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ダイバージョナルセラピー研修会


2008年4月19(土)〜4月20日(日)
千葉県・ユーカリが丘・ユーカリ優都苑

目次
  • (1)はじめに
  • (2)行動の間の相互の連関と行動する意味
  • (3)行動間の連携性の観点から一貫性や努力の積み重ねを見直す
  • (4)何かに人生を捧げている人、仕事と趣味を両立させる人、主体性の無い人
  • (5)グッドフィーリングポスターとアセスメント
  • (6)今こそ求められるDT型のレクリエーション
  • (7)「象牙の船に銀の櫂」とは?
  • (8)マルチセンサリールーム
  • (9)ケアガーデン
  • (10)アニマルセラピー


【思ったこと】
_80420(日)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(1)

 表記の研修会が、千葉県・ユーカリが丘で2日間にわたり開催された。今回は、連続して実施された研修会の最終回となっていて、まとめの講演と参加者各自の事例報告等のプリゼンテーションが行われ、コメンテーターをつとめさせていただいた。

 この日記で何度も取り上げているが、「ダイバージョナルセラピー」【以下、DTと略す】というのは、医療効果をうたい文句にしたような特定の療法の呼称ではない。日本ダイバージョナルセラピー協会(DT協会)のサイトにも記されているように
ダイバージョナルセラピーとは、個々人の独自性と個性を尊重し、よりよく生きることをめざし実践する機会を持てるようサポートし、自分らしく生きたいという要求に応えるため「事前調査→計画→実施→事後評価」のプロセスに基づいて、個々人の“楽しみ”からライフスタイル全般まで、そのプログラムや環境をアレンジし提供する全人的ケアの思想と手法です。
という趣旨で発展してきた「全人ケアの要」であり、私自身は、オーストラリアで開催された2001年の研修セミナーに参加して以来、毎年、何らかのかたちで関連行事に参加してきた。今回の一連の研修会でも一度、講師をつとめさせていただいた。余談だが、この第1回のオーストラリア研修には、ユーカリが丘の開発を推進してこられた会社の役員の方も参加されており、そのこともあって、この町にはDTの考えを取り入れた高齢者福祉施設や、ケアガーデンなどが作られ、DT推進の拠点の1つとなっている。




 上記のDTの趣旨と私自身の専門との共通点としてはまず、「個々人の独自性と個性を尊重」を挙げることができる。これは要するに、集団全体の平均値ではなく、あくまで個々人本位で行動の変化をとらえるという考えと一致している。

 園芸療法を例に挙げると、園芸療法はDTの要素の一部に組み込まれてはいるが、福祉施設の利用者全員に園芸活動のイベントを実施し、平均値の有意差というレベルで何らかの効果が検証されたとしてもそれはDTとは言えない。DTの一環として園芸療法を実施するのであれば、まずは、利用者個々人に対してきっちりしたアセスメントを行うことが肝要である。その上で、利用者の人の中に園芸活動を楽しみとする人が居り、しかしながら老化による体力衰えや何らかの障害によって遂行が困難であることが分かった時に、それぞれの人の現状を考慮し、その人が可能な限り能動的に園芸活動を続けられるようにサポートすることがDTとしての園芸療法ということになる。同じことは音楽療法についても言える。利用者全員に合唱の練習をさせたり、ボランティアの人たちの演奏を聴かせてもそれはDTではない。アセスメントの段階で、かつて楽器の演奏を得意としてしていたが、楽器が壊れたり、演奏仲間が居ないために止めてしまっているという方がおられれば、その方の実情に合わせつつ、演奏活動が再開できるようにサポートすることがDTとしての音楽療法ということになるのだ。そういう意味では、どういうセラピーがDTに含まれるのか、どれは含まれないのかということは画一的には議論できない。あくまで個人本位で、含まれたり含まれなかったりするということになる。




 行動分析学とDTはもともと別物であって、オーストラリアのDT推進者の中でスキナーを知っている人はほとんど居ないように思われる。そのいっぽう、行動分析学の関係者でDTを知っている人も少ない。もっとも、私自身が実行委員長をつとめた2003年の年次大会では、日本のDT協会の現理事長の芹澤氏による公開講演会も行われている。あるいはそれが、両者をつなぐ唯一のイベントであったかもしれない。

 行動分析学がDTに寄与できるとしたら、まずは、アセスメント段階である。行動分析学はもともと、個体本位の行動変化を正確にとらえることを大得意としている。

 第二に重要な点は、「自発性低下」や「うつ傾向」が見られた場合に、その原因を「行動が適切に強化されていないこと」として、強化の原理から説明できることにある。もちろん、老化による体力の衰えや何らかの機能障害の根本原因は医学モデルに求めなければならない。しかし、そのことがダイレクトに「自発性低下」や「うつ傾向」をもたらしているかどうかは別問題である。多くの場合、体力の衰えや何らかの機能障害は、まず、能動的な行動が適切に(=適切な大きさと適切な確率で)強化される機会を奪う。そうなると、行動は消去され、何をやってもダメという事態が起こる。そのことが原因となって、「自発性低下」や「うつ傾向」が生まれてくるのである。であるからして、体力の衰えや何らかの機能障害を適確にアセスメントした上で、能動的な行動が引き続き強化されるように、強化機会を改善し、必要最低限のサポートを付加すれば、従来どおりの生きがいを保つことができる。これがDTとしてのセラピーということになると私は考えている。じっさい、行動分析学を全くご存じない方々にあっても、長年の経験の蓄積の中で、そういう配慮がなされ、適切にプログラムが遂行されたという事例は多々ある。それを理論的に裏付け、より適切な方策を見つけ出すという部分で、行動分析学は大きく寄与できると思っている。




 なお、「事前調査→計画→実施→事後評価(Assessment→Planning→Implementation→Evaluation)」も、大学教育改革でしばしば強調されるPDCAサイクル(Plan-Do-Check-Act cycle)もそうだが、評価対象というのは、もともと入れ子構造になっているものであって、局所的(部品レベル)での改善ばかりでなく、大局的(全人的レベル)での把握や長期的視点にも目を向けないと、真の目的を見失ってしまう恐れがある。また、いくら評価が大切だからとしって、報告書づくりに多大の時間を割くことで本来の業務がおろそかになるようでも困る。何百年か後に、かつて大学があったという遺跡を発掘したら、(研究成果資料ではなく)評価報告書ばかりが出てきたということになっては困るのと同様、福祉施設にあっても、本末転倒にならないような配慮は必要かと思う。

【思ったこと】
_80421(月)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(2)行動の間の相互の連関と行動する意味

 QOL、「事前調査(情報収集と分析、Assessment)、事後評価(比較/ゴールの達成度/プランの修正/再調査、Evaluation)といった諸問題についてはこれまで何度も取り上げてきたが、ここ数年、種々の学会や研究会に出席したり種々の論文や書物に目を通す中で、少しずつ考え方が変化し、かつ、確信を深めつつある視点がある。それは、個々の行動を独立的、断片的に捉えるのではなく、入れ子型や蜘蛛の巣型や植物の根っこ型といったように、相互に関連させ、構造的に捉えて評価していくという姿勢である。

 要するに、評価というのは、加算的な集計で終わるものではない。項目を羅列して、「90項目中80項目が達成できたので、達成率は88.9%まで進捗した」というような平面的評価では十分とは言えない、ということである。

 達成された項目がわずか3つだけであっても、相互に関連していれば、1+1+1=3という和以上のプラスαの成果をもたらすことができる。卑近な例を挙げれば、私自身の趣味の中で、
  • 山登り、トレッキング
  • 植物観察
  • デジカメによる写真撮影
  • Web日記(ブログ)執筆
は、かなりの部分を占めているが、これらは相互に関連し、相互に強化しあうという点で、関連を保っていると言うことができる。つまり、山登りに行って、そこに咲いている花を観賞し、それをデジカメで撮影し、Web日記に掲載するというように、個々の行動は断片的ではなく、一連のセットとして意味をなしている。といっても、別段、Web日記執筆のために写真を撮り、写真を撮るために植物を観察し、植物観察のために山に登っているというわけではない。どれかが目的でどれが手段というわけでなく、双方向に強化しあっていると見なすべきであるかと思う。

 上記はあくまで私個人の例であるが、人によっては、デジカメで写真を撮る代わりに、絵を描いたり、作曲したり、俳句や和歌を作るという人もいるだろう。また、山登りの代わりに、公園を散歩したり、自宅の庭を眺める人もいる。Web日記執筆の代わりに、同好会で作品を披露する人もいる。




 いま上に挙げたのは、相互強化型の関連性を示す例であったが、自分自身の中長期目標を達成したり、何かのプロジェクトで任務を果たすという場合には、手段/目的関係がより明確になってくる。この場合、手段としての行動は、達成にどれだけ寄与したかという点で第一義的に強化される。

 手段/目的関係は、短期的で局所的な評価に終わるものではない。一部の宗教家、思想家、革命家のように、かなり具体的な究極目標があって、それに基づいて日々の行動を律している場合もあるが、そこまで至らなくても、何かしらの中長期的な方向性に基づいて、個々の行動が評価され強化されるということは誰にでもあることかと思う。

 そのさい、短期的・局所的な評価と、長期的・大局的な評価は必ずしも同一方向に向かうとは限らない場合がある。例えば、より効率的な自動車生産ラインを構築することは、コストの低減させ販売台数を増やすという枠内で評価される。しかし、自動車が多数出回ることが、化石燃料の大量消費や地球温暖化にどういう影響を及ぼすのかは、別の形で評価される。ケーキ職人のスキルの場合も同様。ケーキ職人がより美味しいケーキを作ろうとして身につけたスキルは、どれだけ美味しいケーキが作られたか、という枠の中で評価される。しかし、ダイエットをしている人から見れば、美味しいケーキを好んで食べることは必ずしもプラスにはならない。このように、入れ子構造型の行動では、ある枠内での評価と枠外での評価の結果が不一致を起こすことは多々あり、またそれは、同一人物の行動の中でも起こりうるものである。




 行動の間の相互の連関があることは、行動に「意味を与える」ことと殆ど同義であると言ってよいかと思う。もともと「意味」というのは、複数の事象を比較し、関連性を確認する中で形成されるものである。宇宙探検をしていて、得体の知れないものに出合ったとしても、それが、他のいかなるものとも比較できなければ、探検者はその対象に、「得体が知れない」という以上の意味を与えることができず、報告をすることもできない。ま、そこまで極端に考える必要は無いだろうが、とにかく、断片的な行動を単発的に生起させているだけでは、いくらそれが好子随伴によって適切に強化されていたとしても、それだけでは刹那的で、瞬間だけの生活に終わってしまうことになる。

【思ったこと】
_80422(火)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(3)行動間の連携性の観点から一貫性や努力の積み重ねを見直す

 昨日の続き。

 オペラント強化の理論は、単一種類の行動の強化、つまり、個々の反応とその直後に随伴する結果(変化)という行動随伴性を基本として成り立っている。しかし、じっさいの日常生活では、ただ一種類の行動ではなく、複数種類の行動が相互に連携したり、また時には優先順位を争いながら競合するような形で次々と生起している。それゆえ、QOLの評価においても、単発的な行動リストにチェックを入れるのではなく、種々の行動がどう連携しているのか、あるいは競合/葛藤状態にあるのかを分析する必要がある、というのが、私の主張の主旨である。

 ここでいう「行動間の連携」とは
  1. 複数の行動を適切に組み合わせることで大きな結果が得られるような場合:もの作り/研究活動/プロジェクト型作業などなど
  2. ある順序に従って、複数の行動を段階的に積み重ねることで大きな結果が得られる場合:受験勉強/スポーツ競技/種々のスキルの習得など
  3. 複数の行動が循環型(あるいは円環型)に次の行動機会を与えていく場合:「種まき→生育→開花→収穫→翌年の種まき」というような一連の園芸作業など
  4. 複数の行動が相互強化の関係にある場合:プレマックの理論として知られるような強化の相対性。
などのことを言う。但し、4.のプレマックの理論については、私は最近、あれは強化ではないのではないか、別の形で説明できるのではないか、という考えを固めつつあるが、ここではこれ以上深入りしない。




 ここで念のためお断りしておくが、今回のテーマはあくまで、ダイバージョナルセラピー研修会に関連し、高齢者のQOLや介護支援のためのアセスメント(事前調査)を念頭に置いて考察しているのであって、一般的な「生きがい論」を展開しているわけではない。とはいえ、高齢者と若者の」生きがい論」に本質的な差違があるわけでは決してない。あるとすれば、高齢者の場合、若者と違って
  • 余命が限られていて、40年や50年も先のことまでは見通しにくい。
  • 体力の衰えや、種々の障害によって、やろうと思ってもできないことが増えてくる。
  • 努力の積み重ねが必ずしも実を結ばないこともある。
  • 労働に従事する必要は必ずしもない。
  • 「〜をしてもよいが、しなくてもよい」という任意性の機会が増える(←現実には、逆に制約が多くなる)
  • 自立困難となり、一定のサポートが必要になってくる。
  • 弁別や記憶(記銘、保持、想起など)に障害が出てくる。
といった特徴が、「運用上の制約」を課しているというだけのことである。




 元の話に戻るが、行動間の連携性という視点を持つことは、
  • 一般に、目標を持つとイキイキしてくるのはなぜか?
  • 努力の積み重ねにはどういうメリットがあるのか?
  • 一貫した行動をとることは、そうでない場合に比べてどういうメリットがあるのか?
などの問題を、「行動的」に解明できる可能性をもたらしてくれる。要するに、「目標を持ちなさい」とか「努力の積み重ねは大事です」というのは、別段、校長先生の訓辞として承らなければならない性質のものではない。目標を持ったり、努力を積み重ねたり、一貫した行動をとることは、種々の行動の連携を可能にし、新たな強化機会を生み出してくれる力となるのである。このことは、若者のみならず、高齢者にもあてはまるはずだ。個々の断片的な行動を個別的に強化するのではなく、できる限り連携させることができれば、点としての行動ではなく、線、さらには面積や体積をもった行動に発展させることができる。そのことがまた、「じぶん」の存在を保つことにもつながる。

【思ったこと】
_80423(火)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(4)何かに人生を捧げている人、仕事と趣味を両立させる人、主体性の無い人

 昨日の続き。ちなみに、この連載は、4月19日〜20日に行われたダイバージョナルセラピー研修会の参加感想を述べることを執筆の目的としているが、(2)以降は、本題から少々脱線しており、高齢者のQOLや、そのアセスメントの指針について私見を述べる内容となっているので、ご留意願いたい。

 さて、ここのまでのところで私が言いたいのは、
  1. 目標に向かって種々の行動(=努力)を積み重ねていけば、行き当たりばったりの行動では得られないような大きな成果(=最終目標の達成)を得ることができる。しかし、個々の努力は、決して、最終の大きな成果によって強化されているわけではない。個々の行動(=努力)が、階段型、あるいは入れ子構造で連関することで、相互に強化したり、マロットの言うような嫌悪的統制が働いたりして、全体として、アクティブな、「イキイキ」した状態が作り出されているのである。
  2. 人々が概して行動の一貫性を保とうと努力するのは、別段、特定の信念・思想に支えられているからでも、倫理的要請に従わないと嫌悪的結果を招くからというわけではない。第一義的には、恒常的な環境のもとでは、同じパターンの行動が強化されやすいため、結果的に、同じ機会条件・弁別刺激のもとでは同じパターンの行動が生じやすくなり、第三者からみて一貫性があるように見えてしまうということがある。加えて、一貫性を保ったほうが、他者との関係がうまく機能し、コミュニティの中でポジティブに強化される機会が増えているので、結果として、そのように振る舞うということがある。
といった点である。

 1.は、最終目的の達成よりもプロセスが大切という意味にもとれる。これはスポーツ大会で優勝した人が、「優勝したことは嬉しい。しかしそれは結果として得られたものであって、自分にとって大切なのはそれに至る努力のプロセスである」などと表明していることからも示唆される。

 2.で言いたいのは、種々の行動間の一貫性を保とうするのは、別段、そのほうが正しいという倫理基準があるからではないということだ。単に、そのように振る舞うことが強化されているだけのことである。日常生活場面では、その時々で態度が豹変する人よりは、いつも同じパターンで接してくれる人のほうが歓迎される。気まぐれで何を始めるか分からない王様よりは、多少偏屈でも、一貫した反応を示す王様のほうが家来は安心できるだろう。

 もっとも2.は、絶対ではない。時代の変わり目では、時代の流れに即応して臨機応変に対処できる人のほうが適応的とも言える。また、あまりにも一貫性に固執すると、頑固で不器用で、空気の読めない人のように扱われてしまう。




 日常生活の諸行動はなんらかの形で連関し、大きなまとまりを構成する。そのまとまりがたった1つであって、しかも特定の向きに方向づけられているような人は、「○○に人生を捧げている人」と評される。1つのまとまりはあるが、向きが円環状に循環し自己完結しているような人は、「○○に没頭している人」とか「自分の世界に浸っている人」というように評される。

 行動の大きなまとまりが、複数に分かれている人の中には、「仕事と趣味を両立させている人」、「多様な趣味を持っている人」が含まれる。但し、1人の人間は同じ時間内には1つの行動しかできないので、「まとまり」と「まとまり」はしばしば競合し、どちらを優先すべきかという葛藤状態をもたらす。

 最後に、何のまとまりもなく、その場その場で行き当たりばったりに暮らしている人というのも皆無とは言えない。何らかのまとまりがある人は、環境の差違を超えて、1つの行動を継続させようとするが、行動にまとまりがない場合は、それぞれの状況・文脈の違いに応じて、環境からダイレクトに強化されやすくなってしまう傾向が出てくる。それゆえ、傍目からは、「主体性の無い人」、「環境に流されて受身的に生きている人」というように見られることが多い。

 以上述べた大ざっぱな分類は、主として若者や現役世代にあてはまるものと言えるが、高齢者福祉の問題を考える場合でも、本質はそれほど変わらないはずだ。但し、すでに述べたように、高齢者の場合には、努力の積み重ねで何かを達成することや、一貫性を保つことが次第に困難になっていく。とにかく、その変化にどう対応していくのかが大切。くれぐれも、断片的、個別的な行動評価に終わらないように気をつけなければならない。

【思ったこと】
_80424(木)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(5)グッドフィーリングポスターとアセスメント

 ダイバージョナルセラピー研修会の会場の壁には、受講生各位が作成した「グッドフィーリングポスター」が貼られていた。雑誌やチラシ広告、写真プリントなどを自由に切り抜いて、1枚の画用紙の中に、心地よいと感じられる世界を構成するという課題であったようだ(←正確な課題内容は確認していないので不確か)。

 これらのポスターを拝見して面白いと思ったのは、その内容がまことに多種多様であるということであった。大ざっぱに分類させていただくと、まず、人間がいっぱい写っているポスターと、人間が全く居ない写真を載せているポスターに二分できるようであった。

 人間がいっぱい写っているポスターはさらに、子どもたち、お年寄り、自分自身、スポーツ選手など、被写体によってさまざまに分類できそう。いっぽう、人間が全く居ない写真のほうも、自然風景、動物、食べ物(ケーキ、豪華料理、お酒など)、建築物、家具など、さまざまであった。

 ちなみに、もし私自身が、グッドフィーリングポスターを作成するとしたら、おそらく、こちらのアルバムに掲載しているような、自然風景ばかりをたくさん載せることになるだろう。私の場合、人間がたくさん集まってワイワイやっているようなところは、皆がどんなに楽しそうにしていてもイマイチ性に合わない。できるだけ人の少ないところで、大自然と向かい合いながら、静かに時を過ごすのが最高のグッドフィーリングと言える。そのほか、犬や猫などの動物と接するのも好きであるが、家具や建造物、小説、絵画、音楽には殆ど興味を持てない。ケーキや豪華料理は好きだが、メタボの危険がますます増しているので、そういうものを見てグッドフィーリングというワケにはいかない。お酒も、付き合い程度で飲むことはあるが、自分から飲みたいと思ったことは一度も無いなあ。

 今回の作品の中で、自然風景と露天風呂の写真ばかりを貼られたポスターがあった。どの方か存じないが、たぶんそういう方とは趣味が一致するのではないかと思われる。




 ダイバージョナルセラピーでは「事前調査→計画→実施→事後評価」という4つのプロセスが重視されている。このうち最初の事前調査(=アセスメント。情報収集、インタビューなどによる分析)では、利用者さん御本人やご家族の方からの聞き取りに基づいて、御本人が楽しみとしていること(あるいは、かつて楽しみとしていたこと)が詳細にチェックされるが、例えば、一口に「観光が楽しみ」といっても、都市観光と自然風景主体の観光では内容が大きく異なる。いっそのこと、グッドフィーリングポスター作成の時に使ったような写真の切り抜きをカードに貼って並べ、「このなかから好きなカードを選んでください」としたほうが、御本人の楽しみや興味が詳細に把握できるのではないか、という気がしてきた。

【思ったこと】
_80425(金)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(6)今こそ求められるDT型のレクリエーション

 研修会1日目午前中は、芹澤理事長からダイバージョナルセラピー(以下、DTと略す)についてのまとめ、最近の情勢、いくつかの体験談などが語られた。

 まず、DTが「事前調査→計画→実施→事後評価(Assessment→Planning→Implementation→Evaluation)」という4つのプロセスを重視していることが再度確認された。

 このうち第一段階のAssessmentについては昨日も言及したように、言葉による聞き取りだけでは分かりにくいことがある(例えば、「観光に興味がある」と言っても、観光にはさまざまなタイプがある)。また、事前調査の時点では全く興味がないようなレクリエーションであっても、勧められてやってみたら「こんなに楽しいことがあるとは思っていなかった」というような新たな感動が生まれる場合もあるので、現状を固定してしまうのは危険である。また、利用者の要請になんでもかんでも応じるということには限界がある。スタッフでできることを考えていくほかはない。

 第二段階のPlannningでは、ゴールを設定し、クライエントと共に計画していくことが大切。

 PlannningからImplementaitonに至る際には、コミュニケーション、コーディネーション、ネットワーキングにも配慮する必要がある。




 続いて、レジャーアセスメントの基本についてのまとめがあった。ここでは高齢者対象のレジャーが中心となるので、身体的、認知的、社会的、環境的な諸条件や制約を考慮した内容が求められる。

 ところで、最近、介護福祉士のカリキュラムの中で、レクリエーション関連部分が一部改正され、一部が生活技術援助に置き換わったという。門外漢のため詳しい経緯は分からないが、単に、集団的で一斉に行うようなレクリエーションであれば、DTの本来の主旨には反するものであるし、殆ど役に立たなかったと見なされていた可能性がある。であるならば、今後は、利用者個々人に合わせた、多様なレジャー/レクリエーションの創造が求められることになり、まさにDTの出番がやってきたということになる。



 ※写真は、DTのプログラムの1つ、マルチセンサリールーム(Relaxation via Multi-Sensory Room) 。写真説明は後日。

【思ったこと】
_80426(金)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(7)「象牙の船に銀の櫂」とは?

 芹澤理事長の講演ではこのほか、たあたんの効果や、ボール、照明グッズ、ポンコツ車などのさまざまな活用法が紹介された。

 「たあたん」という赤ちゃん人形のことは、DTに関与した当初から知っているが、特に高齢者の女性にとって大きなインパクトがあるようだ。もっとも私自身などは、子どもたちが小さい頃の世話はもっぱら妻まかせにしてしまっていて、何度かお風呂に入れたこと以外は、あまり記憶に残っていない。赤ちゃんの世話をちゃんとしなかった男性が、高齢になってから赤ちゃん人形に関心を示せるかどうかは定かではない。

 もう1つ、DTで活用できる遊具やグッズは、必ずしも高価なものである必要はなく、また、当初の用途とは異なる使い方について創意工夫することも大切というような話があった。国土の広いオーストラリアでは、車の点検・整備は自力でやらなければならない。それゆえ、施設の敷地内にポンコツ車を置いておくと、高齢男性が興味を示すことが多いというような話もあった。もっとも、日本人の男性は車ところか、最近では自転車のパンク修理さえ自力でできないことが多いように見える。それぞれの国情や世代に合わせた対応が必要であろう。

 講演の最後のあたりでは、西條八十のカナリアの歌詞への言及があった。歌詞の4番の「象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮べれば 忘れた唄をおもいだす」というのがまさにDTの精神であり、これぞDTの歌と言ってもよいというようなお話であった。

 私自身ももちろんこの歌は知っているが、歌詞の意味を深く考えたことは無かった。そもそも、「象牙の船に銀の櫂」などというと、相当高価でめったに手に入らないもののように思えてしまうが、このあたりのことをネットで検索してみたところ、「唄を思い出すのに特別なものは要らない。ちょっとしたことが「象牙の船」になり、「銀の櫂」になり、そして「月夜の海」になる。」という解釈も紹介されていた。DTでも、何も高価な用具は不要。想起のきっかけとなるちょっとした品への心遣いが、「象牙の船」、「銀の櫂」、「月夜の海」になると考えるべきであろう。


 ※写真は、DTのプログラムの1つ、ケアガーデン 。写真説明は後日。

【思ったこと】
_80428(月)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(8)マルチセンサリールーム

 研修期間中に、「ダイバージョナルセラピー推進」を標榜している高齢者施設を見学する機会があった。

 その1つは、4月25日の日記にも紹介したマルチセンサリールーム(Relaxation via Multi-Sensory Room)、もう1つはケアガーデンであった。

 これらの設備は2001年のオーストラリア研修の際にも、DTの本場オーストラリアでも実際に見学したことがあった。

 マルチセンサリールームというのは要するに五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を刺激するリラクセーション設備であり、認知症ケアに効果があるとされている。オーストラリアで見学したルームは10人くらいが入れるかなり規模の大きいもので、
  • 視覚:動きのあるカラフルなCG画像(私の世代から見れば、かなりサイケ調)の投影/カラフルに変色する光ファイバー
  • 聴覚:たぶんリラクセーション用だと思ったが、私の感覚では、精神高揚型に聞こえた
  • 嗅覚:ハーブの香り
  • 味覚:いろいろな味の飴を舐める
  • 触覚:ザラザラとした感触、温感など
といった工夫が施されていた。今回見学したものは1〜2人用の小規模なものであったが、ほぼ似たような仕掛けが施されていた。




 この種の設備は、レスポンデント型の癒し空間の1つとして、あるいは非日常的な感覚刺激体験の場として何らかの効果をもたらすとは思うが、私自身は「環境への能動的な働きかけを強化する」というオペラント型の生きがい(いわゆる「ドーパミン」タイプ)をテーマとしていることもあり、実証データについての情報を持ち合わせていない。

 いずれにせよ、一定時間をセンサリールームで過ごすこと自体の効用よりも、利用者がそのような体験を希望するかどうか、またそのような希望が出た場合に、どのようにプランニングするかどうか、つまり全人的な生活支援プログラムの中にどう体系的に位置づけていくのかということのほうが大切な課題となるとは思う。

 また、これは前にも描いたが、何もオーストラリア直輸入のセンサリールームを設置しなくてもよいのではないかと思う。音楽や映像は利用者の好みに合わせて変える必要があり、そのための事前と事後の評価が求められる。例えば聴覚に関しては、西洋人はダメだが日本人には好まれるとされる秋の虫の声などを入れてもよいし、NHKラジオで放送されている「音の風景」を加えるのも一案。画像のほうも、田園風景をアレンジしたものがあってもよいのではないかと思う。

 それから、以前、スイスのホテルに泊まった時に体験したことがあったが、サウナ風呂や蒸し風呂の中にあのような仕掛けを入れると、単にお風呂に入る時に比べていっそう、リラクセーション効果が増すことがあるように思える。というか、露天風呂などは、もともとそういう目的で設計されたものとも言える。高齢者施設で、高温のサウナや蒸し風呂を設置することは健康上問題が多いかもしれないが、低温のミスト風呂ならば大いに結構であるし、お湯型のお風呂よりも介助者の物理的負担が少なくて済む可能性がある。

【思ったこと】
_80429(火)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(9)ケアガーデン

 4月19日の午後に、「ダイバージョナルセラピー推進」を標榜している高齢者施設のケアガーデンを見学する機会があった。この施設は、翌日のプレゼンテーションの会場にもなっており、その休憩時間にも何度か一人で散策することができた。なお、ここで言う高齢者施設とは、介護老人保健施設であり、すぐ隣には同一法人が運営するグループホーム(認知症対応型共同生活介護、介護予防拠点)も併設されていた。
 まず、ケアガーデンの正面入口は4月26日掲載の写真のようになっている。ここは入場料無料で、一般市民にも開放されており、また花壇整備に参加するボランティアもおられるということだった。ケアガーデンにはもう1つ、グループホーム側からの入口もあり、じっさい、車いすに乗ってご家族と一緒に散策に来られている方もおられた。

 写真左上の案内図にもあるように、このガーデンは、単なる庭園ではなく、キッチンガーデン(野菜などの収穫、写真右下参照)、フィーリングガーデン(ハーブなどの香り)、フラワーガーデン、プラクティスガーデン(写真右上参照。車いすで作業可能、歩行訓練設備もある)、コンタクトガーデン(地域の方と一緒に作業)、日本庭園(写真左下参照。景観と森林浴)など、いくつかのゾーンに分かれていた。


 DTを目的としたケアガーデンの設備としては第一級と言ってもよいかと思うが、今回は残念ながら、設備のみの見学であって、実際の活動場面に接することはできなかった。利用者個々人が、どういう形で園芸活動に参加しているのか、そのためのプログラムがきっちり確立されているのか、ということが重要であろう。

 あと、若干気になったのは、介護老人保健施設からこのケアガーデンに出かけるためには、いったん玄関を出て(建物から外に出るにはパスワード入力で自動扉を解錠する必要あり)で、道路沿いの歩道を通らなければならず、利用者が気の向くままに自由に園内に出入りできるような状況にはなっていないように見えた点である。また、居室は必ずしもケアガーデンの方向を向いておらず、のんびりと風景を楽しむ状況にも無かった。

 このあたりは高齢者施設の種別によっても異なるかと思うが、認知症対応型のケアガーデンを目的とするのであれば、開放型ではなく、施設内で利用者が自由に出入りできるような環境を整備しておいたほうがよい。オーストラリアの施設(文章はこちら)では、施設外への出口は施錠されていたが(←但し、そこが出口であることが分かりにくくなっている)、ガーデンは自由に出入りできるようになっていた。

 園芸療法の特徴と効用については、6月に行われる人間・植物関係学会2008年大会(2008年6月7日(土)〜8日(日)、滋賀大学教育学部)でも多数の発表があると思われるので、その時にまた、考えを述べようと思っている。

【思ったこと】
_80430(水)[心理]ダイバージョナルセラピー研修会(10)アニマルセラピー

 4月19日の午後に、ケアガーデンの一角に、ウサギ、イヌ、ヤギ、ロバ、カメなどの動物たちが出現し、自由に触ることができた。月に1度の「アニマルの日」のイベントということであった。
 以前、オーストラリア研修旅行に参加した時に、セラピードッグが施設内を駆け回っているのを見たことがあるが、DTのプログラムの一環としてアニマルセラピーがどのように活用されているのかについては情報を集めたことが無く、詳しいことはよく分からない。

 ここの施設の場合、月に1度程度、移動動物園の業者さんを呼んでふれあうということであり、施設として動物を飼育しているわけではなかった。また、移動動物園の性格上、いずも同じ動物を連れてくるわけではない。その時に体調が良く、またおとなしい動物を選んで連れてくるというような話を伺った。

 昨日述べた園芸療法の場合もそうだが、事前、事後の評価をきっちりした上で、個人のニーズや要望に合わせて、動物とのふれ合いをプログラムにどのように組み込んでいくのかがカギとなるであろう。




 ところで、一口にアニマルセラピーと言っても、長期間にわたり同じ個体とふれあう場合と、個体を識別せずに不特定多数の「かわいい」動物とふれあう場合では、及ぼす効果は異なってくるはずだ。前者のほうがインパクトは強いが、その動物が突然居なくなったり、死んでしまった時の悲しみも、それだけまた大きい。

 私自身も、かつて学生の頃、近くの動物園を何度も訪れたことがあったが、アシカ、キバタン、ヒグマ、エミューなど、個体が識別できるようになるとそれだけ馴染みになる一方、そういう動物たちが死んでしまったという知らせを聞くとその分、悲しみも大きい。夕食後の散歩時によく出会ったノラネコが突然姿を消した時にも随分と心配したものである(幸いなことに、その猫とは333日ぶりに再開したことがあった)。

 ま、左上の写真にあるような癒し系の動物たちは、一期一会でかわいがったほうが無難。馴染みになってしまうと行く末ばかり心配してしまう。

 余談だが、高齢者の施設では、いろいろな水生生物を水槽に入れて飼うというのも一案ではないかと思っている。そのほうが、長期間同じ個体と関われるし、(私などは)一日中眺めていても飽きることはない。じっさい私自身も、ベタ、アカヒレ(コッピー)、座主川から採ってきた魚、スジエビ、ヌマエビなどを飼っているが、なかなか良いものだ。