インデックスへ



日本教育心理学会第48回総会


2006年9月16日(土)〜18日(月)
岡山コンベンションセンター

目次


【思ったこと】
_60917(日)[心理]日本教育心理学会第48回総会(1)「自ら学ぶ力」育成と「学び」礼賛の大合唱

 岡山市の岡山コンベンションセンター(ママカリフォーラム)で、日本教育心理学会第48回総会が始まった。私は会員ではないが、いくつか興味深い企画があり、当日・臨時会員として参加した。

 大会1日目の午後にはまず

●「学習資本主義」社会と教育改革‐「自ら学ぶ力」の格差問題‐

という特別講演が行われた。講演者のK氏は『なぜ教育論争は不毛なのか』、『大衆教育社会のゆくえ』、『教育改革の幻想』、『階層化日本と教育危機』、『教育の世紀』など多数の御著書で知られる著名な社会学者。

 まず、演題の「学習資本主義」という言葉だが、これは、K氏の造語であり、K氏自身がもともと英文で「Learning Capitalist Community」と表していたことを日本語に置き換えたというのが由来であったようだ。ちなみに、心理学では「Learning=学習」と訳されているが、最近ではむしろ、「学び」という和語が幅を利かせているという。




 さて、プログラムの講演要旨の冒頭には
 学習とは何か。この問いは、学習の(心理学的)メカニズムに迫ることによってのみ得られるわけではない。私たちの社会において、「学習」と呼ばれる現象には、どのような意味が与えられているのか。学習め成果として何が求められ、そこにいかなる(社会・経済的)価値が付与されるか。さらには、こうした「社会現象としての学習」が、時代状況とともに、どのように変化しているのか。学習そのものの機序に迫るのではなく、学習と呼ばれる行為やその成果が、どのように価値づけられるようになっているのかという「社会現象としての学習」に注目しつつ、この講演では、学習論の社会学的なとらえ直しをしたい。
ということが記されていた。私自身、学部卒論以来、もっぱら学習心理学分野を中心に研究に取り組んできたところであるが、確かに、現実世界の学習行動を研究対象とするにあたっては、学習のメカニズムを分析するだけでは片付けられない、ということは少なくない。いくら応用といっても、効率的な学習方略を開発するだけでは不十分、その人の属する集団、社会、国、あるいは時代において、その行動が社会的にどう強化されているのかを見極め、また必要に応じて社会的な強化の仕組みを設計・改善していくことがどうしても必要になってくる。特に、学校教育、障害者支援、高齢者福祉などではこのことが不可欠となっている。

 近年、「自ら学ぶ力」育成が教育改革の中核にすえられ、各所から「学び」礼賛の大合唱がなされるようになっている、このからくりはどこにあるのか、また、その結果としてどういう変化が起こっているのかを解き明かすというのが講演の目的であったと理解した。


【思ったこと】
_60918(月)[心理]日本教育心理学会第48回総会(2)「個の自立」のトラウマ?

 大会1日目の午後に行われた

●「学習資本主義」社会と教育改革‐「自ら学ぶ力」の格差問題‐

という特別講演の感想の続き。

 講演の前半でK氏は、臨教審の答申を引用しながら、国の教育施策がどのように方向づけられてきたのかを指摘された。

 その流れの源は、1987年8月7日の臨時教育審議会最終答申(概略はこちらにあり)に示されている。その中で特に注目すべき点は、
  • 従来の教育においては、個人の尊厳、個性の尊重、自主的精神の涵養が必ずしも十分ではなく、この確立、自由の精神の尊重等に欠けていたところを反省し、これからの教育は、「自由・自律の精神」、すなわち、「自ら思考し、判断し、決断し、責任を取ることのできる主体的能力、意欲、態度等を育成しなければならない。」
  • これからの学習は、学校教育の基礎の上に各人の自発的意思に基づき、必要に応じて、自己に適した手段・方法を自らの責任において自由に選択し、生涯を通じて行われるべきものである。
といった記述が見られる点である【表記は会場配付資料に基づく。誤記、漢字変換ミスがあればご容赦ください】。

 その後の各種答申、報告書の中でも
  • 社会のあらゆる分野において、主体的に行動し自己責任の観念に富んだ創造力あふれる人材が求められる。【創造的な人材の育成に向けて〜求められる教育改革と企業の行動〜】
  • 文部科学省は、近年の教育改革の中で、自ら学び、自ら考える力など「生きる力」という理念を提唱してきた。「人間力」とは、この理念をさらに発展させ、具体化したものとしてとらえることができる。...本委員会の採用した人間力の定義とは、「社会を構成し運営するとともに、自立した人間として力強く生きていくための総合的な力」ということになる。【平成15年4月10日、人間力戦略研究会(座長は市川伸一氏)】
というように(こちらに関連資料あり)、「個性の尊重】、「自由・自律の精神」、「主体的」、「自己責任」、「自ら学ぶ」というような言葉がキーワードとして強調されている。

 この方向性が打ち出され、強調されるようになってきた背景に、国際的な経済情勢の変化や福祉国家の行き詰まりに伴う要請があったことは間違いない。すなわち、日本の伝統的な長期雇用やOJT(On the Job Training)が成功を収めていた時代、努力や勤勉や集団主義が重視され、大学教育においては、即戦力よりもむしろ、一般的能力や訓練可能性(←卒業・就職後に訓練を受けられる可能性)を養成されることが求められていた時代が終わり、グローバル化に適合した教育が求められるようになった。そんななか、明治以来、トラウマのようにテーマに掲げられてきた「個の自立」という周回遅れの啓蒙主義とのシンクロによって学びの大合唱が始まったというのがK氏の講演前半の趣旨であると理解した(←すべて長谷川の記憶に基づくため、表現等は不正確)。




 ところで、上で引用されている「個の自立」の中味だが、これは必ずしも、「アイデンティティ」や「こころ主義」とは同列には論じられない問題であるように思う。また、「個人還元論」か「社会・状況還元論」という議論とも異なる。しかしこのあたりに触れるとかなり脱線する恐れがあるので、これらは別の機会に考えを述べることにしたい。

【思ったこと】
_60919(火)[心理]日本教育心理学会第48回総会(3)施策や社会のしくみがが個人の行動に与える影響

●「学習資本主義」社会と教育改革‐「自ら学ぶ力」の格差問題‐

という特別講演の感想の3回目。




 さて、9月17日の日記で引用させていただいたように、この講演では
私たちの社会において、「学習」と呼ばれる現象には、どのような意味が与えられているのか。学習め成果として何が求められ、そこにいかなる(社会・経済的)価値が付与されるか。.....学習と呼ばれる行為やその成果が、どのように価値づけられるようになっているのかという「社会現象としての学習」に注目しつつ、....
ということがテーマになっていた。

 私が理解した限りでは、とにかく、内外の情勢の変化の中で、学びの大合唱が起こり、「個」を尊重し、自ら学び、選択することが推奨・賞賛されるような社会的なしくみが作られてきたというのが、講演前半の趣旨であったようだ。

 このあたりに関する、さらに詳しいキーワード(フレーズ)を、長谷川のメモに基づいて書き出してみると(←但し、暗い部屋でメモしたため、一部判読不能。何のことだったか忘れてしまった部分もあり)
  1. 「個」を尊重する学問は個人化と親和性をもつ。
  2. 「内発的」なるものに高い価値をおく傾向。
  3. 「個」が自立している状態は社会関係のパターンの1つ。
  4. 社会の心理主義化。
  5. 「個」がどう受け入れられるのかは、それをよしとする社会が前提。そのもとで社会的に構成される。
  6. ベックの「リスク社会」論
  7. Do-it-yourself-biography.
  8. 個人化が進む社会では、自伝をつくることが礼賛される。
  9. 人生とは選び取るもの。「選択」の連続。
  10. 職業生活(←趣味ではない)を通じた自己実現。これは世襲では実現しない。しかし実際は、「職業が選べる」というフィクション。
  11. 「labor」(労力,骨折り,苦心)から「vocation」(天職意識,使命感)へ。
  12. 社会の制度に依存することで個人化が可能。
  13. active lifeが推奨される社会。
  14. 学校教育における学習ばかりでない。「生涯学習」。
  15. 知識の陳腐化のスピードが速まることによる、絶え間ない学習の必要。
といったことになるかと思う。但し、これらは必ずしも、理想的な方向に実現されていくわけではない。どん欲な資本主義=人的資本主義は、自らを高めていく仕組みを織り込んだ資本主義であり、その中で、投資に見合う人的資本が形成されていく、...というようなお話であったと思う。




 以上のお話を拝聴して思ったこととしては、まずとにかく、いかなる個人も、社会的なしくみの影響を受けて行動を形成し、維持、改善していかざるをえない状況にあるということだ。もちろん、時代を超えた普遍性(地球環境がもたらす制約、人類の遺伝的特性、...)はあるが、それだけでは行動は決まらない。そういう意味で、自分の生きている時代において、何が社会的に推奨、賞賛されているのか、そういう仕組みはどういう背景のもとで作られ、どういうカラクリになっているのかを知ることは、自己理解にとっても欠かせない。このこと自体は私が日頃から強調している内容と一致している。

 しかしその一方、文科省や関連団体の答申が出され、そのもとで様々な施策が講じられたとしても、それによって個人の行動が影響を受ける部分というのは限られているし、そこには個人差もあるはず。極言すれば、答申に出現するキーワードを列挙によって見えてくるのは、時の政府が、どういう掛け声・号令を発していたかということだけである。その掛け声・号令で本当に個々人が変わったのかどうかは別の問題だ。もちろん、ある施策を実施したことによる成果もあれば、弊害もある。しかし、世の中のすべてが施策の成否で振り回されるわけではない。このあたりのところについて、次回以降に考えを述べてみたいと思う。

【思ったこと】
_60920(水)[心理]日本教育心理学会第48回総会(4)社会調査結果のレトリカルな客観性


●「学習資本主義」社会と教育改革‐「自ら学ぶ力」の格差問題‐

という特別講演の感想の4回目。




 本日は講演内容から脱線して、昨日の日記で
極言すれば、答申に出現するキーワードを列挙によって見えてくるのは、時の政府が、どういう掛け声・号令を発していたかということだけである。その掛け声・号令で本当に個々人が変わったのかどうかは別の問題だ。もちろん、ある施策を実施したことによる成果もあれば、弊害もある。しかし、世の中のすべてが施策の成否で振り回されるわけではない。
と述べたことについてもう少し考えを述べてみることにしたい。

 まずお断りしておくが、各種答申や施策というのは、必ず、詳細な調査や評価が行われ、専門家の判断を踏まえた上で取りまとめられていくものである。掛け声や号令が発せられるからには、その背景に何らかの社会現象があることは私も否定しない。

 しかしそうは言っても、社会現象は無限に近いほどたくさんある。その中からどれを取り上げるかということについては、話題性を商品とするマスコミ、経済界の要請、為政者の都合などを大きく反映しているように思えてならない。

 K氏もちょっとだけ言及しておられたが、例えば「地域の格差」があるのは事実である。しかしそれが、強調される背景には、農村票を獲得したいという政治家のニーズがある。考えてみれば、種々の格差などというのは、平安時代にも、江戸時代にも、明治時代にも、今よりもっとひどい形で存在していた。ある程度の「格差是正」はできるとしても、格差が完全に解消されるようなことは今後もあるまい。

 同じようなことは「少年犯罪の凶悪化」という言説にも見られるし、また、昨今話題の「飲酒運転多発」キャンペーンも同様()。
 おことわりしておくが、飲酒運転が根絶されるべきであるのは当然である。飲酒運転(←薬物使用、暴走行為、検問突破による逃走も同様)による死亡事故は、未必の故意による殺人罪で裁くべきだというのが私の持論だ。但し、それはそれとして、飲酒運転による事故は最近になってそんなに急増しているというわけではない。21日朝のNHKニュースによれば、飲酒運転による死亡事故は、先月末までに474件であるが、去年の同時期に比べると9件増えているだけであって、急増と呼べるほどではない。また、各所で酒気帯び運転の不祥事が発覚しているが、これは、取り締まりや組織内監視を強化したことによって増加した数値であって、最近になってドライバーのモラルが急速に低下したということではない。


 ひとくちに調査といっても、医学的な疫学調査と社会調査では、期待できる成果が異なっているように思う。例えば、いくつかの地域で癌の発生率に有意な差があることが分かった場合、発生率の高い地域の住民の食事内容や水道、大気の成分をさらに調べれば、何らかの発ガン物質を特定できる可能性がある。また、正体不明の病気が多発している場合にも、疫学調査を出発点として、原因を解明できる可能性がある。しかしこれらが可能になるのは、癌や感染症の発症の生理学的メカニズムがかなりの程度で知られており、かつ、単一または比較的少数の要因によって現象が引き起こされるからにほかならない。

 しかし社会調査となると話は変わってくる。

(1)ある施策を実施した
(2)調査によれば、○○という変化が有意に認められる
(3)よって、その変化は、施策の成果(または弊害)である。

という言説はしばしば見られるが、(2)の有意差がいかに統計的に保証されていたからといって、直ちに(1)の結果であるとは断定できない。また(2)の変化は、施策が完璧に実施されたことによる変化である場合もあれば、不完全に実施されたためにもともとの変化がくい止められなかったことによる場合もある。

 けっきょくのところ、社会調査によって得られた結果というのはしばしば、「レトリックの産物としての客観性(
Gergen, K. J. (1994). Realities and relationships; Soundings in social construction. Cambridge: Harvard University Press. [永田素彦・深尾誠訳(2004):社会構成主義の理論と実践-----関係性が現実をつくる, ナカニシヤ出版]訳書 第7章5節 238頁あたり
を示すにとどまるという気がしてならない。




 もちろん世の中には、誰がみても明らかなほどに顕著な社会現象というのはある。例えば、みんなが髪を染めれば、街中の様子は一変する。携帯電話の利用も同様だ。しかし、社会調査によってやっとこさ確認されたというような「現象」については、とりあえずは眉唾ものとして疑ってみたほうがよさそうだ。

 こんなこと言うと、総スカンをくらいそうだが、もしかすると、「社会現象」なるものの多くは、社会学者によって発見されるのではなく、一部の社会学者とそれに便乗したマスコミによって作られているだけにすぎないかもしれない。そうして、その作られた社会現象を別の社会学者が否定する。そうやって論文や著作がいっぱい増え、特に注目された場合には流行語大賞にもなる。しかし、じつは世の中、社会学者やそれに便乗したマスコミが言うほどには、そんなに変わっていないのかもしれない。

【思ったこと】
_60921(木)[心理]日本教育心理学会第48回総会(5)自伝を作ることが礼賛されるからブログを書くのか?


●「学習資本主義」社会と教育改革‐「自ら学ぶ力」の格差問題‐

という特別講演の感想の5回目。「感想」と書いたが、昨日同様に御講演の内容から脱線。今回は、ブログ執筆について考えを述べてみたい。




 9月19日の日記の箇条書きの8番に記したように、御講演の中でK氏は、

●個人化が進む社会では、自伝をつくることが礼賛される。

として、その一例として、ブログが流行していることを挙げられた。「中には実名でブログを書いている人がいます。私は全然やっていないが。」というような御指摘であった(←長谷川の記憶に基づくため、不確か)。

 ここでK氏が、ブログの流行を、「自伝をつくることが礼賛される社会」になっていることの証拠の1つとして挙げられたのか、それとも、半分冗談のつもりで言及されたのか、これは御著書や各種出版物を拝見しないと何とも確認できないのだが、とにかく、Web日記とやらを10年近く執筆している私としては、このまま黙っておくわけにはいかない。




 私がいちばん疑問に思うのは、ブログあるいは日記を執筆、Web公開している人たちの中で、いったい何%が「自伝をつくる」ことを目的にしておられるか、ということだ。これまでも何度か書いたことがあるが、Web日記やブログというのは実に多種多様であって、ひとくくりの社会現象としては到底扱いきれない、というのが私の持論である。

 もちろんある種の人たちにとって、ブログは自伝づくりとして意味をもっているかもしれないし、読者から礼賛されるが大きな励みになっているかもしれない。しかし、少なくとも、私が10年前から参加している日記才人(旧称は「日記猿人)登録日記に限って言えば、「自伝派」はむしろ少数派というか希有であるように見える。

 それと、もし「自伝をつくることが礼賛される」ことがブログ執筆を流行させているというのであれば、長期間執筆する人がもっと増えてもいいはず。しかし、こちらの資料集←日記才人のシステムが、「現在新バージョンのβ版として運営」されるようになってから、残念ながらデータを収集できていない)にも示したように、自伝と言えるほど長期間にわたって執筆を続けている人はきわめて少ない。

 さらに言えば、ブログやWeb日記を執筆することは必ずしも読者から礼賛されるとは限らない。ま、内容にもよるだろうが、しばしば「炎上」と言われるように、反論、さらには誹謗中傷の声が寄せられることのほうが遙かに多いようにも思われる。




 ちなみにこの「じぶん更新日記」であるが、確かに日記才人・プロフィール欄には

じぶんの知識や技能が“更新”された時にその内容を記録し、昨日と違うじぶんを作っていきたいと思う。

などと標榜はしているものの、現実にはそんなことは滅多に書かれていない。妻からも「あなた、“じぶん更新”なんて言っているけれど、結婚した時からちっとも更新されていないじゃないのっ!」と、しょっちゅう言われている。

 このWeb日記を10年近く続けていることのメリットを私なりに考えてみるに、
  • 毎朝、同じ時刻に執筆することによる、規則的な生活習慣の確立(早朝や夕食後の散歩と同じ)。
  • 私自身が興味を持ったことを記し、他の方からそのことについて新たな情報をいただく、といった、ごく軽いレベルの交流。
  • 同じ趣味をもつ人たち(園芸、自然観察、天文、旅行など)との情報の共有、交換。
  • 新しく得た情報や、私自身のオリジナルな見方を公開し、「お気に召せば」という程度に参考にしていただければ幸いという、ごく軽いレベルの期待。
といった点が挙げられるかと思うが、少なくとも、「自伝」という意識はこれっぽっちも無いなあ。備忘録も自伝だと言われればそれまでだけれど、そんなものは「個」の尊重やら「学び」とは関係あるまい。

 ということで、次回に続く。

【思ったこと】
_60922(金)[心理]日本教育心理学会第48回総会(6)選択の自由の及ばない機会の格差?

 まず、ブログについての追記。昨日の日記で、

●個人化が進む社会では、自伝をつくることが礼賛される。

ことの一例として、ブログの流行が挙げられたことについて書いたが、ブログは必ずしも「一貫性のある単一の自己」を確立することにはつながらないように思う。特に、匿名でいろんなブログを書き分けているような人では、自己は分散化してしまう。

 このことを含めて、浅野(2005)は『「多元化する自己」の広がり』の中で
第一に、労働力市場の流動化に伴って標準的な人生物語が失効すると同時に、自己責任をべースにした新しいシステムはそれぞれの場面において各人が自分自身についての物語を語るよう強く要求するようになってきている(各種入試や就職・転職における自己アピール等)。
第二に、消費社会化の進行は、商品を記号として消費し、それを通して自己アイデンティティを構築・再構築するという作法を一般化させてきた。このような作法を幼いころから身につけた者たちは、場面に応じて自己物語を柔軟に編集・再構成するであろう。
第三に、情報社会化の進展、とりわけインターネットの普及は、自己の複数性を低リスクで維持・管理するためのインフラを提供する。例えば、複数の日記・ブログを書き分けているユーザの存在などはそれを象徴している。
浅野智彦 (2005).第二章 物語アイデンティティを越えて?[上野千鶴子 [編]. 脱アイデンティティ. 勁草書房. pp.77-101]
というようなことを指摘している。講演者のK氏と浅野氏との間で何らかの論争が行われているのか、それともけっきょく似たことを主張しているおられるのかは、私には勉強不足で分からない。ちなみに、今回の学会総会の別のシンポでは浅野氏が指定討論者として出演された。このことの感想については、本連載の後のほうで記す予定である(但し、慣例により、当該日記では「浅野氏」ではなく「A氏」と表記する予定)。




 さて、K氏の御講演の終わりのほうでは、某中学で実施された調査結果が披露された。中学生の子の授業理解度、家での学習時間、調べ学習の積極性、グループ学習時にリーダーになるかといった傾向が、母親の学歴や父親の職業と有意に関係ありというような結果であり、このことは、「個人の選択の自由の及ばない機会の格差」を示すものである、という御主張であったと理解した。

 統計的に確認された結果自体については異論は無いのだが、私の理解する限りでは、その差はそれほど顕著ではないようにも見えた。また、母親が高等教育を受けているかとか父親がどういう職業に就いているかということは初期条件であって動かしがたいとしても、そのことがダイレクトに子どもの勉学に影響を及ぼしているのか、それとも、それぞれの初期条件のもとでの大多数の親の教育態度が影響を及ぼしているのかは定かではない。後者であるならば、必ずしも「機会の格差」ということにはならない(←以上の部分は、一部、長谷川の理解不足により誤解があるかもしれない。念のため)。

【思ったこと】
_60923(土)[心理]日本教育心理学会第48回総会(7)「個」の重視の影響は「個」の分析で

 さて、今回拝聴した講演について、私が理解したことをまとめると、
  • 内外の情勢の変化の中で、学びの大合唱が起こり、「個」を尊重し、自ら学び、選択することが推奨・賞賛されるような社会的なしくみが作られてきた。
  • 教育行政においては、それに見合った形で、個を尊重した学習、生涯学習、生涯現役、自立尊重のための施策が講じられてきた。
  • しかし、そのことに伴って
    • 「投資に見合う人的資本形成」。コミュニケーションスキル、ソフトスキル、問題解決能力、ハイスキルSocietyなど。
    • 個人化に伴って、集団主義的なセーフティネットが弱体化。日本型平等主義との葛藤。
    • 格差問題。学びから降りることで失うものの大きさ。
    などが新たな問題として浮上してきた。
  • 解決すべき論点としては
    • ブラックボックスとしての文化「資本」
    • 環境差を縮める学習の可能性とそのメカニズム
    • 学習を継続する意欲(の持続・再生)と機会の関係
    • 学習資本主義を相対化するメタ認識の形成と個人化。共感、共生との関係
    などがある。
ということになろうかと思う。




 質疑の時間に私からも
教育行政という視点から言えば、ある施策の有効性や弊害を検証し、今後の方向についてより正確な見通しを持ち、最善の策を検討していなかければならないのは当然であろう。しかし、そうは言っても、人間は、文科省の掛け声や号令だけでそんなに変わるものではない。
例えば、大学改革に関する答申はこれまでにもいろいろな形で出され、確かに、それに伴って制度や組織が変わっている。しかし、そのわりには、個々の大学教員はそれほど変わっていないように見える。
というような質問をさせていただいた。

 ここで私が言いたかったのは、決して、「種々の施策により表面的な行動は変えられるが、心の内面はそう簡単に変えることができない」という意味ではなかった。私は基本的に行動論の立場をとっているので、「表面」とか「内面」という区別はしていない。そうではなくて、言いたかったのは、

●ある施策によって行動が変わる人もいるが、全く影響を受けない人もいる。ある施策の効果や弊害を、統計調査の平均値的な変化だけから論じることには限界があるのではないか。

ということであった。

 確かに、ある社会情勢のもとで、「個人の自立」という「周回遅れ」の啓蒙主義がシンクロし、学びの大合唱が起こることはあるかもしれない。しかし、そういう合唱が起ころうと起こるまいと、そのことに関係なく自立を重んじる人たちはいるし、自らの価値観に基づいて生涯学習や生涯現役主義を貫いている人たちも少なくない。けっきょく、平均値の有意差や、全体的な相関の有意性などではなく、もっと個人のレベルで変化の有無や影響を与えた要因をとらえていく必要があるのではないか、というのが私の考えである。




 質疑の時間にはもう1つ、

●施策の評価は、それを実施した時の成果と弊害のほか、それを実施しなかった場合の結果とも比較しなければならない。

というような趣旨の質問も出された(←長谷川の記憶に基づくため、不確か)。

 先の私の質問と合わせて、このことに関してK氏は、

●もちろん、施策や制度が及ぼす影響は個人によって異なる。しかし、もともと5%だったリスクが、ある施策によって10%のリスクに高まる可能性が出たとしたら、やはり問題にしないわけにはいかない。

というようなことを回答された(←長谷川の記憶に基づくため、不確か)。

 このことには、もちろん私も同意できる。しかし、9月20日の日記でも指摘したように、医学的な疫学調査と異なり、社会調査においては、単一要因の効果を同定することはきわめて難しいことも確かである。ある施策が全体として望ましい効果をもたらし、その一方で小規模の弊害をもたらすような場合は、施策全体をマイナス評価するのではなく、小規模の弊害に対して「別途」、対策を講じるということもできるはずだ。




 最後に、K氏が一例として挙げられていたフリーター増加の問題などは、学習資本主義の問題というよりもむしろ、内山節氏が指摘したように(行動分析学会投稿記事参照)
  • 近代的雇用では、労働を開始する前に、偶然と不安に満ちた近代的雇用に、 身をゆだねる必要性が生まれる。
  • 今日の社会では、何が必要で、何が不必要なのかもわからない。労働によっ て生み出される商品が人間の暮らしにとって本当に必要なのかどうかは分 からない。それゆえ、労働をとおして、人間の社会に有用な活動ができる かどうか分からない。
  • 経済活動のなかでは、仕事をするのは誰でもよい。かけがえのない一人の 人間として仕事をしているつもりなのに、経済活動のなかでは、 代替可能 な一個の労働力にすぎないことを知らされる。
といった根本原因が近代的雇用の中にあり、かつ、サービス産業の人件費削減策の一環としてパート雇用が増え、また昨今の少子化の中で「あくせく必死に働かなくても、ある程度、両親のサポートを受けて何とか暮らしていける」という世代が増えたことが、フリーター増加をもたらしていると考えるべきではないかというのが私の考えだ。

ということで、今回の御講演についての感想は終了。次回からは別のシンポの感想を述べることにしたい。

【思ったこと】
_60924(日)[心理]日本教育心理学会第48回総会(8)学生は質的心理学の教育から何を得るか

 今回は第1日目の夕刻に行われた、準備委員会企画シンポジウム:

●学生は質的心理学の教育から何を得るか

について感想を述べることにしたい。




 さて、このシンポは、タイトルだけ見て、この時間帯ではいちばん面白そうだと思って参加することに決めていたのだが、会場に移動する途中になって、じつは、このシンポの企画者・話題提供者は、隣の研究室のT氏、また、指定討論者2名は、いずれも、岡山大に在籍していたMu氏とMi氏であることに気づいた。話題提供者と指定討論者6名のうち3名が岡大・文学部にゆかりのある教員ということからみると、おや?、いつから私の職場が質的心理学研究の拠点になっていたのか? とちょっと意外な気がした。

 もっとも私が記憶している限りでは、大御所のMi氏は、岡大ご在職中は、量的研究中心にずっと授業をしてこられた。これは、当時、社会心理学講座のスタッフが実質的にMi氏お一人だった時代が長く続いていて、社会心理学のあらゆる研究方法を伝授しなければならないというお立場があったためかと思われる。今回の指定討論の中でもMi氏は、岡大で質的方法を教えたのは、グレーザーとストラウスの本を大学院生と一緒に読んでいた程度であったと述べておられた。

 私の記憶している限りでは、岡大で質的研究が盛んになったのは、今回の企画者のT氏や、すでに定年退職されたA氏、さらに、今回の指定討論者Mu氏が来られた後のことであった。もっともその時も、研究対象が「文化」であったという印象のほうが強く、研究方法が質的であるという印象はあまり受けていなかった。

 それと、私個人が質的研究に関心を持ったのは、岡大内部からではなく、むしろ、『現場心理学の発想』(やまだようこ編)や『心理学論の誕生:「心理学」のフィールドワーク』(サトウタツヤ・渡邊芳之・尾見康博)などの書籍から受けた影響のほうが大きかった。学内では、卒論指導の分業化が進んでいたこともあって、卒論査読以外の場で質的研究にふれることは殆ど無かった。

 そんなこともあって、とにかく、話題提供者と指定討論者6名のうち3名が岡大・文学部にゆかりのある教員であったということには少々驚いた次第であるが、クリティカルシンキングの観点から見直してみるに、これは単に、今回の学会総会の会場が岡山であったためだけなのかもしれない。




 さて、前置きが長くなってしまったが、シンポではまず、T氏が、この企画の趣旨を述べられた。それによれば、今回の話題提供者の共通点は2005年3月に刊行された

動きながら識る、関わりながら考える〜心理学における質的研究の実践〜

に携わったことにあったということだそうだ。質的心理学の専門書は何冊も出ているが、学部の授業では、心理学以外の専攻者も受講する。また応用分野への配慮も必要ということからこの本が生まれたということであった。




 続いて話題提供。1番目のI氏は、
  • 子どもの視点に帰る
  • 心という「内」に向かいがちな視点を「外」へと転換
  • ふだんのライフスタイルの見直し
  • 対話の重要性の気づき
といった内容で、初習者が実際に街に出てデジカメで撮影したり、そこに住む人たちと対話しながら質的研究の態度を学ぶプロセスを紹介された。

 率直な感想としては、この授業は、I氏のようなすぐれた指導教員でないとうまくできないだろうなあ、ということだ。今年の1月15日に拝聴した田垣氏の講演の中でも指摘されたように、

●量的研究は、質が悪くても、なにかをしたような体裁を保つことはできる。しかし、質の悪い研究は,....「中学や高校の文化祭の発表のようなもの」

という可能性は常にある。研究成果のレベルは別として、とにかく、質的研究の「態度」や「心構え」を身につけさせるような教育というのは、理屈だけでは難しい。フィールド研究の体験を豊富にお持ちなI氏であればこそ指導できるのではないかと思った。

【思ったこと】
_60925(月)[心理]日本教育心理学会第48回総会(9)実践者の目と質的心理学

 まず、昨日ご紹介した

動きながら識る、関わりながら考える〜心理学における質的研究の実践〜

だが、T氏からいただいた本が私の手元にも1冊ある。2800円という値段は学生にとってはちょっと高めだが、値段に見合ったボリュームがあり、入門者にとって分かりやすく、かつ興味の持てる内容になっている。出版社は、ナカニシヤ出版。ISBN:4888484554。




 さて、話題提供の2番目のN氏は、心理臨床家養成と質的心理学について話題提供をされた。N氏はまず、Scientist-Practisioner Model(科学者実践家モデル)に言及された。このことは、少し前、日本行動分析学会第24回年次大会の基調講演で、I先生からも言及されたばかりであった(9月4日の日記参照)。もっとも、両者のお考えには若干のズレがあったように感じた。I先生がずっと実験心理学に関わってこられたことを思えば、その違いは当然であるとも言えよう。

 N氏は、「科学者の目」と「実践者の目」を区別した上で、「科学者の目」は、研究法一般の教育による訓練を重んじること、いっぽう「実践者の目」については、村瀬(1981)を引用し、「心理臨床実践で必要とされる心構え」として次の4点を強調された。
  • 柔軟性・能動性をもつ
  • 症状のもつメッセージを受け取る
  • 対象に応じた治療技法を使う
  • 環境との関係に目を向ける
 これらの心構えは質的研究において必要な技法と対応しているというのが、話題提供の趣旨であると理解した。

 心理臨床家には、上記に加えてもう1つ、

●絶えざる仮説生成と修正

という本来の「グラウンデッドセオリー」が強調する技能・態度がある。これは、実際に使用されるグラウンデッドセオリーでありがちな尚早なラベルづけや仮説生成とは異なるものである(←長谷川のメモに基づくため不確か)。

 この日記や私の紀要論文などでも繰り返し指摘しているように、「質的研究」というのは、決して「質的データを扱う研究」という意味ではない。むしろ、対象に接する態度や、考察の進め方に重要なポイントがある。このことが分かりやすく説明されていたと感じた。




 3番目のO氏の話題提供は、保育者養成を目的とした短期大学における教育実践例の紹介であった。グループで行う卒業研究の1つとして「親子のくすぐり研究」の事例が紹介された。ポイントとしては 、「子どもを観る目を養うこと」、「生身の子どもや親との関わり」、「対象者との関係の自覚化」、「対象者を多角的に観る目」が挙げられ、保育者養成校において質的心理学が学生に伝えることとしては
  • 子どもの発達を発見する(したがる)癖、何かありそうと勘ぐる姿勢
  • 生身の人と関わる・影響を与えるという責任感
  • 理論から現象を、その現象から別の理論も
  • ひとつの現象に含まれる複数のストーリー。多角的な視点を統合すること。
などがある(←スライド画面からのメモ)ということであった。

 以上の内容はだいたい理解できたが、実際に紹介された事例を拝見する限りでは、特に「質的心理学だからできる」ということではなく、量的な実験的研究であれ、現場での実践であれ、子どもの発達研究ではどれも大切なことであろうというようにも思えた。実験研究といっても何も平均値の有意差で個体間比較をするだけが実験研究ではない。単一事例研究もあるし、そもそも、量的な研究を軌道に乗せるためには、行動のカテゴライズ(質的分析)や機能分析が欠かせない。これらをセットにした「観る目」を養うことはぜひとも必要であろう。

 話題提供の終わりのほうで、O氏は
  • 研究に貢献する質的心理学→ 知識が社会に蓄積する
  • 実践に貢献する質的心理学→ 知識が人に蓄積する
ということを強調された。卒業研究のレベルではなかなか社会に貢献するような情報を蓄積することはできないかもしれないが、それに関与した学生は、着実にそれを蓄積し将来に活かすことができる。これによって、子どもを観る目や現象を捉える視点は、勘や資質ではなく技術として継承されていく。

 「知識が社会に」と「知識が人に」というフレーズはなかなか素晴らしいアイデアだと感心したが、上記同様、必ずしも「質的」に限らなくてもよいようにも思えた。

【思ったこと】
_60926(火)[心理]日本教育心理学会第48回総会(10)質的心理学教育の難しさ


 話題提供の最後は、企画者でもあるT氏から、岡大文学部における実習プログラムの実例をふまえた話題提供があった。なおこの詳細は、

動きながら識る、関わりながら考える〜心理学における質的研究の実践〜

の207〜212頁に詳しく紹介されている。

 もっとも、T氏が紹介されたのは、現在の4年次生までが受けた旧カリキュラムにおけるプログラムであった。その後岡大では、

・学科別入試から学部一括入試へ
・履修コースの広域化

という改革が行われ、現在は「心理学履修コース」ではなく、「行動科学専修コース」の中の「心理学領域」としてのカリキュラムが組まれている(新・旧課程の違いについては、こちらに私見が書かれてあるので、興味のある方はお読みいただきたい)。

 さて、こちらのほうにも述べたが、新カリキュラムのもとでは、卒業証書には「文学部行動科学専修コース卒業」と記されるだけで、心理学領域を学んだのか、社会学、文化人類学、地理学など他の領域を学んだのかを証明することができなくなった。そこで「大学において心理学又は心理学隣接諸科学を専攻し学士の学位を有する者」であることを証拠立てるために、認定心理士資格取得を推奨するようになった次第だが、その取得要件に適合させるてめに授業科目を整備する必要が出てきた。ここでは詳しい内容には立ち入らないが、とにかく、質的心理学教育のために費やされる時間は以前より削減せざるをえなくなったという事情が出てきている。




 もう1つ、これはどこでもありがちなことだが、総合大学のようなところには、じつにいろんな考えを持った心理学教員が割拠しているのが普通である。その中には、「すべての質は量に還元できる(量に還元できない質は無い)」と断言している教員もいるらしいし、私が知っている心理学者の中にも「実験心理学でなければ科学ではない」と力説したり、1つの実験で有意差が確認されただけで「○○式の理論は科学的に実証された」と吹聴している人もいる。

 従って、これらを受講する学生としては、ある授業では「AはBである」と教えられ、別の授業では「AはBであるという説はもう古い」と力説されることさえある。それだけに、各受講生のの主体的判断とクリティカルな思考の目が求められるのである。

 もっとも、学生にとっては、偏った1つの立場のみを教え込まれることよりも、こういう多様な捉え方、方法論、手法を身につけ、自分自身の力で選択できるようになることのほうが、将来に役立つ部分がはるかに大きいようにも思える。




 シンポ後半の指定討論では、まずMu氏が、「ローカリティ」、「インターローカリティ」、「ユニバーサリティ」をキーワードに、それぞれの話題提供者に質問をされていた。これに対して、話題提供者のお一人のO氏は、「ユニバーサリティにはローカルは見えない、ローカルな積み重ねがユニバーサリティにつながる」というようなことを答えておられた(←長谷川メモが一部判読不能のため不確か)。

 私個人は、質的研究の基本的な視点には大いに共鳴するところがあるのだが、そのわりにハマりこむほどの域には達していない。その一番の理由は、これまで、「これは素晴らしい!」と唸るような質的研究に出逢ったことが無いという点にあるのではないかと思っている。上記と関連づけるならば、要するに、いろいろと聞かされている質的研究というのは、ローカリティが強すぎるのである。扱っている話題にもとより関心が無ければ、膨大な記述内容に目を通しても退屈になるだけだ。「NHKスペシャル」や、かつての「プロジェクトX」などのほうがよっぽど興味をひかれるし、感動も大きい。このあたりは、演出効果を重視するTV番組と、研究を標榜する質的研究の違いということになるのだろうが、とにかく、いくら質の高い「質的研究」であっても、取り扱う話題に関心がなければタダの分厚い報告書、かといって、そこから見出されるユニバーサリティはごく常識的な範囲にとどまる、というあたりが、私がハマらない理由になっているのではないかと思いつつある。




 もうお一人の指定討論者であるMi氏は、

問いを立てると物の見方が変わってくる。

ということを言われた。また、質的研究を美味しい料理に例えて、「料理人」(=研究者)、「包丁」(=概念ツール)、素材という3条件が揃うことの重要性も指摘された。

 このほか、フィールドに1時間出た時には、そのすぐあとでフィールドノーツ作成に2〜3時間をかけるべきであること、これを怠るとすっかり忘れてしまうというようなことを言われた。私自身はフィールドでは研究をしていないが、ここにあるように、講演やシンポを拝聴した時には必ずメモをとり、どんなに遅くても2週間以内にはWeb日記に記すことを心掛けている。Web日記の習慣が無く、かつ、何もメモをとらないで聴いていた人たちは、その時に得た情報や自分の感想をどのように将来に活かしているのだろうか、たぶん抜群に記憶力の良い人か、でなければ、その場限りの聞き流しに終わってしまう人か、どちらかであろう。




 シンポの最後に、司会者のS氏が「自然科学が忘れていた、環境との関わりで人間を考えるという視点...」というようなことを言っておられたが、S氏に限らず、最近、臨床心理学者の口から「環境との関わりを重視」という言葉を聞くことが多くなったように思うのは気のせいだろうか。これらの研究者の間では、スキナーの『科学と人間行動』の視点はどう位置づけられているのだろうか...?

【思ったこと】
_60927(水)[心理]日本教育心理学会第48回総会(11)対話的自己論(1)

 今回は、総会2日目に行われた

●対話的自己論(The Dialogical Self)の適用・発展可能性

というシンポの感想を述べることにしたい。




 ところで、2日目の夕刻は、もともと、AMDAの代表S氏の講演を拝聴しようと思っていた。ところが、プログラム冊子で自主シンポジウムの日程のところを細かくチェックしてみると、同時間帯に開催される、

●学校現場におけるフィールドワーク研究の意義と可能性(2)

というシンポに、『あなたへの社会構成主義』を翻訳したH氏が指定討論者に名を連ねておられることが分かった。

 また、やはり同時間帯に予定されている、

●対話的自己論(The Dialogical Self)の適用・発展可能性

のほうには、これまた有名な『自己物語論が社会構成主義に飲み込まれるとき ケネス・ガーゲンの批判的検討.』や『検証・若者の変貌―失われた10年の後に』などで知られる、新進気鋭の社会学者A氏が登場されることが分かった。

 1つの体で3つの会場に足を運ぶことはできない、さてどうしたものか、と思ったが、とりあえず、AMDA代表の方は地元なので、いずれまたお話を拝聴する機会があるかと考えてキャンセル。また、上記2つのシンポのうち、「学校現場におけるフィールドワーク研究」はテーマとしては門外漢だったのでこれもキャンセルさせていただくことにした。




 さて、迷いに迷ったあげくに参加した「対話的自己論」であるが、これもまた私にとっては未知の領域。私がこれまで取り組んできた心理学では、「セルフコントロール」はしばしば出てくるものの「セルフ」そのものは扱ったことが無い。極言すれば、私はこれまで「セルフ」という概念自体をを必要だと思ったことが無かった。

 しかし、例えば、「一貫性のある自己」などという議論に立ち入ってみると、間接的とはいっても「自己」に言及せざるをえないところがある。じつは、近々、「脱アイデンティティ時代の心と環境」などという大それたタイトルで公開講座を行う機会があるのだが、その講演予定メモを抜き書きしてみても
  1. 浅野(2005)「多元化する自己」の広がり
    第一に、労働力市場の流動化に伴って標準的な人生物語が失効すると同時に、自己責任をべースにした新しいシステムはそれぞれの場面において各人が自分自身についての物語を語るよう強く要求するようになってきている(各種入試や就職・転職における自己アピール等)。
    第二に、消費社会化の進行は、商品を記号として消費し、それを通して自己アイデンティティを構築・再構築するという作法を一般化させてきた。このような作法を幼いころから身につけた者たちは、場面に応じて自己物語を柔軟に編集・再構成するであろう。
    第三に、情報社会化の進展、とりわけインターネットの普及は、自己の複数性を低リスクで維持・管理するためのインフラを提供する。例えば、複数の日記・ブログを書き分けているユーザの存在などはそれを象徴している。
  2. 千田(2005):「アイデンティティ」に還元されない「ポジショナリティ positionality」
  3. サトウ・渡邊 (2005):モード性格論、/一人称的性格、二人称的性格、三人称的性格(「自意識としての性格」、「関係としての性格」、「役割としての性格」)。
  4. 河野(2006):不毛な「自分探し」を煽る心理主義的発想を厳しく批判.
    (a)私たちの「知る自己」が同一であるとするならば、それはある一定の環境や状況に関わり続けているからである。...「私は何者か」と自問するときに私たちが探し求めているのは、じつは、一貫した環境であり、統合性のある環境なのではないだろうか。(第一生:37 頁)
    (b)私の性格の同一性とは、せいぜい種類の同一性、あるいは「家族的類似」でしかない。(第二章:83 頁)。
    (c)パーソナリティ理論は、遺伝性と社会的な有用性とを直結したような概念を作り出しかねない点において、被験者にミスリーディングな自己観を提供してしまう可能性がある。(第二章:104 頁)。
    (d)私たちがすべきは、心理主義にとらわれたままで、無自覚のうちに自己を既存の社会システムに過剰に適応させてしまう「自分探し」などではなく、環境リテラシーを通じて、自分(たち)自身で環境と自分(たち)との関係性をリデザインすることである。本当の自分探しとは、自分が充実して生きられる環境(ニッチ)を自ら形成し、再形成してゆくことなのである。(終章:244-245 頁)。
  5. 養老(2004):人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである、というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です(27-28頁)
    (a)...ここでいう情報化社会とは、いわゆるテレビやインターネットの普及といった、現代において使われている味のみを指しているわけではありません。本来、日々変化しているはずの人間が不変の情報と化した社会のことを指しています。(26-27 頁)。
    (b)本来、人間は日々変化するものです。生物なのだから当たり前です。...それでも毎日目が覚めるたびに「今日の俺は昨日の俺とは別人だ」と思うようでは、社会生活も何もあったものではない。だから、意識は「昨日の俺は今日の俺と同じだ」と自分に言い聞かせ続けます。(27 頁)。
    (c)人間は変化しつづけるものだし、情報は変わらないものである、というのが本来の性質です。ところがこれを逆に考えるようになったのが近代です(27-28 頁)。
    (d)常に変わらない自分が、死ぬまで一貫して存在している、という思い込みが日本人の前提になっています。...おそらくこの思い込みというか論理は、なかなか破られないものだからこそ、一般化したのでしょう。破られにくいのは、たとえ他人から指摘されても「変わった部分は本当の自分ではない」という言い訳が常に成り立つからです。
  6. 上野(2005):アイデンティティは耐用年数切れ
    ...その歴史的現象そのものに変化が起きれば、「核家族」同様、「アイデンティティ」という概念も、耐用年数が切れるにちがいない。 【2頁】 /実のところ、フロイトの自我心理学に対してエリクソンのアイデンティティ概念が果たした貢献とは、この自己の構築性にある、と言ってよい。エリクソンは、フロイトの「自我」概念を、ある意味で脱本質化した。だからこそアイデンティティの概念は、これ以降社会学に受け継がれていくことになったのである。このようなアイデンティティの構築性からは、あとで論じる「アイデンティティの形成」や「アイデンティティの管理」のような概念が生まれるまではあと一歩であろう。 【9頁】
  7. 臨床心理学会大会(2006).「私」という病―臨床の現場から考え始めるー
    心理臨床の核とも言うべき「理解」「共感」等の側面でも、社会的状況や「関係」ではなく、対象者の個人内心理を一方的に「理解」し、「共感」する傾向が強まっています。
  8. 臨床心理学会大会(2006) .現代社会の心理主義化を問う
  9. 大森(2005):「臨床心理学」という近代
    市場競争原理に取り込まれ拡大化しつつある、臨床心理学という近代知。 今日の臨床心理学は、個人還元論が優勢で、社会・状況還元論は退潮傾向にある。そのアンバランスな構図に不健全な時代状況が映し出されている。 はたして、この近代知は個に優しい知なのか
  10. 鯨岡(2006):ひとがひとをわかるということ 間主観性と相互主体性.
というような形で、さまざまな立場から「自己」や「アイデンティティ」や「一貫性」や「主体性」に関する議論が湧きあがっている。自己論そのものは、はるか昔からいろいろとあるが、グローバル化の流れの中で、「自律的な、一貫した、自己」を求める外圧があり、その一方で、重圧に耐えきれなくなった結果として「多元化する自己」があらわれるなど、自己論花盛りになりそうな予感はする。ということもあって、今回、耳学問として「対話的自己論」にふれておくことは大いに意義があった。

【思ったこと】
_60928(木)[心理]日本教育心理学会第48回総会(10)対話的自己論(2)デカルトを超える人


●対話的自己論(The Dialogical Self)の適用・発展可能性

というシンポの感想の続き。




 さて、企画趣旨説明によれば、このシンポは、

 対話的自己 デカルト/ジェームズ/ミードを超えて(新曜社|2006年 09月発売|ISBN 4788510170) 本体価格:4,200円(税込:4,410円)

というハーマンスらの本を翻訳した人たちによって企画されたものということであった。さっそく注文させていただいたが、まだ手元には届いていない。

 ところでこの訳書のタイトルを見て思ったのだが、たぶん私の関心空間内のことだとは思うが、最近、「デカルトを超えて」というフレーズをやたら目にするようになったような気がする。Googleで「デカルトを超えて」を検索すると8390件もヒットする。デカルトはそんなに超えなければならない存在なのだろうか。デカルトを知らなければ超えようもないという気もするのだが...。

 これは、たぶん、心理学が知らず知らずのうちにデカルトの影響を受けてきたことによるものかもしれない。

 例えば、ガーゲンの本には
...では、この絶望的な結論を免れる方法はあるだろうか? 私の考えでは、心理学が主客二元論を前提とする限り、そのような方法はない。すなわち、心理学は、知らず知らずのうちにデカルト的世界観を受け入れ、知る主体と知られる客体、精神と物質、意識と自然の間に明確な一線を引いてきた(第1章を参照)。こうした二元論は、自明のものであった-----それは、心理学に深く沈澱した常識の一部であり、より一般には、西洋文化の常識でもあった。しかし、この区別に根拠はあるのか? その根拠は、何に基づいて正当化できるのか?
【永田素彦・深尾誠訳(2004):社会構成主義の理論と実践-----関係性が現実をつくる, ナカニシヤ出版. 162頁】
などと書かれており、とにかく、デカルト的世界観を克服することが新しい心理学の出発点になるという考えは強い。




 この他、最近読んだ本の中では

〈心〉はからだの外にある 「エコロジカルな私」の哲学

という本でも、カバーの裏には「デカルト的発想を覆す」などと大きく書かれてある。

 じつは、少し前、哲学の先生(哲学・フランス思想史:デカルト哲学の思想史的検討を中心に研究)と、いま挙げた本や昨今の「デカルト批判ブーム」について話したことがあった。この先生は決してデカルトの信奉者ではない。デカルトが偉大であればこそ、それだけ批判も出てくるのだろうということであった。

 しかしとにかく、私なんぞは、心理学の外の世界の「大哲学者を超える」などという畏れ多いことは、到底口にはできない。ま、せいぜい、「大哲学者が○○と語った部分については...」ぐらいにとどめておかないと、その道の専門家から「その哲学者の原書をどれだけ読んだことがあるのか」などと攻撃を受けてしまうだろう。とにかく「超える」を標榜するからには相当の覚悟が必要だと思う。

 ということで、すっかり脱線しつつ次回に続く。

【思ったこと】
_61003(火)[心理]日本教育心理学会第48回総会(13)対話的自己論(3)


 シンポではまず、企画者のSM氏から企画趣旨説明と話題提供があった。SM氏は、FD関係のセミナーでは時々お見かけしたことがあったが、ご専門に最も近いテーマについてお話を伺うのはこれが初めてであった。

 SM氏はまず、同じ対人状況でも「友達がいっぱい」というポジティブな評価と「でも、深い付き合いが無い」といったネガティブな評価があるという事例を出し、「いろんな私がぶつかる」というお話をされた。ハーマンスの研究には1999年に出会いがあったそうだ。

 話題提供は「青年期のアイデンティティ形成研究の紹介」であり、Erikisoのアイデンティティ研究、さらにBourne、Marcia、van Hoofらを引用して、中央集権的(一極集中的な)自己観、その地方分権化といったことについて概観された。但し、投稿中の論文に基づく話題提供ということだったので、ここではこれ以上詳しくは触れない。できれば、東洋的、特に日本人特有の自己観の系譜にも触れてほしかったというのが素朴な感想。




 話題提供の2番目は、著名な臨床心理学者のMM氏による「対話と声の回復」という話題提供であった。MM氏はまず、石川啄木の

●なほ若き我と老いたる我といて謡ふ声すいかがなだめむ

という歌を引用して、対話という視点についてお話された。さらに「バフチン」や「ポリフォニー」の話題が続いたが、このあたりは門外漢でよく分からなかった。発話が聞き手との間に成り立つというのはスキナーの言語行動の定義に似ているようにも思えた。

 このあと具体的な事例を2つ挙げられたが、クローズドな内容を含むと思われるのでここではこれ以上言及しない。

 余談だが、私なんぞは、人生50数年日本語を喋っていても、しょっちゅう言い間違えをする。しかし、もしMM氏からカウンセリングを受けることがあったら、ちょっとした言い間違えを針小棒大に取り上げられ、「この言い間違えは○○の反映だ」などと解釈されてしまいそう。いや、MM氏に限らずその道の専門家ならば、単なる言い間違えと、意味のある言い換えをちゃんと区別してくれるんだろうが...。

【思ったこと】
_61004(水)[心理]日本教育心理学会第48回総会(14)対話的自己論(4)


 話題提供の3番目は、RM氏による、

●『対話的自己』論の紹介

という内容であった。門外漢の私にとっては初めて耳にする言葉ばかりで、理解のほうがついていかれないところがあったが、最初の論点は

●「デカルトの一極集中化された自我」に対して、Hermansは「自己は分権化されており、多声性として機能している」と主張。

というところにあったようだ。Bakhtinのポリフォニー小説の特徴として挙げられた中の「意識はデカルトのようにそれ自体存在するものではなく(自己充足的なものでなく)、常に他の意識との密な関係性のうちに自身を見出すもの」というのは、意識を言語行動の一形態と考える別の立場からも同意できるものであろう。

 このほか、お話の中で印象に残った点としては
  • 自己における様々な「私」→それぞれがポジションに置き換えられる
  • Iポジションとは 自己対面法→単に向き合うのではなく、差し迫った、たたかいをしている
  • Hermansの自己調査:自己物語を意味単位で区切ってカードに要約。バリュエーションのカード1つ1つに対して16の感情用語で6段階評定→自己調査2→閉鎖性ポジションの有意味化。開放性ポジションの意味の減少。3番目のポジションとしてのSelfの統合的な特質。
などなど。自己調査のステップはなかなか興味深い内容であったが、うーむどうかなあ、もっと外界との関わりを重視した行動論的なアプローチも可能ではないかという気もする。




 話題提供の後には、YM氏とTA氏から指定討論があった。

 このうちYM氏は、
  1. Objectに向かう能動的実践
  2. 多声的な活動のシステム
  3. 歴史性
  4. 変化・発達をもたらすテンション、矛盾
  5. 活動システムの質的な転換、拡張
という5点を挙げて、各話題提供者に質問された。

 質疑の中で特に印象に残ったのは
  • 「I」と「me」のontologyは?
  • 北海道庁と国土交通省北海道開発局
などなど。素朴な感想としては、前回までにも述べたように、西洋の自己観ではない、日本人独自の「自己」論にもっと触れて欲しかったということ、それと、「自己」概念を前提として持っていないような私の立場から言えば、中央集権であれ地方分権であれ、とにかく、何かに君臨したり指令を与えたりするような内的存在をなぜ仮定する必要があるのか?ということから議論を出発してもらわないと議論について行かれないというところがあった。

【思ったこと】
_61005(木)[心理]日本教育心理学会第48回総会(12)対話的自己論(5)「同じ」とは何か?


 指定討論の2番目に登場された社会学者TA氏は、
  1. 対話しているのは誰か?
  2. メタポジションはいかにしてメタでありうるか
  3. なぜ我々は多元的自己に惹かれていくのか
というように質問の論点を整理された(もう1点あったが、私のメモが判読不能のため省略)。

 あくまで私が理解した範囲での議論になるが、ポジションの変化とか移動とか言う時には、何が同じなのかを明確にしておく必要がある。見方次第では、対話的自己論も一元論的な自己論に陥ってしまうということが第一の論点。また3.はTA氏が御著書の中でも繰り返し論じておられる論点であった。




 第一の論点に関して、TA氏は、登壇者に配布されているミネラルウォーターのボトルを手に持って、このボトルがここからここまで動かされるのは「移動」。しかし、それが別の物に変わってしまった場合は移動とは言わないと論じられた。

 これは私にとっては大変示唆に富む御指摘であった。我々は日頃、「同じ」とか「違う」という言葉を当たり前のように使っているが、自己論やアイデンティティを議論する際には、もう一度このことについて意思統一をはかっておいたほうが良さそうだ。SM氏の話題提供の中でも“アイデンティティそれ自体は「同一」という意味しか持たない。主体も客体も無い”というようなことが言われていたが、さらに遡って「同一とは何か?」についても考えてみる必要がありそうだ。

 私自身は、「同じ」というのは事物の「本質」ではなく、あくまで、人間がニーズに合わせてこしらえた概念であると考えている。要するに
  1. 区別する必要が無いこと
  2. 連続していること
という2点のうちの、いずれかもしくは両方を満たした場合に「同じ」と判断するのである。

 では、「同じ」は全くの主観的判断、あるいは価値観によって変わるモノかと言われれば、それはまた違うと思う。判定基準そのものは客観的であり、いったんその基準を受け入れた後では、「同じか違うかは主観の問題だ」というような主張は成り立たなくなる。

 例えば、財布から2枚の10円玉を取り出して、これは同じか?と議論したとしよう。しかし、この時点では判定基準も定まっておらず結論は出せない。つまり
  • 「貨幣として使用する」というニーズのもとで、「同じ」かどうか
  • 「希少価値のあるコインを集める」というニーズのもとで、「同じ」かどうか
というように、ニーズが異なれば判定基準も異なってくるわけだ。

 2.に関して言えば、連続して存在し続けるモノは、たとえ形や中味が変化していても、「同じ」と判断される場合がある。1匹のイモムシがサナギ、蝶というように変化しても、それは同じ個体として扱われる。余談だが、マジックというのは、常識的な連続性を覆す度合いが大きいほど拍手喝采を浴びる。




 三省堂『新明解』では「同じ」は
二つ(以上)のものについて、比較しようとする問題の点に関して少しの違いも認められず、別のものだととらえる必要(理由)が無いと判断される様子だ。
と定義されている。この「別のものだととらえる必要(理由)が無い」というくだりは、上記の「ニーズ」ということと同様であり、大いに納得できる。

 もっとも、『新明解』では、定義上、2つ以上のモノが無ければ「同じ」とは判断できないことになる。しかし、まずは1つ1つのものが安定的に存在し、1つのモノは一定期間以上「同じ」であり続けるという前提が必要である。

 1つのモノだけについて議論する時には「同じ」ではなく「同一性」という言葉が使われることになるんだろうが、これはこれでややこしい。

 ということで完全に脱線してしまったが、このシンポについての感想は以上を持って終わりにしたい。

【思ったこと】
_61006(金)[心理]日本教育心理学会第48回総会(16)確かな学びを創りたい

 9月16日〜18日に行われた日本教育心理学会総会の感想の最終回。学会年次大会や各種セミナーに参加した時は原則として2週間以内に感想をまとめることにしているのだが、今回は3週間近くが経過してしまった。これだけ日数が経つと記憶も印象も薄れ、メモした内容さえ何のことだったか思い出せない部分が増えてくる。ということもあり、感想を述べるのは今回をもって最終回としたい。

 さて、総会最終日9月18日午後には

●確かな学びを創りたい 〜教育実践への3つのアプローチ

というシンポが開催された。このシンポに参加しようと思った理由の1つは、話題提供者のお一人にCK氏のお名前があったためである。CK氏は、かつてWeb日記を毎日執筆され、日記才人で更新報告をされていた。最近お名前をお見かけしなくなったのでそのことを直接お尋ねしたところ、いまはmixi系に移行しておられるとか。うーむ、私なんぞは、その手のものには全く関心が向かないなあ。




 シンポではまず企画者のTA氏から企画趣旨説明があった。TA氏は
  • 認知発達研究が成果をあげているにもかかわらず、なぜ基礎学力低下が指摘され続けているのか?
  • 教育学部系の心理学の教員は「教科」が無い。
  • 最近は質的研究が話題になっているが、量的研究とそんなに違うものか。ピアジェは、質→量→モデル化というプロセスを重視していたが,,,。
というような問題提起をされた。このうちの「基礎学力低下」の問題だが、うーむ、どうかなあ。そもそも、児童・生徒の全生活時間の中で、学校教育はどれほどのウェイトを占めているのだろうか。学校教育に依存しない部分が多ければ多いほど、改善の成果は反映しにくく、建前だけの「確かな学び論」に終わってしまいそうな気もするのだが...。




 続いて、HT氏、KA氏、CT氏から話題提供、さらにTT氏とTK氏から指定討論が行われた。これらの中には、年間、かなりの時間を教室あるいは現場の先生との交流を重視しておられる方もあった。やはり、教育心理学では実践が大切ということか。

 ちなみに、指定討論者のお一人によれば、今回登場された方々は「児童・生徒 規範的 限定的」と、「教師 対話的 拡散的」という2つの直交軸でプロットすると、それぞれのお立場の違いが明快になってくるという。このうち、KA氏は「児童・生徒 規範的 限定的」軸では低位、「教師 対話的 拡散的」軸では高位であるが、低位のエリアもある。また、CT氏は「児童・生徒 規範的 限定的」軸は高位、「教師 対話的 拡散的」軸では中位に分類されていた。もっともCT氏の話題提供内容はもっぱら、大学教育や成人の生涯学習に関するものであった。

 KA氏は質的心理学の大家として知られているが、今回の話題提供では、「あれ? どこが質的?」というような内容が多かった。事後の討論の中で伺ったところによれば、学校教育現場で新しい取組がどう活かされるかには、校長の意向が大きくモノを言う。せっかく経験を積み重ねても、校長が交代すると打ち切られてしまう場合もあるらしい。いずれにしても、指導要領のもとで行われる教育である以上、新しい工夫といってもそれなりの限界があるのだろう。

 CK氏は教育工学の研究者としても知られている。CK氏によれば、教育工学とは「誰がやっても70点の授業ができるような方法を開発すること」にあるとか。もっともこの定義には、他の登壇者から異論も出ていたようだった。

 CK氏は、本邦初公開という斬新なモデルを披露された。CK氏によれば、(少なくとも大学教育においては)どういうメディアを使うとか、細かい教授法の改善のようなものはあまり重要ではない。大福帳(岡大では「シャトルカード」と呼んでいる、教育・受講生の交換日記風の双方向記載カード)なども、教育と学生のコミュニケーションが大事なのではなく、「この先生は学生の声を聴きたがっている」という姿勢を学生に示せるかどうかがカギになるとのことであった。CK氏の最近のご活躍ぶりはこちらに公開されている。

 ということで、日本教育心理学会第48回総会の感想の連載はこれをもって終了。私はこの学会の会員ではないが、今回の各種シンポには興味をひかれる内容が多かった、どこぞのシンポで「教育心理学は不毛である」と言われていたが、最近はずいぶんと新しい取組がなされていることが分かった。日程に都合がつけば、来年以降も臨時会員として参加してみたいと思う。