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日本行動分析学会第23回年次大会

(2005.7.29.〜7.31. 水戸市・常磐大学)

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目次
  1. (1)“罰なき社会”の探求(1)
  2. (2)“罰なき社会”の探求(2)懲らしめと素朴心理学
  3. (3)“罰なき社会”の探求(3)矯正処遇や社会内処遇の充実・強化(1)
  4. (4)“罰なき社会”の探求(4)矯正処遇や社会内処遇の充実・強化(2)
  5. (5)“罰なき社会”の探求(5)罰なき少年院・刑務所と罰なき社会
  6. (6)組織行動管理(Organizational Behavior Management)に期待されること


【思ったこと】
_50731(日)[心理]行動分析学会水戸大会(1)“罰なき社会”の探求(1)

 7月29日から31日まで水戸市の常磐大学で開催された日本行動分析学会第23回年次大会に出席した。この学会の年次大会にはほぼ毎年参加しているが、年を追うごとに規模が大きくなり、また若手の参加者の比率が多い。今後も発展が見込まれるものと思う。

 本日は、記憶の新しいうちに、3日目に行われた大会実行委員会企画シンポジウム:

司法において心理学に期待されるもの、「罰なき社会」の探求(What is expected of science of behavior in judicial field, search for a non-punitive society.)

について感想を述べることにしたい。話題提供者と指定討論者は以下の通り(敬称略)
  • 企画・司会:伊田政司(常磐大学)
  • 話題提供:向井義(広島少年院)
  • 話題提供:岡田和也(法務省保護局)
  • 話題提供:佐藤方哉(帝京大学)
  • 指定討論:小柳武(宇都宮少年鑑別所・常磐大学被害者学研究科講師)
  • 指定討論:渡部真理(ニューヨーク市立大学)
 今回の開催校である常磐大学は、常磐大学国際被害者学研究所を設置している。この種の研究教育機関は全国でもたいへん珍しい。今回のテーマは加害者側の諸問題(少年非行の量的・質的変化、更生保護のあり方、再犯防止、医療観察制度...)が話題の中心であったが、現場のトップの方々を招くことができたのは、被害者学研究を中心とした日頃の実績があればこそ。今後のご発展に期待したい。

 さて、今回のテーマに含まれている「罰なき社会」というのは、1979年、スキナーが来日した際、慶應義塾大学で名誉博士授与記念講演として行われた

●Skinner, B. F. (1979). The non-punitive society. Commemorative lecture, Keio University, September 25. [「罰なき社会」という佐藤方哉氏の邦訳付きで『三田評論』8・9月合併号に掲載され、『行動分析学研究』1990年第5巻、87-106.に転載]

に由来している。話題提供の中で佐藤方哉氏も言及しておられたが、スキナーの晩年の根本思想は、上記の慶應大学における講演と、日本心理学会における招待講演の中で初めて披露された。佐藤氏はこのほか、今回のテーマに関連する文献として、
  • Skinner, B. F. (1948). Walden Two.. New York: NY, Macmillan.
  • Skinner, B. F. (1971). Beyond freedom and dignity.New York:NY,Knopf.
  • Skinner, B. F. (1981). Selection by consequences. Science, 213, 501-504.
  • Skinner, B. F. (1986). What is wrong with daily life in the western world? American Psychologist, 41, 568-574.
を挙げておられた。

 もっとも、佐藤氏が紹介された「スキナー語録」は、スキナーのユートピア思想と、人類が理想とすべき方向を指し示すものであった。いっぽう、少年院における処遇や更生保護に関する話題は、「罰的」統制だけではダメで別の方策を併用していかなけれならない、というかなり現実的な内容であった。内容的に関連性があるとは言え、その間にかなりの隔たりがあったことは否めない。

 個人的な感想として、スキナーが理想とした、「罰的統制を無くし、能動がポジティブに強化される社会」というのは、100人規模のコミュニティ、例えば、地域社会、学校教育、高齢者福祉施設などでは大いに実現できると思う。しかし、同じ原理を何万人、何十万人、何百万、何千万、...という都市や国家レベルに適用することは、現実には非常に難しい。というか、理論的には正しいとしても、コストがかかりすぎるのである。

 もし世の中が善良な市民だけから構成されているのであれば、防犯やセキュリティに費やすコストは今より遙かに少なくて済む。もちろん、交通整理をしたり、不注意な事故を処理するための警察は必要かと思うが、犯罪捜査、刑事裁判、刑務所などは全く不要。そういうところでは、スキナーが理想とした社会に近づけることは可能であろう。現に、人口100人規模の山村や、高齢者施設内部ではそういう社会を作り上げることにある程度成功している。

 しかし、人口何万人もの都市型社会の中では、便利さの追求とセキュリティ対策はしばしば拮抗する。便利なシステムを作れば作るほど、一握りの犯罪者の悪意ある行為に対しては脆弱となる。そういう意味では、理想社会としての「罰なき社会」と、現実場面で犯罪を抑止するためのシステム作りを一貫させる必要は必ずしも無いと思う。次回に続く。
【思ったこと】
_50801(月)[心理]行動分析学会水戸大会(2)“罰なき社会”の探求(2)懲らしめと素朴心理学


司法において心理学に期待されるもの、「罰なき社会」の探求(What is expected of science of behavior in judicial field, search for a non-punitive society.)

について感想を述べることにしたい。

 さて、前回執筆分とは時間が前後するが、シンポの冒頭では森山哲美・大会実行委員長の挨拶に引き続き、伊田氏による企画趣旨説明があった。

 伊田氏はまず、法のシステムというのは、「素朴心理学」ないし「素朴行動学」に根ざしているということを指摘された。また、法と心理学に関しては最近

●村井敏邦編 (2005).刑事司法と心理学 法と心理学の新たな地平線を求めて.日本評論社.ISBN 4535514682

という書籍が刊行された。このほか、法と心理学会というのも設立されており、今年の10月には立命館大学で第6回大会が開催される予定となっている。

 伊田氏によれば、行動分析学が刑事司法との関わりで貢献してきた領域としては
  • 矯正教育
  • 薬物濫用防止
  • 環境犯罪学
が挙げられる。もっとも、今回の話題提供の中でも言明されたことでもあるが、少年院における処遇や退院(出所)後の社会内処遇においては、特定学問分野の研究成果が応用されているわけではない。大部分は、少年院教官や保護観察官、保護司らの経験に依るところが大きいものと思われる。

 伊田氏の企画趣旨説明の中ではもう1つ、江戸時代の人足寄場の話が面白かった。

●滝川政次郎 (1994).長谷川平蔵:その生涯と人足寄場.中公文庫.ISBN 4122021170.【但し、現在は品切れ。朝日選書からの同一タイトルの本も品切れ。】

によれば、1790年頃の人足寄場では、
  • 心学講話
  • 労働量に応じた賃金
  • 更正期のレベルに応じた、異なるデザインの囚人服
  • 社会復帰への準備プログラム
など、罰的統制以外の方法による更正手段が多様に用意されていたという。長谷川平蔵については資料が少なく、伝聞やフィクションもかなり紛れ込んでいるのではないかと推測されるが、とにかく、スキナーの主張よりずっと以前、スキナーの発想に近い更正プログラムが実践されていたというのは驚くべきことだ。




 さて、昨日も述べたが、スキナーの言う「罰なき社会」は、国家レベルでの社会設計、もしくは、現実社会から隔離されたユートピアの中での集団生活の理想像に関わるものであった。いっぽう、伊田氏の御指摘にもあるように、刑事司法は、学問として法体系がいかに研究され整備されようとも、その根源は素朴心理学に根ざしている。

 例えば、ある者が犯罪を犯した場合、その者は何らかの形で懲らしめられなければならない。懲らしめることが再犯防止に有効かどうか実証されていなかったとしても、被害者の素朴な心情として、無罪放免というわけにはいくまい。特に殺人事件の場合、かつては被害者遺族による仇討ちが認められていた時代があった。赤穂義士の仇討ちは、テロ行為ではなく美談として語り継がれていることからも分かるように、国家は、個人に代わって、被害者の無念を晴らすという役割を演じなければならず、これは、実証や有効性とは別次元で議論されなければならない問題である。

 もう1つ、社会の安全を脅かす者は、その社会から隔離されなければならない。要するに、禁固刑や懲役刑というのは、社会が安全を保つためには最も有効な方法である。服役者の更正に有効であろうとなかろうと、とにかく、その人物が隔離されている限りにおいては、その社会内部で犯罪が再発する恐れは無い。かつての「島流し」も同じ発想であった。また、現在でも、外国人が犯罪を犯した場合には母国に強制送還することがありうる。外国人の犯罪者を更正させても国家としてはコストがかかるばかりで何の益も無い。とにかく二度と入国させなければその国の社会的安全は確保されるのである。

 というようなことを考えるとやはり、スキナーの「罰なき社会」原理を刑事司法に持ち込むことには原理的も現実的にも無理があるように思われる。今回のシンポでは、むしろ、刑務所と異なる目的を有する少年院において、罰的統制以外の手段、特に、「望ましい行動を強化する」という手段がどういう面で有効性を発揮するのかを具体的に検討すべきであった。佐藤方哉先生のせっかくの「スキナー語録」は、高齢者の生きがいや、産業労働における働きがいを検討するようなシンポで紹介されたほうがインパクトが大きかったように思えた。

【思ったこと】
_50803(水)[心理]行動分析学会水戸大会(3)“罰なき社会”の探求(3)矯正処遇や社会内処遇の充実・強化(1)

司法において心理学に期待されるもの、「罰なき社会」の探求(What is expected of science of behavior in judicial field, search for a non-punitive society.)

について、引き続いて感想を述べることにしたい。

 今回のシンポでは、
  • 向井義氏(広島少年院)
  • 岡田和也氏(法務省保護局)
という現場のトップの方々から話題提供をいただくという貴重な機会でもあった。

 さて、一口に少年非行といっても、それぞれの時代の背景によって内容は大きく変化していく。向井氏の話題提供によれば、戦後の非行は、「生存型非行」(戦後の貧しい時期)、「遊び型非行」(昭和30〜45年頃)、「非社会型非行」(昭和40年〜昭和末期頃)、「いきなり型非行」(平成以降)というように特徴づけられる。また少年院新入院者の人員は、その時々の政治経済的背景や教育政策によって大きく変動する。戦後は男女総数で1万人を超えていた時もあったがその後減少傾向をたどり、福祉元年と言われる昭和48年には2000人台の最少値を迎える。但しこれは、非行が減ったためではなく、なるべく少年院に入院させずに更正させるという方針があったためらしい。その後昭和60年頃に総数6000人程度のピーク、平成に入っていったん4000人前後に減少したものの、平成15年には総数5823人(男子5283、女子540)となって昭和60年と同レベルのピークを迎えようとしている現状のようだ。

 いつの世でも世間の耳目を集める凶悪犯罪は起こりうるものであると思うが、最近は、奈良県女児誘拐殺人事件(元受刑者)、安城市スーパー乳幼児刺殺事件(仮出獄中)、足立区少女監禁事件(保護観察付執行猶予中)というように、更生保護が不十分であったための再犯事件が続発している点で特徴的であるとも言える。岡田和也氏の話題提供では、性犯罪者に関する多角的な調査研究や、矯正処遇や社会内処遇の充実・強化、犯罪者更正のための支援体制強化、出所後の所在情報等の取り扱い、などが緊急的対策として打ち出されるようになった(法務省、平成17.2.22)が紹介された。

 社会内処遇において重要な任務を遂行しているのが保護観察官であるが、その定員は地方更正保護委員会119名、保護観察所997名(うちケースワーカー約630名、いずれも長谷川のメモによるため不確か)ときわめて少ない。そこで、その任務を補うために保護司が任命されている。こちらは全国で52500名にも及ぶという。もっとも、私自身の2004年5月10日の日記にも記されているように、「定年制」導入暫定期間終了により、なかなかなり手が居ない現状となっているようである。

 今後の新たな施策としては、「心神喪失者等医療観察制度」、「被害者支援」、「覚せい剤簡易尿検査(継続)」、「性犯罪再犯防止プログラム(新規)」、「就労支援プログラム(新規)」などが検討されているようだ。




 さて、前回も述べたように、少年院や刑務所というのは、
  • ある者が犯罪を犯した場合、その者は何らかの形で懲らしめられなければならない
  • 社会の安全を脅かす者は、その社会から隔離されなければならない
という素朴心理学的発想のもとで設置されているように思われる。少年院の場合は更正目的の度合いが強いと言われるが、そうは言っても、社会復帰目的の福祉施設とは異なる。少年院に収容させない方法のほうがすぐれた更正手段であると仮に実証されたとしても、非行や犯罪に対してはやはり、被害者関係者や一般社会を納得させる程度の懲らしめと隔離は必要であろう。となると、「罰無き社会」原理の適用も
  1. 入院者や受刑者は一定期間収容されるということを前提とした上で、収容された環境の中で「罰無き社会」的行動管理の方策をさぐる。
  2. 少年院入院者、あるいは死刑囚以外の受刑者はいずれ社会に復帰させなければならない。本人のためにも、社会全体の安全確保のためにも、最適の更正方法を検討、実施していく必要がある。その際に「罰無き社会」的行動管理は、どういう面で有効性を発揮するか。
という2点から検討していく必要があると思う。

【思ったこと】
_50804(木)[心理]行動分析学会水戸大会(4)“罰なき社会”の探求(4)矯正処遇や社会内処遇の充実・強化(2)

司法において心理学に期待されるもの、「罰なき社会」の探求(What is expected of science of behavior in judicial field, search for a non-punitive society.)

の感想の続き。

 前回までに述べたように、私は、多数の善良市民と少数の悪人が混在する一般社会の中で、スキナーが提唱した「罰無き社会」原理を一律・無条件に適用することは、原理的にも実用的にも不可能であると考えている。犯罪や非行を犯した者は、社会全体の安全確保、および被害者関係者の心情への配慮という点から、一定期間はどうしても隔離することが必要である。また、刑務所や少年院は、ある程度は、懲らしめの場であり、二度と入りたくないという嫌悪的な環境にしておく必要もあると思う。もし、刑務所や少年院が一般社会より住み心地のよい場所であったとしたら、そこに戻るために犯罪・非行を犯すという行動は強化されてしまうことになる。これでは本末転倒である。

 ということで、刑務所や少年院における「罰無き社会」原理の適用は、
  1. 入院者や受刑者は一定期間収容されるということを前提とした上で、収容された環境の中で「罰無き社会」的行動管理の方策をさぐる。
  2. 少年院入院者、あるいは死刑囚以外の受刑者はいずれ社会に復帰させなければならない。本人のためにも、社会全体の安全確保のためにも、最適の更正方法を検討、実施していく必要がある。その際に「罰無き社会」的行動管理は、どういう面で有効性を発揮するか。
という2点から検討していく必要がある、というのが私の見解である。
 このうち、1.に関しては昨今、収容定員をオーバーするほどの過密収容状態になっているとの話を聞いた。そうなると、受刑者や入院者間でも、いろいろなトラブルが起こりやすくなる。また、罰的統制だけでは限界があるということも話題提供の中で繰り返し指摘された。

 いっぽう2.は、本人自身の将来のためにも、再犯防止のためにも、ぜひとも必要な処遇ということになる。これは出所後の社会復帰のプロセスにおいても重要となる。




 ところで、今回の話題提供の中でも紹介されたが、少年院法で認められている懲戒は、以下の3点に限られているそうだ。
第8条 少年院の長は、紀律に違反した在院者に対して、左に掲げる範囲に限り、懲戒を行うことができる。
1.厳重な訓戒を加えること。
2.成績に対して通常与える点数より減じた点数を与えること。
3.20日を超えない期間、衛生的な単独室で謹慎させること。

2 懲戒は、本人の心身の状況に注意して、これを行わなければならない。

 このうち、「2.」の減点というのは、行動分析で言えば「好子消失」にあたる。このことによって問題行動を弱化させるためには、「点数の蓄積」になるべく大きな価値を付与する必要がある。合わせて、望まし行動が遂行されている時に「点数」がプラスされていくような「正の強化」システムを充実させる必要があるだろう。

 「3.」の「20日を超えない期間、衛生的な単独室で謹慎させること。」というのが、少年院で認められた唯一の「罰」ということになるかと思うが、これは現実にどの程度効果を発揮しているのだろうか。孤独を楽しむことの好きな私などは、万が一にも刑務所に入ることがあったら、雑居房で煩わしい生活を送るよりは、独房で日記でも書いていたほうがよっぽど気楽でよいという気がするのだが...。
 なお、このことに関連しては、以前、「ストレスが多いのでわざわざトラブルを起こして独居房に入りたがる」受刑者が居るという話題をテレビで取り上げていたことがあった。いっぽう、

●NHKスペシャル2005年5月8日放送の少年院〜教官と少年たちの現場〜

では、「謹慎」による処遇の成果が具体的に紹介されていたように思う。

 今回の話題提供では、「自分はなぜ謹慎になるのか」、「他者と比べて公平な謹慎期間となっているのか」を十分に納得させる必要があるという点が指摘された。原因の帰属を明確にしておかないと、「自分だけ不当に罰せられている」といった反発につながるそうだ。

【思ったこと】
_50807(日)[心理]行動分析学会水戸大会(5)“罰なき社会”の探求(5)罰なき少年院・刑務所と罰なき社会

 日本行動分析学会第23回年次大会3日目の大会実行委員会企画シンポジウム:

司法において心理学に期待されるもの、「罰なき社会」の探求(What is expected of science of behavior in judicial field, search for a non-punitive society.)

の感想の続き。シンポでは、向井義氏(広島少年院)と岡田和也(法務省保護局)氏の話題提供に引き続き、佐藤方哉氏(帝京大学)からこのテーマに関係する「スキナー語録」が紹介された。その際の出典リストのメモが7月31日の日記にあるので合わせてご参照いただきたい。




 前回述べたように、私自身は、「罰無き社会」原理の適用は
  1. 少年院入院者や受刑者は一定期間収容されるということを前提とした上で、収容された環境の中で「罰無き社会」的行動管理の方策をさぐる。
  2. 少年院入院者、あるいは死刑囚以外の受刑者はいずれ社会に復帰させなければならない。本人のためにも、社会全体の安全確保のためにも、最適の更正方法を検討、実施していく必要がある。その際に「罰無き社会」的行動管理は、どういう面で有効性を発揮するか。
という2点において活用されるべきであると考えている。

 もし、刑務所というのが純粋に「懲らしめ」を目的にするのであれば、最も有効な手段は、オペラント行動を自発し強化される権利のすべてを囚人から奪い取ることである。捕虜収容所や、独裁国家の政治犯収容所などで、
  • 一日中、壁に向かって正座させる。動いたら暴行。
  • 一日中、地面にうつぶせのまま横たわらせる。動いたら暴行。
といった虐待が行われていたといった話を実際に聞いたことがある。収容者たちには食事は十分に与えられ、衛生状態も悪くない。重労働を課せられることもない。にもかかわらず、こういう措置が虐待と見なされるのは何故だろうか。それは、まさに、スキナーが言うように、「行動して、結果として強化される」という人類最高の権利が奪われているからに他ならない。




 ということもあり、少年院や刑務所では、問題行動を禁止する(=罰的に弱化する)ばかりでなく、望ましい行動を積極的に強化していくプログラムが必要となる。これもまた、スキナーの「罰なき社会」で強調されていた点である。具体的には、作業の量と質に応じて結果が伴うという「正の強化」の随伴性を多様に配置する工夫、また、種々の作業が、まずは褒められるという付加的好子で強化され、じきに自然の随伴性(工芸品の完成、目標の達成、集団への貢献など)で強化されるように橋渡しをするプログラムを充実させる工夫が求められる。また、社会復帰の直前には、所内における随伴性環境をできる限り現実社会に近づける工夫も必要となる。でないと、所内でせっかく形成された望ましい行動が、現実社会に般化しなくなってしまう。

 なお、佐藤氏の話題提供については、幸福や生きがいと関連づけて別の機会に論じる予定である。



 話題提供後の討論では
  • 少年非行・犯罪の第4のピークは、移動範囲の広域化、通信網の拡大という点に特徴がある。また、ゲーム世代とも言われる。第3ピークの時は、スリルそのものを味わうための万引きというのもあったが、第4ピークでは、いろんな意味で金目的が増えてきた。
  • 懲戒権の行使は信頼感が無いとダメ。懲戒権が公平かつ公正に実施されていることを理解させる必要がある。
  • 懲戒権だけでは限界がある。褒めることが無いとダメ。褒められるとあまり反則しなくなる。
  • 入所者の人格否定はしない。あくまで問題行動だけを修正する。
  • 出所後5年以上再犯の無い者について調査したところ、その理由は、家族関係の充実(結婚、子育てなど)、転職はあっても何らかの定職を継続していること、などにあった。社会内処遇の充実は重要。
  • 「罰なき社会」について、スキナー自身は、1979年来日時には楽観的な見方を持っていた。しかし1980年代以降は次第に悲観的となり「もはや手遅れ」というような感想を漏らしていたとか。
  • 「罰なき社会」を論じるにあたっては、行動の原理としての罰(通常は、嫌子出現による弱化、嫌子消失による強化、好子消失による弱化、嫌子出現阻止による強化、好子消失阻止による強化)という事実についての議論と、それをコントロールの手段として用いることの是非についての議論は区別しておく必要がある。
といった指摘がなされた。

【思ったこと】
_50808(月)[心理]行動分析学会水戸大会(6)組織行動管理(Organizational Behavior Management)に期待されること


 前回までの連載とは、開催日の日時が前後するが、29日午後には、

  • なぜ行動分析は教育実践に大きな影響を与えなかったか? 教育界による応用行動分析の大規模採択を促すもの阻むもの
    Why Hasn’t Behavior Analysis Had a Bigger Impact on Classroom Practice? Some Thoughts on Reasons For and Against the Widespread Adoption of Applied Behavior Analysis in Education
  • 行動分析の科学をビジネスへの応用に翻訳する:良い面、悪い面、醜い面(Duckling)
    Translating the science of behavior analysis into business applications: the good, the bad, and the ugly (duckling)
という2つの自主公開講座が開催された。私は岡山からの移動の事情により、2番目の公開講座のみ参加することができた。

 この講座の講演者はダーネル・ラッタル(Darnell Lattal)氏。 Aubrey Daniels Internationalというコンサルタント会社のプレジデントをつとめておられる。というと、ジェンダーの影響で初老の男性を思い浮かべてしまいがちであるが、この方は、同じ大会で講演された、ウエストヴァージニア大学のケノン・A・ラッタル氏の奥様。なお、会場では英語版と日本語版のパワーポイント資料が配布され、また、この分野の研究で学位をとられた島宗理氏(鳴門教育大学)が通訳(兼解説者?)をつとめられたので、内容は十二分に理解できた。

 講演ではまず、企業はなぜ行動分析を必要とするのか?について意義づけが行われた。いくら人員を入れ替えても、また給与システムを変えても、「行動」に注目しない限りは改善は達成できない。また米国の雇用環境の特殊性から、出勤し働き続けるという行動をどう強化するか、合併や買収後の組織行動管理など、行動分析の活躍の場は日本企業以上に多いようにも見受けられた。もっとも、最近の日本でも事情は似ているかもしれないが。

 さて、このコンサルタント会社では、5つのステップモデルを使って持続可能な結果と行動の達成を目ざしている。その5つとは、Pinpoint(焦点化)、Measure(測定)、Feedback(フィードバック)、Reinforce(強化)、Evaluate(評価)である。これにより、行動を管理したり、望ましい結果を促進させる観察行動が自然にできるようになったり、強化の変動性や相互性について理解を深める。このモデルは大学改革の研修会などでしばしば口にされるPDCA(Plan→Do→Check→Action)マネジメントサイクルとも似ているように見えるが、Reinforce(強化)をしっかり入れているところがいかにも行動分析らしい。逆に言うと、PDCAでも、行動をちゃんと強化していくプロセスを導入していかないと、期待通りに事が進まない恐れもあると思う。もっとも、今回の5つのステップモデルに関しては具体例が不足しており、一般参加者にはいまいちインパクトが少なかったのではないかと危惧される。




 講演の中程で、

●成功の鍵は、任意の努力をみつけ伸ばしてゆくことにある(The key to success lies in finding and promoting discretionary effort.)

というフレーズがあった。「discretionary」には「任意に決定できる、任意の、自由裁量の、一任された」という意味があるが(ランダムハウス英語辞典)、行動分析学では聞き慣れない言葉であったので、質疑応答の際に、

●「discretionary」を行動分析の専門用語に翻訳するとどうなりますか?

という質問をぶつけてみた。しかし、あまり明解な解答はいただけなかった。翌日の懇親会の席で、ダーネル・ラッタル氏のほうからわざわざ私に話しかけて来られて、このことについて若干のディスカッションをしてみたが、うーむ、やはりうまい言葉が出てこなかった。基本的には、「マニュアル、あるいは上司から指図されたことだけを忠実に履行する」という行動には含まれない、自由裁量的な行動という意味になろうかとは思う。




 講演の終わりのほうでは、

●現在のマネジメントの80%は行動を管理するための先行条件に焦点をあてている。望ましい行動のためには結果条件を管理するように変えなければならない(REMEMBER---80% of current management focuses on antecedents to manage behavior. CHANGE must be toward managing consequences for desired behavior.)

という言葉が印象に残った。大学教育改革でも、集団や個人の行動改善でもそうだと思うが、「こうしましょう」「こうしなければならない」という言語的教示だけでは限界がある。行動が起こった時に結果を付与するシステムを構築していかなければうまくいくはずがない。

 講演の最後のほうでは、経営者を納得させるためには、行動分析の科学を維持ししつつ、ビジネス界の言葉を話すということの大切さも強調された。というか、こういうコンサルタント会社の使命自体が、行動の科学をビジネス界で理解される言葉に翻訳するという役割を果たそうとしているようにも見える。翻訳をすることの大切さは、教育界や医療現場にもあてはまると思った。

 なお今回紹介されたコンサルタント会社のホームページはこちらにある。ダーネル・ラッタル氏の紹介もこちらにあった。