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日本心理学会第71回大会


2007年9月18日(火)〜9月20日(木)
東洋大学・白山キャンパス

目次
    • (1)今年もまた血液型論議
    • (2)心理職国資格化は、百家争鳴(百家迷走?)
    • キャンパスの中の「カルト」
      • (3)キャンパスの中の「カルト」(1)
      • (4)キャンパスの中の「カルト」(2)
      • (5)キャンパスの中の「カルト」(3)
      • (6)キャンパスの中の「カルト」(4)カルトの何がイケナイのか
    • 構造構成主義の展開
      • (7)構造構成主義の展開(1)
      • (8)構造構成主義の展開(2)
      • (9)構造構成主義の展開(3)
      • (10)構造構成主義の展開(4)
    • 環境保護行動を促す説得的コミュニケーション
      • (11)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(1)
      • (12)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(2)
      • (13)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(3)
      • (14)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(4)
      • (15)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(5)
    • ネガティブ”な要因のポジティブな生かし
      • (16)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(1)
      • (17)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(2)
      • (18)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(3)
      • (19)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(4)
      • (20)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(5)
      • (21)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(6)気晴らしの効用
      • (22)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(7)まとめ
    • エビデンスにもとづく臨床
      • (23)エビデンスにもとづく臨床(1)
      • (24)エビデンスにもとづく臨床(2)「医療臨床の領域から」
      • (25)エビデンスにもとづく臨床(3)
      • (26)エビデンスにもとづく臨床(4)
      • (27)エビデンスにもとづく臨床(5)企業におけるメンタルヘルスの領域から
      • (28)エビデンスにもとづく臨床(6)
      • (29)エビデンスにもとづく臨床(7)
      • (30)エビデンスにもとづく臨床(8)発達障害領域におけるエビデンスに基づいた臨床と我が国における課題
      • (31)エビデンスにもとづく臨床(9)
      • (32)エビデンスにもとづく臨床(10)
      • (33)エビデンスにもとづく臨床(11)
      • (34)エビデンスにもとづく臨床(12)
      • (35)エビデンスにもとづく臨床(13)エビデンスに基づく社会へ
      • (36)エビデンスにもとづく臨床(14)まとめ
    • 日本人は集団主義的か?
      • (37)日本人は集団主義的か?(1)
      • (38)日本人は集団主義的か?(2)
      • (39)日本人は集団主義的か?(3)
      • (40)日本人は集団主義的か?(4)「母に貸してくれた」と「母は寒い」
      • (41)日本人は集団主義的か?(5)「自分は」という表現
      • (42)日本人は集団主義的か?(6)あべこべ日本人論的エピソード
      • (43)日本人は集団主義的か?(7)「日本人=集団主義」エピソードへの反証
      • (44)日本人は集団主義的か?(8)国別の個人主義ランキング
      • (45)日本人は集団主義的か?(9)質問紙による日米比較研究
      • (46)日本人は集団主義的か?(10)同調行動の実験
      • (47)日本人は集団主義的か?(11)囚人のジレンマ実験
      • (48)日本人は集団主義的か?(12)リッカート尺度では文化差を検出できない
      • (49)日本人は集団主義的か?(13)場面想起法による検討
      • (50)日本人は集団主義的か?(14)内集団効果と同調率
      • (51)日本人は集団主義的か?(15)内集団効果と協力行動
      • (52)日本人は集団主義的か?(16)中間総括
      • (53)日本人は集団主義的か?(17)日本人論に基づく日本叩き
      • (54)日本人は集団主義的か?(18)経済学からの反証
      • (55)日本人は集団主義的か?(19)経済学における学術レベルの論争と通説
      • (56)日本人は集団主義的か?(20)「系列」論議/行政指導や政策の有効性
      • (57)日本人は集団主義的か?(21)年功賃金の国際比較
      • (58)日本人は集団主義的か?(22)大学教員と年功賃金
      • (59)日本人は集団主義的か?(23)日本は終身雇用か
      • (60)日本人は集団主義的か?(24)集団重視であると誤解させたもの
    • (番外編)日本心理学会の参加感想文、連載60回、400字詰め215枚をもってやっと終了


【思ったこと】
_70918(火)[心理]日本心理学会第71回大会(1)今年もまた血液型論議

 日本心理学会第71回大会が、文京区白山の東洋大学で開催された。

 日本心理学会は心理学関係の学会としてはトップクラスの規模であり、大会1日目午前には、招待講演、シンポ、小講演4件、ワークショップ17件、ポスター発表がほぼ当時に開始された。しかし、体が1つしか無い以上、その中から1つを選ばなければならない。いろいろ迷ったが、昔からの経緯もあり、大村政男先生の、

●血液型性格研究はナンセンスか〜東洋大学:杉山憲司教授に応える〜

というテーマの小講演に参加させていただくことにした。テーマ自体はきわめて挑戦的な印象を与えていたが、朝一番であったことと、同時間帯に並行開催される招待講演などと競合したせいか、開始時の聴衆は20名前後、終了時でも35名前後、ということで、比較的こじんまりとしたイベントであった。




 さて、今回の「挑戦的な」タイトルが出てきた経緯であるが、タイトルに固有名詞が出てきたのは、本大会が東洋大学で開催されたということにちなんだものかと思う。かつて某学会で、東洋大学の先生から「血液型」を心理学の研究として扱うのはナンセンスだという意見が出されたことがあったので、今大会を機会に、大村先生ご自身の四半世紀に及ぶご研究を振り返り、「血液型」研究にもそれなりの意義がありますよということをアピールしたい、というのがご講演の趣旨であると理解した。

 なお、杉山憲司先生の紹介サイトには、代表的御著書として 『パーソナリティ形成の心理学』(青柳肇・杉山憲司(編著) 福村出版 1996)が挙げられてており、
パーソナリティは血液型で判断されるような単純・不変な理解は間違っている。パーソナリティ形成の仕組みや要因についてまとめた、やや専門的な本。
という内容紹介があった。しかし、今回の大村先生の講演は、杉山先生の「パーソナリティは血液型で判断されるような単純・不変な理解は間違っている」という主張に直接反論したものではなく、全体としては、2005年大会のご講演の内容をコンパクトにまとめた、という印象が強かった。




 今回の大村先生の論点を私なりにまとめると、
  • 血液型と気質の関連を世界で最初に言い出したのは原来復(はら きまた)という医者。大正5年7月25日付けの『医事新聞』に「血液ノ類属的構造ニ就テ」という論文が掲載された。但し内容は、原の個人的体験や直観に依るところが多い。
  • 大正の末期から昭和の初期にかけて陸軍の軍医たちが血液型と弊誌の個性の関連に熱を入れるが、なぜか、原の論文は引用されていない。
  • その後、古川竹二(1891-1940)が、二分法(OとBはactive、AとABはpassive)、さらには四分法で各血液型の特徴について論じる。ちなみに、大村先生の追試では、古川の二分法は支持されなかった。古川の質問紙調査では、古川の意図をもともと知っていた被験者が回答したため、バイアスが生じたと考えられる。
  • 血液型性格研究は通俗的な読物のために汚染された。その通俗化に貢献したのが能見正比古。能見正比古は大宅壮一から「これをやると儲かるぞ」と言われていたという伝聞情報あり。
  • 能見正比古は古川学説を滅茶苦茶に変身させてしまった。しかし、この人がいなければ血液型問題は現在のように隆盛にはならなかった。
  • そのいっぽう、科学は通俗を軽蔑する。このことによって、心理学者の多くは血液型性格判断を頭ごなしに軽蔑するようになる。しかし多くの「血液型」批判者は、能見正比古やそれに類した好事家によって喧伝されたものしか知らない。
  • 心理学者の多くは「血液型」には批判的だが、千葉胤成、田中秀雄のような「肯定派」もあった。田中秀雄は血液型と気質の検証は心理テストではダメであり、「本質直観」が必要と主唱。心理学意外の分野では、藤田紘一郎や竹内久美子が、血液型や体質型を重視。
といったことになるかと思う(文責は全て長谷川)。余談だが、今回の小講演には、古畑種基氏のご子息の和孝氏も出席されており、古畑種基氏の血液型を訂正されるというハプニングがあった。

 以上伺った限りの内容に関しては、私としては、2005年9月11日の日記に記したこと以上には、付け加えて申し上げるべきコメントはあまりない。

 通俗化による汚染部分を取り除きつつ、純粋な学術研究として、血液型が気質のどの部分と関連しているのかということを検討すること自体は私も、決してナンセンスだとは思わない。但し、研究の重要性は単なる知的興味だけにゆだねられるものではあるまい。特定の血液型者が新型インフルエンザに感染しやすいというような危険性があるならば、ワクチンの効率的接種のために真っ先に取り組むべき研究テーマとなるだろうが、そのような生命に関わることではなく、「ある行動が生じる確率が血液型の違いによって0.1%違う」という程度のことを明らかにしたとして、それが人類の福祉に役立つとは思えない。むしろ、「0.1%の差」が誇大視され一人歩きして差別偏見を助長してしまうリスクのほうが大きい。

 というようなことから、私は、卒論生が自らの疑問を解決する目的で研究する場合、あるいは好事家が私財を投じて研究をする限りであれば、別段ナンセンスだとは思わない。但し、同じ「血液型」テーマであっても、科研費のような血税を投入して、巨大ブロジェクトを立ち上げる必要があるかと問われれば、そういうものはナンセンスであり税金の無駄遣いだと言わざるを得ない。

 心理学者が「血液型」に関わるとしたら、それは、
  • 通俗化された「血液型性格判断」がテレビ、新聞、週刊誌等で喧伝され、そのことに影響を受けた差別偏見が社会問題となってきた場合に、適切な批判を加える。
  • パーソナリティとは何かを考えたり、批判的思考を鍛えるため(こちらに関連論文あり)の教材として「血液型性格判断」を利用する。
  • 「血液型」喧伝者のロジックがなぜ流布しやすいのか、人はなぜ、あのように、ラベルをつけて他人に接しようとするのか、などについての社会心理学的研究
というあたりに主眼を置くべきであろうというのが、私の一貫した考え方である。

【思ったこと】
_70919(水)[心理]日本心理学会第71回大会(2)心理職国資格化は、百家争鳴(百家迷走?)

 大会1日目(9月18日)の午後はまず、

●心理職の国資格化の最近の動向とゆくへ

という、認定心理士会企画プログラムに参加した。

 このテーマは昨年の第70回大会でも取り上げられている。その後の進展が気がかりであったので、最新情報を得るために出席した。なお、この企画のすぐ後に

●心理学教育と社会・資格との接点〜心理学教育に何が求められているか〜

という特別シンポが開催されていたが、私は次回取り上げる別シンポに参加しており拝聴することができなかった。




 今回の企画では、社団法人日本心理学会理事長の岩崎庸男氏の挨拶に続き、織田正美・日本認定心理士会会長(前・社団法人日本心理学会理事長)の講演が2時間近くにわたって行われた。

 講演の前半は、臨床心理士及び医療心理師法案(2005.7.5.議員連盟合同総会にて承認)の要点、論点の紹介。後半は、2005年7月27日に上程直前で断念に至った経緯、及びその後の動きについての経緯説明であった。但し、最近の動きについては不確定の部分もあり、ここでは一部、言及を避けることにさせていただく。




 講演前半部分の法案要項骨子は、全心協(全国保健・医療・福祉心理職能協会)内の資料サイトにも掲載されているので、そちらをご参照いただきたい。

 この法案要綱骨子は議員連盟合同総会にて承認されたという点でオーソライズされたものとも言えるが、いくつか曖昧な点が残っているという。

 1つは、医療心理師関連の施設指定や登録の主務省が「厚生労働省」と明記されているのに対して、臨床心理士のほうは「主務省」、「主務大臣」という表記になっており、さらには主務省令で定める詳細部分に不明点があること。そのほか、後でも言及するが、この法案はあくまで名称独占資格であって、業務独占資格の法案ではないことについての種々の議論、医師の関わり方についての問題等が以前として論点になっている模様である。この法案の上程が断念されたのは「郵政解散」のとばっちりという見方もあるが、実際の断念はそれ以前であり、主として、医療系の団体(「日精協」など)の反対声明に対して十分に対応できないうちに郵政民営化論議一色となり、上程の目処が立たなくなってしまったというのが実情であったと推測される。




 2005年7月以降の動きはきわめて流動的となった。そんななか、2006年11月4日に、社団法人日本心理学会と日本心理学諸学会連合常任理事会共催の

●心理学界が目指すべき資格制度のあり方〜心理職の国資格化をめぐって〜

という特別シンポが開催されたことは、公式の場で初めて、臨床心理士と医療心理師の国資格化をめざしているそれぞれのお立場の方々が意見を表明されたという点で大きな意義があったとされてた。なお、その時の概要は、2007年9月20日現在、こちらから閲覧可能。また私自身の考えは、こちらに述べてある。




 講演の後半では、「心理師」(仮称)という資格についての紹介があった。「心理師」という名称は、
  1. できるだけシンプルで、かつ専門性があること
  2. 一般の人にわかりやすく、親しみやすいこと
  3. 既存の資格名称にはない別の名称であること
  4. 汎用性のある名称資格であること
を考慮して提案されたものであり、

●日心連の「心理学検定試験」の1級に合格した者

というのが基礎資格の一部になっている。試験科目は、多くの心理学系で教えている一般的な領域すべて:
  1. 原理・研究法・歴史
  2. 知覚・認知・学習
  3. 発達・教育
  4. 社会・感情・性格
  5. 臨床・障害
と、必ずしもすべての大学では教えていない5領域の中から2領域選択
  1. 神経・生理
  2. 統計・測定・評価
  3. 産業・組織
  4. 健康・福祉
  5. 犯罪・非行
となっており、また受験資格としては、
  1. 学部で心理学科または関連学科で心理学を修得し、心理学検定試験の1級に合格した者
  2. 大学院修士課程で、必要な必修科目と選択科目を修得した者。さらに心理師として働く際に必要な倫理・面接法・心理検査法などを修得した者。
となっている。これらが実現すれば、心理職の質保証という点で大きな前進になることだろう。

 講演終了後に質疑の機会があったが、他に挙手者が見当たらなかったので、私のほうから
いわゆる「ニ資格一法案」は、名称独占の国資格を目指しているようだが、なぜ業務独占ではなくて名称独占なのか。名称独占だったら、NPOを立ち上げて商標登録するだけでも実現するし、認定制度をきっちりさせれば「質保証」にもなる。名称独占だけのために国のお墨付きをもらう必要性が分からない。
というような質問をさせていただいた。じつは似たような質問は昨年にもさせていただいており、そのことを断った上で、今回はダイレクトに質問をぶつけさせていただいたのだが、公式なお答えは「私にも分からない」ということであった。

 あくまで私の個人的見解だが、業務独占を目指してしまうと他の関連職の業務を制限してしまうことにもつながりかねない、また、名称独占資格のままであっても、現実には、有資格者を優先的に雇用、あるいは給与面で優遇すれば、実質的な質保証・向上がはかれるという目論見があるためではないかと推測される。




 今後の方向については、前途多難、百家争鳴いや迷走、という気がしないでもない。質疑では、学術会議経由の調整という意見も出されていたが、この問題はすでに、既得権者の権益を巻き込んだ政治的な駆け引きに化してしまった部分がある。大学関係者のほうも、自身の所属する大学で定員割れ対策として、心理学関連職の養成を目指した改組などを行っており、個人的な見解を表明しにくい事情があるようだ。


【思ったこと】
_70920(木)[心理]日本心理学会第71回大会(3)キャンパスの中の「カルト」(1)

 東洋大学で開催された日本心理学会第71回大会の参加感想の3回目。

 大会1日目(9月18日)の夕刻には、

●キャンパスの中の「カルト」〜心理学は何をすべきか〜

という、公開シンポジウムに参加した。なお、現存のカルト宗教信者等から登壇者が危害や嫌がらせを受ける恐れがあるため、このシンポに限っては、固有名詞の使用は極力避けることにしたい。また以下に記す内容の文責はすべて長谷川にある。

 さて、日本心理学会では、今から11年前の60回大会(立教大学・池袋)でこの問題が大きく取り上げられたことがあった。この時は私はまだWeb日記を書いていなかったが、公式サイトの中の学会参加記録の中に、感想の残骸が残っている(リンク切れ多し)。そこには
会場は立ち見も出るほどの大盛況でした。オウム真理教の事件のほか、当日の朝に、日本ハムの上田監督の御家族の統一教会に絡む問題が報道され、この問題に対する心理学者の関心の高さが示されました。もっとも、単に江川さんの顔を見たくて参加した人もいたかもしれません(私もその一人?)。
という記録があり大勢の参加者があったことは今でも記憶に残っているが、その後、心理学者たちの間では次第に関心が薄れていったのだろうか、今回のシンポは、大ホールで行われたものの空席が目立ち、開始時の参加者数は50人前後にとどまっていた。

 もっとも、関心が低くなったからといって、カルト宗教の影響が低下したわけではない。ウィキペディアの当該項目にも記されているように
2006年7月28日、朝日新聞が大阪本社版朝刊において「教祖 性的暴行繰り返す 韓国発祥カルト『摂理』」、小見出し「被害信者100人超か 国内、学生ら2000人登録」と題して一面トップ及び社会面で大きく報じ、テレビ各局などマスメディアも後に続いて大々的に報じた。
ということなどもあって、再び注目されるようになり、今年6月27日付け読売新聞記事では、
教祖による女性信者への性的暴行が問題となった韓国発祥のカルト集団「摂理」が、多くの大学生を信者にしてきたことを教訓に、大阪大が勧誘の標的になりやすい1年生を対象に必修の特別講義を行っている。約2700人全員に受講を義務づけるカルト対策の講義は全国でも例がない。【以下略】
といった情報が伝えられている。

 また、北海道大で2001年と2006年に実施した学生生活実態調査(学部生20%、大学院生50%の無作為抽出)を比較したところ、
  • カルト宗教団体や自己啓発セミナーなどへの参加勧誘を受けて嫌な思いをしたことがある:21.9%(2001年)→25.9%(2006年)
  • 他者が勧誘を受けて困っているのを見たり、聞いたりした:27.6%(2001年)→36.7%(2006年)
というように、少なくとも5年前よりは増加傾向にあることが分かる(今回の話題提供者のお一人がお示しになったデータによる。但し、数値の上昇は、大学側の注意・指導が徹底し勧誘の実態を知る学生が増えたことの証しになっているという解釈もできる)。




 さて、上記の阪大ほどではないが、10年前あるいは5年前に比べれば、カルト宗教の勧誘に注意を促すといった程度の指導は、かなりの大学で行われるようになっている。しかし、

●カルトの勧誘に注意しよう!
●宗教の勧誘に気をつけよう!
●怪しい団体に気をつけよう!

という呼びかけは、いちばんダメな注意喚起の例だ、というのが今回の登壇者の共通した見解であった。なぜなら、そもそもカルト宗教団体は、自分から「私はカルト宗教の信者ですが、布教のためにあなたとお話に来ました」とは名乗らない。また、最初から怪しいと分かっているような団体だったら、近づくはずがない。

 本当に注意しなければならないのは、偽装サークルや偽装イベントの勧誘なのだが、これはそう簡単にはバレないようになっている。しかも最近の勧誘のしかたはますます巧妙になり、

●一人で歩いている人などに近づき、まず、親しい友達関係を築いてから、対象者の興味・関心に一致した偽装サークル・イベントに誘う

という手口をとるようになっているという。そのきっかけは「道を訊く」、「一緒にアルバイトしよう」などであり、従って、一生懸命に丁寧に道を教えようとする人ほど勧誘されやすいことになる。そして、その対象者がスポーツに関心があればバレーボール、楽器が演奏できるならば音楽イベント、というように、相手に合わせて個別の勧誘メニューを用意する、というのが大きな特徴であるようだ。

 対象者のほうも最初からそういう誘いにあっさり応じるわけではない。しかし、相手(=勧誘員)から親切にされたり(=「恩」を売られる)、何度も電話をかけられると、「悪いなあ。とりあえず1度だけ」という形で誘いに応じるようになる(返報性)。そしていったんそういうものに参加すると、いままで経験したことのないような形で褒められたり自分の価値を認められたりして、そこから離れにくくされてしまう。そのあとは、対象者の変化に応じて、個別に「教化」が開始されるようになっていく。

【思ったこと】
_70921(金)[心理]日本心理学会第71回大会(4)キャンパスの中の「カルト」(2)

 種々の報道表現では、最近のカルト宗教報道では、教祖が女性信者へ性的暴行をはたらいたというようなことが大々的に報じられるむきがあるが、これはカルト宗教の本質を捉えているとは言い難い。いちばんの問題点は、カルト宗教にマインドコントロールされてしまうことによって勉学環境が破壊され、多面的な判断力を奪われ、すべて教団に都合のようように断定的一方的に解釈するようになってしまうことの恐ろしさであろう。

 今回の講演によれば、カルト宗教というのはある意味で1つの文化圏を構成する。教団の外は異なる文化圏であるため、何を咎めても攻撃としか受け止められなくなる。また、何かの拍子に怪我をしても、その信者が迷っているケースでは「修行が足りないから怪我をした」と言われ、逆に熱心に布教活動をしていて怪我をした場合は「家の中でじっくり修行をするために、みこころによって怪我をした」というように、いずれも教団の都合のいいように解釈され、こじつけや数字の語呂合わせのようなトリックでさえ納得してしまうのである。




 さて、今回の講演では、他のテーマの招待講演で来日したチャルディーニ・アリゾナ州立大学教授からも

●Development of a Group Influence Scale (集団影響力尺度の作成)
というテーマの話題提供があった。

 それによれば、カルト宗教の勧誘などで個人が影響を受けやすい原理としては以下の6つが挙げられる(説明は長谷川が改変)。
  • Reciprocation(返報性):いろいろ親切にしてもらうと、その「恩」に報いるため誘いに応じるようになる
  • Scarcity(希少性):手に入れられないと欲しくなる
  • Authority(権威):難解な言葉を使われたりすると学識がある話者であるように錯覚し、専門家の言うことなら正しいに違いないという気になる。
  • Consistency(一貫性):コミットメント
  • Social Proof(社会的証明/コンセンサス):多数の他者や類似した他者の指示に従おうとする
  • Liking(好意):Liking Flows from Positeve Connections/自由に判断する時間が与えられないもとでの認知的過負荷
話題提供では、それぞれに関する尺度得点について、一般大学生とカルト脱会者の平均値が比較され、それら6点について、カルト脱会者のほうがそれらの影響を受けやすいことが示された。但しこれは、現在開発中の予備的報告ということであった。




 いっぽう、日本国内のカルト宗教団体の中には、集団の影響を利用するというより、個人的な結びつき、つまりチューター制のような形で教化が行われているという事例も報告された。こうしたやり方はでは、教育コンテンツよりも人間関係が先行、つまり、幼稚園や小学校教育のように「教科内容が面白いからではなく、この先生が好きだから一緒に勉強する」というような形の関係が形成されやすいという。このことに限らず、カルト宗教の影響を理解するためには、単に教義や反社会性に目をむけるだけでなく、教団内部において、教祖と自分、信者間、新たな布教対象者と自分、というような人間関係の強さ、依存、内容などを十分に把握し、対処していく必要があると思った。

【思ったこと】
_70922(土)[心理]日本心理学会第71回大会(5)キャンパスの中の「カルト」(3)

 連載の3回目。シンポの話題提供によれば、カルトの信者たちは、
  1. 教祖と自分
  2. 信者間
  3. 布教対象者と自分
という関係性の中で自己の位置、存在意義を確認していくという。上記のうちどこに依存する度合いが高いのかは教団により異なる。最近話題の教団の場合は、偽装サークル運営が活動の大半であるという点で3.の比重が高いという。

 人間関係に依存すると言っても、本音を出し合ってお互いの実像を見るわけではない。信者たちは、みな仮面をかぶり、信仰者アイデンティティを呈示して競い合う。つまり、相手の理想像を自己へ、自己の理想像を相手に投射し、相手を宗教的理想像に沿うようにコントロールする。

 最近話題の教団では、信者たちは早朝に起床し、深夜1時半頃に就寝、という毎日の中で、主体的な判断力を失っていく。勧誘の成功/不成功のみによってしか自己の信仰が組織や仲間から評価されないため、強迫的に人に声をかけ布教する毎日が続くという。




 このほか、別の話題提供では、真面目な若者が、大学・大学院時代にオウム真理教の勧誘を受け、凶悪な犯罪に関与し、死刑や無期懲役が確定しようとしている悲劇、また、マインド・コントロールでは、一般に
  1. 解決困難な問題をターゲットにつきつけ、不安や恐怖を煽り、依存心を高める
  2. 団体の思想や行為ないし商品で解決してみせ、団体の全体に魅力を感じさせる
  3. 思想が真理であることのように見せかけて、以前からの確信を揺るがせる
  4. 実践への参加や商品購入をさせることで、新たな教義や思想を確信させる
というテクニックが使われることなどが指摘された。

 マインド・コントロールされると、いろいろな形で規範意識がおかしくなっていく。家族関係の崩壊、偽装工作、多額の支出、職場や学校への復帰が困難な生活、違法行為すら善として行う、....などなど。

 そう言えば、このシンポが行われた日の朝、東洋大の会場に向かっていたところ、若い女性が、何やら募金活動をしているのが目に留まった。一軒一軒をまわり、「私たちは○○を作る運動をしています。ご協力をお願いします」というようなことを叫んでいた。通常の募金活動であれば、断られればすぐに退散するはずなのだが、この女性は、玄関口のインターフォンの前で一方的な演説を続けており、どう見てもマインドコントロールされているとしか言いようがない異様な光景であった。また、少し前の話になるが、渋谷の交差点で、通行人が通るたびに「あなたは幸福ですか?」などと叫び続ける若者たちを見かけた。オウム真理教事件をきっかけに、各大学のカルト宗教対策はかなり前進したようにも見えるが、まだまだ被害者は後を絶たない。次回は、このあたりのことについて考えを述べることにしたい。

【思ったこと】
_70923(日)[心理]日本心理学会第71回大会(6)キャンパスの中の「カルト」(4)カルトの何がイケナイのか

 今回は、キャンパスの中の「カルト」対策について、私なりの考えを述べることにしたい。

 さて、この種の話題は

●「カルト」はイケナイ存在であり、新入生がその影響を受けないよう、万全の策を講じなければならない。

という前提に立って検討されることが多い。しかし、そもそも、「カルト」はなぜイケナイのだろうか。

 この問いに対して、かなりの人は、「地下鉄サリン事件、霊感商法、合同結婚式、輸血拒否などの反社会的行為を引き起こしているから」と答えるに違いない。しかし、世間の拒絶と監視の目が行き届いてきたせいだろうか。反社会的行為に走るというような集団は、以前よりは減ってきたようにも思われる。むしろ、最近の集団は、偽装サークルの活動に重きを置いているとも言われており、改めて、何がイケナイのか、それとも、度を超さなければ構わないのか、ということを改めて確認する時代に来ているようにも見える。

 ちなみに、今回のシンポでは、「破壊的なカルト(Destructive Cult)」は、西田(1995)を引用し、
強固な信念を共有して熱狂的に実践し、表面的には合法的で社会正義をふりかざすが、実質には自らの利益追求のために手段を選ばない集団。
というように定義されていた。しかし、こうした実態は、その集団が何か事件を引き起こし、脱会者の証言などを通じて後になってから解明される場合が多い。また、単に「自らの利益追求のために手段を選ばない」などというと、最近ではむしろ、村上ファンド事件や、企業の敵対的買収のことを思い浮かべてしまう。




 では、ズバリ、「カルト」の何がイケナイのか? これは、信者自身の問題と、周囲への影響の問題に分けて考えたほうがよさそうだ。

 まず、信者個人の問題としては、日々の生活の大半が勧誘・布教、資金調達活動(インチキ募金など)等に追われ、学生本来の勉学がおろそかになり、遅刻、欠席、未履修、留年、...という泥沼に陥るということがあげられる。また、マインド・コントロールが進むことによって、規範意識がおかしくなり、指導教員からの通常の指導や説諭、家族や友人からの説得を受け入れないという問題が出てくる。

 次に、周囲への影響の問題だが、「カルト」は通常、新たな信者獲得のための巧妙かつ執拗な勧誘行動を展開する。というか、勧誘で信者を拡大しなければ組織として存在しえない宿命を背負っているとも言えよう。本当に「真理」なるものを見出し日々充実した人生を与えてくれるような宗教団体であったら、わざわざ宣伝しなくても自然に人が集まってくるはずである。しかし実際には教義やスタイルは似たり寄ったり。巧みな勧誘活動に成功した勝ち組だけが、組織として生き残っているのである。

 自分自身だけが崩壊するならまだしも、大して「修行」を積んでいないうちから、というか、「修行」の手段として勧誘活動に奔走する。その結果、友人、知人、同じ大学の新入生たちが多大な迷惑を被ることになる。例えは悪いかもしれないが、これは、生物の世界で言えば侵略的な外来生物のようなものと言えるだろう。キャンパス内の価値観の多様性を破壊し、学生の主体的な選択の機会を奪うという点で、どうしても規制が必要になってくる。




 ではどうすればよいか。まず、信者個人レベルの問題に関しては、学生個人個人へのきめ細かい支援によって、早期発見・対処が可能になると思う。例えば、私が担当している文学部の場合は、それぞれの学年の2〜3名の学生に対して指導教員が指定されている。そして、半期ごとに、履修状況が芳しくない学生に対しては面談を行い、必要に応じて保護者とも連絡を取り合い、適切な支援を行うこととなっている。この支援は、学部の学生生活委員会が全面的にバックアップしている。

 近頃では、厳格な成績評価、出席状況のチェックなどもきめ細かく行われているので、勧誘・布教・資金調達活動などに奔走している信者は、成績不振者として、かなりの高確率でリストに上がってくるはずである。

 次に、周囲への影響であるが、大学は基本的に勉学の場であるからして、まず、学外者の宣伝・勧誘行為は全面的に禁止すべきであると考える。これは、営利目的や政治団体についても同様。

 学内の学生間、クラスメートや先輩・後輩間の勧誘行為であるが、そもそも、自分自身の信仰が未熟な信者が、どうして他者を勧誘できるのか、他者の将来をめちゃくちゃにしてしまった時にどう責任をとれるのか、よく考えてもらいたいところだ。また、少なくとも、本人が望まない執拗な勧誘行為があった場合は、ストーカーとして訴えるべきであり、そのための相談窓口を設けるとよいかと思う。




 一般学生に対しては、阪大で行われているような特別講義(9月20日の日記参照)、あるいはそれに類する特別講演会などを通じて、「カルト」の勧誘の手口やマインドコントロールの恐ろしさについて、きめ細かい情報提供をする必要がある。

 もちろん、もっと基本となるのは、教養教育や学士教育を充実させ、多面的な物の見方、主体的な判断力を醸成することにある。勉学生活の基本が充実し、人間関係がうまくいっている限りは、勧誘に動じる恐れは少ない。

 また、「カルト」の影響を受けやすいのは、真面目で無口で、普段一人で過ごすようなタイプの学生に多いと言われる。講義や講演を通じた啓蒙活動は95%の学生には有効かもしれないが、残り5%の少数派の学生に対しては、それぞれの個性に合わせた、きめ細かい指導を特別に行っていく必要があるように思う。

【思ったこと】
_70924(月)[心理]日本心理学会第71回大会(7)構造構成主義の展開(1)

 大会2日目(9月19日)の朝は、

●21世紀の思想と人間科学のあり方〜構造構成主義の展開〜

というシンポジウムに参加した。このシンポの企画者、話題提供者、指定討論者は以下のようになっている(敬称略。#印は、日本心理学会の非会員。指定討論者のうち1名は、当日、事情により欠席された)。
  • 企画者 日本学術振興会・西條剛央
  • 企画者 東洋大学・北村英哉
  • 司会者 早稲田大学・白神敬介 #
  • 話題提供者 早稲田大学・竹田青嗣 #
  • 話題提供者 松聲館・甲野善紀 #
  • 話題提供者 日本学術振興会・西條剛央
  • 指定討論者 早稲田大学・池田清彦 #
 構造構成主義に関しては、今年の3月11日に

わかりあうための思想をわかちあうためのシンポジウム(第一回構造構成主義シンポジウム)

を拝聴したことがあり、その時の感想は、こちらにまとめてある。

 前回は、全く初めてであり、養老孟司氏や池田清彦氏の名講演は興味深く拝聴できたものの、構造構成主義の正体を掴むまでには至らなかった。今回は、私自身の考えと比較して、どのあたりが論点になりそうなのかが、かなり分かってきた。なお、構造構成主義に関しては、こちらにも紹介されているように、多数の関連書が出版されている。その大部分はすでに入手しているのだが、うーむ、私にはとうてい、読破する時間的余裕が無い。そう言えば西條氏のブログ(3/21付け)では、
興味深いことに、ムチャクチャな批判をする御仁に共通している点は、本をちゃんと、あるいはまったく読んでいないっていうこと(関心のズレによる批判はまた違う次元の話)。
というように、「読まないで批判する」ことが批判されている。このロジックで言えば、御著書を読破する余裕の無い私などは、生涯、批判者の立場に立つ資格は無いということになろうが、それにしても次から次へと本を出されるエネルギーはスゴイものだと思う。

 ところで、私自身が構造構成主義に関心を持ったのは、何よりも日本発の思想であるということに一因がある。心理学の関連学会で紹介される新しい考え方というのは、大多数が「アメリカではの守(かみ)」タイプ、つまり、米国の著名な心理学者の招待講演を拝聴するとか、米国留学(研修)中に師匠から教わった内容を自身の言葉で再解釈・発展させて伝えるというタイプが大部分なのだが(←それが悪いと言っているわけではない。あくまで、紹介の仕方のスタイルの話)、この構造構成主義は、徹頭徹尾、日本人のオリジナルであるという点で素晴らしいと思う。

 それと、これは少々失礼な言い方になるかもしれないが、もし、こういう思想が、30歳代そこそこの若手研究者たちだけで創始されていたとしたら、「この若造が何を言うか」という偏見を持ってしまって、シンポに出たり御著書を買おうという気にはまずならなかったと思う。そういう意味では、池田清彦氏や竹田青嗣氏のバックアップの効果は絶大であると言える。また逆に言えば、両氏ぬきでシンポを開催した時にどれだけの聴衆を集められるかというところが、今後の正念場と言えるかもしれない。



 さて、シンポではまず、西條氏から、構造構成主義が多くの領域で浸透しつつある理由として
  • 原理的であるほど汎用的
  • 「メタ理論が基礎づける射程は原理性の深度に比例する」
  • 領域や専門を問わず役立ちうる理路を備えている
という3点が挙げられた。また、有効性が発揮される場としては
  1. 不毛な信念対立の提言
  2. メタ研究法としての研究の生産性をUP
  3. 古今東西の様々な領域の知見の導入が可能
  4. 幅広い領域の科学性を基礎づけることが可能
という4点が挙げられた(←いすれも、スライド画面からの長谷川のメモに基づく)。このうち1.については、今年3月のシンポでも拝聴しており、基本的なアイデアは理解できた。2.〜4.については、この日の午後のワークショップ:
どうすれば新たな知は創発されるのか?〜「エマージェンス人間科学」を出発点として〜 19日 16:00-18:00
企画者 日本学術振興会・西條剛央
司会者 名古屋大学・荒川歩
話題提供者 日本学術振興会・西條剛央
話題提供者 大学入試センター・荘島宏二郎
指定討論者 松聲館・甲野善紀 #
指定討論者 早稲田大学・竹田青嗣 #
指定討論者 早稲田大学・池田清彦 #
で、さらに深められたものと思うが、残念ながらこの時間帯は私は別の会場に出ていて、拝聴できなかった。

【思ったこと】
_70925(火)[心理]日本心理学会第71回大会(8)構造構成主義の展開(2)

 まず初めにお断りしておくが、構造構成主義についての私の理解は、昨日の日記にも述べた通り、まことに微々たるものである。従って、少なくとも現時点では、私は、批判者や論評者の立場に立つ資格は無い。ここに書くことはすべて、私自身が考えてきたこととどのあたりに相違があるのか、どのあたりに着眼すれば今後の理解が進むのか、についてのメモ書き程度のものであると了解いただきたい。



 シンポの最初の話題提供の中で、西條氏は、「様々な存在・意味・価値は、身体・欲望・目的・関心に相関的(応じて)規定される」という関心相関性について説明、自他の関心を対象化することの意義を強調された。また、そのようにすることは、種々の論争や信念対立を発展的に解消する上で大いに役立つというような話もされた。

 この部分に関しては、3月11日開催のシンポに参加していたこともあって、そのロジックは概ね理解できたつもりである。もっとも、もし、

信念の対立は、どちらかが正しく、どちらかが間違っているために生じるのではない。2者間の欲望や関心の違いが異なっていたために、異なる信念が形成され、排他的な競合場面で対立しているに過ぎない。その相関性に気づけば、対立は解消される。

という程度の内容であるならば、わざわざ、○×主義というように大上段に構えなくても、「お互いの立場について理解を深めれば対立は解消する」と述べるだけで済むはずだ。要するに、構造構成主義の考え方を持ち込むことによってどれだけプラスαのメリットがあるのかということがポイントになると思うのだが、現段階ではまだ「構造構成主義であればこそ、これだけの効果が期待できる」という確信を持てない、というのが私の率直な感想である。同じフロアに居られた方々はどういう感想を持たれたのだろうか。




 それと、欲望や関心の違いを論じるのであれば当然、個々の人間において、
  • なぜ違いが生まれるのか
  • どうやったら欲望や関心を高めたり低めたりすることができるのか
という問題を、適用可能な形で解明していく必要がある。このことについては、3月20日の日記にも考えを述べた通りであり、私自身は、行動分析学の視点が最も有効であろうと考えており、今のところ、それを否定するような致命的な反例には出会っていない。

 ここで仮想の事例を3つほど挙げておくと、

 まず、飲み水に対する関心・欲望は、行動分析学でいう確立操作と、弁別学習によって十分に説明可能である。炎天下に街中を歩いている人であっても、砂漠地帯を放浪している人であっても、喉が渇けば水分を求めようとする。その基本は確立操作である。しかし、ただ単に「水」と叫んでも目の前に突然、水の入ったコップが現れるわけではない。街中を歩いている人であれば自販機を探すであろうし、砂漠地帯の放浪者であればオアシスの目印になりそうな樹木を探そうとする。この場合、探そうとするというのは、それらに関心を持つということと同義である。それらはすべて、
  • 自販機にコインを入れればペットボトルが手に入り、その中には水が入っている
  • 木がたくさん生えているところにはオアシスがあり、そこに行けば、水を汲むことができる
といった過去体験(過去の弁別学習、ルール支配行動、...)とその般化によって生起頻度が高まる行動と言えよう。

 2番目に、ある小学生がどうやって将棋に関心を持つかという事例を挙げてみよう。どのように偉大な将棋名人であれ、生まれながらにして将棋に関心を持っているなどということはあり得ない。かならず、何かのきっかけ、例えば、お祖父さんに将棋を教わったとか、友だちと遊んだというようなきっかけがある。そして、その後、こども将棋の連成塾のようなところで戦果を挙げたり、テレビ将棋の次の一手をうまく当てられたり、昇級したりすることで、ますます関心を深めるようになる。これらはすべて、行動分析学でいうシェイピングや強化によって説明可能である。

 3番目は、習得性好子(条件性強化子)の例。ネット通信販売サイトなどではしばしば、種々のサービスを利用すると「ポイント」が付与される。利用開始当初は、わずかのポイントを貰っても使い道が無く、保有ポイントなどにも「関心」も持てないが、ポイントが貯まって景品等を交換する機会が増えると、次第にポイントを増やそうと頑張るようになる。この場合、「ポイントが欲しい」という欲求はすべて、条件づけの原理により説明可能である。

 以上述べた3つの事例で「説明可能」と言っているのは、あくまで、予測や制御が可能というレベルであり、それぞれの経験の中でどういう感情が付随するのか、その質はどうか、主観的にしか表現しえないような価値があるのかないのか、ということまでは言及していない。しかし、最低限こういう原理を知っておくということは、関心や欲求を「所与」のものとして前提とするアプローチに比べると遙かに生産的であり、多くの問題の解決に役立つはずである。そういう地道な研究成果を排除して(前提として固定して)しまったのでは、何かを改善しようというような議論には繋がらないように思う。




 なお、シンポの終了時に質疑の時間があったので、私から、

●構造構成主義では、関心や欲求を議論の出発点に置いているようですが、それらの拠り所となるような心理学の理論はあるのでしょうか?

というような質問をさせていただいた。それに対して西條氏は、

●構造構成主義はメタ理論なので、特定の心理学理論には依拠しない

というように回答された(←長谷川の記憶に基づくため不確か)。いや、それはそうなのだろうが、関心や欲求を何らかの前提に置くのであれば、個々人においてそれがどういうプロセスで形成され、どうすれば変容するのか、ということをしっかり抑えておく必要があるのではないかなあ、という疑問が残った。

 このほか、竹田青嗣氏から、

●人間の欲求は所与のものであり、ネズミの欲求について実験的に検討しても何も分からない

というようなお返事があった(←長谷川の記憶のため、かなり不確か)。このお答えについては、別の機会にもう少しご真意を尋ねてみたいという気もするが、動物実験研究についてかなり誤解があるようにも思われた。

 私の理解するところでは、ネズミを使って欲求や動機づけ(行動分析学で言えば、確立操作や強化)の研究をするのは、ネズミの欲求の中味(質的内容)を調べるためではない。ネズミにはたぶん、地面を掘って穴掘りをしたいという欲求があるだろうが、そのことが人間のトンネル工事の欲求に進化したなどというこじつけをするためにネズミの研究をしているのではないのだ。ネズミの実験で分かるのは、レスポンデント条件づけやオペラント条件づけのプロセスにより、行動がどう強化されていくのか、という原理を明らかにすることである。材料や中味は異なっても、同じ手順で同じように欲求なる現象(つまり、確立操作、習得性好子、強化などなど)が予測・制御できると期待されるなら、ネズミの研究も決して無駄ではない、と私は考えている。

【思ったこと】
_70927(木)[心理]日本心理学会第71回大会(9)構造構成主義の展開(3)

 西條氏の話題提供に引き続いて、竹田青嗣氏による話題提供があった。竹田氏のお話を直接拝聴するのは3月11日に続いて2回目であったが、今回は時間が短く、また哲学の話ということもあって、今回が初めてという方々には少々分かりにくかったのではないかと思う。
 但し、もともとこのシンポは、西條氏のブログの直前告知に「このシンポジウムは、『構造構成主義の展開 21世紀の思想のあり方(現代のエスプリ)』をもとに開かれるものです。」と記されているように、

西條剛央・京極 真・池田清彦(2007).『構造構成主義の展開―21世紀の思想のあり方 現代のエスプリ475』ISBN:9784784354757

に依拠して話題提供がなされるというようにも予告されていた。他の関連書を含めて、事前にある程度の知識を持っている人であればエッセンスは理解できたと思う。

 今回の話題提供では、「宗教は、協同体の外に出ると役に立たない」、「現代思想は相対主義」、「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。(ニーチェの言葉)」、「3つの契機(自己意識、関係意識、集合意識)を実存主義でとらえようとすると失敗」というようなことに言及されていたが、あれから10日間が過ぎてしまって、どういう展開であったか、記憶が薄れてしまった。このシンポに限らないが、何かに出席した時は、可能な限り1週間以内に感想・報告をWeb日記にまとめておくべきであると思っているが、なかなか、先に進まない。





 3番目は、松聲館・甲野善紀氏による、古武術の実演を交えたユニークな話題提供であった。そこで披露された秘技?の一部は、上掲の『構造構成主義の展開 21世紀の思想のあり方(現代のエスプリ)』にも写真付きで紹介されているのでそちらをご覧いただきたい。

 こうした実演は、学会シンポの話題提供としては異例であり、多くの聴衆に強いインパクトを与えたと思われる。もっとも、この秘技が「古典力学的に解説のしようがない」などと言われると、うーむどうかなあ、という気がしてくる。実際、フロアからの質疑の際にも、重心の移動とテコの原理で説明できるのでは?という発言が寄せられたが、明快な解答は無かったように思う。

 甲野善紀氏は、ご自身の単著のほか、養老孟司氏との対談本なども出されておられるが、私自身は拝読していない。従って、9月24日の日記に記したとおり、「読まないで批判する」ことは差し控えたいと思う。但し、素朴な印象として、秘技の実演のあと、「古典力学的に解説のしようがない」などと言われると、超能力と同様、まずは「超能力は存在しない。現代物理学で解明可能」という作業仮説のもと、地道に分析を進めてみる必要があるのでは?という気持ちが強くなってくる。

 いつの時代にあっても、物理現象のすべてが解明し尽くされるということはない(←そうなったら、それで科学の発展は停止してしまう)。仮に、100通りの現象のうち70通りは解明できたが、30通りは謎のまま、という時代があったとする。その後、科学の知識・技術が発展すれば、100通りのすべてが解明できるようになるが、知識が増えたことで、新たな現象に直面する機会も増え、今度は500通りのうち、450通りが解明され、残り50通りは謎という時代になる。そしてさらに知識が増えれば、1000通りのうち100通りが新たな謎になる、...というように、科学というのは常に、未知の領域や謎を残しつつ発展していくものである。甲野氏が実演されたような現象は、おそらく、近い将来、精密で高速の測定装置やデータ処理技術が進歩し、適切なモデルが考案されることによって、既存の枠内の科学のロジックで十分に解説可能になるのではないかという気がした。

【思ったこと】
_70928(金)[心理]日本心理学会第71回大会(9)構造構成主義の展開(4)


 シンポジウムの最後には、池田清彦氏による指定討論があった(もうお一人の指定討論者は都合により欠席)。

 ところで指定討論というと、話題提供者の講演内容について、やや違った角度から意義や問題点を指摘したり、聴衆が共通していだくような質問を出して、シンポジウム全体を盛り上げるという役目をするのが普通であるが、どうやら池田氏の場合は、独演会であっても、話題提供者のお一人であっても、今回のような指定討論者であっても、お話のスタイルは大差なく、また、一部、同じネタが使われているのでは、という印象があった。今回の指定討論でも、各話題提供者の内容に即して論評を加える部分は、最初の数分程度であり、残りはもっぱら自説を展開されるという中味であった。

 もっとも、池田氏のお話は、ご専門領域の難解な内容ではなく、日常生活のエピソードに関連したものが大半であり、その分、誰にでもよく分かるし、聞いていてもオモロイ、という特徴がある。今回の聴衆の中にも、池田氏の話を目当てに来られた方が多数おられたのではないかと思われる。




 今回の池田氏のお話の中で、オモロイと思ったことを2点挙げさせていただくと、まず、

●飲酒(酒気帯び)運転は厳罰の対象となるが、寝不足は取り締まりの対象とならないのはなぜか?

という話題があった。実際、ちょっと酒を飲んだからと言って、すべての人が危険な運転をするわけではない。むしろ、寝不足による居眠り運転のほうが重大事故を起こす危険が大きい。にも関わらず、寝不足を取り締まらないのは、それを正確かつ公正に測定する実用的手段が無いから、というのが池田氏のご趣旨であった(←長谷川のメモに基づくため、文言は不確か)。要するに、我々は、測れることしか対象としていないが、西洋の自然科学の方法では測れないものも世の中にたくさんある、ということを言われたかったのだと思う。

 もっとも、ここに挙げられた事例は、科学技術が進歩すれば改善できるような部類であると言えなくもない。睡眠不足かどうかという検問をすべてのドライバーに課すのは現実には不可能であるが、例えばバスやトラックの運転手に対して、4〜5時間ごとにフリッカーテストを実施して、中枢神経の疲労度が高い時には休息を命じるといった措置をとることは実現可能なはずだ。

 もう1つ、

●ゼッタイに治らないと宣告された癌患者の中にも、ごくわずかながら、治る人がいる。

というようなお話があった、と記憶している(長谷川の記憶によるため、かなり不確か)。これは確か、文節恣意性や関係性に関連して出された事例であったと思うが、しっくりこない気もした。

 確かに、ある治療法の一般的な有効性が実証されていたとしても、100%の患者にそれが効くというわけではない。逆に、有効性が検証されていない治療法が特定の個人では有効というケースもあるかもしれない。その個人にしてみれば、とにかく治ればよいわけで、治療法の一般的有効性がどうこうというのは二の次である。

 もっとも、癌が治ったとか治らなかったというのはあくまで結果をみての話である。医師や患者にとっての関心事は、もっと前の時点で、どういう選択をすることが最善であるかということにある。仮に治療法Aで治る確率が70%、治療法Aを使わずに治療法Bを使った場合の治る確率が5%であったとする。そのさい、治療法Bのほうが体質に合っているというような明確な鑑別基準があるならともかく、そういう知識が一切なかった時には、やはり、治療法Aのほうを選ぶというのが常識的な選択であろうとは思う。また、治った場合と治らなかった場合の違いがちゃんと説明できない限りは、「治ったのは運が良かったからだ」という偶然確率現象として対処するほかはない。




 以上、今回のシンポについていろいろ述べてきたが、構造構成主義について一人前の意見を述べるためには、やはり最低限、池田氏や西條氏の著作を数冊以上読破し、内容をきっちり理解することが前提になるかと思う。しかし、今回のような心理学関係の学会に出てくる人たちというのは、多くが、自分の研究発表と、関心領域に限定した情報収集で精一杯という面もある。特に、実験心理学的方法の正当性や、「エビデンス」重視を信じて疑わない人たちの前では、いくら啓蒙的なシンポを企画しても、インパクトは小さいのではないかという気もする。これは、このWeb日記でも何度か取り上げた社会構成主義についても言えることだ。そういう意味では、啓蒙段階の次のステップが、輪を広げていく上での正念場になるように思う。

【思ったこと】
_70929(土)[心理]日本心理学会第71回大会(10)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(1)

 日本心理学会第71回大会の2日目(9月19日)13時30分からはArizona State UniversityのRobert B. Cialdini教授の講演を拝聴した。演題は、

●Using persuasive communications to protect the environment環境保護行動を促す説得的コミュニケーション

となっていた。なお、チャルディーニ氏は

『影響力の武器 なぜ、人は動かされるのか(第二版)』ISBN 9784414304169

の著者として広く知られている。

 講演ではまず、米国で、Top16に選ばれたという「ポイ捨てを止めようキャンペーン」のテレビCMが放映された。16位というと大したことが無いように見えるが、何百何千とあるCMの中の16位であることから、相当に高い評価を得たと見なすことができる。しかし、チャルディーニ氏は、このCMは、社会心理学的には企図した通りの効果を得るかどうか疑わしいと指摘しておられた。

 そのCMというのは、以下のようなものであった(長谷川の10日前の記憶のため、かなり不確か)。
アメリカン・インディアン(←呼称については種々議論があるようだが)の男性がカヌーを漕いでいると、川にいろいろなゴミが流れていた。その後、岸に上がると一面ゴミだらけ。立ちつくしていると、道路を通行中の車から新たなゴミがポイ捨てされ、足元に落ちてくる。インディアンは涙を一滴流す。最後に、美しいアメリカを作ろうというようなキャンペーンが流れる。 【←記憶がかなり曖昧なので、いずれ修正します。あくまで暫定バージョン】
このCMのどこに問題があるのかと言えば、要するに、この映像では、インディアンの男性に共感を覚える効果と別に、「みんながポイ捨てをやっている」というメッセージが送られている。これは、「ポイ捨てをしてはいけない」という効果を弱めてしまうというのである。

 社会心理学の理論については門外漢でよく理解できていないのだが、規範的行為の焦点化理論によれば、社会的規範には2種類があるという。いずれも影響を及ぼすが、そのプロセスは異なると言われている。
  • 記述的規範:大多数がやっていることについての規範。適応的な行動が何かという証拠によって動機づけられる。
  • 命令的規範:何に賛成か不賛成かを示す規範。当該行動に与えられる社会的サンクションについての証拠によって動機づけられる。
記述的規範は行為についての情報を与え、命令的規範は行為を命じる効果があるという。ある状況で典型的に行われていることに人々の焦点を合わせると、命令的規範よりも記述的規範に沿った行動をとるように人々は動機づけられる。上記のCMの場合、ポイ捨てという違反行為が頻繁に行われていることに焦点を合わせているので、違反行為そのものを増加させる恐れがあるというのが、講演の最初の部分の趣旨であった(←一部、配布資料からの要約引用)。

 では、どうすれば良いのかと言えば、もっとキレイな環境のもとで、ゴミを分別した上でリサイクルボックスにちゃんと捨てるというような行為を見せる。その上で、ゴミをポイ捨てしようとした人に注意を促すというようなシーンを付加すればより効果的なCMになるということのようだ。

 このあたりの仮説は、実験や大規模調査で検証されているはずだと思うが、いくつか疑問も残る。

 まず、当然のことながら、テレビでは大量のCMが流され、それぞれの内容を細かく気にとめているわけではない。そこで、CMとして流すからには、まずは、注意をひきつけ、ある程度の意外性やユーモアが無いと、無視されてしまうという恐れがある。そういう意味では、冒頭に紹介されたCMは、
アメリカ・インディアンだけが暮らしていた「古き良き時代」には、ポイ捨てされたゴミなど1つもなく、豊かな自然に包まれた生活があった。ところが、白人たちがやってきて、工業化が進み、この大地はすっかりゴミで汚染されてしまった...
というような強いインパクトを与えている。一方、よりキャンペーン効果があるとして紹介された「改善版」(1つはカウボーイがゴミを分別するシーン。もう1つは、一般家庭でゴミを分別しながら、隣のおじさんは分別しないといって男の子が涙を見せるシーン」は、「みんなゴミを分別しています。あなたもお願いねっ!」というようなイメージがあり、私個人にはあまりインパクトが無かった。

 心理学の研究としてはおそらく、被験者たちに、オリジナル版と改善版の両方を見せて、質問紙や面接といった方法で効果を比較するのだろう。しかし、それは、2つのCMを注目して視た上での比較である。日常生活で、種々のCMに混じって流されるキャンペーンの場合は、また違ったファクターが影響を及ぼしているのではないかと思う。

【思ったこと】
_70930(日)[心理]日本心理学会第71回大会(11)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(2)

 チャルディーニ氏の講演の前半では、

●(米国での?)ゴミのポイ捨てのように、社会的に望ましくないとされている行為が頻繁に起こっている状況のもとでは、公共広告は、命令的規範(何が認められ、何が認められていないか)を明示するような内容にすべきであり、そこで何が行われているのかに受け手の焦点を合わせることは重大な誤り。

ということが指摘された。

 しかし、昨日も述べたように、我々は、ふだん、公共広告のようなものがテレビCMで流されたからといって、必ずしも関心を向けるとは限らない。実験場面で、広告の内容に関心を持つように教示された場合と、日常生活での注目度にはズレがあると思う。雑多な情報が氾濫する日常生活場面においては、まずは、人をひきつける映像が必要であり、ポイ捨て防止キャンペーンのような場合では、たとえゴミが一杯であっても、ショッキングな映像のほうが効果があるようにも思える。

 このほか、行動分析学では、自身が及ぼす結果があまりにも小さく、環境全体に変化を与えないような行動は強化されにくいと言われている。駅前の広場に、大量の放置自転車があれば自分の自転車を駐輪しても景色は大して変わらないが、一台も無い広場では、自分の自転車を駐めるか駐めないかで環境は大きく変わってしまう。後者の場合は、行動は起こりにくくなる。キレイな環境のほうがゴミだらけの環境よりもポイ捨てが起こりにくいのは、ポイ捨て行為に対する結果の大きさの違いということでも説明できる(ただし、この説明では、他者の行為自体ではなく、ゴミが捨てられているという風景のほうが影響を及ぼす)。「多くの人がやっていることを見せると影響を及ぼす」というのがチャルディーニ氏の説であるようだが、見せているのは行為ではなく、行為の結果のほうではないかなあ。




 我々は、広告媒体ばかりでなく、自分自身の体験からも多くの情報を得ている。そのことでふと思ったが、高速道路を運転中に道路情報を聞いていると、

●最近、スピードの出し過ぎによる死亡事故が多発しています。ドライバーの皆さん、スピードの出し過ぎに注意して、安全運転に心掛けましょう。

というようなメッセージが流れることがあるが、周りの車がみんな110km以上のスピードで走っていて、特段の事故が目撃されないという状況のもとでは、「死亡事故多発」がどこまで説得性をもつのか疑問に思うことがある。

【思ったこと】
_71001(月)[心理]日本心理学会第71回大会(12)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(3)

 チャルディーニ氏の講演の後半では、

●ホテルの連泊者にタオルの再使用を呼びかけるには、どういうアピールが効果的か

という興味深い話題が取り上げられた。

 ホテルでは通常、タオル類は毎日取り替えられるが、それを洗う時に使う洗剤や乾燥機を使うことは、環境に少なからず影響を与える。連泊者が同じタオルを使えば、その分、環境保護に貢献するというわけだ。

 では、どういうメッセージが考えられるか。講演では以下の3通りが例示された。
  1. 環境の焦点化:HELP SAVE THE ENVIRONMENT.(タオルを再使用すると環境を救う効果あり)
  2. 協力の焦点化:PARTNER WITH US TO HELP SAVE THE ENVIRONMENT. (PARTNERという言葉を入れることで協力関係を強調し、さらにそのホテルが環境保護団体へ寄附するというメッセージを入れる)
  3. 記述的規範の焦点化:JOIN YOUR FELLOW GUESTS IN HELPING TO SAVE THE ENVIRONMENT. (そのあとに「Almost 75% of guests who are asked to participate in our new resource savings program do help by using their towels more than once.....」というようなメッセージを入れ、「みんな協力してくれている」ことを焦点化。
 チャルディーニ氏によれば、これら3通りのメッセージのうち、タオルの再使用率が最も高い結果をもたらしたのは3.であり、47%を上回る成果をあげた。いっぽう、2.の協力焦点化の再使用率は36%程度であり、3条件の中ではもっとも比率が低かった。その理由としては、「こちらが最初に恩恵を与える条件の下では、恩恵を与えてくれる誰かに協力しようという社会的義務感は生じない。」という点が挙げられていた。このメッセージを

●返報性規範の焦点化:WE'RE DOING OUR PARTNER FOR THE ENVIRONMENT. CAN WE COUNT ON YOU?(あなたがタオルを再使用すれば、その節約分が環境保護団体に寄附されると明言し、協力を要請)。

というように変更すると、46%程度までタオル再使用率が高められるという。
 以上に挙げた種々のメッセージでは、
  • 記述的規範と命令的規範がうまく協調して作用するということが伝えられた場合
  • 望ましい行動が広く遂行され完全に是認されており、望ましく無い行動はあまり遂行されておらず厳しく非難されている、ということが伝えられた場合
という2つの独立した規範情報がうまく結びついた時に大きな影響を与えるというのが、最終的な結論であると理解できた。

 その一方、次のような疑問も残った。
  1. 広告メッセージの信頼性。
  2. 少数の違反者にどう対処するか。
  3. 説得されただけで行動するとは限らないし、ましてそれが持続するという保証はない。
 このうちまず1.であるが、ホテルの室内に「75%のお客さんがタオル再使用に協力してくださっています」というようなメッセージがあったとしても、少なくとも私は「75%」という数値は全く信用しない。信頼できる第三者機関の調査結果が引用されているならともかく、調査期間や実数も無しに大ざっぱな75%(=4分の3)という数字が挙げられていても、どうせ、宣伝のために勝手にこしらえた数値であろう、というくらいにしか受け止めない。もちろん、メッセージがいい加減であるからといって、タオルを何枚も使うというわけではないが。

 同じようなことは、「最近、スピードの出し過ぎによる事故が多発しています」というような交通安全キャンペーンについても言える。この場合の「多発」は、「多数の人にご協力いただいています」という上述のメッセージとは性格を異にするものであり、チャルディーニ氏の講演趣旨からは外れるが、いずれにせよ、「事故多発」などと言われても、安全運転を促すために、どうせ大げさに言っているんだろう、くらいにしか受け止められない。もちろん、この場合も、だからといって私自身がスピード違反を繰り返しているというわけではない。念のため。

 講演終了後の質疑の中で、ある方が
骨髄バンクへの協力を呼びかける時に、「ドナーが少なすぎて困っています」というアピールの仕方は、多くの人は協力していないということを知らせてしまうので逆効果。むしろ、多数の方に協力していただいています、とアピールすべきだが、実際に登録者が少ない時に「多数の協力がある」というのはウソをつくことになる。では、こういう場合、ウソをついてもいいのか。
というような質問をされていた(←あくまで長谷川の記憶の基づくため、文言は不確か)。これに対してチャルディーニ氏は「ウソはいけない」と返答しておられた。

 しかし、そもそも、キャンペーンというのは、望ましい行動が少ない時にそれを増やすか、望ましくない行動が多発している時にそれを止めさせる目的で展開するのが普通であり、最初から「多数の人がやっている」のであれば、わざわざお金をかけて呼びかける必要はない。とすると、現実場面において、ウソをつかずに、「多くの人がやっている」というアピールができる対象は、かなり限られくるのではないかと思う。

【思ったこと】
_71002(火)[心理]日本心理学会第71回大会(13)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(4)

 昨日の日記で、チャルディーニ氏の講演内容について3つほど疑問を挙げさせていただいた。
  1. 広告メッセージの信頼性。
  2. 少数の違反者にどう対処するか。
  3. 説得されただけで行動するとは限らないし、ましてそれが持続するという保証はない。
 本日は、このうちの2.について考えを述べることにしたい。




 さて、今回の講演は「環境保護行動を促す」という内容であったが、これには
  • (a)できるだけ多くの人が協力、実践することで達成
  • (b)少数の悪質違反者にどう対処するか
という2つのタイプがあるように思う。

 今回の講演で取り上げられた内容のうち、ゴミの分別やタオル再利用は(a)のタイプであり、これらはチャルディーニ氏が論じられたような形で改善することで、ある程度の効果が上げられると思う。

 しかし、講演の冒頭で取り上げられたゴミのポイ捨てなどは、どちらかと言えば、少数の悪質な違反者が犯人となっている。こういう不心得者は、公共広告や注意書きなどにはおそらく関心を示さない。このWeb日記でも、2003年5月5日や、2006年8月3日に、これに関連する話題を取り上げたことがあるが、最近でも相変わらず、ゴミ収集が終わった日の夜から生ゴミを出したり、収集対象となっていない不燃ゴミを投棄する不心得者が後を絶たない。とはいえ、それらは住民1000人あたり数人程度の少数派であり、通常の説得的コミュニケーションが通用しない不心得者たちである。道路脇などに平気でゴミをポイ捨てする者はさらに少数(←但し、タバコ吸い殻のポイ捨てはかなりの数にのぼるようだ)。環境保護のためにはこういうケースをどう防ぐか、ということのほうがむしろ問題になる。




 これは昨日の補足の疑問になるが、

●多くの人たち(=高比率)に協力いただいています

というメッセージと、

●現在は少数だが、協力してくれる人が大幅に増えています

というように増加著しいことを強調する場合で、どちらが効果的であるのか、もう少し調べる必要があるように思った。ファッションの世界などでは、「多くの人に人気がある」とアピールするよりも、「最近、こういう人たちが増えている」とか「こういうことに新たな注目が集まっている」とアピールしたほうが、「新しもの好き」屋さんには効果があるはずだ。

 それと、「みんながしていますよ」と言われて同調するかどうかは、ある程度、国民性にも依存するように思われる。「乗客にすぐに海に飛び込んで避難してもらうために、船長はそれぞれに何と言うか」というようなジョークでは、「みんな飛び込んでいますよ」と言われて同調するのは日本人だと言われている。あれはあれでかなり偏見が多いとしても、民族や文化による差違は少なからずあるはず。某イスラム圏を旅行した時に、あまりにもゴミのポイ捨てが多いのでガイドに理由を訊いたら、「コーランには、ゴミをポイ捨てするなとは書いていないから」という答えが返ってきたことがあった。あれは冗談のつもりであったかもしれないが、ともかく、イスラム圏では、チャルディーニ氏が紹介したスタイルの公共広告よりは、宗教とリンクして環境保護を訴えたほうがより効果があるようにも思えた。

【思ったこと】
_71003(水)[心理]日本心理学会第71回大会(14)環境保護行動を促す説得的コミュニケーション(5)

 今回の講演は、環境保護行動を促す説得的コミュニケーションをテーマとしたものであったが、話題の中心は、公共広告やホテル客室内のメッセージの効果に限られていた。

 この範囲で思うのはやはり、

●説得されただけで行動するとは限らないし、ましてそれが持続するという保証はない。

という点に尽きるかと思う。

 もちろん、テレビから同じ曲を何度も聞かされるだけで、その歌を口ずさむということはありがちなことではあるし、ある場面を誇大に取り上げた映像や片寄った情報が繰り返し流されるだけで特定の価値観が形成されてしまうということも無いわけではないが、多くの場合、テレビCMや広告の与える影響というのは、きっかけを作るという程度に限られているのではないかと思う。

 例えば、新発売の清涼飲料水のCMが何度も流されれば、同じ商品が売られていた時に、とりあえず一本飲んでみようかという気にはなる。しかし、それを何本も買って飲み続けるかどうかは、結局は、おいしさや飲んだ直後の爽快感などによって決まってくる。

 広告の影響である行動が自発されるようになったとしても、それが持続するかどうかは、結局は、
  • その行動がどのように強化されているか
  • その行動を続けた場合に、どのようなコスト(嫌悪的な結果、手間、経費、時間)がかかるか
  • その行動と競合するような別の行動がどの程度強化されているか
に依存するはずである。

 複数の広告を注視させて質問紙で回答させれば、条件によって反応に有意な差がでるとは思うが、そこで有効とされたからといって、それがダイレクトに行動を引き起こし、持続させるというわけではない。

 例えば、スーパーのレジ袋削減のためのキャンペーンはいろいろ行われているが、けっきょくは、レジ袋有料化や、マイバック持参者へのポイント付与、というように、有料化によって非協力行動を弱化したり、協力行動をポイント付加によって強化するというように、行動随伴性によって直接、対象行動を改善していかなければ実効性は乏しいと思う。

 今回の講演の質疑でも実際、広告が与える長期的な効果についての質問が出されていたが、明快な証拠は示されていなかったように思う。10月1日の日記で取り上げた「タオルの再使用」に関しても、客室内のメッセージだけでは、他の(メッセージの無い)ホテルでの再仕様で促進するかどうかは不明。メッセージの違いだけで再使用率が変わるという実験結果があるということは、裏を返せば、その効果はきわめて局所的、短期的である可能性が否定できない。であるなら、いっそのこと、お客に面倒なお願いなどせずに、(環境保護目的であることを明記した上で)、フロントでタオルを有料貸出したほうが遙かに効果があるようにも思える。

【思ったこと】
_71005(金)[心理]日本心理学会第71回大会(16)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(1)

 日本心理学会第71回大会の2日目夕刻は、
“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方 19日 16:00-18:00
企画者 日本学術振興会(筑波大学)  細越寛樹
企画者 日本大学 坂本真士
司会者 日本学術振興会(筑波大学)  細越寛樹
司会者 日本大学 坂本真士
話題提供者 日本大学 坂本真士
話題提供者 日本学術振興会(筑波大学) 細越寛樹
話題提供者 兵庫大学 及川恵
指定討論者 東北学院大学 大竹恵子
というワークショップに参加した(敬称略)。

 このワークショップを選んだのは、単純にタイトルに惹かれたためであり、企画者や話題提供者の方々がどういう研究をしておられる方なのかは事前には全く存じ上げなかった。会場に行ってみると、若さに満ちあふれており、お顔を拝見しているだけでも、ネガティブな気持ちがポジティブに変わっていくような雰囲気であった。

 タイトルからの連想として、何でもかんでも「かえって良かった」と解釈してしまう「良かったちゃん」スキル、例えば、
  • 事故で足をケガしたけれど、かえって勉強する時間が増えて良かった良かった。
  • せっかく山に登ったけれど霧が濃くて何も見えなかった。でも、かえって神秘的な世界を想像できて良かった良かった。
  • 泥棒にお金を取られてしまったが、清貧な生活ができてかえって良かった良かった。
  • 戦争で両親を殺害されてしまったが、かえって独り立ちができて良かった良かった。
というような「ネガティブをポジティブに転じるスキル」のようなことが取り上げられるのかと思っていたが、内容は予想とはかなり違っていた。




 ワークショップではまず企画者から、研究のスタンスとして、Norem(2001)の

●No size fits all.(全てにフィットする1つのサイズはない)

という名言が紹介された。これは、今回の“ポジティブ"、“ネガティブ"がまさにそうであるように、1つの法則すべてあてはめて説明できないというような意味で使われたようだ。なおNoremという人は、対処的悲観性(Defensive Pessimism)の研究者として知られている。

 さて、心理学では、“ネガティブ”な要因は不適応を引き起こすと考えられがちであり、それを取り除くか、ポジティブ要因を増やすことで相対的に軽減するというような形で、改善をはかろうとしてきた。いっぽう、“ポジティブ要因”についてはこれまではあまり目を向けられてこなかったが、最近、「ポジティブ心理学」が提唱され、注目されつつある(←島井哲志氏を中心に「ポジティブ心理学研究の最前線」というワークショップが毎年出されており、昨年は拝聴したものの、感想を書く時間が無かった。今年は残念ながら、別の会場に出ていて、その続きをうかがうことができなかった)。しかし、

“ポジティブ”な要因→適応
“ネガティブ”な要因→不適応

という図式だけでなく、交差することもありうるのではないか、時・状況・文化・特性・プロセスなどの相互作用によっては

“ポジティブ”な要因→不適応
“ネガティブ”な要因→適応

というような「クロス」もあるのではないか、というのが、今回のワークショップの着眼点のようであった。




 指定討論者からも指摘があったと記憶しているが、ここで問題となるのは、ポジティブ、ネガティブをどう定義するのか、という点である。これらの言葉が“  "でくくられていることからも分かるように、“ネガティブ"が本当にネガティブなのかどうかも検討していかなければならない。

 私のほうで素朴に考えてみるに、まず、世の中には、絶対的な意味でのネガティブ、ポジティブは存在しない。ライオンがシマウマを捕まえて食べるということは、ライオンにとってはポジティブだが、シマウマにとってはネガティブ。人類滅亡は人類にとってはネガティブだが、人類によって被害を被ってきた生物たぢにとってはポジティブかもしれない。

 しかし、到達目的が明確な場合、そのローカルなレベルにおいては、目的に向かって順調に進展している状況はポジティブ、いっぽう、それが停滞したり後退しているような状況はネガティブであると定義してもよいかと思う。もっともこの場合も、視野を広げたり、より長期的な視点に立つと見方が変わることもある。一人の人間にとって、合格や就職や結婚はたぶんポジティブな現象と言えるが、どんな人も最後は必ず死ぬ。未来永劫にポジティブなどということは、個人のレベルでは決してありえない。

 以上とは少し見方を変え、あらゆる現象はすべて中性的であって、ポジティブかネガティブかはすべて主観的な受け止めに過ぎない、というように受け止めることもできる。

 さらに、何らかの生理指標や質問紙を用いて、ストレスや不安のある状態を“ネガティブ"、リラックスあるいはより積極的な快感や充実感がある状態を“ポジティブ"と定義することもできないわけではない。じっさい、今回のワークショップでは、特性不安が大きく取り上げられていた。

【思ったこと】
_71006(土)[心理]日本心理学会第71回大会(17)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(2)

 ワークショップの1番目は、坂本真士氏による

●ネガティブな思考・感情のメリットに関する検討

という話題提供であった。坂本氏はまず。楽天イーグルスの野村監督の「キャッチャーは究極のマイナス思考やないとあかんのや」という言葉を引用された。ここでさっそく疑問が生じたのだが、プロ野球のキャッチャーが最悪の事態を想定しながらプレイをすることは確かであろうが、これはあくまで感情を伴わない予測であって、いちいち落ち込んだりはしていないのではなかろうか。つまり、感情抜きのマイナス思考であって、今回のテーマとは若干意味が異なるように思われる。同じことは囲碁や将棋でも言える。「こういう手を指したら、相手のコマがこう動いて、五手詰めで一巻の終わり」などというように展開を描くのはマイナス思考かもしれないが、それは、局面の展開の1つとして列挙したに過ぎない。いっぽう、胃のバリウム検査で異状が見つかった時に「これは胃癌かもしれない。しかも末期的で、あと半年で死ぬかもしれない」というようなマイナス思考をする時には、不安で頭がいっぱいとなり決して冷静では居られない。今回のテーマは、不安を伴うようなケースに焦点を当てていたのでは無かっただろうか。

 次に坂本氏は、進化心理学の観点から示唆されることとして、精神疾患にも適応的な側面があること、また、悲しみというのは、将来の損失につながる行為を避けようと動機づけるし、泣くことは、他者から共感を引き出し他者との絆を強める効果があることなどを挙げられた。さらに、社会心理学からの示唆として「対処的悲観主義」や「セルフ・ハンディキャッピング」、臨床心理学からの示唆として「トラウマ後の精神的成長」、ことわざでも「勝って兜の緒を締めよ」や「同類相哀れむ」などがあるという事例を挙げ、ネガティブ感情や思考にも適応的で有用で生産的な側面があることを指摘された。

 なお、坂本氏によれば、悲観性と楽観性は、米国では一次元の両極に位置づけられ、また、個人のポジティブな面を見つけてそれを伸ばす文化があるのに対して、日本やアジアでは、別の次元であり、ネガティブな面を見つけそれを変えようとする文化があるという(坂本・田中, 2002、←CiNiiで検索したところ、どうやら、資料 改訂版楽観性尺度(the revised Life Orientation Test)の日本語版の検討、健康心理学研究、15, 59-63.の論文のようだ)。ま、文化差の論議というのは概して決着がつかないケースが多いのだが、米国製の尺度を日本に導入する場合には留意が必要であろう。また、もし、日本人のほうがネガティブ面に目を向けやすいとするなら、お説の通り、そこから適応へのヒントを探すことには情報的価値がある。

 以上拝聴した部分はまことに興味深いものであった。但し、大学生を対象とした自由記述型アンケートをKJ法で分析するという後半の部分については、
  • 人生経験の乏しい大学生たちの回答結果からどこまで発見的な情報が得られるか?
  • 自身の経験に基づいて回答しているのではなく、世間一般で見聞きしたことを機械的に列挙しているだけではないか?
といった疑問が残った。もっと劇的な体験をした人、例えば、中途障害者、犯罪被害者、病気で家族を失った人、会社倒産で仕事を失った人、...などに、こまめに面接調査をしてまとめられたほうが、より生産的な知見が得られるのではないかという気がした。

【思ったこと】
_71007(日)[心理]日本心理学会第71回大会(18)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(3)

 坂本真士氏の

●ネガティブな思考・感情のメリットに関する検討

という話題提供では、「ネガティブ感情や思考がメリットを持つ条件」として、「学習理論からの考察」、「自己改善への十分な自己効力感」、「将来のネガティブな事態が変えられるという期待」、「絶望感や無力感にはメリットが無い?」といった仮説?が挙げられていた。要するに、自分自身の力で何とかできそうだという自信や展望が残っていないと、ネガティブな思考や感情を前向きの方向に向かわせることは難しいようだ。

 坂本氏はまた、抑うつ予防の心理教育において、ネガティブな気分や認知にどのようなメリットやデメリットがあるのかを考えさせることは、そういう抑うつや不安にもメリットがあることに気づかせ、自分自身に自信が持てるようになるという効用があると説いておられた。

 余談だが、今回の大会の発表論文集の索引を調べてみると、坂本氏は、ワークショップ3件、ポスター発表5件、計8件にお名前を連ねておられる。今回の大会では企画や連名発表総数が10件以上という方も数名おられたが、8件はかなり多いほうで、たぶんtop10には入るはずだ。精力的に研究に取り組まれ、しかも、研究の輪を広げておられるという点で、将来のご発展が大いに期待される。

【思ったこと】
_71009(火)[心理]日本心理学会第71回大会(19)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(4)

 ワークショップでは、坂本氏に続いて、細越寛樹氏による

●悲観的思考がパフォーマンスを高める! 特性的高不安×対処的悲観性=成功

という話題提供があった。

 細越氏の発表でキーワードとなるのは、「特性的高不安」と「対処的悲観性」である。このうち「特性不安」というのは、ひとくちで言えば「不安になりやすい性格(trait)」のことであり、いま現在の状況・状態もたらす不安(状態不安、状況不安)とは区別されている。また、配付資料によれば、対処的悲観性(defensive pessimism)とは、

●自分にとって重要な課題で成功するために有効に機能する悲観的な認知方略

のことであり、DP者と略される。じっさいに行われたNorem & Illingworth (1993)の実験では、
  • 特性不安が高い、対処的悲観者(=DP者)
  • 特性不安が低い、適応的な楽観者(=SO者)
の間では課題に対する不安や遂行成績に差があり、仮説が支持されるという結果になっていた。要するに、DP者は「最悪な状況や感情を書く」という操作で悲観的な状況を考えたほうが遂行成績が上がるが、SO者は、そういう状況を考えないほうがよいという興味深い結果となった。

 もっとも、心理学実験の限界ということもあろうが、ここで行われたのは、暗算課題であり、期末試験や入学試験といったような人生の一大事ではないし、また、特性不安の高低といっても「健常」のレベルの中でも相対差にすぎない。実験で操作できる程度の軽い不安と本質的に同じかどうかは、さらに検討が必要であるように思った。

【思ったこと】
_71010(水)[心理]日本心理学会第71回大会(20)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(5)

 表記のワークショップの参加感想5回目。

 今回、細越氏が紹介されたNorem & Illingworth (1993)の実験は
  • 対象者(対処的悲観者、方略的楽観者)に対して、
  • 最悪な状況や感情をいだかせる(思考促進)か、そういう考えが起こらないように単純課題をさせる(思考阻害)か、という操作を行い、
  • その直後に、暗算課題を実施し作業成績に違いがあるかどうかをみる
  • 合わせて、皮膚電位反応を測定し不安の程度を測る
  • このほか、途中2回、質問紙に回答してもらう
という手順で行われていた。その結果から、
特性不安の高いDP者【対処的悲観者】にとって、重要な課題に対して悲観的に考えるほうが不安を統制し、対処行動を促進し、結果として成功するため機能しうる
ということが示唆されること(配布資料からの引用)、また、特性不安の高い人に対して実際にはどのような介入が可能であるか(問題解決療法の援用が有効?)、DP者の心身の健康についての議論が必要であり、おそらく、適用できるのは健常群の範囲に限られるのは?というのが、今回の結論であったようだ。



 昨日も述べたが、「“ネガティブ”な要因のポジティブに生かす」といっても、上記のようなきわめて短時間の中での「対処行動促進→成功」というケースばかりでなく、もう少し長いスパン、例えば、受験勉強のような1年以上に及ぶ準備行動、さらには、何十年もの人生における「七転八起」もあれば、「人間万事塞翁が馬」と言われるように、何が幸せになり何が不幸になるかは前もっては分からないということもある。少なくとも、坂本真士氏による1番目の話題提供は、上記の実験よりはかなり長いスパンを対象としているように思える。

 もう1つ、今回の話題提供では「不安」がキーワードになっていたようだが、例えば「恥」という概念に置き換えて検討することもできるし、また、10月6日の日記でも述べたように、感情を一切含めずに「最悪の事態を予想する」という行動もアリだとは思う。

 さらに、「対処的悲観者にとって、重要な課題に対して悲観的に考えるほうが対処行動を促進し...」という結論部分については、行動分析学の一部の研究者が提唱している「阻止の随伴性」によっても説明が可能である。要するに、ネガティブな事態というのは、やがて出現するかもしれない「嫌子出現」、もしくは「好子消失」を意味する。そこで、阻止の随伴性、つまり
  • 行動すれば、嫌子出現(もしくは好子消失)を阻止
  • 行動しなければ、やがて嫌子出現(もしくは好子消失)
という随伴性により、対処行動は強化される。具体的には「留年しないように、試験勉強で頑張る」、「生活習慣病にかからないように、日々、ウォーキングに励む」、「地球環境破壊をふせぐため、日々、省エネと再利用につとめる」などなど。こういう「阻止の随伴性」では、やがて生じる変化(嫌子出現、または好子消失)に対する確立操作がきっちりなされることが必要であるが、上記の枠組みの実験で行われているような「最悪な状況や感情をいだかせる」操作は、明らかに確立操作の一翼を担っていると言える。であるならば、その分、阻止の随伴性は有効に働き、対処行動は活性化されるはずである。この、行動分析の見地に立てば、特性不安が高いか低いかということは相対的な差にすぎず、むしろ、どういう形で「阻止の随伴性」を有効に機能させるかが課題となる。私個人としては、そのほうが生産的で、適用可能性が高いように思える。

【思ったこと】
_71011(木)[心理]日本心理学会第71回大会(21)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(6)気晴らしの効用

 坂本氏、細越氏に続いて、及川恵氏による、

●回避的コーピングとパフォーマンス

という話題提供があった。ここで主として「気晴らし」が取り上げられたが、気晴らしと言えば、ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy)も、「diversion」に「気晴らし」という意味があることから「気晴らし療法」と呼ばれたことがある。このセラピーは御本家がオーストラリアにあり、こちらのサイトや、日本ダイバージョナルセラピー協会のサイトに詳しいが紹介されている。但し「ダイバージョナルセラピー」と言っても特定のセラピーではなく、後者のサイトにあるように「思想と手法」を意味するものであり、「気晴らし」のテクニックを磨く団体では決してない。
ダイバージョナルセラピーとは、個々人の独自性と個性を尊重し、よりよく生きることをめざし実践する機会を持てるようサポートし、自分らしく生きたいという要求に応えるため「事前調査→計画→実施→事後評価」のプロセスに基づいて、個々人の“楽しみ”からライフスタイル全般まで、そのプログラムや環境をアレンジし提供する全人的ケアの思想と手法です。
 2007年6月15日と、そのあとの17日、18日の日記に、ダイバージョナルセラピーについての最近の情報を記してあるのでご覧いただければ幸いである。

 ちなみに、6月17日の日記では、
ところでダイバージョナルセラピーの語源となる「Diversion」の意味であるが、日本国内ではかつて「気晴らし」というように紹介されたこともあった。しかし「気晴らし」という訳では「退屈しのぎ」といった程度の軽い意味に誤解されてしまう恐れがある。ランダムハウス英語辞典などを見ても、もともとは

●転換、転用、進路変更、(英)迂回、回り道

という意味がある。つまり「迂回」と言うからには、もともと目的があり、しかしながら、何らかの困難によりその道をまっすぐ進めなくなった時にとるべき手段が「Diversion」であるということだ。実際、ダイバージョナルセラピーで取り入れられる様々なアクティビティは、単なる気晴らしではなく、目的を持った遊びであるとされている。
というように捉えており、今回の話題提供とはかなり内容を異にしていると言えよう。




 さて、今回の話題提供では「気晴らし」には「diversion」ではなく「distraction」があてられており、

●不快な気分やその原因から注意をそらすために他のことを考えたり、行ったりすること

という、Stone & Neal(1984)の定義が引用されていた。また、実際によく用いられる対処としては、
  • 回避・逃避
  • 気分改善・受容
が挙げられていた(スライド画面のメモに基づく)。

 「気晴らし」というのは、困難状況から遠ざかることで問題を避けようとする「回避」の部類に属し、その影響は一般的には否定的とみなされている。しかし、ストレス状況を避ける回避方略として、必ずしも不適応的とは限らないのでは、というのが今回の趣旨であった。及川氏はここで、反応スタイル理論の知見に基づき、ネガティブな気分から「考え込み」が起こることの悪影響について論じられた。要するに、「気晴らし」には、考え込みの悪影響を防ぎ、問題解決行動(接近的対処)につながる可能性があるというわけだ。

 ところで、「気晴らし」と「考え込み」は排他的なものではない。今回の話題提供では、大学生166名を対象に行われた質問紙調査の結果(及川・坂本,2007)が紹介されていたが、そこでは、「気晴らし」の高低で2通り、「考え込み」ので2通り、計4通りのパターンに分類され、ストレス反応の大きさが比較されていた。詳しい言及は避けるが、要するに、「気晴らし」には肯定的側面があること、また、単純に気晴らしの効用を論じるのではなく、他の要因と組み合わせて活用をさぐっていく必要があるというご趣旨であると理解した。GeNii [ジーニイ] 「及川恵」氏のお名前を入れると関連論文がいくつかヒットするので、詳しくはそちらをご参照いただきたい。

 時間が短かったことと、私自身の知識不足もあってよく理解できなかった点は、「気晴らし」というものをどう定義するかということであった。冒頭に引用された定義:

●不快な気分やその原因から注意をそらすために他のことを考えたり、行ったりすること

によれば、「気晴らし」の定義には「不快な気分やその原因から注意をそらす」という意味が最初から含まれているので、「気晴らしをすれば不快な気分から注意がそらされます」と言うだけではトートロジーに陥ってしまう。けっきょくのところ、
  • どういうことが「気晴らし」にあたるのか、
  • それは、万人共通なのか、それとも個人個人で全く異質であるのか、
  • どのくらいの時間配分で、どのように段階を経ることが有効であるのか、
  • 気晴らしのつもりがそれに熱中して、生活全般が崩壊してしまう恐れはないのか
といった問題に個別に答えていく必要があるのではないかと思った。
【思ったこと】
_71012(金)[心理]日本心理学会第71回大会(22)“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方(7)まとめ

 表記のワークショップの参加感想最終回。

 話題提供3件のあと、大竹恵子氏から指定討論が行われた。9月28日の日記にも書いたように、指定討論者は、「話題提供者の講演内容について、やや違った角度から意義や問題点を指摘したり、聴衆が共通していだくような質問を出して、シンポジウム全体を盛り上げる」という役目を果たすことにあると思っているところであるが、大竹氏はまさにその模範であり、聴衆にわかりやすいように各話題提供の要点をコンパクトにまとめ、いくつかの質問を提示しておられた。

 大竹氏がまとめられたように、今回の話題提供は、研究対象、研究方法、効果という点では三者三様であった。いずれも「“ネガティブ”な要因にも、ポジティブな効果がある!」という結論では共通していたものの、そもそも“ネガティブ”な要因とは何かについて、考えてみる必要がありそうだ。

 「ポジティブ」と「ネガティブ」が絶対的な物差しの両端に位置するものではないという例として、大竹氏は、「楽観主義」と「非現実的楽観主義」を対比し、前者はポジティブだが、後者は、リスク行動や健康という基準で考えた場合にはネガティブになることを指摘された。実際、度を超えた楽観主義のために、無謀な冒険をしたり、無理をして健康を損ねるというケースは少なくない。

 大竹氏はまた、「主観的な幸せ」と「客観的な幸せ」についても対比しておられた。いくら主観的に幸せであっても、周囲に迷惑を及ぼしたり、反社会的な行為に走るようでは「客観的な幸せ」にはならない。

 大竹氏の指定討論者としての全般的な質問は、「“ネガティブ”な要因」と「“ポジティブ”な効果"の定義、および、

●どのような意味で、“ポジティブ”“ネガティブ”というものを扱うことが、何において意味を持つのか?

という内容であり、まことに的確な御指摘であった。このほか、個々の話題提供者にも個別の質問がなされた。




 ポジティブ、ネガティブの相対性については、10月5日の日記でも述べた通りであるが、まず、それらの強化子としての機能を明確にし、不安や不快といった情動的な要素は、強化子への確立操作として扱うべきであるというのが、私自身の率直な感想である(10月11日の日記参照)。そのほうが、何を操作できるのか、何を変えられるのか、が明確になる。ま、行動分析学の世界でも、強化の相対性についてはしばしば議論になっており(例えば、2001年9月4日の日記参照)、“ポジティブ"な強化子、“ネガティブ"な強化子について確固たる定義がなされているとは言えないけれど...。

 あと、これはフロアからの質疑の際に私自身から発言させていただいたことであるが、今回の「“ネガティブ”な要因のポジティブな生かし方」を議論するにあたっては、どの程度の時間のスパンで、どういう人たちを対象にするのかによって、適用される法則、原理は全く異なってくる可能性がある。似ているからというだけで1つのテーマに扱う内容としてはやはり広すぎる。最低限、
  • 短期間で達成されるような課題遂行への影響
  • 数年から数十年単位における人生設計
  • リスク管理
  • 不安に悩む人への対処
  • 高齢者福祉
というように対象を絞って論じるべきであろう。

【思ったこと】
_71014(日)[心理]日本心理学会第71回大会(23)エビデンスにもとづく臨床(1)

 日本心理学会第71回大会3日目(9/20)は、

S11 認知行動療法と実証(エビデンス)にもとづく臨床:クライエントにとって真に有効な実践は何か? 20日 10:00-12:00
  • 企画者 東京大学 丹野義彦
  • 企画者 東京大学 石垣琢麿
  • 司会者 東京大学 丹野義彦
  • 話題提供者 兵庫教育大学 市井雅哉
  • 話題提供者 洗足ストレスコーピング・サポートオフィス 伊藤絵美
  • 話題提供者 兵庫教育大学 井上雅彦 #
  • 話題提供者 静岡県立大学 津富宏 #
  • 指定討論者 東京大学 石垣琢麿
に参加した(敬称略、#印は非会員)。

 「エビデンスにもとづく」というのは、最近よく耳にする言葉であり、この半年余りのあいだに私自身このシンポ以外に2回、類似のシンポに参加している。
  • 心理療法におけるエビデンスとナラティヴ:招待講演とシンポジウム
    (2007年3月21日、立命館大学衣笠キャンパス)
  • エビデンスに基づいた発達障害支援の最先端
    (2007年8月5日、日本行動分析学会第25回大会・学会企画シンポジウム、立教大学新座キャンパス)

 このように「エビデンス」論議が高まってきた背景には、

●エビデンスのある所にお金を出すことで、限られた資源を有効に活用する

という考え方があるようだ。これは、

●同じコストであるならば、効果検証実験において、効果量の平均値が高く、かつバラツキの小さい介入を採用したほうが効率的

という考え方にも繋がる。確かに、保健医療、公的な支援を考える上ではこうした視点は重要であるし、また、ユーザー(クライエント)自身が種々の療法のうちからどれを選ぶかという選択の手がかり、第三者にその療法を受け入れさせるための説得手段として有効であると言うことはできる。但し、それらをもって、どの個人にも同一の療法を画一的に当てはめてよいということにはならない。このあたりについての私の考えは、本年12月刊行予定の紀要論文:

心理学研究における実験的方法の意義と限界(4)単一事例実験法をいかに活用するか

に記したところでもあり、刊行後はぜひご高覧いただきたいと思う。




 さて、シンポではまず、1番目の話題提供者の市井氏から、「日本心理学会のシンポ参加者にとっては、エビデンスに基づくことは自明であろう」というようなご発言があった。確かに、日本心理学会は、「実証的」な方法を重視する研究者が多く参加する学会であるため、エビデンスに基づいて議論することは常識となっているようにも見える。しかし、逆に言えば、実験や調査で統計的有意差が出ることがエビデンスの獲得であるような見方も無いとは言えない。少数の実験結果を揃えるだけで何かが「実証された」と説く人もいる。

 実験や調査は大切な方法ではあるけれども、その結果だけで「何かが実証された」と解釈できるわけではない。ある法則が成り立たないという反例を挙げるだけなら1つの実験結果でも十分な場合があるが、ある法則が成り立つということを実験的に証明することはきわめて難しい。経験科学というのはもともとそういうものである。力学の世界なら、たった1つの石ころを落とすだけでも、かなりの法則を見つけ出すことができるが、心理学の世界ではそういうわけにはいかない。多数の要因が同時に関与したり相互作用を起こしているためにばらつくこともあるし、「要因」そのものが安定していない場合もあるし、平均値に差があったからといってすべての個人に当てはまるというわけでもない。さらには、もう少し大きな枠組みで、同一性や関係性を議論していく必要もある。

 ま、そんなわけだから、「エビデンス重視」についての議論は、本当は、それを自明としている基礎系の心理学会できっちりと行われるべきであるというのが私の考えである。しかし、それはそれとして、「競争的環境」のもとで、予算獲得の方便として「エビデンス」が使われることが多いという現実もある。どの分野であれ、誰のためのエビデンスなのか、ということはきっちりおさえておく必要があるだろう。そういう意味ではこのシンポの副題「クライエントにとって真に有効な実践は何か?」はまことに意義深い。

【思ったこと】
_71015(月)[心理]日本心理学会第71回大会(24)エビデンスにもとづく臨床(2)

というシンポの感想の2回目。

 まず、昨日の日記で、

●エビデンスのある所にお金を出すことで、限られた資源を有効に活用する

という考え方に言及したが、今回のシンポで企画者から示されたスライドによれば(←あくまで長谷川のメモに基づく)、この流れは、
  • 実証にもとづく医学(メタ分析、薬物の効果)
    コクラン計画(1992年)
  • 実証にもとづく看護・リハビリテーション
  • 実証にもとづく臨床心理学・カウンセリング
  • 実証にもとづく保健政策
  • 実証にもとづく社会政策論
    キャンベル計画(2000年)
    社会運動化 とどまるところを知らない
というように理解していけばよいようだ。ちなみに「コクラン計画」に関してはこちらに詳しい情報がある。また、「キャンベル計画 とどまるところを知らない」で検索すると、今回の企画者でもあられる丹野氏の丹野研 国際学会プロジェクトがヒットする。




 さて、シンポの1番目は、市井雅哉氏による「医療臨床の領域から」という話題提供であった。

 市井氏によれば、医療現場では、医師のほか、看護師、薬剤師、作業療法士、精神保健福祉士のほか、この中では唯一、非国家資格である臨床心理士などのパラメディカルスタッフがいる。医師は、保険点数上は、薬物療法主体の治療を行うが、患者側としては、「話を聞いてほしい」、「薬に頼りたくない」、「薬へ依存することへの懸念」、「薬の副作用への懸念」などがあり、心理療法への期待は大きい。しかし、保険医療として心理療法を行うためには、当然、効果についてのエビデンスが求められる。

 今回の市井氏のスライドでも紹介されたように、Dryden & Rentoul(1991)によれば、介入効果研究には5つの段階がある。これをピラミッド型に図式化すると
  • 最下層部(土台)には事例研究
  • 2番目には、単一事例実験
  • 3番目は、要因統制実験
  • 4番目は、文献リビュー
  • 最上層の5番目は、メタ分析
という順序となっており、上層であるほど効果研究としての価値は高いとされている。また単一事例実験は、要因統制実験を行うにあたっての発見的手段として有効であるとも指摘されている。
 ここで少々脱線するが、上記のDryden & Rentoul(1991)というのは、私は、

●Dryden, W. & Rentoul, R.(Eds.)(1991).Adult Clinical Probrems: A Cognitive-behavioural approach." Routledge. [ドライデン・ レントゥル(編著)丹野義彦(監訳)『認知臨床心理学入門−認知行動アプローチの実践的理解のために』、東京大学出版会,1996年

という本のことであろうと思っていた。確かに、その本の訳本の38ページから43ページのあたりには、上記と同じ内容の効果研究の階層についての記述があるのだが、ピラミッド型の図式はどこにも掲載されていない。最近あのピラミッドを何度か見かけるが、あれって、誰がどこで描いたものなのだろうか。それとも原書には描かれていて、翻訳書でカットされたのだろうか。大きな謎である。

 ま、それはそれとして、ランバート & バージン (1978)によれば、治療効果予測の比率は、
技法:患者:治療者=1:6:3
という数値になっているという。これは、治療法自体よりも、患者本人や、治療者の名人芸のほうが有効というようにも受け取れかねない。市井氏は、これについては、今でも通用する考え方だろうか?と疑問を投げかけておられた。

【思ったこと】
_71016(火)[心理]日本心理学会第71回大会(25)エビデンスにもとづく臨床(3)


 市井氏の話題提供の中では、アメリカ心理学会第12部会で取り上げられた

●「十分に確立された介入法」の基準

への言及があった。ここでは
  • 基準A:介入手続の特定化、マニュアル化、追試可能
  • 基準B:対象の明確化
が強調されているという。またその基準に基づいて、種々の精神障害と、治療効果を比較したデータが紹介された。

 上記の基準は、私自身も取り組んでいる、「園芸療法」や「ダイバージョナルセラピー」についてもあてはめることができる。但し、こういうやり方は、あくまで、治療法が主人公であって、対象者は、検証という目的を達成するためのモルモットに過ぎないと言えないこともない。本シンポの副題である「クライエントにとって真に有効な実践は何か?」、あるいは全人ケアの精神には結びつかない恐れがあるように思う。




 同じような問題点は、昨日取り上げた、介入効果研究の5つの段階(Dryden & Rentoul, 1991)についても言える。あの「ピラミッド」では「一事例実験は、要因統制実験を行うにあたっての発見的手段として有効である」ということで、下から2番目の層に位置づけられているが、クライエント本人にとっては、効果があるかどうかという問題はあくまで単一事例。いくら有効性が顕著であるとされている薬であっても、本人に効くかどうかは、単一事例実験で確かめない限りは意味が無い。

 ということで、「十分に確立された介入法」の研究に意義は理解できるものの、それだけでは「クライエントにとって真に有効な実践は何か?」という答えにはつながらないのではないか、というのが私の率直な感想である。

【思ったこと】
_71017(水)[心理]日本心理学会第71回大会(26)エビデンスにもとづく臨床(4)

 昨日の日記で、「十分に確立された介入法」の基準:
  • 基準A:介入手続の特定化、マニュアル化、追試可能
  • 基準B:対象の明確化
が「クライエントにとって真に有効な実践」と整合するのかどうか、若干の疑問を述べた。

 このうちの「マニュアル化」は、追試可能性を高めるためには必要だが、しばしば、画一的で紋切り型な対応の原因となる。




 そういえば、むかし、某チャンポン屋(←九州方面)で、上記と似たような体験をしたことがあった。そこのチャンポン屋はチェーン店の1つであり、店員の応対が行き届いていることで定評がある。もっとも、あまりにもマニュアル化しすぎていて、個性が感じられない。まるでロボットが動いているようにも見えた。

 ある時、午後の空いている時間にお店に入ってみると、お客は誰もおらず、店員は一人きりであった。カウンターに座って「チャンポンをお願いします」と注文すると、店員は、「まず食券をお買い求めください」という。しぶしぶ席を立って、食券を買ってからカウンターに戻ると、同じ店員がやってきて「いらっしゃいませ。食券をお預かりします。チャンポンをご注文でございますね。しばらくお待ちください」などと言って食券を受け取り、注文ボードにそれを貼り付けてからチャンポンを作り始めた。

 ま、店がお客でいっぱいの時は、そういうやり方のほうが注文ミスもなくて合理的なんだろうが、店員一人、お客一人という状況のもとでは、もう少し融通をきかせてもよかろうに、と思う。

 上記の「十分に確立された介入法」についても言えるかと思うが、「マニュアル化」すればするほど、融通はきかなくなり、個々人それぞれに合わせた対応ができにくくなる。かといって、個々人で別々に対応してしまうと、それで治ってもセラピストの「名人芸」ではないかと言われてしまうし、治らなくても「介入法は有効であるはずだが、その個人にうまく合わせることができなかった」というように、セラピスト個人の対応の拙さに原因を帰属してしまう恐れがある。




 さて、もとの話題に戻るが、市井氏の話題提供の後半では、メタ分析にあたっての黄金基準についての言及があった。Foa & Meadows (1997)では「目標症状の明確な定義」、「信頼性、妥当性のある測度」、「ブラインドの独立した評価者」、「評価の信頼性」、「マニュアル化された、再現性のある、特定の治療」、「治療への偏りのない割付」、「治療への従順性」の7項目が挙げられており、Maxfield & Hyer (2002)では、「混在条件がないこと」、「面接による評価」、「十分なセッション数」という3項目が追加された(改訂黄金基準スケール)。

 そういう形の評価を通じてEBP(Evidence-Based Psychotherapy)を推進することには意義がある反面、いくつかの批判も出ているという。そのうち特に印象に残ったのは、「治療を求めてきた患者の2/3が排除」、「排除されればされるほど成功率が上がる」といった批判である。このほか、長期的予後についての評価は難しいという批判も大いに参考になった。

【思ったこと】
_71018(木)[心理]日本心理学会第71回大会(27)エビデンスにもとづく臨床(5)

●認知行動療法と実証(エビデンス)にもとづく臨床:クライエントにとって真に有効な実践は何か?

というシンポの2番目は、伊藤絵美氏(洗足ストレスコーピング・サポートオフィス)による

●企業におけるメンタルヘルスの領域から

という話題提供であった。

 最近、
  • 30歳代以上の男性の自殺者急増
  • 勤労者のうつ病急増
  • 労災や過労自殺裁判
  • 旧・労働省「心の健康づくりのための指針」(2000年)
  • 労働安全衛生法のメンタルヘルスへの適用。安全配慮義務。労働安全衛生法改正により、過重労働による健康防止策の中にメンタルヘルスに関する視点明記(2006年)
というように(伊藤氏の発表スライド画面からのメモに基づく)、職場でのメンタルヘルスの問題が注目されるようになってきた。

 職場のストレスが原因で、うつ病などの精神疾患が生じ、それがもとで自殺したというような場合、少なくとも、ストレス対策のレベルと、うつ病にかかった状態の従業員に対するケアのレベルでは、企業としてのしっかりした対応が求められる。これを怠れば、裁判で責任を問われるであろう。そういう意味では、「企業におけるメンタルヘルス」というのは、従業員個人の健康管理の問題というばかりでなく、企業としての安全衛生管理責任にも関わる問題であり、伊藤氏のように、それに携わる専門家へのニーズも大きくなっていると考えることができる。

 2000年の旧・労働省の「事業場における労働者の心の健康づくりのための指針」によれば、事業者には「心の健康づくり計画」を策定することが要請されており、また、
  1. 労働者自身による「セルフケア」
  2. 管理監督者による「ラインによるケア」
  3. 「事業場内産業保健スタッフ等によるケア」
  4. 「事業場外資源によるケア」
という4つのケアを推進することととされている(スライドからのメモに基づく)。そして、事業監督者(キーパーソン)には、セルフケアとラインケアを連携させ、組織的にバックアップすることが求められているという。




 余談だが、大学の中でも、学生の健康安全支援ばかりでなく、教職員に対するケアが重視されるようになってきたようだ。もっとも、教員に対するケアは、年1回の職員定期健診を除けば、形式主義化しているところがある。私のところでは毎月、カレンダーのようなファイルが送られてきており、1カ月の間の健康状態に異状が無かったかどうかをチェックして翌月の初めに提出することが義務づけられているが、それ以上のケア?は特に見当たらない。また、土日に出張したり公務に就いたりすると、その前後の平日に必ず「代休日」をとることが義務づけられているが、毎日授業や会議がある中では、その設定はまことに難しい(←代休日を強制的に取らされるのは、自身の健康管理というよりむしろ、超過勤務や休日手当を不払いにするための根拠という意味合いが強いようにも見える)。

 それはそうと、こちらにあるように、私自身は2年前から「全学:保健環境センターメンタルヘルス準備委員」なるものに任命されているはずなんだが、一度も招集を受けたことが無いなあ。どうなっているんやろか(←ヘタに問い合わせるとヤブヘビになって仕事が増え私自身のメンタルヘルスを損ねる恐れがあるので、ここだけの話にしておこう)。

【思ったこと】
_71019(金)[心理]日本心理学会第71回大会(28)エビデンスにもとづく臨床(6)

 伊藤氏は、労働安全衛生をとりまく昨今の情勢を概観されたあと、認知行動療法(CBT)の特徴を挙げ、なぜそれが職場のメンタルヘルスに有用であるかについて論じられた。

 CBTの1つの特徴は、環境と個人の関わりを重視する点にある。認知と行動の悪循環から脱出するためには、自らによるさまざまな工夫や選択が可能であるが、その際、もし「「環境」調整が可能なら、まずそれを優先する」のだという。この発想は非常に大切であると思う。2007年7月24日付けの日記でも指摘したことがあるが、例えば、自然災害時には、長期の避難所生活により心身面でさまざまな悪影響が出てくる。そのさい行政側はしばしば、医療関係者や心理士などを派遣することで改善をはかろうとするが、一番大切なことは、「まずは環境改善」なのである。職場のメンタルヘルスでも同じことが言える。現場の環境も見ずに、職場とは全く別のところにある相談所で「悩み相談」などを受け付けてどうして問題解決がはかれるというのだろうか。社会や環境に起因する問題を「こころ」の内面の問題として封じ込めてしまうような「こころ主義」は断固として克服していかなければならないと思う。

 もちろん、うつ病などが重症化した時には専門家の治療にゆだねるほかはないが、職場のメンタルヘルスでは
  • うつ病、不安障害の再発予防
  • 一般健常御者のストレスマネジメント増強
  • 専門家による“濃厚”な治療的CBTではなく、ワークブックや研修主体の自助的CBT
に力点が置かれるという。このあたりの御指摘にも大いに同感だ。5月16日付け日記でも述べたことがあるが、
仕事上のストレスによるうつ病などで精神障害になり、2006年度に労災認定を受けた人は、前年度の1.6倍の205人に急増し、同じく過去最多になったという。
というような新聞記事は、受け止め方によっては

●これだけ多くの人たちが長時間働いているにもかかわらず、過労が原因で病気になる人の割合は、意外に少ない。交通事故に遭うリスクのほうが遙かに高い。

というようにも読めてしまう。もちろん、従業員全員に対するストレス対策を漏れなく徹底することは大切だとは思うが、
  • 長時間労働が深刻化している実態が浮き彫りとなっています。(NHK)
  • 厚労省は、長時間労働や成果主義の浸透などが主な原因とみており、景気回復の足元で労働者の健康がむしばまれている実態が浮き彫りになった。(アサヒコム)
などという画一的な批判ばかり繰り返しても何も改善されないのである。また、仕事の性質上、いくら環境を改善してもストレスを100%除去することは不可能という職場もある。この場合は、やはり、個々人のストレスマネジメント増強をはかることのほうが遙かに生産的である。

【思ったこと】
_71020(土)[心理]日本心理学会第71回大会(29)エビデンスにもとづく臨床(7)

 伊藤氏の話題提供ではさらに、「仕事の要求度−コントロールモデル」、「努力−報酬不均衡モデル」、「メンタルヘルス関連の教育プログラムの開発と実践」、「コンサルテーション」などに言及されたが、時間が短く、内容を把握するのは困難であった。

 最後の部分では、職場のメンタルヘルスに関する最近の傾向についていくつか指摘があった。まず、「軽症化(当事者も病気であるという認識が無く、ギリギリで適応できている状態)」と「遅延化(症状がダラダラと長引き、いちど寛解しても再発)」。これらは、職場ばかりでなく、学生生活でもあり得るかと思う。

 さらに、「燃え尽き型から回避無気力型へ」という興味深い御指摘があった。従来のタイプでは、限界まで頑張り続け、ついに力尽きてしまうケースが多く、これは、休養と薬物治療で速やかに回復することが多かった。ところが最近、特に若い人の軽症うつ病に多いケースは、回避無気力型(ディスチミア型うつ病)というタイプであり、このケースでは、失敗するのが怖いので物事に取り組む事を予め回避しようとする傾向があるという。この場合、燃え尽き型に対する標準的治療では反応しづらく、むしろCBTを活かした、教育的な心理療法により本人が諸スキルを習得する必要があるということであった。そう言えば、私の教室の卒論研究などでも、かつてあったような「燃え尽きタイプ」の学生は最近では滅多に現れない。いっぽう、病気と呼ぶようなレベルではないが、「失敗するのが怖いので物事に取り組む事を予め回避しようとする傾向」は顕著に出ているようにも思える。本来、こういうケースでは、指導教員がテーマを与えて、手取り足取り世話をすれば、大して悩むことなく卒業できるのだろうが、それでは、自主的、能動的な研究とは言えず、将来、第二、第三の課題に立ち向かう時に、卒論研究の時の苦労を活かすことができない。そういう意味では、研究レベルが下がったとしても、自力で取り組める機会を与え続け、必要以上には助言を与えないほうが、長期的にみて教育効果が高いようにも思われる。

【思ったこと】
_71021(日)[心理]日本心理学会第71回大会(30)エビデンスにもとづく臨床(8)

 シンポの2番目は、井上雅彦氏(兵庫教育大)による

●発達障害領域におけるエビデンスに基づいた臨床と我が国における課題

という話題提供であった。井上氏の話題提供は、9月初めの行動分析学会第24回年次大会の学会企画シンポでも拝聴したことがあった。内容は一部共通していたが、前回の行動分析学会の聴衆は当然、行動分析学的な研究方法を正しいと信じている人々が大半であり(←もっとも、某所に「エビデンス脱藩同盟」が結成されているというウワサあり)、我が国にそれをいかに定着させるのかという戦略が話題の中心となる。いっぽう、今回の日本心理学会シンポのほうは、聴衆の一部はおそらくエビデンス懐疑派、またその一方で、心理学実験で有意差が出ればそれで実証されたと信じて疑わない人々も含まれているものと推察される(←あくまで、長谷川の独断と偏見に基づく)。そういう意味では、話題構成にさぞかし苦労されたものと拝察する。

 さて、井上氏はまず、自閉症研究において有効性の証明が困難な理由として、ニーズの多様性が群配置や測定に影響を及ぼす点、独立変数となる手続が複雑である点などを挙げられた。私自身も何度か指摘していることであるが、実際の介入場面では種々の独立変数がパッケージとして提供されている。その1つだけを取り出して実験的に操作するということは、組み合わせの数の膨大さから見ても非現実的であるし、また、そもそもそういう独立変数は、建築物の柱の1本1本のように相互に支え合っている場合があり、「柱時計という実験変数は操作できるが、家の柱は操作できない」という例を挙げたように、そもそも単独&加算的に効果を及ぼすものではないという場合もある。ということもあって、具体的な手続を含むような個別療法の万能性を証明することはまず不可能と思わざるを得ないが、基本的な介入のスタイルや考え方のレベルであれば十分に比較、評価ができるだろう。




 シンポ1番目の話題提供(市井氏)で、エビデンスに基づく臨床心理では、CBT(認知行動療法)が「1人勝ち」になっているというようなお話があったが、米国の公的機関の見解や心理社会分野の専門家による調査(AAMRの機関誌2000年特集号)によれば、発達障害支援の分野ではどうやら、「応用行動分析、環境の整備、対象者や家族への教育」の手法が最も推奨されている模様である。このうち、応用行動分析の活用例としては、「PBS」、「PRT」、「Incidental Teaching」、qa Verbal Behavior」、「Discrete trial training」などがあるという。

【思ったこと】
_71022(月)[心理]日本心理学会第71回大会(31)エビデンスにもとづく臨床(9)

 話題提供の中ほどで井上氏は、我が国の行動分析家の課題について、中野(2004)に言及された。

中野良顕 (2004). 行動倫理学の確立に向けて〜EST時代の行動分析の倫理〜. 行動分析学研究, 19,. 18-51.

 そこでは、
  • 行動分析学系の2誌において、単一被験体法(単一事例法)を用いた論文数は、1989〜98年の10年間で、年平均1.6本
  • メタアナリシス無し
  • RCT(Randomized Controlled Trial)つき群間比較無し
といった特徴が指摘されている(一部、長谷川が加筆)。

 日本行動分析学会の前会長である中野氏が自ら執筆された中野(2004)という論文は、行動分析学会会員の間では広く知られていると思うが、残念ながら、学会の外の世界ではそれほど浸透しておらず、また、まことに残念ながら、御提言がなかなか実現していないようにも思われる。




 ところで、上記の一連のお話の中で、井上氏は

単一事例は探索的手法により介入変数を発見するのに向いているが、証明された変数に対しては次の段階を考える必要がある

と述べておられたが、これはあくまで、法則や手法の一般化をめざすステップのことであると理解した。前にも述べたように、ある方法が個人に有効かどうかを問題にする場合には、むしろ単一事例法こそが唯一かつ最後の段階になる。

 例えば、ある薬草の成分がある病気に効くかどうかを調べる場合、薬効を検証するプロセスでは、

事例研究→単一事例実験→RCT

というステップになる。しかし、その成分を含む薬が正式に発売された後、特定の個人がそれを服用するかどうかを判断する場合には、またまた、その個人に対する単一事例法が意味を持ってくるのである。いくら特効薬であると言われても、その個人の体質によっては副作用が出る場合もあるし、うまく吸収されないことだってあるからだ。このあたりのことは、質疑の時にも確認させていただいた。「エビデンス脱藩同盟」の趣旨もおそらくこの点にあるのではないかと思う。

【思ったこと】
_71023(火)[心理]日本心理学会第71回大会(32)エビデンスにもとづく臨床(10)

 昨日の日記の最後のほうで、単一事例研究についてふれた。10月14日にも述べたように、この話題については、近日中に

心理学研究における実験的方法の意義と限界(4)単一事例実験法をいかに活用するか

という拙論を刊行する予定であるのでぜひご覧いただきたい。

 単一事例研究法をどう活用するのか、という問題は、少なくとも
  1. 特定の薬(あるいは介入法、治療法)の一般的な有効性を検証する場合
  2. 一般的には有効性が確認されている薬(あるいは介入法、治療法)を特定の個人にあてはめ、その個人の中で有効性を高めるための工夫
という2つの場面では目的や意義が異なってくるように思う。1.のケースでは単一事例研究はあくまで、

探索的手法により介入変数を発見するのに向いているが、証明された変数に対しては次の段階を考える必要がある。

というレベルにとどまるが、2.のケースでは単一事例法こそが最も重要な意味をもつ。但し、それをどういう個人に適用するべきかについては、いろいろと議論がありうるかと思う。

 私個人の考えとしては、まず、健康な人が病気になったような場合は、当人は最善の治療法を受ける権利を有するし、家族などの関係者も、特定の思想信条や思い込みに引きずられることなく、最善の治療法を受けられるように最大限の努力をする必要がある。そしてその際の効果検証は、単一事例実験に近い方法をとるほかはない。

 そう言えば少し前、集団暴行事件に関連して、「癌が治る水」を売っていた宗教法人のことが話題になっていたが、ウィキペディアの当該項目によれば、その団体の初代教祖は膵臓がん、教祖の妻は肺癌で亡くなっているという。自己暗示により自然治癒力を高めることを一概に否定するわけではないが、科学的な検証なら、まずはRCT(Randomized Controlled Trial)、次に、それを利用する個人において単一事例法による効果検証をちゃんとやっていれば、思い込みに陥ることは無かったはずだ。

 もとの「発達障害領域におけるエビデンスに基づいた臨床」に関してもいろいろな議論があるが、私個人としては、発達障害児がどのような支援を受けるべきかということは、基本的にはエビデンスを重視し、あくまで本人の将来の自立をめざして、最善の手段を探っていくべきであると思う。そう言えば、何年か前にこういう議論が起こったことがあったが、その後はどうなっているのだろうか。




 いっぽう、かなり高齢の方が、科学的には根拠に乏しい、自己流の健康法を信じて日々充実した余生を送っておられるような場合は、あえて、単一事例研究法による効果検証などを持ち込まなくてもよいように思う。私などもまもなくそういう年齢に達するが、しょせん、人間は最後は死ぬものである。寿命が尽きそうになて「いかによく死ぬか」を考える時にはもはや効果検証は無意味だし、延命治療も大した意味をなさない。そもそも宗教は効果検証には適さない。宗教を拠り所にした離脱理論のエビデンスなど、あるはずがない。そういう場合には、「目的に対する有効性」ではなく、死に直面するなかで「いかに価値を高めるか」が大切であろう。

【思ったこと】
_71024(水)[心理]日本心理学会第71回大会(33)エビデンスにもとづく臨床(11)エビデンスとPDCAサイクル

 井上氏の話題提供の後半では、発達障害支援における「Types of outcome measures」についての言及があった。Stathopulu & York (2007)で提示されているものであり(←原典は未確認)、
  1. Behavioral changes in the child
  2. Developmental changes in the child
  3. Cognitive changes in the child
  4. Educational performance as measured by standard school test results
 井上氏はこのうち「1.のみが○か」と説いておられた。




 このことからの連想にすぎないが、最近、大学教育改革に関して、PDCAサイクルの確立ということが強調されている。Googleで「大学教育 PDCA」を検索すると189000件もヒットするし、文科省サイトの「平成20年度概算要求について−質の高い大学教育推進プログラム(仮称)−」の中でも、「学内でのPDCAサイクル確立」という言葉が登場しており、今後ますます多用されることになると思う。

 ウィキペディアの当該項目によれば、
【略】...PDCAサイクルという名称は、サイクルが次の四段階からなることから、その頭文字をつなげたものである。
  1. Plan (計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する。
  2. Do  (実施・実行):計画に沿って業務を行う。
  3. Check(点検・評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを確認する。
  4. Act (処置・改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて処置をする。
この四段階を順次行って一周したら、最後のActを次のPDCAサイクルにつなげ、螺旋を描くように一周ごとにサイクルを向上させて、継続的な業務改善をしてゆく。この螺旋状のしくみをスパイラルアップ(spiral up)と呼ぶ。...【以下略】
とされている。実際の発達障害者支援においても、おそらくこのPDCAサイクル型の改善が行われていくことになるだろう。つまり、特定の治療法、介入法などを効果検証し、優越性が認められた候補を永続的に採用・実施するということではなく、複数の方法を併用し、Checkに応じて処置・改善していくというスタイルをとることのほうが現実的であろう。

 もっとも、この「PDCAサイクル」という言葉は、字面だけの表面的な受け止めでは実効性が出てこない。文科省のサイトでこの言葉が頻出するようになった背景は、おそらく
これまで評価、評価、と言ってきたが、評価報告書という古文書の山を作るだけではダメ。評価の結果を改善につなげ、さらに新たな取組と実行のサイクルに入っていかなければならない。
という意味が込められているのではないかと思う。そこで問題となるのは、まず、どういう部分が「評価」できるのか、どういうことは評価困難であるのか、といった議論である。上記の「Types of outcome measures」でも言えるように、何でもかんでも測れるというものではない。特に、長期的な成果や、総合的な評価についてはエビデンスをとることが難しいと言えるだろう。また、「PDCAサイクル」で改善が必要だと言っても、そこには本来、単一事例実験のロジックが入らなければならない。「やってみたがうまく行かないので別のやり方に変えてみよう」という行き当たりばったりの対応は改善とは言えない。「評価に基づく改善」と言うからには、どういう原因でどの部分がうまくいかないのかを具体的に把握し(もちろん、その把握にあたってはエビデンスが必要)、有効な改善を図らなければ、「PDCAサイクル」ではなくて「気分転換的なローテーション」に終わってしまう恐れがある。

【思ったこと】
_71025(木)[心理]日本心理学会第71回大会(34)エビデンスにもとづく臨床(12)

 井上氏の話題提供の後半では、待機リスト法による群間比較についての言及があった。行動分析学の研究では単一事例法や個体内比較実験が主流となっているがこれでは外的妥当性が保証されない。待機リスト法は、その問題を解消しつつ、すべての対象者に介入の機会を与えるというメリットがある。通常の群間比較では、未介入群、つまり実験群との比較という目的だけのために一部の人たちを「放置」することが求められるが、待機リスト法であれば、時期はズレてもすべての人々に機会が保障される次第である。

 待機リスト法は、一口で言えば、A群とB群という2つのグループに
  • A群→テスト1→介入1 →テスト2→(待機)      →介入2
  • B群→テスト1→(待機)→テスト2→介入1  →テスト3→介入2
というような手続をとる方法であり、そうすれば例えば、テスト2の結果は、実質的に群間比較と同一であるし、テスト2までのところでは対照群であったB群にもそののちに同一の介入を行うので、平等性が保たれるし、さらに、テスト3の時点で、B群自身における効果の検証もできる。

 いちおう私が理解しているのは上記のようなロジックであるのだが、想定される困難としては、
  1. A群とB群に無作為な割付をすることは現実には困難ではないか? 同じ学級の構成員をランダムに半数に割り付けるというならともかく、別々の学級や学校ごとにグループに分けるのであれば、当然、操作変数以外の要因も関与してくる(統計学的には、実験研究ではなく観察研究の部類に入ってしまう)。
  2. それぞれの群内において、グループ構成員どうしが日常的に接していた場合、各メンバーのデータは独立とは言えなくなる。例えば、子どもの質問行動を高めるような教育プログラムを開発し、その有効性を確かめるというケースを考えてみると、特定の学級内で質問をする子どもが出てくると、他の子どももそれに影響されてますます質問がたくさん出てくるようになる。その場合、学級内での質問行動の頻度が上がっても、個々の子どもに対する教育プログラムの成果であるとは必ずしも言えない。むしろ子どもどうしの行動の相互作用の結果であると解釈すべきであろう。
  3. 待機期間が数ヶ月以上に及んだ場合、当然、子どもたちはその期間に発達し、また、さまざまな別の教育を受けることになる。その分、効果が検証しにくくなるのではないか。
 以上述べたことはたぶん、私の理解が足りないためでろう。実際には、待機リスト法はもう少し限定的に、一定の条件のもとで実施されているのであろう。いずれ、具体的な研究報告に対して、改めてコメントさせていただきたいと考えている。

【思ったこと】
_71026(金)[心理]日本心理学会第71回大会(35)エビデンスにもとづく臨床(13)エビデンスに基づく社会へ

 井上氏の話題提供の最後のところでは、「基礎と応用の両方の力を備えたサイエンティスト&プラクティショナーの養成課程の検討」の重要性が強調された。この考え方は、昨年行われた第24回年次大会における日本行動分析学会I先生の講演、あるいは、心理学専門家のTraining ModelsについてのOvermier氏の講演の趣旨とも一致するように思えた。




 さて、このシンポではもうお一人、津富宏氏による「エビデンスに基づく社会へ」という話題提供があった。ご勤務先の教員詳細サイトに記されているように、津富氏は、もともと、少年院や矯正局でお仕事をされており、犯罪学、刑事政策、評価研究をご専門とされ、主要研究テーマの1つとして「科学的エビデンスの普及・利用体制の構築」を挙げておられる。今回もそのお立場からの話題提供であった。

 津富氏は、まず、

●「実験する社会(一次研究の時代)」から「エビデンスに基づく社会(二次研究の時代)」へ

ということを強調された。ここでいう一次研究の時代とは、RCT(Randomized Controlled Trials)の結果がそっくりそのままモノを言う時代、いっぽう、二次研究の時代とは、Systematic Reviews がモノを言う時代であり、研究の成果を行政改革の動きと連動させ、政策全般へ反映させる時代のことであると理解した。

 津富氏は、やや強引な表現であると断った上で、
  • 一次研究:RCTによる内的妥当性の担保
  • 二次研究:外的妥当性の担保、統計的結論妥当性の担保、二次レベルでの構成概念妥当性の担保
というように区分けしておられた。

 こうした捉え方は、津富氏ご自身が専門とされている犯罪者処遇の効果検証の問題では特に重要になってくると思われる。一次研究の結果だけからダイレクトに「この処遇は有効であり即実施すべきだ」とは言いがたいからである。

【思ったこと】
_71028(日)[心理]日本心理学会第71回大会(36)エビデンスにもとづく臨床(14)まとめ

 津富氏の話題提供の後半で興味深かったのは
  • 犯罪者処遇における最も代表的な認知行動療法である「Reasoning and Rehabilitation」は、カナダ矯正局やイギリス内務省などで標準的プログラムとして採用されているが、追試になればなるほど効果が小さくなり、むしろ当初の研究が外れ値になってしまう。
  • 技術移転においては、robustnessの確保が課題。
といった点であった。




 最後に指定討論や質疑では、どうやって政策に反映させるのか、長期にわたるサポートにおけるエビデンスの問題などが取り上げられた。

 私自身も質問させていただいたところであるが、やはり、「エビデンスにもとづく」の問題は、行政や保険点数などのように、限られた資源をいかに効率的、公正に活用するのかという点にあるかと思う。「同じ処遇をするなら、平均値が高く、分散の少ない方法を使うべきだ」という論理も、この世界では通用すると思う。但し、個々人のレベルでは、一般に推奨されている方法が常に最大の効果をもたらすとは限らない。やはり、個人本位での有効性のエビデンスを求めていくほかはあるまい。

 余談だが、最近、ダイエット支援プログラムをめぐって、著作権侵害をめぐるトラブルがあったというようなネットニュースがあったようだが、ダイエットであれ、健康支援であれ、あるいは、療法効果を狙った種々のセラピーであれ、とにかく、ビジネスに関係する商標登録の部分と、エビデンス検証のための議論の部分は、明確に分けておく必要があると思う。後者に関しては、自由な議論と検証機会の保障がゼッタイに必要だ。

【思ったこと】
_71029(月)[心理]日本心理学会第71回大会(37) 日本人は集団主義的か?(1)

 9月18日〜20日に開催された、日本心理学会第71回大会から1カ月以上が経過してしまった。何かの学会年次大会、シンポ、研究会などに参加した時は、その時の参加感想をなるべく1週間以内に、どんなに遅くても2週間以内にWeb日記にまとめるということを原則としてきたのだが、今回はなんと、1カ月以上も継続してしまった。このように長引いている理由は、
  1. この大会には3日間とも、朝から夕刻までフルに参加したため、感想が盛りだくさんとなった。
  2. 同時期に他の学会等が無かった(もしくは、今年は参加しなかった)。
  3. 9月中旬以降非常に忙しく、他の話題について取り上げる時間的余裕が無かった。
  4. 後期は1コマ目の授業が週2日あり、当日朝に準備が必要であるため、朝の日記執筆時間が少なくなり、その分、こまぎれの連載となって連載回数が増えた。
といった点にあるかと思う。




 さて、とにもかくにも、今回から取り上げる「日本人は集団主義的か?」というシンポが、この大会の最後の感想シリーズとなる。

日本人は集団主義的か?― 経済学、言語学、心理学から考える ― 20日 13:30-15:30
  • 企画者 東京大学 高野陽太郎
  • 司会者 東京大学 高野陽太郎
  • 話題提供者 東京大学 高野陽太郎
  • 話題提供者 東京大学 三輪芳朗 #
  • 話題提供者 法政大学 小池和男 #
 ところで、企画者の高野氏と言えば、「外国語効果」の御研究でも知られており、ネットで検索すると、

●英語と似ていない日本語を母語とする日本人の方がドイツ人と比べて思考力の低下が大きい。

というような御指摘をなさっていることが分かる。もっとも、そのようなことが実験的方法でどこまで証明できるのかについては種々議論がある。じっさい、柳瀬氏によるこのような御指摘もある(関連記事がこちらにあり。但し、連載自体は未完)。

 今回の集団主義論議に関しては、

●南風原朝和・市川伸一・下山晴彦 (2001) 『心理学研究法入門:調査・実験から実践まで』.東京大学出版会

という本の一番最初に出てくるコラムの中で、
私たちは一般に,日本人が意見や行動を他者に同調させることが多く,アメリカ人は独立性を重んじ個人的に行動すると信じている.また,そのようなとらえ方にもとづいた文化論が多くの書物となって公刊されている.ところが,高野・纓坂(1997)は,これまでの実証的な研究はそのような事実があることを示しておらず,これは一種の俗説,もしくは一時的な状況的要因から生まれた現象の過度の一般化であると主張した.それに対して,文化心理学の中では,自己を他者から独立した存在としてとらえる欧米的な文化と,他者との関わりにおいてとらえる東洋的な文化があるとするMarkus & Kitayama(1991)の理論が影響力をもっており,両者は激しく衝突することとなった.この論争は,高野・北山両氏の「集団主義論争」として,日本認知科学会発行の『認知科学VVol. 5、No1』(1999)で展開されている.
というように紹介されており、おおむね10年にわたる「論争」が展開されていることが分かる。しかし、これは上記の「英語で話すと思考力が低下」論議と同様、問題の設定自体に少々無理があるようにも思える。

 実際、今回のシンポの質疑の時間にも指摘されていたが、そもそも「集団主義」なるものは、厳密に定義された学術的概念ではない。社会心理学の実験をやってみれば、確かに、米国人が被験者の場合の結果と日本人が被験者の場合の結果で質的な差違が出る場合もあるし、全く出ない場合もある・しかし、その実験結果だけをもって「実証」とか「反証」ということにはならない。けっきょく、俗に言われている「集団主義」的な傾向が顕著に表れるケースもあれば、そうでないケース、また時には米国人のほうが集団主義的と見えるようなケースもありうる。いくら議論を続けても、あまり生産的な結論にはたどり着かない。せいぜい、決め付けや誤解を打破するという程度で終わってしまうのではないかなあ(←いや、そういうことを指摘することも大切ではあるのだが)という気もする。

 今後の議論の参考にもなると思うので、上掲の柳瀬氏の御指摘を引用しておこう。
......言ってみるなら心理学はジレンマを抱えているように思えます。心理学は「科学」であらんとするためしばしば、(実は曖昧でしかない)日常の心理概念を、厳密に操作的に定義しなければなりません。しかし一方、心理学が日常行動を行なう人間の学であるためには、その厳密に定義された概念も、曖昧な日常言語の中に埋め込まれられなければなりません。曖昧な概念を厳密に定義し、そうして得られた結果をまた曖昧な諸概念の中に戻さなければならない----これが私の考える心理学のジレンマです。 .....


【思ったこと】
_71030(月)[心理]日本心理学会第71回大会(37) 日本人は集団主義的か?(2)

 シンポではまず、企画者の高野氏より、企画趣旨説明と1番目の話題提供があった。それによれば、今回のシンポは、

●「日本人は集団主義的」という通説の妥当性を検証する

ことを目的とするものであり、過去にすでに、心理学的、言語学的観点から、通説を否定する内容のシンポが行われており、今回は、経済学的観点からの考えるという趣旨であるとのことだった。経済学的観点というのは、日本人がとかく、職場の人間関係を重視し、会社の上司や系列企業の意向に気を配りながら行動する傾向があり、欧米人から異質な文化として取り上げられる傾向があった。映画の中でもそれを象徴するシーンが含まれていることがあるという。それを打破し、実は、日本企業では、(現在はもちろん過去のにおいても)必ずしも終身雇用や年功序列は無かったという事例を示すことが今回の狙いであったようだ。




 高野氏の話題提供ではまず、「日本人=集団主義」という通説が、誰によって主張・流布されていったのかが概観された。

 まず、「集団主義vs個人主義」の定義だが、スライドでは
  • 集団主義:個人より集団を優先
  • 個人主義:集団より個人を優先
というように示されていた。もっともこれだけでは、「利己主義vs利他主義」と区別がつかない。「集団主義」は、必ずしも個人より集団の利益を優先するというわけではなく、むしろ、周囲との関係性の中で自分を位置づけるとか、「空気を読む」能力を重視するといった意味にも通じるところがあると思う。スライドでなぜ「優先」という概念が出てきたのかは、よく分からなかった。

 スライドでは、代表的な日本人論として、『菊と刀」(ベネディクト)、『日本の経営』(アベグレン)、『タテ社会の人間関係』(中根千枝)、『「甘え」の構造』(土居健郎)』、「人と人の間−−精神病理学的日本論』(木村敏)、『日本人−−ユニークさの源泉』(クラーク)、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(ヴォーゲル)といった著作が紹介されていた。もっとも、最近では、かなり違った見方をする社会学者も出ており、成果主義や競争的環境のもとで、「集団主義」という通説がどこまで受け入れられているのかは少々疑問である。すでに通説自体が古文書化してしまったとすると、高野氏の問題提起そのものが意味をなさなくなってしまう恐れもある。

【思ったこと】
_71031(水)[心理]日本心理学会第71回大会(37) 日本人は集団主義的か?(3)


 昨日の日記で、
  • 集団主義:個人より集団を優先
  • 個人主義:集団より個人を優先
というだけでは「利己主義vs利他主義」と区別がつかないのでは?と述べた。じっさい、高野氏の話題提供では、“通説における日本人の「国民性」”について、もう少し詳しい特徴が要約されていた。それは、
  1. 個我が確立していない
  2. 個性がない
  3. 人と同じでないと安心できない
  4. 同化を強要/異質を排除
  5. 甘え/もたれ合い
などであり、これらの特徴は社会現象の説明にも使われようとしてきた。具体的には、「いじめ」、「創造性の欠如」、「軍国主義」、「高度経済成長【の原動力】」などである。

 ちなみに、私自身は、8年ほど前に、

第27回京都心理学セミナー:「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」

という研究会の中で、

●自己高揚のアメリカ人、自己批判の日本人

というような内容の話題提供を拝聴したことがある。講演者は、今回の高野氏の「論敵?」にあたる北山忍氏であった。

 このほか、2005年に北京で開催されたThird International ABA Conferenceで、佐藤方哉氏が、East is East, West is West: A Behavior Analysis of Cultural Differenceという講演をされていたことも記憶に新しい。佐藤氏の講演の中では、

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

にも言及されていた。

 昨日挙げた種々の日本人論の書物や、上記の諸講演の内容は、日本人と西洋人(もしくはアメリカ人)との文化差を強調するものであったが、これらがすべて「集団主義」という1つの枠の中で一括して論議できるものかどうかは、かなり疑わしいのではないか、というのが私の個人的な考えである。また、仮に平均値レベルで有意な差があったからといって、個々人がすべて同じ行動をとるわけではない。さらには、そうした違いをどうやって検出するのかという方法上の問題がある。日米の差を質問紙で比較しようとしても、訳語の問題がある。回答の比率などは、質問紙表現がちょっと変わっただけで大きく変化するものである。また、比較するサンプルが同質かどうかという問題もあるだろう。「日米の大学生を対象に調査した」などと言っても、調査対象の大学に在籍する学生たちが、同じレベルであるという保証はない。このあたりを意識しながら、引き続き、話題提供の感想を述べることにしたい。

【思ったこと】
_71101(月)[心理]日本心理学会第71回大会(40) 日本人は集団主義的か?(4)「母に貸してくれた」と「母は寒い」

 高野氏によれば、これまでの「日本人=集団主義」通説の「証拠」としては、主として
  1. 集団主義行動のエピソード
  2. 日本語の特性
  3. 日本経済の特性
が挙げられてきた。それぞれについて反例を示すことで「通説」を覆そうというのが一連の取組の狙いであったようだ。

 今回のシンポはこのうち、日本経済の特性について経済学の専門家2名を招くという趣旨であったが、初めての参加者へのサービス?として、心理学や言語学からの反証例についてもいくつか紹介があった。

 言語学からの反証ではまず、人称代名詞が取り上げられた。しばしば言われているように、英語では自分のことは「I」としか呼ばないが、日本語では、話す相手が自分の子どもならば「お父さん/おかあさん」、甥や姪や近所の子どもたちが相手の時は「おじさん/おばさん」、生徒に向かって話す時は「先生」というように、相手との関係に依存して呼び方を変えている【←高野氏のスライドからのメモを一部改変】。

 また、「くれる」という授受動詞の使い方を考えてみると、「○○が□□にお金を貸してくれた」という時の「□□に」には、普通、「私に」しか入らない。例えば、「その人にお金を貸してくれた」というようには言わない。しかし、身内である母が貸してもらう場合は、「○○が母にお金を貸してくれた」と表現することができる【←高野氏のスライドからのメモを一部改変】。これは、日本人の自己が内集団と一体化していることの表れであるとされてきた。ここまで挙げた事例は、「日本人=集団主義」の「証拠」といってよかろう。

 ところが、廣瀬幸生氏(筑波大学)の「日本語から見た日本人−−−日本人は『集団主義的』か」(『言語』)や長谷川葉子氏(カリフォルニア大学)の「relational self」に関する英語論文によれば、日本語にも、「他者から独立した自己」を明確に示す表現があるのだという。

 その根拠の1つは

●「私は寒い」と言えても「母は寒い」とは言えない

というように、思考、感覚、感情などの心理状態を表す心理述語の存在にある。母の状態を表す時には、「母は寒がっている」、「母は寒そうだ」としか言えないのである。これは、上記の「○○が母にお金を貸してくれた」が「内集団の一体化」の表れであるという主張とは矛盾するというわけだ。

 ここで私自身の感想を差し挟ませていただくが、うーむどうかなあ。いくら「母」が内集団であるからと言って、個々人の内的状態まで一体化することは想定していないのではないだろうか。「内集団」というのは、普通、自分の家族、カイシャ、チームなどのことを言うが、それらの中でも、関係性に配慮する部分とプライバシーの部分はちゃんと使い分けられているようにも思う。いくら実の母親だからと言って、からだの内部の状態までは表現できない。だから、外からの行動観察で「寒そうだ」とか「寒がっている」しか言いようが無いのだ。




 余談だが、昨日(10/31)、「ことばおじさんのナットク日本語塾」をたまたま視たところ、たまたま「お話くださる、いただく」という話題をとりあげていた。司会者が講演者に向かって「本日、お話くださいます○○先生は」というのと、「本日、お話いただきます○○先生は」とどちらが妥当かというような話であった。私の理解が間違っていなければ、「お話くださる」というは、相手を行為主体と見なす相手への尊敬表現、「お話いただく」というのは、自分がもらうことについての謙譲表現という説明であった。

 ここからは私の勝手な解釈だが、司会者が「お話いただく」と言うと、司会者自身だけでなく、聴衆全体も同時に謙譲させてしまうため、聴衆の中には、自尊心が傷つけられて妙に感じる場合がある。また、講演者はそんなに偉くないぞと思っている聴衆にとっては「お話くださる」は妙だと感じるかもしれない。このあたり、司会者と聴衆が同じ内集団内に居るのかどうかによってもニュアンスが変わってくるのではないだろうか。

【思ったこと】
_71102(火)[心理]日本心理学会第71回大会(41) 日本人は集団主義的か?(5)「自分は」という表現

 高野氏の話題提供では、言語学からの反証のもう1つの例として、「自分は○○だ」という表現が挙げられていた。「ぼくは」や「わたしは」と、「自分は」は同じように見えるが、

●「秋男は、ぼくは泳げないと言っている」と春男くんが言った。

という表現では、泳げない人が、秋男くん自身なのか、それとも話者である春男くんなのか、区別をつけることができない。しかし、

●「秋男は、自分は泳げないと信じている」と春男くんが言った。

とすると、泳げないと信じているのは秋男自身であることが明確になる。日本語の「ぼく」は公的自己(伝達の主体)であって集団主義の根拠になりうるが、「自分」は私的自己(信じている、思考の主体)の一人称代名詞である。「自分」は他者から独立した個人である私的自己を表すが、そういう言い回しが存在することは、「日本人の自己は他者との関係の中のみで自己が成立し、内集団と一体化する」という「日本人=集団主義」観では説明できない、という御趣旨であったようだ【事例は、長谷川のほうで要約改変】。

 全くの素人の私にはよく分からないところが多いのだが、うーむどうかなあ、そもそも、「自分は」という表現は、昔の日本語には無かったはずだし、私的自己というほど定着した言い回しにはなっていないように思う。単に客観的に、「秋男は」で言及された話題の人物自身と主語が一致していることを示しているだけではないかなあという気もする。

 例えば、

●秋男は、自分は天才だと信じている

という表現と、

●秋男は、他人は皆バカだと信じている

という表現は大差ないし、

●秋男は、自分の子をかわいがるのは当然だと思っている

という表現のように、文脈によっては「自分の」が「秋男の」という意味のほか、「人は誰でも自分の...」という意味にもとれることがある。なんだかあんまり説得力がない反例のように思えるのだが、私の理解が足りないためだろうか。

 ちなみに、ネットで「自分はという表現」というキーワードで検索すると、就職活動支援サイトに

●自分のことは「わたくし」という。「自分は」という表現も使わない。

とアドバイスされていることが分かった。これって、「自分は」が私的自己表現であるためだろうか、いや、面接では「ぼくは」や「オレは」も禁句だろうから、単に、謙譲表現として「わたくし」を使えという意味だと思うのだが、どうだろうか。

【思ったこと】
_71103(土)[心理]日本心理学会第71回大会(42) 日本人は集団主義的か?(6)あべこべ日本人論的エピソード

 高野氏の話題提供では、言語学からの反証例に引き続いて、「日本人=集団主義」という通説の論拠の1つとなっている「集団主義的行動のエピソード」について、いくるかの反例が挙げられた。

 少々脱線するが、高野氏が言わんとする「エピソード」とは、たぶん、「難破船ジョーク」()で、「国民性ステレオタイプ」として語られるようなエピソードのことを言うのだと思う。


「船が沈没しそうになったが、救命ボートが定員オーバーのため、誰かに飛び込んでもらわなければならない。どういうふうに頼めば引き受けてくれるだろうか」というような設定だが、いろいろなバリエーションあり)
  • イギリス人には「紳士なら飛び込むものです」 n nアメリカ人には「飛び込めば英雄になれます」
  • ドイツ人には「飛び込むのがルールです」
  • 日本人には「他の人はみんな飛び込みましたよ」
 このほかにも、「海外旅行先では、日本人はいつも団体で行動する」、「出る杭は打たれる型の横並び指向」、「Yes or Noの態度を明確にしない」などが挙げられるかと思う。

 しかし、杉本良夫氏やロス・マオア氏によれば(←たぶん『日本人論の方程式』の本のことだと思う)、この種のエピソードというのは、恣意的に選択することで、つまり都合の良い事例だけを恣意的に抜き出してくることで、どのようにも主張ができるのだという。高野氏は、杉本良夫『日本人をやめる方法』の中の「」の章から、
  • 日本人のほうが個人競技が盛ん
  • 日本人は、食器の使用者が一定(箸、茶碗)
  • 「先んずれば人を制す」というような格言がある
など、「日本人=集団主義」の反例となるようなエピソードをいくつか紹介された。ちなみに、この「あべこべ日本人論」の章には、上記以外にも
  • 「あの人はしっかりしている」という個人差強調のほうが「八方美人」より良いとされる。
  • 日本の書店では「自己○○」というような自己啓発、向上をめざすための指南書がよく売れている
  • 日本では個人の娯楽(パチンコ、カラオケ、演奏)が盛ん。合奏、合唱、集団リクレーション活動はあまり好まれない。
  • 通勤風景:急いで電車に駆け込もうとするし、優先座席の設定が無いとなかなか席を譲らない。
  • 非接触主義:集団主義だと言われているわりには、握手や抱擁の習慣が無い。
  • 写真撮影:旅行先では、景色の中にやたらと自分を入れたがる。
などの事例が挙げられていて、興味深い【上掲の表現や事例では、長谷川による解釈・改変あり】。

【思ったこと】
_71104(日)[心理]日本心理学会第71回大会(43) 日本人は集団主義的か?(7)「日本人=集団主義」エピソードへの反証

 高野氏の話題提供から少々脱線するが、杉本良夫氏の「あべこべ日本人論」によく似た事例はいくらでも見つけることができる。「この種のエピソードは、恣意的に選択することで、どのようにも主張ができる」というのはまことにもっともであると思う。もちろんそういうエピソードがある程度の説得力を持つのは、「そう言えばそうだね」と思わせるような内容でなければならない。

 例えば、参道に灯籠や鳥居がいっぱい並んでいる神社があるが、そこにはたいがい、寄進者の名前が大きく刻まれている。また、本殿横には、お金を寄附(奉納)した人たちの名前を記した札が、金額の多い順にランクされていたりする。日本人が完全に集団主義で、個人の名声にこだわらず、純粋に信仰のために寄進するのであれば匿名でもよいのではないかと思うのだが、必ずしもそうではないという事例として挙げることができそうだ。

 また、よく言われる例として、名前の呼び方がある。日本では、「姓→名」の順で呼ぶが、西洋では一般に「名→姓」の順であり、公式の場でもしばしば「名」で呼び合ったりする。このことは、しばしば、「家(=姓)」優先か、「個人」優先かという典型例のように思われているが、順番だけが問題であるなら、中国人も韓国人も「姓→名」の順であり、同じ程度に集団主義でなければならないことになる。

 ちなみに「姓」というのは、集団主義というよりむしろ、家系や氏族を示す意味合いが強い。

 韓国では「同姓同本不婚」という法律があったという。また、モンゴル人の名前について紹介したサイトによれば、
モンゴル人の正式な名前は、姓+父称(父親の名)+名(本人の名)の3つからなっています。ただ、このように決められたのは、ほんの数年前のこと。社会主義時代には、姓はなく、父称+名が用いられていました。モンゴルでは、もともと姓があったそうなのですが、1925年に、氏族をあらわす姓は民族主義的であるという理由で廃止され、かわりに父称が導入されました。

それ以来、父称+名が使われてきたのですが、1999年に姓を復活させることになり、今では、皆、姓をもつようになりました。しかし、長年の習慣のせいか、日常生活の中では、姓はほとんど使われておらず、あいかわらず父称+名が用いられています。
であるという。とにかく、姓が廃止されていた時代と復活した時代で、制度の違いだけで集団主義者と個人主義者の比率が変わるとは思われない。




 2001年1月29日の日記に引用したように、和田秀樹氏の著作の中でも
  • アメリカ人は個人主義。競争好き。
  • 日本人は「和をもって貴しとなす」「すぐに群れをなしたがる」「集団の中で目立つことを好まない」
というステレオタイプへの反例がいくつか挙げられている。
アメリカのほうは放っておけば「みんなと同じ」横並び社会になってしまい、弊害が大きくなるので「他人と競争することが美徳である」という倫理を教え、日本のほうは反対に、そのままでは他人を蹴落とす競争をし始めるので、「和を大切にしなさい」と教えているのではないか。
という部分は確かにあると思う。ま、しかし、そもそも、どっちに転んでも、ステレオタイプな見方で固定するのはよくない。
しょせん、「日本人は○○だ」とか「西欧人は○○だ」という主張は、お互いに反対事例を並べ立てるだけの水掛け論になってしまい、ステレオタイプな見方を、別のステレオタイプな見方に取り替えるだけの繰り返しに終わってしまうように思う。
というのがその時の私の結論であり、いまも考えは変わっていない。

【思ったこと】
_71105(月)[心理]日本心理学会第71回大会(44) 日本人は集団主義的か?(8)国別の個人主義ランキング

 前回までのところでは、高野氏の話題提供に関連して「日本人=集団主義」エピソードを取り上げた。しかし、高野氏御指摘のように、「この種のエピソードは、恣意的に選択することで、どのようにも主張ができる」ものであって、妥当性・信頼性に欠けている。

 ではどうすれば、実証的な比較研究ができるのか。心理学の国際比較研究には、集団主義vs個人主義の程度を直接測定する力があるというのが高野氏の御主張であった。

 正確な調査方法はは聞き逃してしまったが、どこぞのデータとして「個人主義ランキング」というのがあるそうだ。高野氏のスライドでは、1位はアメリカ(因子得点91点)、2位オーストラリア、3位イギリス、...と続き日本は第22位(因子得点46点)となっていた。

 ネットで検索したところ、こちらに、ほぼ同じようなランキングがあった。こちらでは、1位はアメリカ、2位オーストラリア、3位イギリスまでは同じだが日本は先進29カ国中24位となっていた。因子得点は同じ値が示されていた。ちなみに、お隣の韓国は、高野氏のデータでは43位(因子得点18点)、リンク先のランクでは29カ国中最下位(因子得点は同じ)になっている。

 リンク先からの孫引きによれば、これらのデータは、http://www.geert-hofstede.com/に詳しく紹介されており、「個人主義」を含めてfive Cultural Dimensionsの指標値(上下関係の強さ、個人主義、男性中心主義、リスク回避志向、長期的視野)が国別に紹介されている。そうそう、そう言えば、「five Cultural Dimensions」については以前にも話題として盛り上がったことがあった。だんだん記憶が蘇ってきたぞ。

 もとの話題に戻るが、上記のランキングで日本が22位(または24位)、因子得点46点というのはどう解釈すればいいのだろうか。確かに、欧米先進国と比較すればスコアは低い。しかし、ロシアのスコアは39点、アジアのデータの中にあるインド48点、中国20点、韓国18点、その他、中東、アフリカなどのスコアと比較すると、日本人だけが特段に低い(=集団主義的)というわけでもなさそうだ。どうやらこの「測定」では、欧米先進国の生活様式に一致すると高得点になるような調査項目が含まれている模様である。あくまで想像だが、仮に「夕食後は家族全員で同じテレビ番組を視るか、個室で家族バラバラに別の番組を視るか」という質問があったとすると、後者のほうが個人主義的ということになるのだろうが、そうは言っても、個室それぞれにテレビを置くにはそれなりの収入が無ければならない。「家業を継ぐか、自由に仕事を選ぶか」なんていう質問の場合も(あくまで仮想)、その国の経済が一定水準以上でなければ、意味をなさない。明日の糧に困るようでは、自由に仕事など選ぶことができないからだ。高野氏もたぶん、そういうことを言いたかったのだと思う。

【思ったこと】
_71106(火)[心理]日本心理学会第71回大会(45) 日本人は集団主義的か?(9)質問紙による日米比較研究

 高野氏の話題提供では、Hofstedeの研究、1980年代の心理学における個人主義の国際比較研究(Triandis他)、さらに、Markus & Kitayama(1991)による自己観理論が紹介された。なおすでに述べたが、北山氏自身の講演は1999年9月25日に拝聴したことがあり、そのロジックはだいたい理解できた。要するに、自己観には、「自己は、他者とは独立に存在する」という相互独立的自己観と、「自己は、他者との関係の中で存在する」という相互依存的自己観があり、アメリカなどでは前者、日本などでは後者が優勢、さらにそういった自己観が、行動や認知や動機づけを決定し、個人主義や集団主義につながるという考え方である。こうして、自己観理論は、文化比較の支配的理論となっていた。




 これに対して1990年代後半、高野氏らの研究グループは、質問紙研究11件、行動研究6件などを通じて、集団主義・個人主義に関して日米を直接比較する実証的研究を行った(Takano & Osaka, 1997; 1999)。

 このうち質問紙研究では、例えば、「誰に投票するかを決めるのに、あなたは次にあげる人の意見にどのくらい左右されますか?」というような質問が出され、個別の項目としては「両親、同世代の身近な親戚、親友、...」などが用意されていた。これらの人々に左右される程度を5段階のLikert尺度で評定してもらうという方法であった。

質問紙研究11件全体の結果としては、集団主義の強さが「日本>米国」となったのは1件、「日本<米国」となったのは3件、ほぼ等しいという結果になったのが残り7件であり、要するに質問紙調査研究からは、日本人が米国人に比べて集団主義的であるという顕著な結果は得られなかったというのが最終結論であった。




 ここでまた脱線するが、私自身は、質問紙研究で国際比較ができるのかどうかについてはかなりの疑問を持っている。

 まず、質問紙というからには、何らかの言語で回答者に尋ねる必要があるのだが、仮に辞書的に翻訳しバイリンガルの人やそれぞれの国で長く暮らした人たちに校閲を求めたとしても、日本語と英語で表記された質問内容が同一であるという保証は無い。じゃあ、重み付けをすればよいかということになるが、重み付けというのは、どちらの言語でも平均値が同じになるように標準化するという作業になるので、原理的には文化差を検出できなくなるはずだ。要するに、回答比率や評点平均値が異なった場合、それを文化差であると解釈するのか、それぞれの言語の表現内容の差であると解釈するのか、どちらにもとれるということである。

 次に、それぞれの国の家族構成、国土の広さ、住宅環境、通信手段の整備、各種職業比率、収入の差などが、人的交流の中味を大きく左右する可能性がある。上記の「「誰に投票するかを決めるのに、あなたは次にあげる人の意見にどのくらい左右されますか?」という質問でも、両親と同居しているかどうか、親戚や友人とどういう通信手段で連絡を取り合っているのかなどによって、影響を受ける機会自体が異なる可能性がある。また、日本と米国では選挙制度が大きく異なっており、例えば、日本では、全国レベルの大統領選挙のようなものは行われていない。選挙区が異なれば影響は受けにくくなるはずだ。例えば、岡山に住む息子が北海道に住む両親に「今度の衆院選挙で、岡山○×区の候補者の誰に投票しようか」などと相談しても、両親にはどういう候補者が居るのか分からないだろう。

 このほか、「投票にあたって誰に左右されるか」という質問に限って言えば、影響を受ける程度の大きいほうが集団主義的とも言えるし、逆に「集団主義的な人は、政治的な態度表明を避けるので、相互に影響を受けにくい」という解釈もできるはずだ。

【思ったこと】
_71107(火)[心理]日本心理学会第71回大会(4645) 日本人は集団主義的か?(10)同調行動の実験

 高野氏の話題提供では、質問紙法研究の結果に引き続き、行動研究の結果の概要が紹介された。行動研究を通じて「集団主義」を研究することの核心は、個人が自分より所属集団を優先することにあり、「集団主義的行動」の典型としては、同調行動と協力行動が挙げられるという。ここで同調行動とは、集団の他の人々に従って行動するような傾向であり、また協力行動とは、自分の利益より集団の利益を優先するような行動傾向である。これらに日米差が見られるかどうかを調べれば、「日本人=集団主義」の証拠または反証を得ることができる。

 同調行動を調べるためには、しばしば、サクラを使った実験が行われる。最も有名なのはAsh(1956)の線分の長さを判断させる実験である。孫引きになるが、その概略は以下の通り。
  • 大学生123人を被験者に選び、実験室において、通常ほぼ間違うことのない課題を用いて、被験者があえて誤答をするサクラ(多数派)にどれだけ同調して誤答するかを検証
  • その結果、約3分の1の被験者が、誤りとわかりきっている答えを選択した。
  • さらに、この多数派への『同調』が、どのような要因によって起こりやすくなるのかを調べるため、誤答するサクラの数を変化させたり、多数派にも被験者にも同調しないサクラを導入するなどの条件を設定した。その結果、3人のサクラが2人のサクラよりも大きな同調を生むが、それ以上の人数の増加による効果はほとんど見られないこと、『同調』が行なわれるには、サクラの判断が全員一致していなければ効果が少ないことなどが分かった。
 高野氏がついてAsh(1956)の実験やその後の追試で報告された同調率を比較したところ、
  • Ashのオリジナルの実験では37%
  • 米国で行われたその後の追試では25%
  • 日本で行われた追試では、いちばん低い比率で18%、高い比率で27%
であったという。つまり、これらの結果を見る限りでは、日本人の同調率は、米国人の同調率と同じか、やや低いということになる。




 同調行動についての実験は他にも多々あるが、被験者としてどういう人たち(大学生、一般社会人、若者、主婦、高齢者、...)を選ぶのか、どういう文脈で、何について同調させるのか、などによって、同調の度合いは大きく変わってくるように思う。

 例えば、大学生を「社会心理学実験室」という看板のかかった実験室に入室させ、そこにいかにもサクラっぽい人たちがいて、明らかな誤答をすれば、普通の大学生ならこれは妙だなあ、どうせサクラを使って被験者を騙す社会心理学の実験なんだろうと思ってしまう。しかし同じ大学生でも、カルト宗教の偽装サークルなんぞに勧誘され、そこで、サクラを演じる信者だちと一緒にセミナーを受ければ、いとも簡単にマインドコントロールされてしまうかもしれない。インチキ健康器具を売りつける催眠商法なども同様。また、グループで旅行する時に単独行動を避けたり、食事をする時に同じ料理を注文しようとするのも同様。

 けっきょく、どれだけ同調するのかについては、文化差の影響はごく僅かであり、同調を促進するような場面の雰囲気や、その人のニーズなどによって影響を受けるのではないだろうか。

【思ったこと】
_71108(水)[心理]日本心理学会第71回大会(47) 日本人は集団主義的か?(11)囚人のジレンマ実験

 高野氏の話題提供では、行動研究の日米比較の一環として、同調実験に続き協力行動の実験についての紹介があった。

 ここで言及されたのは「囚人のジレンマ」タイプの実験である。「囚人のジレンマ」についてはウィキペディアの当該項目にも解説があるのでここでは詳しい説明は避けるが、要するに、
  • 他者が協力しているなかで自分だけ非協力→報酬量最大
  • 全員が非協力の場合→報酬量最小
  • 全員が協力→報酬量はあるていど確保され、結果として全員が得をする
というような結果随伴の非ゼロ和ゲームのことである【長谷川による】。自分の利益より集団の利益を優先するという「協力行動」が顕著に見られる集団はそれだけ「集団主義的」と解釈される。しかし、Yamagishiが1988年に行った実験では、実際の「協力」回数は日本人被験者の集団のほうが米国人被験者の集団よりも少なかったという。

 けっきょく、種々の研究全体で比率をとってみると、日本とアメリカでほぼ等しい結果になったという研究が11例、アメリカのほうが集団主義的であるという結果は5例、日本のほうが集団主義的であるという結果はわずか例にすぎなかったという。




 さて、日本人のほうが集団主義的であるという通説を支持した唯一の研究というは、実は、Hofstedeの1980年の研究であり、11月5日の日記でリンクしたこちらのサイトはまさにこのランキングだったのである。この点について高野氏は、Hofstedeの結論は「個人主義的因子」に因子解釈の誤りがあるのではないかという精査結果を論じられた。じっさい、Hofstedeの質問紙調査項目の中にはマイナスの負荷量の大きい「技能を向上させたり、新しい技能を修得させるための訓練の機会があること」というような項目や、「より物理的な労働条件(良い換気、照明、適切な作業空間など)が備わっていること」といった項目が含まれているが、これは「個人主義vs集団主義」とは別物である、という御指摘であると理解した。

 11月5日の日記で私自身も指摘したが、どうやらこの「測定」では、欧米先進国の生活様式に一致すると高得点になるような調査項目が含まれている模様である。

【思ったこと】
_71109(金)[心理]日本心理学会第71回大会(48) 日本人は集団主義的か?(12)リッカート尺度では文化差を検出できない

 高野氏の話題提供では、次に、「Likert尺度では、準拠集団効果があるため、文化差を検出できない」という興味深い御指摘があった。

 リッカート尺度(Likert尺度)についてはウィキペディアの当該項目などを参照されたい。ちなみに、リッカート尺度を用いることについては種々の批判がある(例えばこちら)。また、これ以外の尺度としては、サーストン尺度、ガットマン尺度などが知られているが、私のところの卒論研究でも、授業評価アンケートでも、大部分はリッカート尺度モドキとなっている。

 ここで例えば、「自分は背が高い」という質問に対して、
  • 「かなり」そう思う
  • 「やや」そう思う
  • 「どちらとも言えない」
  • 「やや」そう思わない
  • 「かなり」そう思わない
というような回答選択肢が与えられたとしよう【←この事例は、高野氏の話題提供ではなく、長谷川自身が勝手に作ったもの】。この時、回答者は、何を基準にして、自分は背が高いと思ったり思わなかったりするのだろうか。その際に基準となるのが、準拠集団の平均値である。

 例えば、身長175cmの日本人男性は、自分のクラスの中では背が高いほうだが、ドイツに留学すればむしろ低いほうになる。大相撲の力士になろうとする場合も同様だ。また同じ175cmであっても日本人女性であればかなり背が高いということになる。

 文化差に関する日米比較の調査の場合も同様であり、日本人回答者は日本人の平均値、米国人回答者は米国人の平均値を基準にして回答しようとするので、平均値が同じスコアになったからといって差がないと結論するわけにはいかないというわけだ。

 高野氏によれば、リッカート尺度を使わない質問紙研究では、「日本人=集団主義、米国人=個人主義」というような通説を支持する結果は出ていないという。

【思ったこと】
_71110(土)[心理]日本心理学会第71回大会(49) 日本人は集団主義的か?(13)場面想起法による検討

 昨日の日記では、「Likert尺度では、準拠集団効果があるため、文化差を検出できない」というロジックについて述べた。このリッカート尺度の代わりに高野氏が推奨したのは「場面想起法」であった。

 ここでいう「場面想起法」とは、対象者が過去に経験した事態を思い出させ、その際に実際にどういう行動をとったのかを尋ねるような質問方法のことである。

 11月6日の日記の「誰に投票するかを決めるのに、あなたは次にあげる人の意見にどのくらい左右されますか?」という質問を例に、Likert法と場面想起法を比較してみよう。

 Likert法の場合は、11月6日の日記に記した通り、「両親、同世代の身近な親戚、親友、...」といった項目それぞれについて、左右される程度を5段階で評定してもらうことになる。いっぽう場面想起法であれば、おそらく【以下は、高野氏ではなく長谷川が勝手にこしらえたもの】、
先日の選挙で、どの候補者に投票するのか、両親と会話した場面を思い出してください。両親は、あなたが投票しようと思っていた候補とは別の候補を推薦しました。その場合どうしましたか。
というように設問を変え、回答選択肢として、
  1. 両親が推薦した候補に投票した
  2. 自分が当初投票しようと思っていた候補に投票した
  3. そんなことはなかった
のいずれか1つを選んでもらうようにするのである。

 このような質問方法にすれば、Likert尺度で問題となっていた準拠集団効果は生じないはずであり、集団主義的な項目に対する選択比率を比較すれば、日本人が米国人より集団主義的であるかどうかが検証できるというのが高野氏のお考えであったようだ。

 実際に行われた調査結果では、全7項目中、日本人と米国人が同じ程度であったのが1項目、残り6項目では、日本人のほうが米国人よりも少ない値を示し、日本人は集団主義的であるという通説とはむしろ正反対の結果になった【長谷川のメモに基づくため、正確なデータは不明】。




 さて、以上の概略についての私自身の考えであるが、まず、「Likert尺度では、準拠集団効果があるため、文化差を検出できない」という高野氏の御主張には全く同感である。しかし、場面想起法を用いればLikert尺度の問題はすべて解消できるのかどうかについては、イマイチ納得できないところがある。

 これは結局、どういう場面を想起させるのかによるだろう。上記の「投票」の事例に関しては11月6日の日記にも述べたように、例えば、両親と同居しているかどうか(日常的な接触があるのか、同じ選挙区か、...)といった、文化差以外の要因が差をもたらす可能性は以前として残る。もっと一般的に、それぞれの国の習慣によって、想起対象となる事例が稀にしか起こらない場合と、頻繁に起こる場合があれば、その差が顕著に出るはずである。




 余談だが、「想起される場面」が現実には起こりえない仮想事例にまで拡大されてしまうと、話はさらに厄介になる。仮に「あなたの親友が失恋した場面を想起してください。」などと言っても、その親友は全く失恋していないかもしれない。では「あなたの親友が、仮に失恋したとして、その場面を頭に描いてください」とすれば良いのか。しかしこれでは仮定の上の出来事であって、そういう時に本当に回答通りに行動するという保証はない。仮想事例を含めるということになると、例えば、
あなたは宇宙船エンタープライズ号の船長だったとします。ある時、スポックが、宇宙指令7号に違反して、かつての上司クリストファー・パイク大佐をタロス星まで送り届けようとしました。この時、あなたはスポックをどう裁きますか?
  1. スポックを有罪にする。
  2. スポックを無罪にする。
  3. どちらとも判断できないので裁判官を辞任する。
というような質問をしたら、大概の回答者は、“「宇宙大作戦」なんて視たことがないので、そんなこと分かるもんか。”と反応するだろう。しかし、現実に経験した事例を想起する場合でも、その記憶がきわめて希薄であれば、非現実世界における仮想事例と同じことにはならないだろうか。

 また、さらに言えば、想起される場面それぞれにおいて、人はいつもそんなに安定したパターンばかりをとるものだろうか。その場その場の文脈やニーズによって変えてしまうこともあるのではないか。であるとすると、過去の想起事例がその人の現在の行動傾向を示すとは必ずしも言えないはずだ。

【思ったこと】
_71112(月)[心理]日本心理学会第71回大会(50) 日本人は集団主義的か?(14)内集団効果と同調率

 高野氏の話題提供では、もう1つ、内集団効果に関する検証があった。通説に基づけば、日本人は集団主義的に行動すると言われるが、厳密にはこれは、内集団と外集団とに区別して考える必要があるのだ。要するに、自分の所属する集団の中では集団主義的に振る舞うが、外集団のメンバーに対しては必ずしも同調や協力をしない、というのである。

 じっさい、11月7日の日記や、11月8日の日記で言及した「同調行動」や「協力行動」の実験結果では、日本人が集団主義的であるという証拠は得られなかったが、これは外集団のメンバーをサクラにしたり、被験者として寄せ集めてきたためであり、もし被験者やサクラがすべて内集団のメンバーであったなら、通説を支持するような結果が出たのではないか、と指摘する研究者(Haineなど)があり、この点はぜひとも検証しなければならない。

 高野氏が紹介された、Williams & Sogonの実験(←「Sogon」というのは、有名な荘厳先生のことだろうか)によれば、日本人であっても、同じ大学のメンバーを被験者とした場合の同調率は27%であるのに対して、同じクラブのメンバーの場合には同調率が51%まで増えているという。つまり、内集団(=同じクラブ)では同調率が高くなることから、この結果は、「日本人=集団主義」という通説を支持していると言えよう。

 しかしこの結果について高野氏(Takano & Osaka, 1997: 1999)は、上記の実験の「同じクラブ」なるものに変数の交絡があるのでは?と指摘された。上記の実験で言う「同じクラブ」というのは、実際は体育会の野球部や剣道部のメンバーであったのだ。つまり、この種の「クラブ」では、内集団であるということのほかに「厳格な規律」という要因が交絡している可能性がある。規律が厳しいと、先輩に逆らったり、逸脱するような行動は許されないというわけだ。じっさい、高野氏らが、体育会系の運動部サークルと、文化系のサークルで同調率を比較したところでは、前者の同調率が50%前後であったのに対して、後者では20〜30%にとどまっていた(←スライドのグラフ画面からの目測)。また同時に測定された「規律の厳しさ尺度?」では、体育会系のほうがはるかに規律が厳しいとの結果が得られた。

 いろいろなメンバーで同調率を比較したこのほかの研究結果を比較すると、どうやら同調率が高くなったのは体育会系サークルのメンバーに限られていることが分かった。




 ということで、同調率を高めているのは、メンバーが内集団であるという一般的効果に起因するものではなく、体育会などの「厳格な規律」がその主要な原因になっているというのが高野氏の御主張であると理解した。

 私自身もこの結論はおそらく正しいであろう。しかし、もともと、日本のムラ社会には、その地域特有の慣習があり逸脱行動は取りにくい状況にあったはずだ。かつての(?)年功序列型の会社組織や行政組織の内部にあっても、上司の命令を絶対化したり、規律を厳しく守ることが義務づけられていたりしたはずだ。米国に比べて日本のほうがそういう集団が多ければ、結果的に同調行動が現れる頻度も多くなるはず。つまり、内集団効果であろうと、他の原因との交絡であろうと、とにかく体育会系の集団が多い限りにおいては「集団主義的」は否定できないように思われる。

 但しそのことは「日本人=集団主義的」という通説には直ちには結びつかない。米国でも規律を厳しく守らせるような集団の内部では、同じ程度に同調行動が生じる可能性はあるだろう。




 余談だが、『心は実験できるか―20世紀心理学実験物語』(ISBN:9784314009898)によれば、 俗称「アイヒマン実験」を行ったことで知られるミルグラムは、論文刊行のあと、「実験の命令」に最後まで服従した被験者と、途中で遂行を拒否した「不服従者」の間で、パーソナリティや生育歴に何らかの差違があるかどうか、追跡調査を行ったとのことである(←いまの時代にこんなことをやると倫理規定や個人情報保護規定に違反してしまいそう)。但し、明確な差違は得られなかったと聞いている。

 ま、それはそれとして、同調するかしないかということ自体をそんなに単純な比率で表すことには無理があるのではないだろうか。何にどれだけ同調するのかは、対象行動の中味や、同調した場合のメリット、デメリットによっても大きく変わるはずである。線分の長さ判断で他者に同調したからと言って、同じ人が、選挙の投票の際に周囲に影響されやすいとは必ずしも言えない。

【思ったこと】
_71113(火)[心理]日本心理学会第71回大会(51) 日本人は集団主義的か?(15)内集団効果と協力行動

 昨日の日記では、内集団効果の話題を取り上げた。昨日述べたのは「同調率」に関する実験であったが、もうお1うの「協力行動」に及ぼす効果のほうはどうだろうか?

 この件に関して、高野氏は、真島, 山岸, & Macy(2004)の研究を引用しておられた。その研究では、インターネットを利用し、日本人+アメリカ人を被験者として、「囚人のジレンマ」タイプの実験が行われたが、同国人の被験者から構成される「内集団」条件と、他国人の入った「外集団」条件では協力率に差が無く、内集団効果を加味した「日本人=集団主義」説は支持されないという結果になったという。

 原典を参照していないので確かなことは言えないが、ええと、この場合、日本人の被験者は「内集団」と認定してよかったのだろうか。単に同国人というだけでは内集団の要件を満たしていないようにも思えるのだが...。

 ま、それはそれとして、私にはどうも、「囚人のジレンマ」タイプの実験で測られる「協力率」が「集団主義」のエビデンスになりうるかどうか、ということ自体に疑いの目を向けたくなってしまう。

 「囚人のジレンマ」と言ったところで、所詮はゲームの世界の話。ホンモノの囚人たちに、自白や裏切りをそそのかしているわけではない。協力が大切であると考えている人であっても、ゲームはゲームとして割り切って、その時その時の状況判断により、相手を裏切るようなプレイをすることもあるはずだ。今回紹介された研究に限ったことではないが、現実の「同調」、「協力」、「援助」などをテーマとした実験室実験というのは現実世界のような切実さが無く、本質的な検証には向いていないような気がする。

【思ったこと】
_71114(水)[心理]日本心理学会第71回大会(52) 日本人は集団主義的か?(16)中間総括

 第8回目からの連載で取り上げてきた種々の質問紙研究や行動研究の結果をふまえて、高野氏は、「心理学的な研究は、「日本人=集団主義」説は誤り」であると結論された。

 このことについての私自身の考えは10月28日の日記に述べた通りであり、
そもそも「集団主義」なるものは、厳密に定義された学術的概念ではない。社会心理学の実験をやってみれば、確かに、米国人が被験者の場合の結果と日本人が被験者の場合の結果で質的な差違が出る場合もあるし、全く出ない場合もある・しかし、その実験結果だけをもって「実証」とか「反証」ということにはならない。けっきょく、俗に言われている「集団主義」的な傾向が顕著に表れるケースもあれば、そうでないケース、また時には米国人のほうが集団主義的と見えるようなケースもありうる。
という点に要約できる。

 このほか、一連の研究紹介でちょっと気になったのは、「日本人=集団主義」を支持する研究、支持しない研究、どちらとも言えない研究の件数を円グラフで示し、「圧倒的多数の研究は通説を支持しなかった」という「多数決の論理」で聴衆を説得しようとしているのでは?という疑問が少々残った。もちろん、通説を支持する研究があった場合にはその内容を精査し、交絡など別の可能性によるものであることは細かく御指摘なさっているので、結論自体には問題が無いと思うのだが、とにかく、支持・不支持の研究件数による「多数決」の論理というのはあまり意味をなさないと思う。

 例えば10件の論文のうち1件のみがA説を支持し、残り9件がそれを支持しなかったとしても、A説が誤りであるとは直ちには言えない。心理学の世界では大学生を対象とした調査や実験の件数が非常に多いのだが、仮に、A説を支持しなかった9件の件数がすべて大学生対象、支持した研究1件が社会人を対象としていたのであれば、大学生特有の効果が「圧倒的多数」をもたらしていたという可能性も否定できない。また、そもそも研究の件数などというのは、ランダムに抽出されたサンプルではない。ある種の検索でヒットした件数に限られるかもしれないし、特定の研究者の業績のみに限られるかもしれない。聴衆を納得させる効果はあるかもしれないが、厳密な意味でのメタ研究にはなっていないように思われる。

 ま、このあたりのことを含めて、実験室実験の弊害や、調査対象者が大学生に偏っていることについての弊害は、高野氏ご自身による共著書

心理学研究法 心を見つめる科学のまなざし有斐閣アルマ ISBN 9784641122147

にも、しっかりと書かれているので、当然、そのことをご考慮の上で論を展開されているとは思うのだが...。




 ということで、「日本人は集団主義的か?」とうのは話題性はあるが、学術的にはあまり建設的な議論にはならないように思う、

 とはいえ、本来何の根拠も無い通説がまかり通り、そのことによって社会的にいろいろな弊害が出ているのであれば、心理学者としてもきっちり対処していく必要がある。これは「血液型性格判断」俗説に対処する場合と同様である。

 次回以降では、このことに関する「経済学から考える」話題提供に話を進めていきたいと思う。

【思ったこと】
_71115(木)[心理]日本心理学会第71回大会(53) 日本人は集団主義的か?(17)日本人論に基づく日本叩き

 昨日の日記で、
  • 「日本人は集団主義的か?」とうのは話題性はあるが、学術的にはあまり建設的な議論にはならない。
  • とはいえ、本来何の根拠も無い通説がまかり通り、そのことによって社会的にいろいろな弊害が出ているのであれば、心理学者としてもきっちり対処していく必要がある。
と述べた。では、実際のところはどうだろうか。じつはこのことについては、高野氏の話題提供の最初のほうでかなり詳しいご説明があった(というか、今回のシンポはもともと「言語学的」や「心理学的」な観点ではなく「経済学的な」観点から、通説を否定することにあった)。

 まず、10月31日の日記で言及させていただいたように、“通説における日本人の「国民性」”に関しては、
  1. 個我が確立していない
  2. 個性がない
  3. 人と同じでないと安心できない
  4. 同化を強要/異質を排除
  5. 甘え/もたれ合い
といった特徴があり、これに基づいて、「いじめ」、「創造性の欠如」、「軍国主義」、「高度経済成長【の原動力】」などの社会現象を「説明」しよういう動きがあった。これは外国人の学者、評論家、メディアばかりでなく、日本国内でも特有のステレオタイプな見方を形成していると言ってよいだろう。

 さて、日本経済の方向に目を向けてみると、同根の日本人論により、
  • 日本的経営のもとでは、企業の従業員は一枚岩になっている
  • 複数の企業のあいだでも系列があり一枚岩となっている
  • 政府と全企業も一枚岩になっており「日本株式会社」を作っている
といった「日本の経済は集団主義的」という固定観念が生まれてしまう。かつての高度経済成長は、こうした日本人論で説明されようとしてきた。

 このうち、日本的経営を特徴づけるものとしては「企業内組合」、「終身雇用」、「年功賃金」があると言われる。現在の日本ではこれらはいずれも崩壊しつつあるが、かつては本当にその通りどうだったのだろうか。これについては、2番目以降の話題提供で、データに基づく否定的見解が表明されていた。

 「系列」や「日本株式会社」については、少し前には米国からさんざん叩れ、日米貿易摩擦の原因になったという経緯がある。現在ではこれらもかなり崩れつつあるが、かつてはどうだったのだろうか。これも2番目以降の話題提供で論じられた。

 高野氏によれば、アメリカでは、個人主義に最も高い価値が置かれ、ルークス『個人主義の諸類型』()によれば、個人主義は「人類進歩の最終段階」であるとされているという。こうなると日本人は、まだまだ文明が進歩していない野蛮国家であり、異質であり、【アメリカの】ルールには従わないので、保護貿易のような別のルールを適用する必要があるという主張が支持を集めることになっていく。

]この出典についてはよく分からなかった。たぶん『個人主義と自由主義』の一節に書かれていることではないかと思うが未確認。

 高野氏の話題提供では、その具体的な例として、スーパーコンピュータのアメリカ市場からの締め出しと、映画『ライジング・サン』における「系列」エピソードが挙げられていた。

 なお、日本人の集団主義的行動の原因は、国民性や文化に起因したものではなく、日本独自の社会経済システムによるという「山岸説」というのがあるという。このあたりは私は素人で全く分からないのだが、要するに、「系列」というのは他の有利な取引機会を奪い、また「終身雇用」は他の有利な就職機会を奪い企業に忠誠を誓わせるという特徴を備えているということのようだが、不勉強のため、このあたりの論旨はよく分からなかった。




 ま、少なくとも、最近の日本では、旧来の制度や慣行はかなり崩壊しているようにも見える。このことに大きく寄与したのは小泉内閣であったと思われるが、さて、そのあとの安倍内閣や福田内閣はどう動いていくのだろうか。

【思ったこと】
_71116(金)[心理]日本心理学会第71回大会(54) 日本人は集団主義的か?(18)経済学からの反証

 表記のシンポでは、2番目に、三輪芳朗氏(東京大学)による、

●「日本株式会社」論の検証

さらに3番目に、小池和男氏(法政大学)による

●「日本的経営」論の検証

に関する話題提供があった。10月29日の日記に記したように、もともとこのシンポは、経済学の知見から「日本人=集団主義論」を反証するところにあり、高野氏による「言語学的」あるいは「心理学的」観点からの話題提供は、一連の企画の「これまでのあらすじ」を紹介する前座的役割をになうものであった。とはいえ、日本心理学会の年次大会でいきなり経済学の先生方が登場しても、これっていったい何の学会なの?という疑問が出されかねない。おそらくそんなことから、かなりの時間が「心理学的」観点からの「これまでのあらすじ」紹介に費やされたものと拝察した。

 とはいえ、私自身はもとより、聴衆の大部分は経済学の素人ばかりである。ヘタをすると、生涯学習向けの教養講座になりかねない。学際性は大切だが、学会のシンポである以上はそれなりの専門性も保たれるべきであり、そのあたりのバランスがとりにくいのではないかと実感した。

 でもって、話題提供の内容だが、まず三輪氏の話題提供に関しては、『誰にも知られずに大経済音痴が治る』という入門を読んでおくと内容が理解できるとのことであった。この入門書は、2002年に発刊されたが、まことに残念ながら?絶版となり、そのこともあって、現在は、三輪氏御本人のHPからダウンロード可能な状態にあるという。さっそく検索してみたところ、確かにこちらから、丸々拝読できる状態にあることが分かった。但し、ファイルサイズは16.40MBとかなり大サイズになっているので注意が必要だ。このほか三輪氏の個人サイト内のこちらのページからは各種の文献を拝読することができてまことにありがたい。とはいえ、これらを拝読し、ちゃんと理解するには日数がかかりそうなので、ここの連載ではその内容に言及することは避けたい。

 なお、ウィキペディアの当該項目には、「1995年から1997年にかけて行政改革委員会規制緩和小委員会で委員を務め、規制緩和と再販制度の廃止を強硬に主張し、日本新聞協会の渡邉恒雄と激しく対立した...【以下略】」、との記述がある。このあたり、素人の私にはよく分からないのだが、要するに、規制緩和推進論者は、「日本人=集団主義」論に依拠して「日本株式会社」の弊害を主張し、規制緩和を説いたのに対して、規制緩和に反対する立場の人たちは「日本人=集団主義」論を否定する形で議論を展開していたということだろうか。

【思ったこと】
_71117(土)[心理]日本心理学会第71回大会(55) 日本人は集団主義的か?(19)経済学における学術レベルの論争と通説

 三輪氏の

●「日本株式会社」論の検証

という話題提供では、まず、経済学や経済学者の世界が、世界中で驚くほど標準化されているという紹介があった。かつての「近代経済学か、マルクス経済学か」などという図式は大昔のものであり、「Harvard学派か、Chicago学派か」もlocalなウワサ程度のものであるらしい。

 「日本株式会社」をめぐる論争の舞台がどこにあるのか、といった興味深いお話があった。

 これは心理学でも他の領域でも似たり寄ったりだと思うが、学術的な議論や論争の舞台というのはほんらいacademic journalsである。しかしその一方で、非専門家や一般読者を想定したマスメディアや「論壇」では、すでに決着したような話題が一人歩きし、一般社会に影響を及ぼし続ける。心理学で言えば「心理占い」、「血液型占い」、「深層」心理俗説などがこれにあたる。流行語大賞にノミネートされるような語の中にも学術的には根拠の乏しい概念、もしくは、その概念の一部の特徴だけが過大視され一人歩きしているといったケースはしばしば見られる。「日本株式会社」論や「系列」、「企業集団」、「企業政策」にもそうした面があったことは否定できない。三輪氏によれば、こうした「通説」、「常識」、「通念」は、標準的な理論的考察に基づいていないし、観察事実とも整合的でないが、「世の中」では相変わらず支配的地位を占め、またそれを「ただす」ことは容易ではなく、かつ、「ただす」ための努力は専門家には報われないことが多いという。とにかく「日本株式会社」論に関する「通説」、「常識」、「通念」が実態とはなはだしく乖離した神話であるということは、すでに30年も前から、研究結果に基づいて否定されていたというのである。

 じっさい、英語圏における学術論争では数年前に決着済みとなっている模様であり、「Keiretsu」のような伝統的な主張を前提にした論文はmajor journalsには載りにくくなっているという。もっとも、最近では日本経済は構造的にかなり変化しているはずで、放っておくと、「日本株式会社」が単なる作り話であったのか、それとも過去のある時代の特徴と見なされてしまうのか、確認が難しくなっていくようにも思える。


 経済学は、実際の政治・経済にも多大な影響力を及ぼしており、その分、学術的には根拠の乏しい通説がまかり通り、多数派の非専門家集団の言説に押し切られてしまうということも多々あるように思われる。昨日の日記でも述べたが、規制緩和論議で某・非専門家から「三悪人」呼ばわりされたことなどもその一例であろう。

 余談だが、かくいう私自身も、毎朝、朝食を食べながら「モーサテ」を視ているが、ゲストの宇野大介氏の分析などはよく当たるように思える。私自身は株式投資は一切やっていないが、もし大金が手に入って投資家になることがあれば、たぶん、経済学者より宇野氏のコメントを信用することになるだろう。一口に専門家と言っても、研究者としての専門家と、現場での専門家では、依拠するデータ・要因には違いがあり、現実の経済は、少なくとも目先の変化については後者の判断のほうが正確であるように思える。

 ま、とにもかくにもホンモノの経済学者の先生のナマの講演を拝聴することができた点はまことに貴重であった。私の職場は、正式には社会文化科学研究科という大学院組織であって、そこには経済学を専門とする先生方もたくさん在籍しているのだが、そう言えば、ふだん、学術面でのお話を伺う機会は全く無かった。

【思ったこと】
_71118(日)[心理]日本心理学会第71回大会(56) 日本人は集団主義的か?(20)「系列」論議/行政指導や政策の有効性

 三輪氏の

●「日本株式会社」論の検証

という話題提供では、前置きに続いて、「系列」についての誤った考え方が、根拠に基づいて否定されていった。もっとも私は、この方面については全く素人であり、積極的に賛同することも、反対することもできない。以下、配付資料とメモに基づいて、私の理解したことを要約すると、...
  • 「系列」外の企業のほうが安くて良い製品を出しているのに、系列内の身内の製品を購入すればコスト面で降りになり繁栄には至らないはず。
  • 「財閥」などと言われるが、実際は4大財閥ではない。戦後の「財閥解体」では78?がリストアップされた。
  • 「系列融資」などと言われるが、「系列」銀行からの借り入れはたかだか15%にすぎない。
  • 「企業集団」などと言われるが、「日米貿易摩擦」論議が華やかだった1990年3月時点で、三井、三菱、住友系の企業の従業員は合計しても64万人、いっぽう、当時のGMは1社で75万人の従業員を抱えていた。
  • 自動社部品メーカーはいろいろな企業と取引している。
  • 「殖産興業政策」、「富国強兵策」、「傾斜生産政策」、「高度成長政策」などは、政府がかかげたスローガンのようなものであり、それらの政策が見事に功を奏して経済が大きく変わったというわけではない【←このあたりは長谷川の表現】。明確な理論的説明とsupporting evidenceがあるわけではない。
ということになるかと思う。

 以上のなかで、なるほどそうかと思ったのは、「産業政策」や「行政指導」の有効性の度合いについてのお話であった。言われてみれば確かに、政府の政策が有効に機能して世の中が変わっていくというようなことは滅多にあるものではない。じっさい、20世紀最大の社会・経済的実験であった「社会主義計画経済」は壮大な失敗に終わった。というか、そもそも、ソ連の「計画経済」は、実際に思われているほどには実施されていなかったし、機能もしていなかったという。

 三輪氏の配付資料には、

●もし、「行政指導」に国民が協力し「政策」がうまく機能するというのであれば、脱税、交通違反、駐車違反、殺人・傷害事件、政治資金などもみんな、同じように政府主導で実施すればよいはずだ

というようなことが書かれてあったが、このあたりはクリティカルシンキングの資料としても使えそうだ。要するに、これは、健康食品や民間療法と似たところがある。病気が「治った」事例だけ挙げて「効果があった」と宣伝し、治らなかった事例がどのくらいあったのかは口にしない。「行政指導」や「政策」の場合も、スローガン通りに変化があった事例だけを挙げて「有効に機能した」と言ってよいものかどうか、なぜ、あるケースではうまく機能し、別のケースでは失敗に終わるのか、それとも、たまたま、別の原因で生じた一部の変化がスローガンと相関していただけで、因果関係は無かったのか、このあたりを検証してからでないと、「殖産興業政策」、「富国強兵策」、「傾斜生産政策」、「高度成長政策」が日本経済を大きく変えた、というような主張は成り立たないということがよく理解できた。

【思ったこと】
_71119(月)[心理]日本心理学会第71回大会(57) 日本人は集団主義的か?(21)年功賃金の国際比較

 シンポの3番目は、小池和男氏(法政大学)による

●「日本的経営」論の検証

に関する話題提供であった。日本心理学会第71回大会が開催されたのは今年の9月18日〜20日であり、すでに2カ月が経過しているが、小池氏の話題提供が、この時に拝聴した最後の話題提供であった(9月20日は16時から18時までの間に最後のセッションがあったが、私が参加したのは15時半までであった)。

 小池氏の話題提供そのもののタイトルは

●集団重視か個人重視か〜労働慣行からみると

となっており、具体的には
  1. 視点
  2. 年功賃金の国際比較
  3. 終身雇用か
  4. 集団重視と誤解させたもの
という構成になっていた。前回までに取り上げた三輪氏の話題提供同様、この方面については私は全くの素人であり、しかも、企業に勤めた経験が無い。雇用形態や賃金体系の特徴は、「NHKクローズアップ現代」などの特集、カイシャを舞台にした種々のテレビドラマ、企業に勤めている人たちのWeb日記や知人・友人からの体験談、というように情報の入手先が偏っており、今回の話題提供はそれを正すよい機会になった。




 さて、日本の労働慣行は、長期にわたる勤続と、勤続年数に依存した報酬制度という点で、集団重視であると言われてきた。しかし、このことについての各国統計は稀であり、年功賃金についても国際比較が可能なデータは少ないということであった。そんな中、いくつかの良質なデータで年齢を横軸、賃金を縦軸にしたグラフで比較してみると、まず、どの国のどの職種であっても10歳代後半から20歳代前半まではかなりの上昇が見られる。そしてそこから先の上昇の有無は、職種(ブルーカラーかホワイトカラーか)や国によってかなり異なっているが、ホワイトカラーの賃金を見る限りでは、日本は、欧米の賃金と大して変わらない上昇カーブを描いているように見て取れた。

 もっとも、単に年齢の増加(←但し定年までのあいだ)と賃金に正の相関があるというだけでは、年功序列賃金の証拠にはならない。たいがいの職種では、歳を取れば取るほど経験が蓄積し、そのことによって昇進し、重要なポストに就くようになり、賃金も増えるようになる。しかし、その場合の賃金アップは、経験や任務の重要性を反映したものであって、決して年月が過ぎたために努力と無関係に増えたというものではない。

 というような視点から、小池氏は「上がり方」と「きめ方」の区別を強調しておられた。要するに、各人の働きぶりや能力をどの程度評価しているのか、賃金や昇進を決めるにあたって評価結果をどの程度反映させているのか、について、それぞれの企業の実態を把握する必要があるというわけだ。

 さてに考慮すべき点は、実際に査定が行われていたとしても、そのことによって昇給、減給、降格、延伸などに該当する従業員がごく僅かの比率に過ぎないのであれば、結果的には、「年功序列」と同じようなカーブを描いてしまうことになる。ま、「全員が切磋琢磨して仕事に励んだので、結果的に差がつかなかった」ということも無いわけではない。

 こうしてみると、たぶん給与の上がり方、という数字だけから年功序列賃金の証拠を得ることは難しい。むしろ、職場内において、各人のスキルアップのためにどういう方策が講じられているのか、有能な若手がどれだけ抜擢されているのか、というように、賃金平均値カーブには反映されにくい事例を丹念に集めていくことのほうが重要であるように思われた。ウィキペディアの当該項目に記されているように、小池氏はそうしたご研究の第一人者であられる。

【思ったこと】
_71121(水)[心理]日本心理学会第71回大会(58) 日本人は集団主義的か?(22)大学教員と年功賃金

 前回の日記
さてに考慮すべき点は、実際に査定が行われていたとしても、そのことによって昇給、減給、降格、延伸などに該当する従業員がごく僅かの比率に過ぎないのであれば、結果的には、「年功序列」と同じようなカーブを描いてしまうことになる。
と述べた。小池氏の話題提供からは脱線してしまうが、ここで、私の大学の給与体系について考えてみたいと思う。

 従来、国立大教員の給与は、教授、助教授(現在は、准教授)別に昇給体系が決まっていて、特段の落ち度が無ければ毎年少しずつ給与が増え、55歳以降は昇給停止となるように定められていた。種々の手当に違いはあるが、基本的にはどこの都道府県の国立大に勤めていても額は同じであり、また、形式上は年功序列型となっていた。

 法人化後はその体系が大きく様変わりし、私のところでは本年度以降、人事評価に基づいて、昇給やボーナスの勤勉手当分加算額が決まることとなった。つまり、人事評価の結果が低いと、年をとっても給与は全く増えず(←一わずかの定昇はあるらしいが)、ボーナスへの加算も行われない。結果的に、若い教員のほうが高齢の教員よりも高額の給与・賞与を受け取れるようになる可能性があり、そういう意味では、「年功序列」体系は消滅したといってもよいかと思う。

 もっとも、冒頭にも述べたように、人事評価の結果によって加算される額が少なければ、報酬としてのインセンティブ(行動分析学で言えば正の強化効果)は全く無いということになる。あくまで未確認情報だが、じっさいのところ、人事評価の結果が高かった人のボーナスへの加算額はせいぜい3万円程度にすぎない模様である。いや、3万円でも増えればそれに越したことは無いが、中には、「3万円など加算されなくてもよい。会議や雑務をすっぽかして、好きな研究に没頭したほうがよっぽどエエ」という教員も出てくるかもしれない。

 このほか、55歳以上の教員の場合は、昇給対象となっても増分はごくわずかにとどまるらしい。かくいう私もとうとう55歳になってしまったが、たぶん、どんなに頑張っても、税金や共済短期・長期で差し引かれる額のほうが増加し、手取り額ベースで昇給になるということは殆ど絶望的であるようだ。じっさい、ここ4〜5年、私の年間の実質的な収入総額は横ばい、もしくは微減状態が続いている。配偶者控除や定率減税が廃止されるとますます減っていくのではないかなあ。

 とはいえ、大学教員が年功序列かと言えば、それも間違いだろう。教員はやはり、日々、切磋琢磨して教育活動や研究活動、学会活動、管理運営、地域貢献などに励まないと、そのポストにとどまることはできない状況にある。最近では教員組織の改組や移籍も頻繁に行われているので、働きぶりが悪ければそのさいの考慮対象になるだろう。

 というように考えてみると、わざわざ人事評価をしなくてもそれなりに働きぶりはチェックされており、人事評価を給与や賞与に反映させるという新しい制度自体は、教育・研究活動の活性化のためにはあまりプラスにはなっていないようにも思える。人事評価のための申告書作成に何時間も費やすというのは、あまり生産的とは言えない。基本給を10万円くらいにして、残りの部分すべての額を人事評価で決めるというなら話は別だが...。

【思ったこと】
_71127(火)[心理]日本心理学会第71回大会(59) 日本人は集団主義的か?(23)日本は終身雇用か


 小池氏の話題提供:

●集団重視か個人重視か〜労働慣行からみると

の後半では、終身雇用について言及された。もっとも、このことについて国際比較するための正確な資料というのはあまり無いらしい。OECDによる1980、1990年頃の調査からは、勤続年数1年未満の割合や平均勤続年数を国別に比較することができるが、これよると、日本やドイツは短期間で仕事を変わる人の割合は少ない模様である。もっともこれは企業の規模によっても異なるようで、10〜99人の企業に勤めていた日本人男性の平均勤続年数はアメリカより人男性も全般に低い。このほか、調査が行われた1979、81年当時では、日本人のほうが定年が早く、その後の勤続年数に低下が見られている(=定年後の再就職?)。

 あくまで、提示されたグラフからの視覚的な比較になるが、どうやら、平均勤続年数に関しては、日本、ドイツ、フランスは殆ど同じレベルであるのに対して、アメリカとイギリスが若干低い。いっぽう、1年未満者の割合は日本が一番少なく、ドイツもほぼ同じ程度、アメリカ、イギリス、フランスは、この順で比率が高く、一番高いアメリカは日本の2.5〜3倍程度となっている模様であった。

 要するに、(調査当時においては)日本人はアメリカ人よりも、1年未満の転職者の比率はかなり少ない、しかし、日本だけ平均勤続年数が特段に長いということは無く、日本だけが特異な終身雇用制度をとっているわけではない、というのが結論であったと理解した。

 今回の話題提供では21世紀になってからの資料は示されていなかったが、おそらく、日本では、若者を中心に勤続年数1年未満者の比率がかなり高くなっているものと思われる。そのこと自体をポジティブに受け止めるべきか(=転職は、チャレンジ精神旺盛であることの表れ?)、ネガティブで改善すべきであると受け止めるべきか(=職場環境に問題あり?、いつまでたっても打ち込める仕事が見つからない?)、さらに細かい分析が必要であるとは思う。

 余談だが、大学教員の場合、同じ専門領域を保ちつつ、任期付き採用→別の大学の准教授→さらに別の大学の教授、というように、いくつかの大学に転任していくというのがむしろ普通である。このほか、いったん企業に就職した後で教員になる場合、教員から産業界に転身する場合などある。別の大学に籍を変わる場合は、「割愛」などといって、給与水準や退職金は、そのまま引き継がれることになっている。であるからして、統計上は、1つの勤続年数として計算しているのではないかと思われる。

【思ったこと】
_71128(水)[心理]日本心理学会第71回大会(60) 日本人は集団主義的か?(24)集団重視であると誤解させたもの

 小池氏の話題提供:

●集団重視か個人重視か〜労働慣行からみると

では最後に、

●「日本的経営」を集団重視であると誤解させたものは何か

についてご自身のお考えが表明された。

 私自身が理解した範囲では、職場における集団作業の中味についての誤解が大きな原因になっているようだ。すなわち、通念では、日本人は集団で職場の作業をこなしており、気遣いが感じられるとされているが、実際に細かく調べてみると、職場で行われる作業には
  • Usual operations(繰り返し作業)
  • Unusual operations(前もって規定できない面倒な作業)
という2つのタイプがあり、前者は日本でも明確に個人ごとに行われていて集団作業にはなっていない。いっぽう後者では、技能のある個人が新人の不足分を補うようにこなしており、このことが集団重視であると誤解された原因になっているようである。ちなみに後者は日本の競争力の源泉になっている。このあたりは、聞き取りという方法で地道にデータをとられた小池氏ならではの御指摘である。




 以上で、11月16日から連載してきた、経済学からの反証についての話題提供のメモ・感想を終わりとさせていただくが、そもそも「日本株式会社」論や「日本的経営」論と言ったところで、戦後の高度成長期以降、バブル崩壊期までの30年程度の特徴を述べた通説に過ぎず、仮にそれが(今回の2人の論者の反論にもかかわらず)正しかったとしても、そのことの真偽が「日本人は集団主義か」という議論の論拠や反証に利用できるとは思えない。仮に日本人が集団主義的であるとするなら、その特徴は何世代、何百年にもわたって継続して観察できるはずである。

 「日本人は集団主義的」という通説に対して反論を行う、という問題の立て方自体に無理があることは10月29日の日記でも指摘した通りであるが、少なくともある部分、例えばソーシャルスキルの面などで文化的差違を分析し、よりよい異文化間交流の構築をめざすという研究を進めることには意義があると思う。いっぽう、元の話題の経済面については、私はむしろ、なぜ日本がここまで長期にわたって対米依存を続けてきたのか、単にそうしたほうが儲かるからなのか、それとも、敗戦時のトラウマを未だに克服できないでいるのか、といった面から分析したほうが、生産的な特徴づけができるのではないかという気がする。

【思ったこと】
_71129(木)[心理]日本心理学会第71回大会(番外編)日本心理学会の参加感想文、連載60回、400字詰め215枚をもってやっと終了

 9月18日以来、日本心理学会第71回大会の参加感想文を書き続けてきたが、昨日をもって、やっと、参加したすべてのシンポについての感想・メモを書き終えた。

 種々の学会年次大会やシンポジウムに参加した時は、その内容のメモ(備忘録)、感想、自分の意見などをこのWeb日記にまとめるように心掛けてきたが、日にちが経てば経つほど記憶はうすれていき、その時に何を考えたのか思い出せなくなる。そんなこともあって、これまで、原則として、1週間以内、遅くても2週間以内には感想を書き終えるようにしてきたのだが、今回は異例中の異例であった。

 なぜ、2カ月以上にもわたり、また60回もの連載を続けたのか。10月29日の日記に記した通り、この理由としては、
  1. この大会には3日間とも、朝から夕刻までフルに参加したため、感想が盛りだくさんとなった。
  2. 同時期に他の学会等が無かった(もしくは、今年は参加しなかった)。
  3. 9月中旬以降非常に忙しく、他の話題について取り上げる時間的余裕が無かった。
  4. 後期は1時限目の授業が週2日あり、当日朝に準備が必要であるため、朝の日記執筆時間が少なくなり、その分、こまぎれの連載となって連載回数が増えた。
といった4点を挙げることができる。




 これだけ長期間執筆していると、塵も積もれば山となるとの格言通り、Web日記1日あたりの文字数はわずかでも、累積すると相当のボリュームになるようである。試しに、ここの画面(この11月29日付けは除く)の文字を「編集→すべて選択→コピー」という操作で別のワープロソフトの新規画面に貼り付け、上部の目次部分や、途中の「----------」といった区切り文字を除去してから、文字数をカウントしてみたところ、
  • スペースを含めない文字数 8万6773字
  • スペースを含めた文字数 8万7556文字
などとなっていることが分かった。少なめに見積もって8万6000字と考えると400字詰め原稿用紙で215枚の分量になる。1つの心理学会の参加感想文をこんなにたくさん書いたヤツは、他にはおるまいなあ。ポジティブに評価されれば、ギネスブック登録かイグノーベル賞 (Ig Nobel Prize←これがポジティブな評価かどうかはワカランが)、ネガティブに評価されるとしたら、おそらく「長谷川というのは、自分ではちっとも研究発表しないくせに、いろんなシンポに顔を出して必ず質問をし感想文ばかり書いている奇人だ」ということになるかと思う。

 このほか、連載回数が膨大になったせいだろうか、Googleで日本心理学会第71回大会というキーワードで検索すると、なっなんと、3番目に「じぶん更新日記」がランクされているではないか(2007年11月30日現在)。何も知らずに検索した方は、これって何?と驚かれることだろう。

 念のため、再度言い訳をしておくが、この期間、私は学会参加の感想文を書くことに没頭していたわけではない。9月中旬以降11月末までの時点で、少なくとも2編の論文(1つは学会誌、もう1つは紀要)を投稿したし、某申請書提出、学内の個人評価報告書作成、県内の高校への出前授業、その他非公開の重要任務を複数遂行した。上記の「理由」3番目にも記したように、こうした多忙な時期で、他のことを考える余裕が無かったというのが、連載が長期化したことの一番の理由であるとも言える。




 学会年次大会にどのような形で参加するのかについては、研究者それぞれのお考えがあり、ここで何かを押しつけるつもりは毛頭ない。

 私自身もそうだったが、大学院生や若手のうちはとにかく、学会と言えば、自身の研究をアピールする場であり、講演やシンポを拝聴するのは二の次であった。しかし、発表の準備というのはけっこう手間がかかるものである。私が大学院生の頃は、インスタント・レタリングや専用ペンを使ってケント紙に作図、これを接写した上で現像し、ブルーフィルム(青色の地に白抜きの字が並んだ現像したスライド)を作成するという準備に追われた。最近はパワーポイントファイル作成や、ポスター発表用の印刷に手間がかかるようになったが、いずれの場合も、発表日前夜に徹夜したりして、他者の発表や講演を拝聴するヒマなど無いということがしばしばである。

 しかし、参加者がみな自分の発表だけにエネルギーを投入しているだけでは、何のために生身の人間たちが集まる大会なのか分からなくなる。科研費などの支援を受けた研究者にとっては、研究成果公表のアリバイにはなるかもしれないが、単にポスターを貼って会場で知り合い研究者と挨拶程度の情報交換をしただけで、果たして研究成果の公表と言えるのかどうか、はなはだ疑問である。

 このWeb日記に何度か書いたことがあるが、私個人としては、学会年次大会会場でのポスター発表などはすべて廃止し、代わりに学会公式サイト上でPDFファイルファイルを公開、かつ、他の学会員がコメントや質問を書き込めるような専用掲示板(BBS)を発表ごとに個別に設置すればそれでよいと思う。大会会場のほうでは、ネット上では十分に伝わらなかった部分だけを、大会当日の懇親会や情報交換会の席上で交流すれば十分であるはずだ。

 でもって、年次大会の主要なイベントはあくまで、講演やシンポ、パネルディスカッション、ワークショップに限定する。また、その際には、単に会場に足を運びましたというだけではなく、後日、参加者からの疑問、意見、感想を集約、公開し、登壇者がそれに応えられるような場を公式サイト上の設ける。このようにしてこそ、本当の意味での研究成果の公表や、他者との情報交流が確保できるはずである。ま、参加者みんなが原稿用紙215枚もの感想文を書いていたのでは、読み終える前に翌年の大会が始まってしまうかもしれないが...。




 なお、今回の大会会場の出口には、次回大会の案内板が設置されていた。それによれば、この日本心理学会の来年度の年次大会(第72回大会)は、2008年9月19日から21日まで北海道大学で開催されるとのことだ。