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日本質的心理学会第1回大会


2004年9月11日(土)9:10〜19:00
場所:京都大学文学部、百周年時計台記念館



目次
  1. (1)グラウンデッド・セオリー
  2. (2)KJ法創始者からナマのお言葉をいただく
  3. (3)質的心理学プラスアルファの問題
  4. (4)行為論/論理実証主義
  5. (5)工学と質的心理学の弁証法
  6. (6)まとめ


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【思ったこと】
_40911(土)[心理]日本質的心理学会第1回大会(1)グラウンデッド・セオリー

 京都大学で行われた日本質的心理学会第1回大会に参加した。質的心理学に関する学会としては、最近では、3月下旬に行われた日本発達心理学会のシンポ(3月23日の日記及び、その翌日の日記参照)に参加したことがあった。今回の第1回大会はその時にも予告されていたもので、日本における質的心理学研究は、これで、歴史に残る第一歩を踏み出したことになる。

 ちなみに私自身は、過去において質的心理学の方法で研究を行ったことは一度も無いし、今後も自らの手でそういうことは行う予定は無い。但し、最近、私の大学では「質的研究」らしき方法で卒論や修論を書く学生が増えており、少なくとも、成績評価を適正に行う必要上、そのロジックをある程度知っておかなければならない立場にある。なお、私がこれまでに知っていたのは、概論書やシンポで耳学問程度に得た知識をこちらにまとめた程度のことである。今回の大会でどこまでその内容を「更新」できるか、大きな期待を込めて参加した。




 午前中は、「質的研究の方法論〜KJ法とグラウンデッド・セオリー〜」という大会シンポから始まった。上にも写真を載せたように、この大会には、当日参加希望者が予約参加者の4倍近く押し寄せ、受付の教育学部前には、開会予定時刻になっても長蛇の列が続き、サトウタツヤ氏があたふたと交通整理をしていた。

 とうぜん、会場(文学部第三講義室)にも人が入りきれず立ち見を余儀なくされた人たちも多数あった(私自身は、何とか窓枠に腰掛けて拝聴できた)。予想以上の大盛況はまことに結構だと思うが、これってけっきょく、質的心理学者は(参加者数についての)量的予測ができないという証明になるのではないかと、ちょっと皮肉ってみたくなる。

 さて、シンポでは、やまだようこ氏による企画主旨説明に続いて、まず、グラウンデッドセオリー(Grouded theory、以下「GT」と略す)の紹介者でもありStrauss氏の弟子でもある水野節夫氏と戈木クレイグヒル滋子氏が、GTの現状や、実践例について紹介された。

 このうち水野氏の話題提供は、「GTの分析的ポテンシャル」はどういうところにあるのかという内容であったが、私自身が勉強不足のこともあって、率直なところあまり理解できなかった。唯一理解できたのは、ひとくちにGTといってもいろいろな流れがあり、水野氏はそのうちのCM派(Case Mediated Approach)、いっぽう水野氏によれば、戈木クレイグヒル氏のほうは「GTオーソドックス派」であるということ。

 水野氏の話題提供の中では、GTに関する議論と批判に関して
  • GTは帰納的アプローチか?
  • GTは月並みなカテゴリーを生み出してしまうのではないか
  • Strauss氏らのコード化枠組みについての批判的論評
という3点を挙げられ、これについて、種々の文献を引用しながら見解を表明された。私にとってそれが分かりにくかったのは、多様な見解のうちどれだ妥当なのか、どういう手法を採り入れるべきであるのかについて、証拠らしきものがあまり提示されておらず、「ぼくの立場はこうだ」という立場紹介のような印象を受けたためではないかと思う。限られた時間の中ではやむを得ないかもしれない。

 このほか、今後、私自身も考えてみたいと思うキーワード(フレーズ)を列挙すると
  1. GTは瑣末な知識を作り出してくるという危険
  2. 部分情報から全体認識へといたる論理をどう考えるか
  3. 突然の全体認識としての“結晶化”認識
  4. 飛躍面=断絶面がアブダクションの契機
  5. 素材を潜り抜け、素材に晒され、素材からの刺激を受けながら、(その過程で)着目すべき概念群を見つけ出してくるという基本姿勢を大切にする
ということになる。現時点での私の理解では、このうちの5.は、「データをじっくり検討し、カテゴライズしましょう」という言葉を、わざと難しい言葉に置き換えただけの表現にしか見えない。具体的な分析・総合のプロセスが明示されないと(←各種著作ではすでに明示されているのだろうが)、何だか、精神主義(分析にあたっての心構えを精神主義的に表現しただけ)に終わってしまいそうな気がした。そうなると、数冊の入門書をかじった程度で、GT法に基づいて卒論や修論を書くというのは容易なことではなかろう。




 いっぽう、次の戈木クレイグヒル滋子氏の話題提供は、小児病院勤務の看護師の語りや、「家を建て替えよう」ということについてのいろいろな表明を具体例として、GT法の基本であるプロパティ(各概念がどんなものなのかを暴くための視点)とディメンション(それぞれのデータをPから見た時にどこに位置づけるか)に沿って分析、さらに、フリップフロップ(正反対の事例を考えてみる。例えば、全くストレスを受けない看護師の事例)の手法などについても言及された。

 話が具体的であった分、わかりやすかったが、今回の話題提供で知り得た限りで言えば、例えば「不全感の蓄積」というような表現は素朴概念の域を超えておらず、そこから問題解決の糸口が見いだせるものなのかどうかは確信が持てなかった。
【思ったこと】
_40912(日)[心理]日本質的心理学会第1回大会(2)KJ法創始者からナマのお言葉をいただく

 午前中開催の大会シンポの後半は、いよいよKJ法創始者の川喜田二郎氏のお出ましであった。

 やまだようこ氏の企画主旨(アブストラクト集13頁)にも書かれてあるように、KJ法はGTと同時期の1960年代に発表された方法論であるが、「技法」や「技術」として広く普及した一方、「学問の方法論として理論的、概念的に練り上げてアカデミックな場で議論されることは少なかった」という側面を持っていた。

 実際、私の教室の卒論や修論でも、「KJ法により分析した」などと書かれてあっても、その内容はマチマチ。インタビュー記録を紙片にまとめて自分一人で分類整理したという場合もあるし、3人でディスカッションして島を作る場合もある。また、昨年秋に別の大学のFD研修に参加した時にも「KJ法」が使われたが、この場合は、ミシン線の入った紙片にグループ内のメンバーが順に書き込むという形で、発想を引き出す手段として使われていた。

 そういう意味でも、KJ法の創始者である川喜田二郎氏からナマの声をお聞きし、種々の誤解を解消し、次世代の手で継承し発展させる意義は大きいと思われる。

[今日の写真]  さて、大きな拍手に迎えられて会場にお出ましになった川喜田氏は、84歳というご高齢にも関わらず(こちら参照)、しっかりした口調で、まず、「三大科学方法論の時代」という講演をされた(右の写真は、左から川喜田二郎氏、やまだようこ氏、戈木クレイグヒル滋子氏。右端は川喜田二郎氏の奥様で、補足説明をされているところ)。その概略は、
  • まず文字ができた(文字を最初に作ったのは、今のイラクに近いシュメール)。
  • それから書斎科学が長く続いた。
  • その後、実験科学が生まれできた。これは定量的分析が中心。
  • そして今、野外科学ができつつある。野外科学の仕事場は「どこでも」。定量的・分析的である必要はない。
  • 野外科学とともにKJ法を併用。
という内容であった(あくまで長谷川の聞き取った範囲。以下も同様)。そうして、この野外科学の研究は、分析よりも総合を重視し、現実生活に対して総合的視点から
  • おのれはなぜ生きがいを求めるのか(存在理由)。
  • 仲間同士で納得ができる。
  • 自分の行動に納得できる。
という点を明らかにしていくものである。




 川喜田二郎氏のお話はまだまだ続きそうな気配であったが、時間の関係で、後半は、やまだようこ氏の「翻訳」と「補足」のもとに「KJ法図解化の核心」という総合討論が行われた。

 このセッションで、これは大切だと感じたことが2つあった。

 1つは、KJ法というのは、要するに、問題解決のための方法であるということだ。質的心理学の研究は、しばしば、単なる「理解」や「解釈」、せいぜい「問題発見」や「仮説生成」に終わってしまうところがあるように見受けられるが、KJ法の核心は、問題解決まで指向しているという。このあたりはたぶん、企業研修などで、KJ法を学ぶ場合とGTを学ぶ場合の達成目標の違いに表れるのではないかと思うが、この方面の実態は知識が無いので何とも言えない。

 2つめ、これはきわめて重要だが、KJ法というのは「思い込みで現実をはめ込んでしまうことを避ける」ために考案された手法であるという点だ。

 ネパール山地の技術協力の場合でも、伯耆大山の山村でもそうだと思うが、何らかの必要があって、現場の声をなるべく多く、ありのままに聞き取る必要があったとしよう。この場合、最初から、思い込みがあって取材をしている人、あるいは、何らかの政治目的に利用しようと考えている人が取材しても、集められた声は都合の良いように取捨選択されたり、固定的な概念の枠でむりやり分類されてしまう恐れが大きい。そして、これを打破する唯一の方法がKJ法であるというわけだ。

 確かに、いくら客観的手法や効果測定が必要だと言っても、現場の限られた状況のもとでは「参加者への聞き取り」が唯一の方法ということだってありうる。その時に、思い込みを避ける最善の方法はKJ法ということになりそうだ。少なくとも私には代替の方法が思い浮かばない。

 川喜田氏自身のお言葉によれば、KJ法の過程で思い込みを避けるためには、あまり大きな「島」を作らないことが大切であるという。最初から大きくまとめようとするのは思い上がりであり、はめ込みに繋がる。概念的ではなく情念で集めるほうがよく、2〜3枚ずつ、慎ましく集めることが肝要。

 じっさい、本人が思いこんでいる限りは発見などあり得ない。この「慎ましさ」は大事であると思った。

 このほか、川喜田氏は、単にKJ法で図解化で終わるのではなく、それを文章化することの大切も強調された。図解化とは要するに一目で空間的にとらえることであり、文章化により時間的な系列化がはかれるのである。

 さらに、一匹狼(どの島にも属さないデータ)を残すことの大切さ、反対のものも集めることで「反対であることがわかれば合意でき」仲良しになれることの意義なども主張された。

 それからもう一点、これは、川喜田二郎氏の奥様の補足説明の中で強調されたことだが、KJ法というのは、本来はラウンド6まで行うことで真価を発揮するもの。ところが、ふつう、質的研究では、ラウンド2(現状把握ラウンド)までしか行われていない。KJ法の分類がすでに概念先行になっているのではないかという疑問が生じるのは、各ラウンドにより「心の転換」があることを知らないためではないかというようなご指摘であった。





 総合的討論の最後のほうではGT紹介者の水野節夫氏と戈木クレイグヒル滋子氏から質問が寄せられた。その中では、部分情報からおのずとabductionということはあり得ない、「いつの間にか飛ぶ」ということはどういうことなのかについて意見が交わされた。このあたりは、私自身も、KJ法とGT両方に関して大いに疑問に思っているところである。行動分析で前提とするような「行動随伴性」あるいは、種々のニーズ(研究への要請)ということなくして分類や概念化はありえないのではないか、いくら「虚心坦懐」などと言ったって、何の枠組みもなしに事物をとらえることなど不可能ではないかと、私自身は思っているのだが、このあたりの疑問は、今回の討論を拝聴しても解決しなかった。
【思ったこと】
_40913(月)[心理]日本質的心理学会第1回大会(3)質的心理学プラスアルファの問題

 午後1時20分から3時20分までは、3つのシンポジウムが併行開催された。
  • シンポジウム1:他者との出会い 教育のフィールド─出会いを記録する
    秋田喜代美・鯨岡峻・佐藤公治・箕浦康子
  • シンポジウム2 :質的研究はいかに『科学的』たりえるか?─医療・看護領域の研究に学ぶ
    斉藤清二・ 西村ユミ・香川秀太・川野健治・松嶋秀明・西條剛央・荒川歩
  • シンポジウム3 :記念日と記念碑
    寺田匡宏・今井信雄・渥美公秀・矢守克也
 私はこのうち、シンポ1に参加した。

 シンポではまず、鯨岡氏の「子どもの発達を表す」という話題提供が行われた。鯨岡氏はまず、ご自分の学生時代を振り返り、当時、京大文学部の園原太郎教授の客観主義的な発達心理学に疑問を持たれたことに言及され、現象学的精神とともに、「素朴にいきいきと」、「からだに感じてくるものを排除せず」、「事象をあるがままに」という姿勢で子どもたちに接することの大切さを説かれた。

 鯨岡氏の視点に基づく「質的」あるいは「現場(フィールド)」の定義づけは、「質的心理学者」の多くが受け入れている前提とはかなり違ったもの、というか、かなりの「プラスアルファ」を要求することになる。さらにまた、研究者倫理においても、インフォームド・コンセントの手続を潜ったか否かの議論を越えた厳しい自己規律が要求されることになる。

 鯨岡氏の御主張、特に「現場の息吹」という言葉に象徴される接し方に、非常に大きな人間愛、客観心理学には無い暖かみのようなものが感じられるのは確かだ。鯨岡氏の御氏名と「自閉症」といったキーワードをセットにしてネット検索すると、障害児教育への計り知れない影響力を実感することができる。

 もっとも、鯨岡氏の御主張は、行動分析学の理論に基づく指導、あるいは、養護学校の存立に関して、種々の議論を巻き起こす内容を含んでいる。このことについては、質的研究を離れて別の機会に論じたいと思うが、このシンポのディスカッションでは敢えて次のように発言させてもらった。
 人間理解については多種多様なアプローチがあってよい。現象学的アプローチもあるし、小説家や映画監督もそれぞれの視点から人間理解につとめている。
 しかし、障害児教育や高齢者福祉の問題を考えた時には、我々はしばしば、あるサービスを導入するか、続けるか、中止するか、別のサービスに変更するか、といった判断を迫られるのも事実である。
 その際には、好むと好まざるに関わらず、再現性や反証可能性を重視した効果測定は避けがたい。客観性を抜きにして、どうやって結論を出せるのか。声の大きい人が勝つのか、あるいは、どの主張が共感を呼んだかだけで決めてしまってよいものか。
 障害児とその親、あるいは、介護者と被介護者の関係性がものすごく大切なことは十分に理解できるが、そうは言っても、ある個人が別の個人の人生のすべてに関わることはできない。いくら相互に依存関係があったとしても、個々の人生はみな独立しており、程度の差こそあれまずは自立し、主体的・能動的に環境に関わることが求められる。

 種々の福祉サービスというのは、対象者が主体的・能動的に関わるための環境づくりをサポートするところに留まるのであって、それ以上を求めてしまったら共依存ということになりかねない。また、いくら障害(碍)児指導場面で個人との関わりを重視すると言ったところで、一個人が10人、20人と個別に関わることには時間的に限界がある。いろいろ議論はあろうが、私自身はそんなふうに考えている。

【思ったこと】
_40914(火)[心理]日本質的心理学会第1回大会(4)行為論/論理実証主義

 午後1時20分から3時20分までに行われた、

●シンポジウム1:他者との出会い 教育のフィールド─出会いを記録する
秋田喜代美・鯨岡峻・佐藤公治・箕浦康子

の後半部分について感想を述べたい。

 シンポ1の2番目は、佐藤公治氏の「教室の風景を表す」という話題提供であった。その中心となる「相互行為分析」あるいは「行為論」については、みちた氏の読書と日々の記録で何度か論評を拝見したことがあったが、近代主知主義への問い直しの1つであるという点を除いては、どうにも難解で私にはまだ十分に理解できていない。また、まことに申し訳ないのだが、私は、毎日、午後2時前後に突然睡魔に襲われることがある。この時もたまたまその巡り合わせにあたり、少々居眠りをしてしまった。ということもあって、ここではこれ以上のコメントはできない。

 ただ、「行為論」が「個の活動と外的世界との間の弁証法的な関係を求める」ものであるとすると、これはまさに、オペラント行動そのものである。次回にコメント予定の、塩瀬隆之氏のご発表の時にも思ったのだが、これらの人たちは、オペラント行動や行動随伴性の概念を全くご存じ無いのだろうか。もし、ご存じの上で「取り上げる価値無し」と考えておられるなら、どこかでそのことを論評して欲しいと思うし、もしご存じないのであれば、一度、スキナーの著作に目を通していただきたいと強く願う次第である。

 余談だが、シンポのディスカッションの時に、なぜ「行為」という言葉を使うのかという質問が出された。じつは、「行動」や「行為」の意味するところは、日本語と中国語でかなり異なっている。こちらにも記したように、中国語で「behaviorism」は「行動主義」ではなく「行為主義」と呼ばれる。佐藤氏の言われる「行為論」は中国語で何と呼ぶべきなのか、何かの機会に伺いたいものだ。なお、私個人は、少なくともスキナーの行動主義に限っては「能動主義」、「行動分析」は「能動分析」としたほうがスッキリすると思っている。行動分析で扱う行動の大部分は、レスポンデント行動ではなく、オペラント行動(=能動)に関するものばかりだからだ。




 さて、シンポ3番目は、箕浦康子氏の「マイクロとマクロの狭間で〜記録されていないことを読み解く〜」という話題提供であった。

 箕浦氏は、まず、「質的心理学」というネイミング自体が気に入らないというようなことを言っておられた。理由は、とにかく「心理学」と呼ぶ限りはどうしたって、論理実証主義的なアプローチがまとわりついてしまう。これに対して、箕浦氏が提唱するのは「解釈的アプローチ」であり、そこでは、どのような問いを立てるかで、現実の見え方は変わってくるという特徴があるという。なお箕浦氏は、「実証的アプローチ」と「解釈的アプローチ」のほうかに「批判的アプローチ」も挙げておられたが、時間が限られていたせいだろうか、この3番目のアプローチについては殆ど言及されなかった。

 ところで、比較目的で取り上げられた「実証的アプローチ」であるが、箕浦氏によれば、そのアプローチには
  • 心理学で支配的な方法論、本質主義的
  • ただ一つの客観的現実を前提として、その現実についての法則定立を目ざす。現実は、誰が見ようと同じに見える「本質的なもの」として実在している。「現代心理学」というようなタイトルの概論書の第一章にはたいがい、そういうことが書かれている。
  • 研究のプロセスとしては、ノイズの除去、因果把握、条件統制、変数操作に重点が置かれる
という特徴があるという。

 しかし、少なくとも行動分析学の視点から言えば、「実証主義的アプローチをとる」ということと、それが、「ただ一つの客観的現実を前提として、その現実についての法則定立を目ざす」ものであるとういことは、決して同義ではないように思う。

 もちろん、行動分析学は、客観世界に関わる個体の行動を研究対象としており、強化や弱化、種々の行動随伴性といった「法則」を分析のツールとしてはいるけれども、強化のヒストリーが個々人によって異なるという点で、個体から見える外界はあくまで「解釈的」となる。箕浦氏が「解釈的アプローチ」として述べておられる「人々が生きている現実は、構築されたものである。思い込みの世界で生きている」というのはまさにその通りであるが、行動分析的に言い直せば、

人々が生きている現実は、強化や弱化のヒストリーによって構築されたものである。人々は、現実とありのままに関わるのではなく、好子や嫌子によって条件づけられた世界の中で生きている

ということに他ならない。あとは、どういう角度からそれを捉えるかという違いだけだと思われる。

 箕浦氏が言われる「どのような問いを立てるかで、現実の見え方は変わってくるという」というのも、決して、実証的な方法と対立するものではないと思う。こちらの論文の【4】という補注にも記したことを再掲するならば、
自然界には確かに法則のようなものが人間から独立して存在する。それは、人類の誕生前から存在し、人類が滅亡した後でも、宇宙の構造が質的に変わらない限り、同じように存在するだろう。しかし、それを人間が認識するとなると話は違ってくる。「科学的認識は、広義の言語行動の形をとるものだ。人間は、普遍的な真理をそっくりそのまま認識するのではなくて、自己の要請に応じて、環境により有効な働きかけを行うために秩序づけていくだけなのだ。」というのが、行動分析学的な科学認識の見方と言えよう。佐藤(1976)は、この点に関して、科学とは「自然のなかに厳然と存在する秩序を人間が何とかして見つけ出す作業」ではなく、「自然を人間が秩序づける作業である」という考え方を示している。
ということになるのである(なお、上記引用中の「佐藤(1976)」は、今回の話題提供者のお一人の佐藤公治氏ではなく、今年度の行動分析学会年次大会会長の佐藤方哉氏のほう)。

 昨日の日記にも記したように
障害児教育や高齢者福祉の問題を考えた時には、我々はしばしば、あるサービスを導入するか、続けるか、中止するか、別のサービスに変更するか、といった判断を迫られるのも事実である。
 その際には、好むと好まざるに関わらず、再現性や反証可能性を重視した効果測定は避けがたい。客観性を抜きにして、どうやって結論を出せるのか。声の大きい人が勝つのか、あるいは、どの主張が共感を呼んだかだけで決めてしまってよいものか。
という問題は厳として存在する。「実証主義的アプローチをとる」ということとは、何も、「ただ一つの客観的現実を前提として、その現実についての法則定立を目ざす」ための仮説検証のためにだけ存在しているわけではない。個々の要請に応えるべく、有効性を検証する手段として必要であればこそ、導入せざるを得ないのである。

 この件に関して、箕浦氏は「解釈的アプローチは、問題解決ではなく、むしろ問題発見のためにある」と応えてくださったが、私自身はやはり

●問題解決をめざすためには、問題発見の段階から、問題解決と同じ概念的枠組みでアプローチする必要がある

という考えを主張せざるをえない。

 なお箕浦先生には、このセッション終了後もいろいろとお世話になりました。光栄に存じます。

【思ったこと】
_40915(水)[心理]日本質的心理学会第1回大会(5)工学と質的心理学の弁証法

 15時40分から17時10分までは、3つの会場に分かれてワークショップや講演、対談などが行われたが、私はそのうちの

●講演と対話:工学と質的心理学の弁証法─質的研究にかかる期待と不安、そして展望
塩瀬隆之・佐伯胖・大谷尚

に参加した。

 この講演・対話の内容は、日記才人登録のNEW ひとりのりつっこみ日記を執筆されている村上正行氏も取り上げておられ(9月11日付)、そこでは村上氏御自身がまとめられた概略も記されているので、ご参照いただきたい。

 さて、この企画では、塩瀬氏の「壮大な」構想が披露され、それに対して、佐伯胖氏、大谷尚氏という超豪華ゲストがコメントをするという形がとられていた。何はともあれ、佐伯氏や大谷氏のコメントを直々にいただけるというのは、まことに恐れ多いことである。

 以下、私なりの感想を述べさせてもらうが、私の受け止め方はやや辛口である。じっさい、塩瀬氏のテーマは「工学と質的心理学の弁証法」というものであったが、発表を伺った限りでは、

●なるほど、あなたのご指摘はそれぞれもっともだ。だけど、どこが質的なの? どこが弁証法なの?

という感想を持たざるを得なかった。たぶん限られた時間の中で、言いたいことを何でもかんでも伝えようと頑張りすぎたためではないかと思う。

 塩瀬氏はまず、効率性・経済性・利便性・技術至上主義・ユビキタス等を優先してきた工学研究に疑問を投げかけられた(「技術的合理主義の中心で質的研究を叫ぶ工学」)。人間と機械の従来型のコミュニケーションは言わばATMのようなもの、しかし、ATMは人を癒してくれない。便利な世の中は人を幸せにしてくれるのか、といった内容であった。これらはまことにもっともなご指摘であるとは思う。

 しかし、このこと、イコール、質的研究には必ずしも結びつかない。これは例えば、交換価値重視、利潤追求の経済システムに対して「あたたかいマネー」としての地域通貨導入を主張しているようなものである。地域通貨の大切さは納得できても、だからといって、質的方法でなければ地域通貨の研究ができないということには必ずしもならない。

 次に挙げられた「ペットロボットは人を癒せるか」という話題も、必ずしも質的研究の必然性を説くものではないように思う。

 「知覚は必ずしも行為に先行しない。知覚とは能動的な探索過程である」という考え方は、オペラント条件づけや随伴性概念を知っている人ならあたりまえのことだ(そう言えば、今年の日本行動分析学会第22回大会でも、「知覚知覚知覚行動行動行動」(←実際はフォントサイズの異なる、同じ語が連なったタイトル)という実行委員会企画シンポジウムがあった。残念ながら私は居合わせなかったが、久保田新氏、境敦史氏、鹿取廣人氏から斬新なアイデアが提供されたものと思う)。

 昨日の行為論のところでもちょっと述べたが、オペラント条件づけや随伴性の概念は、そうやら工学の研究者や若手の認知心理学者には全く浸透していないようだ。もしかすると、その一因は、かつて、『人工知能学会誌』で行動分析の基本概念が、かなり誤解・曲解された形で工学研究者に紹介されたためかもしれない。その紹介者は実は、佐○胖先生であり、私自身何度かご批判申し上げているところである。

 もう1つ、今回の大会では何人かの方が「弁証法」という言葉を口にされていたが、少なくとも私は、そんな恐れ多い言葉を軽々しく口にはできない。弁証法と言っても、ヘーゲルもあればマルクスもある。それを説明概念として使うのか、単に、アナロジカルに使うのかにもよるが、もう少し厳格な定義づけをする必要があるように思った。

 ま、いろいろ疑問は呈したが、配布資料を後から拝見してみるに、塩瀬氏の話題提供はたぶん、自由度の高いオープンな調査法としての質的研究手法を活用し、徒弟制による熟練技能継承のプロセスを明らかにしていこうということに主眼があったものと思われる。であるならば、今回の御講演でも、そのことに的を絞り、具体的な研究成果の事例を1つ2つ紹介されたほうが分かりやすかったのではないかと思ってみたりする。

 佐伯氏や大谷氏のコメントについては、NEW ひとりのりつっこみ日記(9月11日付)でも紹介されている通りである。その中にもあるが、佐伯氏のケータイの話はなかなか面白かった。ヒューマンインタフェースの観点から言えば、ケータイのボタンでメイルを送るなどというのは不便このうえない。ところが今や、小中学生でも平気で使いこなしているし、交通事故で入院中の学生がケータイを使って論文を書いたというエピソードまであるとか。要するに、社会的文脈やコミュニティ内での利便性を抜きにしては語れないということである。

 大谷氏のコメントの中で、「最適化はウソ、マネジメントはやりくりだ」という話が出たような気がするが、記憶が定かではないので、また別の機会に。

【思ったこと】
_40916(水)[心理]日本質的心理学会第1回大会(6)まとめ

 大会の最後の企画として、17時30分から19時までは、ヤーン・ヴァルシナー(Jaan Valsiner)氏による招待講演が行われた。ヴァルシナー氏は米国・クラーク大学教授であり、『Culture and Psychology』の主幹をつとめておられる。アブストラクト集には関連サイトとして が紹介されていたが、残念ながら各サイトの所在を確認しただけでまだ内容は拝見できていない。

 さて、講演ではまず、質的研究というのは言葉だけではなく、タッチ、音、歌のようなものも含まれると指摘された。あとでも触れられたが、ヴァルシナー氏は、個々の要素を個別に分析するのではなく、「関係性」、「依存し合った事実」、「ゲシタルトあるいはホーリスティックな視点」ということを各所で強調されていた。このあたりは、午前中に川喜田二郎氏が言われた「分析よりも総合」という視点と通ずるところがあるように思った。

 ヴァルシナー氏は次に、例えば「3」とか、数直線上に縦線を引くようなのレイティングのような「量的表現」が実は関係性によって規定されるものであるということを、かなりの時間を割いて説明された。但しこれは、現象そのものが関係性によって変わるのではなく、我々がそれらを記号によって表象する過程でそうなってくるにすぎない。現象自体は混沌としており、データはそこから、ある枠組みによって構成されたものであるということを言われたかったのだろう。

 時間の関係で、後半部分の趣旨はよく理解できない部分があったが、ヴァルシナー氏は、量的研究と質的研究は相補的関係にあり、最終的には「General knowledge」として統合されると考えておられるようだった。

 両者とも、まずは名義尺度から出発する。量的研究では、それが、順序(順位)尺度、間隔尺度、比例(比率)尺度と進む。いっぽう質的研究では、システムのdetection、さらにシステムのre-compositionと進み、パーツの関係性やシステムの特徴が質的に記述される。それらの一例として、量的研究としての「IQ」、質的研究としてピアジェの研究を挙げることができる。

 以上が私が理解した範囲での講演の概容であった。量的研究と質的研究についてのこのような視点は、拝聴した限りでは、自然科学の研究にもそっくり当てはまるように私には思えた。但し、その場合の自然科学とは、絶対的普遍的な法則を見つけ出そうという意味での科学ではなく、あくまで、ある要請に基づいて、何かの目的のために問題解決をはかろうとする場合における自然科学的アプローチのことであるが。




 ということで、今回の大会は大盛況のうちに閉会した。最後に、非会員としての無責任な立場ながら、この学会の今後の在り方について思ったことをいくつか述べておきたい。

 まず、今回は、各界の著名な研究者を招請して、主として質的研究の方法論についての講演やディスカッションが行われた。しかし、いつまでも方法論ばかりを議論していくわけにはいくまい。やはり大切なのは、具体的な研究成果をアピールすることであろう。といっても、質的研究の成果は果たして、短時間の口頭発表やポスター発表で伝えられるものなのだろうか。

 具体的な研究についての評価をどのように行うのかも、疑問が残るところだ。小説家の作品であるならば、とにかく本がたくさん売れて、読者から感銘を受けたという声が寄せられれば、それだけで社会的に貢献した証しになるだろうが、質的研究ではそうはいかない。じゃあ、いろんな大学の研究者が、各自の興味・関心に基づいていろんな現象を質的に研究すればそれで成果と言えるのか。私はやはり、問題発見、さらには問題解決という道筋を示さないと、公的資金を投入する研究としては不十分ではないかと思うのだが、このあたりはいろいろと意見があってよい。

 それから、質的研究と言っても、普通は、図解や文章化という形で発表されることが多いようだが、ビデオ、映画、マンガ、アニメなどの媒体は発表手段としては使えないのだろうか。確かにこれまでは、「研究成果、イコール論文、イコール文章(一部は図表)」として表現されることが多かったけれども、質的研究においてはことさら、文章以外の媒体というのも追究してよいのではないかと思ってみたりする。


 このほか、現象学的アプローチとの関係、あるいは、「弁証法」などという言葉をそんなに気軽に使ってよいものか、などいろいろ疑問はあった。

 その一方、この世の中には、アンケート調査を量的に集計するだけでは到底解き明かすことのできないようなさまざまな現象が数え切れないほどたくさんあるのも事実だ。その場合、とりあえず、現場を正確に捉え、対象者のナマの声を聞き取ることはどうしても必要。しかし、そこからいかに価値のある情報を引き出せるかについて、しっかりとした研究方法は未だ確立していない。

 私個人としては、質的研究は、決して画期的で万能な研究法であるとは思えない。しかし、ある場面で「最善の研究法」であることは否定できない、だからこそ、少しでもそれを実りあるものにしなければと苦心する必要があるのだ。