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批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ


2004年2月8日(日)10:00〜18:00
場所:京都大学百周年時計台記念館


目次
  1. (1)概要
  2. (2)クリティカルシンキング概念の定義と必要性
  3. (3)批判的思考力の教育は可能か
  4. (4)ある対策を実行した場合のメリットとリスクと、それを実行しなかった場合のメリットとリスク
  5. (5)文化的差異と批判的思考/批判的思考のメタ認知的知識
  6. (6)疑似科学をめぐる懐疑的思考と批判的思考
  7. (7)トゥールミンと根拠、論拠
  8. (8)クリシンは夫婦の会話には馴染まない
  9. (9)小中高生に役立つクリシン
  10. (10)査読者の目で論文を読むこととクリシン
  11. (11)クリシンの反証可能性


このサイトを、楠見先生の公式サイトにリンクしていただきました。光栄に存じます。(2004.3.13.)
【思ったこと】
_40208(日)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(1)

 2月8日の10時から18時まで、表記のワークショップが京都大学百周年時計台記念館で開催された。この催しは、京都大学21COE「心の働きの総合的研究教育拠点」プロジェクトの一環として行われたものである。

 私自身はクリティカルシンキング(以下「クリシン」と略す)の研究は全く行っていないが、「行動科学概論」では5回ないし6回の分担授業として、このテーマを扱っている。また、今後の大学教育の基礎科目のなかで、どうすれば「クリシン力」が養成できるか、強い関心を持ってきた。

 京大に行ってみてまず驚いたのは、時計台内部の変わりようだ。上に写真を掲載したレストランのほか、京大の歴史の展示館、会議室などが整備されていた。私が学生・院生だった頃の「建物内は汚くてあたりまえ」というイメージは完全に消えていた。

 今回のワークショップは、私とは分野の異なる認知心理学、教育心理学、社会心理学系の研究者がほとんどであったため、25年ぶりにお顔を拝見、という方もいた。当時、大学院生だった人たちは、今はみな、教授や助教授として各地の大学で活躍されている。

 読書記録のWeb日記でおなじみのMさんと直接お会いするのは15年ぶりくらいになる。でっぷりとした体格の方だと記憶していたが、あまりにもほっそりしていて最初はご本人だと気づかなかった。休憩時間にそのことを尋ねたら、ダイエットに成功されたとか。そういえば、Web日記にもそのような記述があった。

 ワークショップのほうは、クリシンに関する、概念と測定の問題、認知過程の問題、議論の指導の問題、論文の指導の問題という四部構成となっており、それぞれについて、2名〜3名の話題提供があった。討論も活発で、私が最近参加したワークショップの中でも得るところが非常に大きかった。具体的な感想は次回以降で。

【思ったこと】
_40209(月)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(2)クリティカルシンキング概念の定義と必要性

 昨日の日記の続き。ワークショップではまず、企画者のお一人の楠見氏が、企画趣旨や背景などについて説明、さらに批判的思考(クリティカルシンキング)に関する授業の実践例を紹介された。授業は学部2回生対象、半期14回のものであり、TA2名も参加した講義、討論などから構成されていた。全体として授業の成果は大きかったと推測されるが、「リンダ問題」、「コーネル尺度」、「フレーミング問題」、「Watson-Glaser」などのテストや測定では、受講による効果は検証できなかったようだ。

 この話題提供でなるほどと思ったのは、まとめのところに示された
  1. 質問紙調査研究:市民対象の個人差研究
  2. 実験室研究:学生参加者によるプロセス研究
  3. 教育実践研究:良き市民、賢い消費者、優れた研究者を育てるための批判的思考教育
という研究のプロセスである。心理学の研究は往々にして、自分が所属する大学の学生を対象とした質問紙調査研究や、実験室実験だけで変数をいじくるモデル研究に終始し、論文の数は増えてもちっとも社会に還元されないという、よく言えば「理論・基礎研究」、悪く言えば「象牙の塔にこもった、研究のための研究」に陥りがちであるが、3.の実践研究をセットで考慮するという視点は大切なものだと思う。このあたりが、教育学部系心理学のすごいところだ、と言ったらほめすぎだろうか。




 続いて話題提供された道田氏は、日本におけるクリシン研究の第一人者でもある。道田氏は、批判的思考(クリティカルシンキング、以下「クリシン」と略す)概念についてのさまざまな定義表現を紹介され、また、クリシンの思考技能のみを議論すればよいという立場と、クリシンの態度や用い方を重視する立場があることを指摘された。

 またクリシンには、論理学的クリシン(正解があり、その力を測定できる)、哲学的クリシン(問い続けることを重視)、心理学的クリシン(認知バイアスなど、心理学の知見を活用。概念には無頓着)という根本的相違があることも指摘された。

 その後の質疑や、子安氏の最後のまとめのところでも言及されたが、科学研究の基本である「概念の節約」に徹するならば、クリシン概念きわめて多様であり、ポパーの言う反証可能な形で論じることが難しい。しかし、今回のワークショップ自体がそうであるように、「クリシン」というテーマのもとで、多種多様な研究を総合的に議論し、楠見氏の言われたような「良き市民、賢い消費者、優れた研究者を育てるための批判的思考教育」に発展させるという方向性は大いに意義があるのではないかと思った。

 次回に続く。

【思ったこと】
_40212(木)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(3)批判的思考力の教育は可能か

 2月8日(土)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 道田氏の話題提供後半では、ご自身の大学の実践例が紹介された。興味深く感じたのは、1年時と4年時に「批判的思考テスト」を行った縦断研究で、テスト得点が低いままの学生、高得点を維持した学生、得点を増加させた学生、得点を低下させた学生、という4タイプそれぞれの学生が居たことであった。とうぜん、全体の平均値を比較しても有意な増加は確認できない。これだけでは、大学4年間の教育は、批判的思考力の養成に役立っていなかったと結論づけられてしまう。

 もっとも、4つのタイプについて個人レベルで原因を調べてみると、たとえば、アルバイト体験が増加に役立ったとか、同じ授業を受講していても学ぶ姿勢(教わった内容をどう活かすか)の違いなどが影響を与えていることが覗えた。

 クリシンの領域特殊性についても言及しておられたようだったが、単に多因子の存在を示唆されたのか、個々の領域内での発達の証拠をお持ちなのか、このあたりは聞き取れなかった。




 続く話題提供は、元吉氏らによる、クリティカルシンキング志向性に関するものであった。クリシンというと、ふつう、批判的思考能力の部分に目を向けられがちであるが、そもそもクリシンの必要性を感じているのか、そういう能力を身につけたいと思っているのか、という志向性を高めることも必要というわけだ。

 いくつかの調査項目を用いて、教育学部生に対して縦断的研究を行ったところ、クリシン3つの側面のうち、「誠実性」は上昇したが、「客観性」や「探究心」については有意な上昇は見られなかったという。このほか、大学間の格差もあまり見られなかったようだ。




 道田氏と元吉氏のご発表からは、ある教育をすれば「クリシン力」が劇的に増加するというような証拠は得られていないように思えた。大学4年間の教育は「クリシン力」の養成にあまり役立たない、と極言できるかもしれない。しかしそうなると、大学の教育目標に「批判的思考力の養成」などとうたっても、ウソをついたことになってしまう。

 もっとも、まだまだ検討の余地は残っていると思う。

 まず、大学の格差はあるにせよ(←元吉氏の発表ではあまり差はなかったようだが)、大学生というのは入試によって選び抜かれた集団である。高校までにある程度の批判的思考力が磨かれているとするなら、入学後に調査してもドングリの背比べであり、変動は誤差の範囲内か、ちょっとした態度の変化の反映ということになってしまう。そういう意味では、中高生における縦断的研究の結果が待たれる。

 次に、「クリシン力」を測る物差し(=尺度)がまだまだ不十分という可能性もある。

 また、しばしば「教養教育の成果は短期的な数字の変化には表れにくい」と主張されるように、より長いスパンでの成果や、量に還元しにくい質的成果にも目を向ける必要があるだろう。

 今の段階で、私が自信を持って言えるのは、心理学研究を10年、20年と続けていれば、少なくとも心理学領域での批判的思考力は抜群に伸びるだろうというこだ。これは、私と同学年、もしくは後輩にあたる人の、学部・大学院時代に発表したレベルと、いま現在、研究者として話題提供されているレベルを比較すれば一目瞭然である。ただしそれが、心理学教育を受けて育ったものなのか、自主的な勉学の積み重ねによるものか、あるいは種々の討論や論評を重ねることで自然に身につけられたものなのかは定かではない。

 次回に続く。

【思ったこと】
_40215(日)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(4)ある対策を実行した場合のメリットとリスクと、それを実行しなかった場合のメリットとリスク

 2月8日(土)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 3番目は平山氏による「批判的思考の態度が対立する議論の解釈に及ぼす効果」という話題提供であった。批判的思考(クリティカルシンキング、以下「クリシン」と略す)を身につけるためには、信念によって情報をゆがめて解釈・判断する傾向を防がなければならない。というか、それを防ぐためにクリシンが必要だとも言える。

 ここで取り上げられたのは、「環境ホルモンは人体に悪影響を及ぼす」という信念であった。この信念が強いと、「環境ホルモンは影響を及ぼしている」という報告書と「環境ホルモンの影響は不明である」という報告書の両方を提示された時、2つの報告書に基づいて、公正な結論を出すことが難しくなる。つまり、裁判長になったつもりで白紙の状態で2つの報告書を読んだ場合の正しい結論は

●環境ホルモンの人体への影響は未解明である。

ということになるが、「環境ホルモンは影響あり」という固い信念があると、信念と矛盾した情報にふれても、それを受け入れることが難しく、報告書に基づかない結論を出してしまうのである。この研究自体はさらに分析が進められ、信念と矛盾した情報の適切な評価には、クリシンの態度である「探究心」を強めることが重要であるとの結論に至った。




 この発表で私が感じた素朴な疑問は、「環境ホルモン」について正しいとされた結論である。
確かに2つの報告書:

(1)環境ホルモンは影響を及ぼしている
(2)環境ホルモンの影響は不明である

のいずれもがウソでないという前提のもとでは、純粋論理的には、

●環境ホルモンの影響は未解明である

という結論が正解となるのだろう。公務員試験や法科大学院の適性試験などでは、おそらくそのように扱われるに違いない。

 しかし、そもそもクリシンは思考ゲームではない。現実の行動選択や政策決定に活かせるものでなければ意味が無い。相反する報告に対していつまでも「未解明」を結論としていたのでは、手遅れとなる恐れが強い。

 要するに、我々の行動は、そこに課せられているニーズ(要請)に依存しつつ、それを実行した場合のメリットとリスクと、それを実行しなかった場合のメリットとリスクを総合的に勘案して決定されるのである。、

●環境ホルモンの影響は未解明なので、当面は対策をとる必要がない。

と決定するか、

●環境ホルモンが絶対に影響ないと断定できない以上、疑わしい物質の使用は許可しない。

と決定するのかは、もはや論理的判断ではない。健康へのリスクの大きさや経済的影響に基づく政治的な判断とならざるをえないのである。これは、いま問題となっている、BSEや鳥インフルエンザ対策でも同様である。




 「クリシン」の視点としてさらに考えなければならないのは、「すべてAであるか」、「すべてAでないか」というような二者択一、あるいは二律背反的な問題を設定することの不毛さである。

 こちらの資料集でも何度か取り上げたことがあるが、

(1)血液型と性格は関係がある
(2)血液型と性格は関係が無い

というような二律背反的な問題設定はそれ自体全く意味をなさない。血液型性格判断信奉者がいくら有利な証拠を並べたところで、「血液型はすべての性格に関係がある」とは言えないし、逆に、「血液型と性格は全く関係がない」と主張しようとしても、あらゆるケースを尽くして検討することは原理的に不可能である。

 では、上記の正解と同様、「血液型と性格の関係は未解明である」と結論すればそれでよいのか、...それでは学問は進歩しない。

 血液型性格判断資料集でも主張しているように、この場合にとりうる唯一の科学的態度は、

(1)「血液型と性格は関係ない」という作業仮説のもとで、さまざまな行動特性について検討を重ねる。
(2)ある行動特性において関係のあることが一貫して確認された場合は、血液型が及ぼす影響程度や範囲についてシステマティックに情報を収集する
(3)影響が日常行動に及ぶほど重大であると確認された場合に限って、初めて、「相性」や「適性」などについて具体的な提言をおこなう

というステップを踏むことであろう。とはいっても、(1)や(2)は多大な時間と金銭的コストがかかる。税金を投じてまで研究する価値があると確信できない以上、それを検討しなかったからといって心理学者がサボっているとは言えない。血液型が交通事故の死亡率や癌の発生率に影響を及ぼすというような証拠が出てくるなら、国費を投じてでも検討する価値があるだろうが。

 血液型性格判断信奉者のいちばんの欠点は、都合のよいデータだけをつまみ食いして取り上げるばかりで、何年たっても何十年たっても、実証的、体系的、実用的な理論体系を構築できないことである。




 元の話題に戻るが、対立した2つの立場がそれぞれを支持する情報を提示した時、信念によるバイアスがかかることは間違いない。しかし、そこでのクリシンとは、単に、2つの立場を公平に扱う(=「反対する人の意見もちゃんと聞きましょう」)ということではない。
  • その対立はどのような背景によって生じているのか。
  • ある対策を実行した場合のメリットとリスクと、それを実行しなかった場合のメリットとリスクはそれぞれどんなところにあるか。
  • 「未解明である」と結論づけて何も行動しないことのリスクは無いのか。
について適切な判断を下せるようになることが真のクリシンではないかと思う。次回に続く。

【思ったこと】
_40219(木)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(5)文化的差異と批判的思考/批判的思考のメタ認知的知識

 少々あいだが空いてしまったが、2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 4〜6番目の話題提供は「批判的思考の認知過程」という大テーマであった。このうち4番目は、山氏による「二重過程理論と論理的・批判的思考」であったが、配付資料が無く、批判的思考自体との関連性が今ひとつ分からなかった。

 内容は、欧米人と東洋人の思考の文化的差異に関する最近の文献紹介であった。欧米人と東洋人の違いについては、「狩猟民族vs農耕民族」、「個人主義vs集団主義」など、これまでにもいろいろな話を聞いたことがあるが、ここでは、進化心理学と二重過程論の論点が紹介された。専門的なところはよく分からないが、要するに、適応的合理性と規範的合理性で、文化的差異を説明しようとしているように聞き取れた。「自然環境において目標に到達するために合理的にふるまうこと」と「規範に対して合理的にふるまうこと」という話は、文化的差異というより、和田秀樹氏が言うところの「シゾフレ人間(=その場に合わせて時には無節操にふるまうタイプ)」と「メランコ人間(=一貫性を重んじるタイプ)」にちょっと似ているように思えた。

 今回の話題提供とは全く関係ないが、『痛快!心理学』などに紹介されている日米の文化差についての和田秀樹氏の考察:
  • アメリカ人は個人主義で、競争が大好きな国民であるのに対して、日本人は「和をもって貴しとなす」「すぐに群れをなしたがる」、つまりみんなと横並びでいることに安心感を覚える性質があるとよく言われるのは誤解
  • アメリカのほうは放っておけば「みんなと同じ」横並び社会になってしまい、弊害が大きくなるので「他人と競争することが美徳である」という倫理を教え、日本のほうは反対に、そのままでは他人を蹴落とす競争をし始めるので、「和を大切にしなさい」と教えているのではないか
などは、文化差についてのステレオタイプな見方に対して批判的思考の視点を提示しているという点で一読に値すると思っている。

 個人的には、文化差の問題は、それぞれの社会、組織、集団において、どのような行動が強化されやすい仕組みになっているのかという随伴性の分析、またその随伴性システムを維持することがどのようなベネフィットをもたらしているのかという分析を通じて明らかになっていくものと思っているが、これについては別の機会に考えを述べたいと思う。




 5番目は、修士1回生の田中氏による「批判的思考の効果的使用を支えるメタ認知的知識」という話題提供であった。田中氏の研究は修論研究の中間報告のようなものであり、大学生に対して批判的思考の特徴を提示して、どのような状況でそれが効果的でありうまくいくと思うか、どのような状況では効果的でなくうまくいかないと思うかを自由記述させ、2名によるKJ法で分類するという内容であった。そしてさらに、クラスター分析や対次元尺度構成法による分析が行われた。私の教室でも、最近は質的研究法重視の流れの中で「KJ法」を用いる学生・院生は多いが、多変量解析まで発展させるのは希である。指導スタッフを強化していなかければ...。

 さて、批判的思考のメタ認知的知識が効果的である場合と効果的でない場合のカテゴリーとして導き出されたのは
  • 効果的である→問題を解決する。「より適切な答え」を求めている状況
  • 効果的でない→好み、価値観、主観、信念、直感が重要。楽しむことが目的。「答え」がいくつあってもかわまない状況。
といった内容であったというが、これは私が素朴に考える批判的思考の有効性とはやや異なるものであった。

 フロアからの質問としても出されたが、ゲームのような遊びの状況でも批判的思考が役に立つことは多い。また、価値観や信念に関することであっても、それを固定的に貫いていくか、それとも柔軟にとらえて日々改訂していくのかによって批判的思考の役割は変わっていくと思った。

次回に続く。

【思ったこと】
_40221(土)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(6)疑似科学をめぐる懐疑的思考と批判的思考

 あっというまに二週間が過ぎてしまったが、2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 6番目、菊池氏による「疑似科学をめぐる懐疑的思考と批判的思考」という話題提供であった。菊池氏は、日本における批判的思考(クリティカルシンキング、以下「クリシン」と略す)研究の草分けのお一人であり、特に超常信奉の心理に長年取り組んでこられた。10年ほど前、一般教育の心理学教育に関するワークショップで同じようなお話を伺った記憶があるが、その後も着実に研究を重ね、ますます明晰さを増しているとの印象を受けた。

 菊池氏によれば、超常現象信奉はクリシン欠如の宝庫である。それを研究することでクリシンに必要な要素を明確にできるという点は私も同感だ。

 菊池氏によれば、思考のデフォルトに起因するならば「なぜ信じるのか」ではなく「なぜ信じないのか」を問うべきであるが、一口に「信じない」と言っても、頭ごなしに否定するのか、科学的に否定するのか、単に無関心なのか、懐疑的思考に基づいて信じないのか、というようにいろいろある。いっぽう超常信奉(paranormal belief)についても、「伝統的迷信」と「ニューエイジ/疑似科学系」という2因子があることが実証的に明らかにされている。このうち疑似科学(pseudoscience)は、科学的であるとして呈示されているものの、方法論的に欠陥があり、科学的理論の要件を備えていないものをさす。具体的には、後付のこじつけ、反証不能、対照群がない、盲検法を使っていない、サンプリングの問題など。新聞チラシなどで散見される健康食品、あるいは血液型性格判断信仰などもこれに含まれるといってよいと思う。

 ではどのようなプロセスで超常信奉が生まれるのだろうか。このあたりの詳細は、菊池氏の著作から学ぶしかないが、一般的には、メディアリテラシー不足、社会的動機(自分を知りたい、先のことを知りたい、何かをコントロールしたいなどの欲求)などが重なって形成されていくと考えてよさそうだ。

 話題提供の後半で参考になったのは、超常信奉の程度と批判的思考の強さは一次元上の対立点ではなく、むしろ独立した軸であること、その二次元象限の中で、懐疑論、保守主義、神秘主義、科学拡張主義などが位置づけられるという点であった。

 話題提供の最後のほうでは、代替療法(民間療法・補完医療)についても言及された。現時点で評価が定まらない「療法」をどう取り入れていくのかは、クリシンを離れても重要な問題であろう。私は、金儲けをたくらむ健康食品、民間療法の誇大宣伝に対しては断固として反対しているが、お年寄りが長年の自己体験から確信している種々の健康法の効用については頭ごなしには否定しない。もともと西洋医薬の有効性の多くは局所的な要因操作の中で実証されたものであって、全人的な自己治癒力の働きまでは考慮に入れていないように思う。どっちにしても人間は限られた年数しか生きられないのだから、ある年を過ぎたら、医療効果を最優先にせずとも、自分の好むやり方で自由に最期を迎えればよいのではないかと思ってみたりする。少々脱線してしまったが、次回に続く。

【思ったこと】
_40222(日)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(7)トゥールミンと根拠、論拠

 2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 8〜10番目は「批判的思考の教育:議論の指導」という大テーマであった。このうちの8番目として福澤氏による「トゥールミンの議論モデルと言語論理教育」という話題提供が行われた。

 トゥールミンはイギリスの分析哲学者であるが、私は著作を読んだことがなかった。もっとも、ここで紹介された内容がトゥールミンの思想の根幹というわけではなさそうだ。なお、福澤氏ご自身もNHK生活人新書から『議論のレッスン』という著書を出しておられる。

 福澤氏は、ご自身が担当されている言語論理教育の授業の内容を紹介された。まずそこでは日常会話の事例として
  1. 太郎:今日のお昼はカレーにしようよ。
  2. 次郎:どうして?
  3. 太郎:だって、昨日はラーメンだったじゃない
  4. 次郎:そうだね。そうしよう。
および
  1. 今日彼女はどうしてミーティングに来なかったのかなあ?
  2. 風邪だそうですよ
という事例を取り上げられた。これらの会話では、理由として「昨日はラーメンだった」や「風邪をひいている」という根拠が挙げられているが、それと主張をつなぐためには、暗黙の根拠、つまりトゥールミンが呼ぶところの論拠がなければならない。授業ではその論拠を推測する演習を行ったという。上記の事例では、1番目の会話では「昨日食べたものと同じのはイヤだ」、2番目は「風邪をひいたら安静にしておく必要がある」などが論拠となる。




 以上までの部分で私が疑問に思ったのは、「ミーティングに来ない」が主張として位置づけられていた点であった。素朴に考えれば「来ない」のも「風邪だ」も事実。この場合の主張は「風邪という原因でミーティングに来られなかった」という因果的推測の部分にあるのではないかと思うのだが、発言者が多くて質問する機会を逸してしまった。

 ま、それはそれとして、どのような主張を行う場合でも、あらゆる理由を挙げるのは不可能だ。両者がすでに合意している場合は論拠が省略される。過去の日本のムラ社会のようなところでは、暗黙の合意がたくさんあり、それを身につけるのが即ち大人になること、また論拠は問い質すよりも察するべきものとされてきたところがあった。少なくとも古い世代において、面と向かって論拠を示すのが苦手であるのは致し方ない。




 相手を説得できることと、その主張が正しいことは別問題であろう。カルト宗教の信者の間では、端から見れば明らかに間違っているような教義が共通の前提となる。そのことからとんでもない行動が正当化される恐れもある。

 行動の原因として何を前提にするのかによっても、因果性の主張は異なってくるだろう。行動の活力の源を「やる気」に求めている人たちの間では、「やる気が無いので勉強をしない」という説明で納得してしまう。これに対して行動分析家は「勉学行動が適切に強化されていないからだ」と考え、結果をどのように随伴させれば熱心に取り組めるようになるのかを考えるだろう。

 迷信的な行動がなぜ起こるのかを説明するにあたって、認知心理学的な発想をする人は、認知の歪みに原因を求めるだろう。行動分析学的な発想をする人は、これに対して、迷信的な行動は外的な結果の随伴によって強化されたと考えるだろう。

 こうしてみると、論拠を明示しても、必ずしも建設的な方向で議論が進むとは限らないように思われる。論拠は突き詰めていくと、主張者のニーズ(要請)にも依存してくる。外交交渉をみれば分かるように、前提条件が異なる国の議論ではもはや論理だけでは解決しない。最後は、武力や経済力で自国の利益を優先させるか、ギブアンドテイクの精神で妥協点を見いだすほかはない。





 話題提供の後半では「アドホックな論拠」つまり「後付のこじつけ」の事例として、ロンドン市街地の爆弾投下位置がランダムであったにもかかわらず、投下位置の地図を見せられると、特異な部分だけをみつけて都合の良いアドホックな解釈をしてしまいがちであるというギロビッチの研究が紹介された。

 「アドホックな論拠」は血液型性格判断における後付の都合の良い解釈などによく見られる。心理学の研究でも、ごく稀であるとは言え、突飛な「発見」に陶酔し学界から失笑を買うというケースがある。

 話題提供の最後のほうでは結論導出の訓練なども紹介されたが、ここでは省略させていただく。次回に続く。

【思ったこと】
_40224(火)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(8)クリシンは夫婦の会話には馴染まない

 2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 9番目は、中島氏の「望ましい集団討議を行うために必要な能力と志向性を高めることを目的としたトレーニング・プログラムの開発〜分業の導入による批判的思考の促進を核として〜」という長いタイトルの話題提供であった。社会人大学院生であり現役の高校教師である中島氏は、学校教育場面でのトレーニングプログラムの開発に携わってこられた。今回はその実践報告であったが、短時間の発表ということもあって、その詳細や成果は十分には理解できなかった。

 そんななかで面白いと思ったのは、集団討議訓練の中で、
  • 批判と非難・否定とを混同する思い込み
  • 批判を反対意見の表明としてのみ捉える思い込み
  • 「司会は自分の意見を言ってはいけない」という思い込み
といった問題点が浮上したことである。また全般的に、他者の発言に対しては「良い点を探す」ことが中心となる一方、問題点を探すことに消極的であり、批判を避ける傾向があったという。

 このような傾向は必ずしも高校生・大学生に限った問題ではない。昨日の日記でも述べたが、大学改革の推進に対してはしばしば時期尚早論が台頭する。そして、その背景にはおそらく、「仲良し」と「棲み分け」と「保身」を原則とした「居心地の良い」職場環境を守りたいという意識が根強いのではないかと思ってみたりする。昨年2月20日の日記にも書いたが、大学改革においては「もはや合意形成は何ら美徳ではない」と悟ることも重要。「教育組織単位からのボトムアップの議論を大切にすべきだ」というと聞こえがよいが、実際に出されてくるのは、保身のための痛み分け、棲み分けであり、社会的ニーズにちっとも応えていない恐れすらあるのだ。

 もっともすべての議論がクリシンに馴染むかどうかは別である。もっとも馴染まないのが夫婦の会話である。というか、婚約者や配偶者が自分にとって最適の相手であるかどうかを批判的に考察すれば破綻するのは必然。世の中には完璧な相手などありえないのだ。次回に続く。

【思ったこと】
_40302(火)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(9)小中高生に役立つクリシン

 またまたあいだが空いてしまったが、2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。

 10番目は、吉田氏の「クリティカル・シンキングをキーワードとした『心のしくみについての教育』の実践」という話題提供であった。吉田氏は『心理学のためのデータ解析テクニカルブック』の共著者であるほか、わかりやすい心理統計学の解説書も執筆されておられるが、教育実践場面でこのような活動をされているとは存じ上げなかった。ここでは、児童、中学生、高校生それぞれにおいて、クリシンを取り入れることが、ステレオタイプ的認知の改善や柔軟な対人情報処理に役立つという事例が紹介された。

 配布された資料には、批判と非難は異なること、「あの人は、○○な人だと思う」という意見表明に対して、「でも、だけど、....」など、「何か事情があったんじゃないのかな?」とか「いつもそうなのかな?」などと考えてみることの大切さを教える工夫、「必ず」、「絶対」、「きっと」といった決めつけ的な言い方への注意などが、イラストつきでわかりやすく解説されていた。

 このほか、いやなことが起きた時に自分を傷つけてしまう暗い考え方に対して、「そうとはかぎらないよ」という発想で決めつけを解消する方法も紹介されていた。このあたりは、論理療法の発想とちょっと似ていると思った。

 もちろんクリシンが常に有用というわけでもない。過度のクリシンは「いじけ」につながるともいうし、自尊心を維持するにはノン・クリティカルな思考も大切だ。前回も述べたが、「私の恋人は結婚相手として最適か?」をクリティカルに考えてしまうと、否定的な結論が出るのは必至である。

 吉田氏は、「心理学の成果をもっとダイレクトに伝えたい」という強い意欲をお持ちで、実際、心理学ジュニアライブラリの執筆活動に取り組んでおられるという。週刊誌、テレビ、ネット上でニセモノの心理テストや心理ゲームが横行しやすいなか、学問としての心理学をわかりやすく伝える努力をされていることには敬意を表したい。

 次回に続く。

【思ったこと】
_40304(木)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(10)査読者の目で論文を読むこととクリシン

 2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。各種の校務に追われて連載が飛び飛びになってしまっているが、開催日から1ヶ月以内には何とかして完結したいと思っている。

 さて、11番目と12番目は「批判的思考の教育:論文の指導」という大テーマであった。前にも書いたが、今回のワークショップは教育学部系の心理学者が中心ということもあり、現場での実践報告や教育指導方法についての発表が多く含まれていた。このあたりは文学部系心理学と異なる点である。

 このうち11番目は、沖林氏の「学術論文読解における批判的思考−学習指導法の検討−」という話題提供であった。先行研究の論文を引用するのはよいのだが、いまひとつクリティカルな視点が足りず結論を鵜呑みにしてしまうというのは、私の大学の卒論研究でもありがちなことだ。そういう意味では、文献講読や演習などでどうやって「批判的な読み」力を養成するのかが大きな鍵になっている。

 発表時間の関係で詳しい内容は理解できなかったが(※後日、ご本人から詳しい資料をお送りいただいたが、著作権の問題もあるのでここでは紹介できない)、研究の概略は
  • 文章内容に対する熟達度が学術論文の批判的な読みに及ぼす影響
  • 課題についての査読のガイダンスの配布が学術論文の批判的な読みに及ぼす影響
  • 査読のガイダンスとグループによるディスカッションが心理学系の学術論文の批判的な読みに及ぼす影響
  • 目的性を持ったディスカッションが初心者の学術論文の批判的な読みを促進するかどうか
といった内容で構成されていた。

 沖林氏が指摘されているように、同じ論文を読む場合でも、「レポート作成の参考文献として読む」場合と、「演習などでの文献紹介の準備として読む」場合、「討論の材料となっている文献を読む」場合など、目的や状況が異なれば、同じ読み手でも観点が異なってくることは十分に予想される。ここでは特に、査読者の観点、つまり「査読者である」という役割意識と「批評を行う」という目的意識を明確化することにより、刺激文の読みに批判的思考を適用することの可能性が検討された。

 その中で面白いと思ったのは、論文の原文の一部(刺激文)を実験者が意図的に改変し、その部分に対する批判数をカウントしたところであった。もっとも、その場合、原文をどう改変するかによって、批判の目の向け方も変わってくる。わざと誤字脱字をつくればその指摘となるし、結果に基づいた考察の導き方をあえて曖昧にすればその部分に目を向けることになる。沖林氏が操作した改変は後者に近い部分であったようだが、論文の全体構成や、研究の背景などまで立ち入って「批判力」をみることは、実験の制約上、難しいのではないかと思われた。

 今回の話題提供で思い出したのだが、私が学生・院生の頃の演習や研究会では「批判的な読み」が活発に行われていたと思う。発表者が雑誌論文を紹介すると、参加者がよってたかってケチをつける。「この論文は殆ど価値がない」、「間違いだらけだ」、「展望がない」という意見が大勢を占めることもしばしばで、ひょっとすると心理学の研究はみな欠陥があるのではないかと思いたくなるほどであった。しかしそういう経験は、じっさいに研究者の仲間入りをする中でずいぶん役立ったと思う。おそらく、大学や大学院で行われている授業は、特に意識されなくても、結果的に批判的思考の養成に役立っているはずである。ただし、それはあくまで特定分野内にとどまるものであり、一般的な物差しで成果を測ることは難しいとは思うが(2月12日の日記参照)。

 討論の時間にも少々発言させてもらったが、通常、査読者として論文を読む場合は、その中味の信頼性、内的妥当性、オリジナリティ等にしぼって採択の可否が検討される。しかし研究者が論文を読むときに求められる「クリシン力」としてはもう少し大きな視野が求められると思う。つまり、その論文の外的妥当性、発展性、あるいは研究の背景となる流れ自体の意義といったものだ。もっとも、上にも述べたように、実験研究や調査研究としてそのような「大きな視野のクリシン」を調べることは原理的に困難かもしれない。次回に続く。

【思ったこと】
_40307(日)[心理]批判的思考の認知的基盤と実践ワークショップ(11)クリシンの反証可能性

 2月8日(日)に京大で行われた表記ワークショップの感想の続き。前回、開催日から1ヶ月以内には何とかして完結したいと思っている、と書いたが、とうとうその1ヶ月が過ぎてしまった。多少中途半端になるが、今回で完結させたいと思う。

 12番目は黒岩氏による“「考え方」を学ぶ小論文指導におけるフィードバックが批判的思考力に及ぼす効果”という話題提供であった。内容は、高校における実践研究であり、「生きる力」を育成する手段としての批判的思考の教授、小論文指導の有効性、批判的思考力育成における心理学的知見の活用、などに関するものであった。

 ところで、もし“「生きる力」育成”を目標に掲げた場合、その効果を客観的に検証する必要が出てくる。そのためには「生きる力」を測る物差しが必要になってくるわけだが、実際には、「生きる力」というのは教育政策上の用語だという。「豊かな心」や「活力」なども同類ではないかと思った。

 発表時間が短かったこともあって十分には理解できなかったが、「批判的思考力の育成における小論文指導の有効性」ということに限って言えば、やはり毎日Web日記を執筆すること、それも日常生活記録ではなく、何かのテーマについて自分なりの見方を提示することを心がけて執筆するということであれば、多少なりとも効果があるのではないかと思ってみたりする。もっとも効果があるのはおそらく、基礎的な作文レベルに達するまでの段階だろう。それ以上は何年書いてもそんなに上達するものではない。年をとれば逆に低下する。この日記自体のログを辿れば、そのことは自明である。




 さて、このワークショップの最後は、子安氏によるまとめであった。

 子安氏はまず、ポパーの批判的合理主義を引用された。モデルや理論などを主張するにあたって、証拠を集めるのは簡単だ。重要なのは、どうなれば反証されるのかを明らかにすべきだというのがポパーの観点である。余談だが、私が大学院を受験する時には、心理学は哲学科に属しており、哲学共通の英語問題が出題された。このこともあって、受験前の一時期は私もポパーの本を必死に読んだ。その後、いまから12年前くらいだったと思うが、京都の国際会議場でポパーの講演を拝聴したことがあった。当時すでに100歳近いお年だったと思うが、日本人哲学者の質問に対して「お前の考えは、内なる敵ではなくて外なる敵だ」などと、お元気なご様子であったが、それから何年かたってお亡くなりになった。

 元の話に戻るが、節約という観点からみて「批判的思考」あるいは「クリティカル・シンキング」という概念は必要であろうか。そのためには、「批判的思考など無い」という言明が反証可能かどうかを考えていけばよい、というのがポパー流の受け止め方ということになる。

 次に子安氏は、過剰関連づけである、錯誤相関、迷信、過剰拡張などを信号検出理論のフォールスアラームの観点から説明された。肯定的にとらえるならば、科学研究においては、フォールスアラームを恐れないことがヒットを生むとも言える。しかし、フォールスアラームばかりでは誤った方向に迷走してしまう。子安氏は、このあたりを「心のアクセルとブレーキ」つまり「妄想(思考)の駆動力」と「検証(批判的思考)の制動力」というように表現された。

 「批判的思考=制動力」ということは、それだけやっていても前には進めない、生産的で建設的な思考を進めるためには、やはり「駆動力」も磨かなければならないという意味にもとれる。実際、批判的思考からは恋愛は決して生まれない。相手を愛するには、なにがしかの「妄想の駆動力」が必要であろう。




 ところで、「反証可能性」だが、私自身は、心理学の法則やモデルというのは「成り立つか、成り立たないか」という証明と反駁の繰り返しで発展するものとは考えていない。むしろすべての法則はツールであり、ある範囲の中では成り立ち、その範囲の外では成り立たないものだと考える。重要なことは、法則を証明する研究ではなく、法則の及ぶ範囲を広げ、その生起条件を確定するための研究(「生起条件探求型の研究」、こちらの論文参照)ではないかと考えている。この視点が無いと、批判的思考はけっきょく「こういう見方もあるが、別の見方もある」という多様な解釈の羅列に終わってしまいそうな気がする。「生起条件探求型」の視点を保てば、どういう場面ではどういう見方が最も有効か、つまりツールをどう活用するかという生産的な方向が生まれてくると思うのだが、このあたりは別の機会に論じたい。

 もう1つ、今回は「批判的思考の認知的基礎と実践」というタイトルであったが、「錯誤相関」、「迷信」、「過剰拡張」などの現象は、認知レベルの誤りではなく、むしろ、行動と結果との関係、つまり行動随伴性によって形成される可能性が高いと考えている。批判的思考力を磨くには、インプットだけではダメで、必要なのは、行動にどういう結果が随伴しているのか、それによって行動がどう強化されているのかを正確に分析することだと思うのだが、これについても機会を改めて考えてみることにしたい。