸療法が有用であることも否定しない。

【思ったこと】
_80616(月)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(10)色彩の選択による気分測定

 すでに何度か言及しているように、園芸療法の効果測定は、短期的か中長期的かという視点から2つのタイプに分かれる。
  1. 短期的効果:園芸活動の直前と直後における気分変化、リラックス効果
  2. 中長期的効果:園芸活動に参加することによる中期的なQOLの向上
 このほかにも、比喩的な意味での「ドーパミン型」効果と「セロトニン型効果」、さらには、独立的な効果と全人的な効果という区分が考えられるがここでは触れない。

 さて、上記の1.の短期的効果を測る方法としては、POMS、MCL-S.1、ABSなどを用いた心理変化、および、心拍や唾液成分濃度といった生理的変化を測る方法がしばしば用いられているようだが、いずれも難点がある。特に心理検査のようなものは、それに回答するということ自体が煩瑣であり、あまり時間をかけすぎると、園芸活動でせっかく気分が良くなったのに、その後の心理テスト回答で再びイライラしてくるという悪影響も否定できない。

 そんななか、今回の発表の1つで、色彩評価法の可能性が紹介された。これはきわめて短時間で終わる。12色の色見本を提示し、調査時の気分に当てはまる色を選んでもらうというだけのテストであり、他テストとかなり高い相関が得られたということであった。大ざっぱに言えば、
  • 暖色系→ポジティブ
  • 寒色系→ネガティブ
という回答傾向があるらしい。

 もっとも、高い相関が確実に得られたとしても、それが「色そのものへの嗜好変化」を表しているかどうかは定かではない。

 「いまの気分を色で表してください」というのは、ある言語コミュニティの中で、言葉で表現することを色の選択に置き換えただけではないかという可能性もある。例えば、青色を選択するというのは、気分そのものが青色に感じられるからではなく、言語コミュニティの中で使われる「ブルーな気持ち」を青色に置き換えて選んだだけだという可能性があるわけだ。つまり、被験者は、「いまの気分はあまり良くない」と言語的に表明する代わりに「青」を、あるいは、「いまの気分は爽快です」と発言する代わりに暖色系を選んだというだけであるという可能性がある。であるなら、わざわざ色彩評価を使うまでもなく、単に「今の気分はどうですか?」と訊いて、言葉で答えて貰えば済むということになる。

 色彩評価がどこまで気分を確実に表せるのか、あるいは、その人自身の色の好み(=特性論的な嗜好)とどう対応するのかについては、私自身にはよく分からないところがあるが、フロアからの発言によれば、この方面の研究はかなり進んでいるということであった。このほか、今回の研究が、園芸作業に特化した色彩評価法の確立を目ざしているのか、それとも、園芸作業にこだわらない一般的な気分測定を目ざしているのか、というような質問もフロアから出されていた。園芸作業では緑色に接する機会が多いが、このことが特異的な影響をもたらすかどうかは不明である。

【思ったこと】
_80617(火)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(11)カッティングガーデン

 午後の発表の中で、カッティングガーデンに有望な植物を分析した研究があった。カッティングガーデンというのは、フラワーアレンジメントのための切り花として利用することを想定した花壇であり、栽培の楽しみと、切り花としての利用という一石二鳥の効果が期待される。

 もっとも、その場で鑑賞することを目的とした花壇に植えられる花がすべて切り花に適しているわけではない。当日のご発表のほか私自身の判断も含めて述べさせていただくと、まず、日中しか開花しないような花は切り花には適さない。一日で萎れてしまう花もダメ。さらに、水揚げの悪い花、毒性の強い花、香りのキツすぎる花も適さない。茎が弱かったり、群生させないと見栄えが悪い花も通常は利用しにくいと思われる。

 今回の発表では、カッティングガーデン用の品種を紹介している外国文献7点から、頻出度、入手や水揚げの難易度、さらに価格などを評価し、主成分分析で第1主成分得点の高い上位100種類をまとめるという手法が用いられた。その上位5位は、キンセンカ、次いで、水仙の仲間、バラ、ヤグルマギク、ビジョナデシコという順になっていた。第2主成分が何を意味するのかについては、フロアからも質問があったが、よく分からないままであった。

 私自身も質問させていただいたところであるが、外国文献で推奨される品種が、そのまま日本の文化に当てはまらない場合もある。今回トップだったキンセンカは、日本では、お仏壇やお墓に供える花というイメージが強い。もちろん、カッティングガーデンではそういう利用も想定しているとは思うが、例えば高齢者福祉施設で、キンセンカのフラワーアレンジメントが参加者のお年寄りにどういう心理的影響を与えるのかは別途調査したほうがよいかと思う。また、欧米で推奨されている植物であっても、日本の気候風土には適さない場合がある。

 このほか、この種の分析で主成分分析を用いることの意味がいまひとつ分からなかった。現実に、ある場所でカッティングガーデンを設置しようとした場合には、その花壇の日照や土壌、水はけ、さらには、参加者がどの程度手間をかけられるか、どういう目的で切り花を利用するのか、といった、その場所での固有の要因が大きく働いてくる。ランキングで上位にあることが必ずしも推奨品種になるとは限らないように思えた。また、価格などは、苗の出荷量やその時々の流行によって大きく変わるものであろう。

【思ったこと】
_80618(水)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(12)観葉植物は音楽に反応するか?

 午後の発表の中で、実験箱内の観葉植物にクラシック/ポップス/ロックの音楽をそれぞれ聴かせ、葉っぱの表面の電位変化を測定するという興味深い研究があった。

 ちなみに、この連名発表の第一著者(口頭発表者)の方は、私の先輩でもあり、私が卒論生であった30数年前から存じ上げている。以前から超心理学的現象に関心をお持ちであったと記憶しているが、分析方法はきわめて手堅く、また、哲学にも造詣が深い方として知られている。

 今回の御発表にあたっても、
  • 人間−植物関係は双方向に捉える必要がある。
  • 人間中心主義(shallow ecology)から人間非中心主義(deep ecology)へ
  • 植物は聴覚器官を持たないのだから、まずは単純な「振動」や「純音」で効果を検証し、しかる後に音楽の効果を調べるべきではないかという批判が想定されるが、人と観葉植物との共生環境では純音こそ例外的。まずは、日常生活上の普通の刺激である「人声」や「音楽」で効果を調べ、しかる後に抽象的な要素に分けて実験刺激を絞り込むという姿勢こそが生態学的妥当性のある方法である。
というように、まず研究の背景や道筋を適確に示しておられた。

 実際に行われた実験もまことに手堅いものであり、整備された実験環境のもとで、音楽提示前、提示中、提示後の電位変化(パルスの有無、パターン)がそれぞれ測定され、フィッシャーの直接確率法で検定されていた。また対照条件として、実験箱内に霧吹きをする(=水刺激条件)も設定されていた。今回拝聴した限りでは、音楽刺激は、水刺激とは異なる方向の電位変化をもたらし、少なくとも、音楽の提示が植物に何らかの特異的な影響を与えていたことは証拠づけらた。

 もっとも、フロアからの質問によれば、実験箱内で音楽を流すと、箱内の空気に何らかの層が生じ(←専門的なことは分からない)、それが、葉っぱの周囲の湿度にも影響を及ぼし、そのことが原因で植物の蒸散作用等に間接的な影響を及ぼすという可能性はあるらしい(←長谷川の聞き取りのため不確か)。「音楽」という振動刺激を与える限りにおいては、こういう、二次的な影響を統制することは今後とも難しいのではないかという気がした。

 なお、上記の「人間−植物関係は双方向に捉える必要がある」というロジックはもっとなことであるとは思うが、地球の長い歴史の中で、光合成生物が誕生したのは32億年前、コケ植物やシダ植物が水際に沿って陸上に進出したのは5億年前頃からであると言われている。いっぽう、人類が誕生したのは、諸説はあるが、500万年〜1000万年前程度であって、植物の歴史に比べれば遙かに短い。 つまり、植物一般は、人間が存在していない時代から、人類とは無関係に進化を続けてきたのであり、いま我々が考えている「人間・植物関係」がどうしても人間本位にならざるをえないのはやむを得ない面がある。

 もちろん、今回の観葉植物(=ポトス)のように、品種改良を経て人工的環境で育てられること多い植物においては、人間との関係は密になるとは思うが、それでもなお、植物にとっての主要な関心事は、「植物・光関係」、「植物・水関係」、「植物・栄養素関係」、「植物・温度関係」、「植物・湿度関係」、「植物・病害虫関係」などであり、「植物・人間関係」はそのごく一部の微々たるものであるかもしれない。またそういう中では、人間自身にとって意味のある音楽よりも、虫の鳴き声とか、人間の可聴範囲外の震動波のほうが遙かに影響を受ける可能性もある。

 ところで、ここからは全くの余談だが、植物というのは、決して「静的環境」で生育するものではない。海の中の植物、特に比較的浅いところの植物などは常に波にもまれて生きている。また、最近、私自身は、デジカメを使った花の接写を楽しむことが多いが、無風状態のように見える時でも、草花や木の枝は、弱い風に揺れていてなかなか静止することが無い。つまり、おおかたの植物というのは、成長の大半の期間を、揺れながら過ごしているのである。このことの影響はかなり大きいと思われる。

【思ったこと】
_80619(木)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(14)「二次視覚」の意義

 午後の発表の中で、植物観察における「二次視覚」の意義を論じた発表があった。「二次視覚」というのは、一次元、二次元という意味ではなく、英語で言えば「second order」あるいは「higher order (高次)」を意味するものであり、脳神経科学上の裏付けもあるようだ。具体的には、過去のデジカメ写真などを見ながら思いにふけるというような形で、時の流れを感じ、再構成された空間を知覚し、より長期的な視点で植物と接していくというような意義が含まれているものと理解した。

 何度か述べているように、園芸療法の効果は
  1. 短期的効果:園芸活動の直前と直後における気分変化、リラックス効果
  2. 中長期的効果:園芸活動に参加することによる中期的なQOLの向上
というように、異なるスパンで検証していく必要があるが、今回の「二次視覚」は、単なる「中長期的効果」とは異なり、より高次の知覚の意義を論じているように見受けられた。

 例えば、ある高齢者施設で、週2回の園芸作業を3カ月間実施したとすると、実施前と実施後では、QOLを測る尺度のスコアや機能評価などで一定の向上が確認できるかもしれない。しかし、この場合は、「1回目はプランター寄せ植え、2回目は花壇、3回目は野菜畑での収穫、...」というように、それぞれの作業が断片的かつ独立していたとしても得られる効果であって、今回の御発表の言葉をお借りするならば、「一次視覚」の累積の効果を検証しているに過ぎないことが分かる。

 いっぽう「二次視覚」と言った場合は、草花であれ樹木であれ、とにかく、同じ対象植物と中長期的に関わり、その変化を読み取り、さらには園芸活動以外の諸体験と関連づけ、ナラティブを通して厚みのある人生を構築するということまで含まれているように思われる。この部分の研究はまだまだ未開拓であり、また、既存の自然科学的手法だけでは検証できない部分も含まれているように思う。

 余談だが、私自身は、このWeb日記や、楽天版に毎日写真を載せている。最近では、単に美しい花や風景を載せるということよりも、昨年との比較や、数日間の変化などに興味をいだくことが多くなってきた。以下にいくつか例を挙げると、 などなど。少なくとも私個人の体験のレベルでは、二次視覚あるいは高次視覚の獲得は、私自身の日々の楽しみと生きがいの大きな柱の1つとなっている。

【思ったこと】
_80620(金)[心理]人間・植物関係学会2008年大会(15)とりあえずのまとめ

 6月7日(土)〜8日(日)に開催された人間・植物関係学会2008年大会の参加感想を連載してきたところであるが、ちょうど2週間経ったところで、完了できる見込みとなった。

 学会年次大会や各種シンポジウムに参加した時は、その感想を2週間以内に書き終えることを努力目標としているが、今回は何とかこれが達成できた。何事でもそうだが、2週間も経つと記憶はかなりあやふやとなり、また感動もしだいに薄れてくる。今後もこの「2週間ルール」を守るように心掛けたいと思っている。

 さて、この人間・植物関係学会であるが、私自身は、日程の都合がつかなかった2004年国際大会を除いて毎年、年次大会に出席している。  この学会の会員数は200人程度であり、心理学関係の各種学会と比較した限りでは、小規模〜中規模のあたりに相当するのではないかと思われる。この学会の良いところは、すべての口頭発表を一会場で行うことである。日本心理学会第71回大会の参加感想などで書いたことがあるが、何千人もが集まるような大規模学会では、招待講演、シンポ、小講演4件、ワークショップ、ポスター発表などが、20以上の会場に分かれて同時に開催される。しかし、参加者はそれぞれ1つのからだしかないので、そのうちのどれか1つしか選べない。結局、「日本心理学会の大会に出席した」と言っても、どの会場に参加したのかによって、内容はマチマチであり、その組み合わせは概ね20通りの20乗、104857600000000000000000000通りにものぼることになって、学会会員全員が情報を共有することは不可能となる。いっぽう、小規模〜中規模学会であれば、発表会場を1つないし2つに限ることができるので、学会全体としていま何が議論され、どういう発見があり、何が課題となっているのかが見えてくる。これは大変よい傾向だと思う。

 なお、人間・植物関係学会が整備してきた園芸療法士資格認定制度は、新しく設立される日本園芸療法学会へ移譲することが決まっている。新しい学会は12月に設立記念の講演会を開催すると聞いているが、これが順調にスタートすれば、今後は、園芸療法関連の研究発表は、人間・植物関係学会から園芸療法学会のほうにシフトする可能性がある。これによって、人間・植物関係学会のほうは、より広い範囲の「人間・植物関係学」に目を向けることができるようになるだろう。具体的には、森林との関わり(「森林セラピー」など)、農耕、園芸以外の関わり(フラワーアレンジメント、ハーブ、押し花など)が対象となり、参加者も、農学部系や医療系ばかりでなく、文系の学問領域にも広がってくるものと期待される。私のところの文学部では、ごく内輪の研究会としては、自然との共生、例えば万葉集に見られる植物との関わりとか、中国古代思想における自然観などが紹介されることがあるが、本来、そういうテーマも取り上げていくべきであろうと思っている。

 来年度の大会は、京都府立大で開催されるとのことである。今後の発展に期待したい。