じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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日本健康支援学会

2003年2月15日〜16日
九州大学国際研究交流プラザ
【思ったこと】
_30215(土)[心理]日本健康支援学会(1)QOLとは何だ?

 福岡市・九州大学国際研究交流プラザで開催されている表記の学術集会に参加した。この学会のことは、つい最近、ネット上で「QOL」関係の資料を集めている時に偶然知っただけであり、私自身は会員ではない。会場で購入した機関誌によれば、顧問には岡大医学部の先生や、私自身も教えを受けたことのある社会心理学の権威が名を連ねているが、どうやら、九州大学の保健学部や保健科学センターのスタッフが中心となって創設した比較的歴史の新しい学会のようだ。

 集会1日目の午後には、東京学芸大学の朝倉隆司氏による

●QOLの概念と評価

という特別講演が行われた。QOL(Quality Of Life)という言葉は、高齢者福祉や医療の現場では当たり前のように使われているが、実際にはかなり曖昧。今回の講演でも、むしろその曖昧さを広く指摘することで、多面的な視点が提供されたように感じた、

 朝倉氏はまず、QOLが西洋文化圏、とりわけアメリカ社会の中から出てきた言葉であること、QOLは医療の枠を越えた概念であることを強調された。続いて、1940年以降、アメリカにおいてQOL概念、あるいはその用いられ方がどう変遷していったのかを説明された。備忘録代わりにメモしておくと、
  • 1940〜1950年代:機能評価の時代。WHOの「健康」の定義。これにより、がんの緩和治療やリウマチの治療価値が認められる。
  • 1960年代:社会指標の時代。貧困という社会的な病。心身二元論からSubjective Well-being概念へ。
  • 1970年代:ヘルスケアのコスト抑制の時代。大きな政府から小さな政府への転換。SingleからMulti-item Scaleへ
  • 1980年代:実用的な短縮尺度の時代。患者ベースの健康調査。
  • 1980〜1990年代:心理測定としての有効性の時代。Spiritualityや人生の意味などへの注目。包括的なQOLスケール。
こうして見ると、学術的な発展とは別に、時の経済発展や大統領の政策に対応して、QOLの利用のされ方が大きく変わっていることが分かる。時間が無くなったのでこの続きは次回に。
【思ったこと】
_30216(日)[心理]日本健康支援学会(2)QOLとHRQOL/質とは量に換算できないこと

 昨日に続いて、大会1日目の午後に行われた東京学芸大・朝倉氏による

●QOLの概念と評価

という特別講演の感想。

 朝倉氏によれば、QOL概念には、医療資源の適正な配分と、医療を患者中心に転換するという点で大きな意義がある。しかし、この概念はあまりにも広すぎ保健、医療の枠を超えている。そこで、新たにHRQOL(Health-Related Quality Of Life)という概念が登場することになった。しかしそれでもなお、その定義を巡っていろいろな議論があるようだ。私が記憶に残った点とそれぞれに対する私の感想を記しておくと、
  • 現状(「〜である」)の測定か、潜在能力(「〜を備えている」)を含めて測るべきか
    この問題は、高齢者福祉施設における行動機会の保障に大きく関係しているように思う。いくら潜在能力が測定されても、その行動をする機会と、その行動が強化される機会が無ければ意味がない。例えば、施設内にいろいろなゲーム器具を置いても、それを楽しむような行動機会が保障されていなければ、QOLの向上にはつながらないと私は思う。

  • Normative approachかIdiographic approachか
    私は、ゼッタイ後者であると思う。これに関連して、アリストテレス派の卓越主義の思想に言及されたが、話が大きくなりすぎるので別の機会に。

  • Genetic vs Specific
    慢性疾患の患者、特に内分泌系の疾患と循環器系疾患では生活への影響が質的に異なるという話であった。

  • Etic vs Emic
    「日本人は〜だ」という画一的な議論はよくないと思うが、西欧で一般的に考えられている「自立>依存」という価値づけについては、関係性を大事にする日本文化という点から再考する余地がありそうだ。

 昨日の日記にも述べたが、高齢者福祉や医療の現場では当たり前のように使われているQOL(Quality of life)は、、実際にはかなり曖昧な概念である。朝倉氏によれば、多くの論文ではアプリオリに使われており、その概念の合理性に言及した論文はわずか15%にすぎないという。

 講演の終わりのほうでは、Psychometricな方法やHRQOLの尺度開発についての説明があった。一般的には

主成分分析→探索的因子分析→下位尺度ごとの主成分分析→確認的因子分析

という手法がとられ、最近では共分散構造モデルがよく用いられるという。このあたりは、心理学の研究とも似ているようだ。

 もっともこういう手法を取り入れるということは、すでに、Idiographic approachを除外しているとも言える。また、調査項目に最初から抜け落ちている項目があれば因子そのものもゆがむであろうし()、心理学の卒論などでは、研究者が主観的に因子に「命名」することで、命名された言葉が内包する日常素朴イメージが説明概念として一人歩きする恐れが大いにある。
2/17追記]
高齢者のQOL関連調査でいつも疑問に思うのは、信仰に関するファクターが殆ど含まれていないという点。高齢者になるとみんな無神論になってしまうのかと思いたくなるほどだ。この場合、最初から、宗教に関する項目が除外されている可能性も否定できない。また、最近では注意が向けられるようになったとは言え、セックスや性欲に関する項目は控えめに取り込まれている可能性があるし、実際、プライバシーに関わる内容までは質問できないという別の問題もありそうだ。


 最後に、HRQOL評価尺度の問題点として朝倉氏は
  1. 最も低い評価は「死」と同じか? マイナスレベルはあるか?
  2. 臨床家や患者がQOLと見なしているゴールと一致しているか
  3. Response Shiftをどう扱うか(疾患や障害に適応することで、患者本人の評価基準が変わる)
とい3点を挙げられた。

 このうち1.は、おそらく自殺や安楽死に関係してくるのだろう。自殺する直前の状態というのは、たぶんQOLがマイナス値の状態である。これを「死」というQOLゼロの状態に引き上げるというなら起こっても不思議ではない。もっとも、末期癌の苦しみをHRQOLマイナスと評価してしまうと、安楽死を正当化することにもつながりそうだ。慎重な検討が必要だろう。

 3.は、疾患や障害の受容という点からむしろ、積極的に考慮すべきではないかと思う。




 QOLあるいはHRQOL尺度について私が思うのは、しょせん「Quality=質」を扱う以上、どうあがいたところで、数量化には限界があるということだ。個人本位で考えるならば、数直線上で比較されるような数量化ではなく、むしろ多面的なチェックリスト、あるいはそれを簡約記述できるようなレーダーチャートのほうが正確であろうと思う。

 数量化、特に代表値や総合指標の算出を必要とするのは、情報を要約記述しなければならないという何らかの要請(ニーズ)があるからに他ならない。限られた資源をどう重点的に配分するかという行政的な判断、あるいは効果測定、適格認定を行う場合などには、どうしても、客観的で包括的で比較可能な数値が必要になる。また、主観的な評価と数値との不一致の原因を解明することで新たな要因が同定できるという探索的意義もある。しかしそれらは、本質を100%表すものではない。

 したがって、もし数量化の研究を進めることでQOLの本質が解明されるなどという期待をいだくことがあれば、それは間違いであると私は思う。むしろ、多様なQOLなりHRQOLを併存させ、それぞれがどういう要請(ニーズ)に基づいて作成され活用されるものであるのかを明確にし、使い分けていくことのほうが生産的であろう。次回に続く。
【思ったこと】
_30217(月)[心理]日本健康支援学会(3)もう一度行きたくなる病院

 昨日の続き。1日目午後15時〜17時30分に、平野(小原)裕子氏(九州大)の司会のもとに、「QOLと健康支援〜QOLの測定尺度」というタイトルのシンポジウムが行われた。その内容は
 
  • 堂園晴彦氏(堂園メディカルハウス):私の考えるQOL
  • 萩原明人氏(九州大学):働く人々のQOL
  • 福盛英明氏(九州大学):学生のQOL
という3者の話題提供が中心であった。今回はそのうち堂園氏のご発表についての感想を述べたい。

 堂園氏は、終末医療施設「堂園メディカルハウス」の設立者として知られている。このメディカルハウスは、まず建物の空間作りから工夫がこらされており、例えば
  • もう一度行きたくなる病院
  • 霊安室を一番天に近い最上階の一等場所に作る
  • 遺体は、顔を白い布で覆わず、正面玄関から堂々と見送る
  • 個室を重視するが、同時に患者が孤独にならぬよう病院内に「雑踏」を作る
といった工夫がこらされている。

 堂園氏は、若いときには寺山修司の天井桟敷に属しており、この時の経験から「患者観客論」というユニークな視点を展開しておられる。ふつう病院では患者が主人公であるとみなされるが、ここでは患者という一人の観客のためにすべての人が役者として芝居をする。患者観客を感動させる役者とは、プロ意識のある「行為者」であるとのことだ。

 講演の終わりのほうで堂園氏は、自由について

●自由とは、自己選択のできることであり、人生とは自己責任の積み重ねである。自己選択には自己責任がある。

という考えを述べられたが、これに関しては、以前、オーストラリアでも同じような考えを聞いたことがあった。例えば、車椅子を使わずに歩くことは患者の自由であり、その選択は患者に委ねられている。但し、怪我が起こった場合にも自己責任が伴うという考えだ。自己選択における自己責任というのは、けっきょくはオペラント行動における自己責任の問題であろうと思う。

 堂園氏によれば、終末医療におけるQOLとは「解脱」であるという。すべての物事に執着しなくなった時に安らかに死を迎えられるということなのだろうが、私のような者には果たしてその境地に達することができるだろうか。また、「インフォームドコンセント」は日本ではむしろ「あうんの呼吸」として扱われるべきであり、21世紀の言葉は「よりそう」であるとも言っておられた。

 堂園メディカルハウスのようなところで安らかな死を迎えられる人は幸せであろうと思うが、実際にはどのくらいの入院費用がかかるのだろうか。それと現実には順番待ちでなかなか入れないケースもあるらしい。講演の最初でも言っておられたが、ホームレスばかりでなく、最近では、厚労省の長期入院抑制策などの影響で「ホスピタルレス」の患者さんも増えているとか。病院施設だけに頼る必要もないと思うが、とにかく地域レベルで、「病」の院ではなく、「hospitalis=もてなしのよい」という語源に近い「もてなし」の施設を整備することが求められていると思う。次回に続く。

2/18追記] 堂園メディカルハウスのWebサイトがこちらにあった。堂園晴彦氏のメッセージも掲載されている。
【思ったこと】
_30218(火)[心理]日本健康支援学会(4)働くことの満足度、不満足度

 昨日の続き。1日目午後に行われた「QOLと健康支援〜QOLの測定尺度」というタイトルのシンポジウム:
  • 堂園晴彦氏(堂園メディカルハウス):私の考えるQOL
  • 萩原明人氏(九州大学):働く人々のQOL
  • 福盛英明氏(九州大学):学生のQOL
のうち、今回は萩原氏のご発表について感想を述べたいと思う。

 萩原氏のご発表は、一部上場企業(製造業)を対象とした研究が主体であった。質問調査を行い、様々な多変量解析の手法を駆使して、何が仕事の満足(あるいは不満足)要因になっているのかを洗い出すというやり方。なるほど、統計を駆使すればこういうことが分かってくるのかという模範的な内容であった。

 萩原氏のケースでは、QOLに対してQWL(Quality of Working Life)という概念があり、その近似値としてJob Satisfaction(職務満足度)をはかり、さらにそれを規定する要因が同定されていった。提唱されたモデルの基本は、仕事上のストレッサーが職務満足度を阻害、その途中にBuffering FactorsあるいはModeratorとしてパーソナリティやソーシャルサポートが関与するとい内容であった。

 仕事の満足を規定する要因には、通勤時間や居住形態などのNon-work factorsと、Work Factorsがあり、その規定因の関与度が算出されていく。このあたりでも、Stepwise法やSignal detection analysisが用いられたというが、詳細は分からなかった。おそらく、この種の一連の分析をサポートする統計パッケージのようなものがあるに違いない。

 で、実際の満足度を規定する要因であるが、これは、課長職以上と係長以下で異なっていた。
  • 課長以上では、裁量権→ポストの役割がはっきりしていること→退社後の「ちょっと一杯」
  • 係長以下では、役割の明確さ(Clear work role)→指示される内容がはっきりしているか
ということが大きく物を言う。また、logistic analysisによれば、係長以下では、有給休暇をとれるほど安らぎがあるという結果が出たという。【←以上、あくまで長谷川のメモによる記述。正確な調査報告については、萩原氏御自身の論文にあたってほしい。】

 以上のご発表で多少疑問に思ったのは、モデルの中で、Job SatisfactionがJob Dissatisfactionの対極として位置づけられていたことだ。しかし、満足度の阻害要因をすべて同定し軽減したところで、ポジティブな職務満足が得られるという保障はない。働きがいを測るためには、もっと別の尺度の導入が必要であろうし、また、個人本位でより細かい質的調査を行っていく必要があるのではないかと感じた。つまり「今の仕事」というある一定期間についての満足度とは別に、どういう行動を行い、何が達成された時に満足を得るかという問題である。

 余談だが、上記の成果は、大学におけるゼミ指導にも援用できるだろうか。卒論や修論指導における満足度は、おそらく、研究テーマの裁量権、「ちょっと一杯」に左右されるかもしれない。また、主体的にテーマや方法が見つけにくい学生の場合には、指導教員が明確な指示を出すことに期待をかけるだろう。しかしだからといって、学生の満足度を高めることだけをめざした教育改善には問題があるだろう。そういえば以前、「ゼミ内で他学生から批評をされることはストレスになります」と申し出た院生が居たけれど、私の対応は、「そんなことがストレスになるぐらいなら研究など止めてしまえ」だった。いろいろありますなあ。
【思ったこと】
_30219(水)[心理]日本健康支援学会(5)学生のQOL

 昨日の続き。1日目午後に行われた「QOLと健康支援〜QOLの測定尺度」というタイトルのシンポジウム:
  • 堂園晴彦氏(堂園メディカルハウス):私の考えるQOL
  • 萩原明人氏(九州大学):働く人々のQOL
  • 福盛英明氏(九州大学):学生のQOL
のうち、今回は福盛氏のご発表について感想を述べたいと思う。

 福盛氏のご発表で驚いたのは、いきなり、文部省(当時)高等教育局の「大学における学生生活の充実に関する調査研究協力者会議」が2000年6月に報告した

●大学における学生生活の充実方策について(報告)〜学生の立場に立った大学づくりを目指して〜

という答申内容が紹介されたことである。この答申については2001年7月11日の日記などで私も引用したことがあるが、まさか、QOLをテーマにした学術集会でFDがらみの話が取り上げられるとは思ってもみなかった。

 福盛氏は、この答申で指摘された「大学生の生活の質・コミュニケーションスタイルの変化への対応」について、それが生活力の低下によるものか、コミュニケーションスタイル力の低下によるものか、を問いかけ、具体的な方法論の研究はまだこれからであることを強調した。

 大学生活の質は、QOLの「L」を「Student Life」に特定して、「QOSL」として表される。その実態を包括的に把握するための質問票として「学生生活チェックカタログ」が開発された。具体的な結果は著作権等への配慮からここでは差し控えるが、九大のような超一流の大学であっても、いまの大学生活が充実しているかという問いに否定的な学生の比率が結構多いのには驚いた。

 また、大学生のコミュニケーションスタイルの傾向としては、他者に敏感で、傷つきを恐れ、深いつき合いを避け、同調的である傾向が多いこと、大学生のQOL支援にあたっては対人コミュニケーションへの介入が不可欠であること、学生の潜在的ニーズを積極的に感知し、一方で働きかけはマイルドな方法(非侵略的積極的態度)で行っていく必要があることなどが、結果に基づいて指摘された。

 この「非侵略的積極的態度」というのは、学生が能動的に取り組めるような機会を「きっかけ」「入門」段階から含めて多彩に用意し、好子出現の随伴性、つまり「しなくてもよいが、○○するといいですよ」という形で達成感を与えていくことになるのではないかと思った。岡大で学生課と生協が連携しながら行っている(あるいは今後計画されている)公務員講座、教職講座、英語外部試験対策講座なども、ある意味では今の学生のスタイルに合っているようにも思える。和田秀樹氏がよく言う「シゾフレ人間」のタイプにも近そうだ。

 もっとも、学生の積極性がさらに低下していった時には、ある程度の強制を伴わないと何もしなくなる恐れもある。出席や予復習の強制、成績不良者への積極的関与ということも、全入や定員割れの大学では必要になってくるだろう。




 以上は最近の学生についての平均的な傾向であったが、今回の発表では、画一的な見方ができないことも合わせて指摘された。つまり、生活力全般が墜ちている学生もいるし、コミュニケーションスキルが不足している学生もいる。事務室の窓ガラスを開けて「書類を提出に来ました」と言うことができず窓口の前で数時間もウロウロする学生や、クリーニングを出せない学生までいるというエピソードには驚いてしまった。学生の変化が多様である以上、大学側の対応も多様にならざるをえない。

 最後に福盛氏は、これからの大学教育の向かう方向として、従来の「知」と「人格成長」という直行軸を斜めに貫く「学び方のワークショップ」「心理健康学」などの新しい流れを取り入れ、成長の面積を右上がりに広げる工夫があることを強調された。また保健管理施設の新しい役割として、癒し(つつむ)、交流(つなぐ)、体験(つむぐ)機能を挙げられた。

 岡大におけるFD、勉学環境改善、大学生活改善の方策に以上の点をぜひ活かしていきたいと思う。
【思ったこと】
_30220(木)[心理]日本健康支援学会(6)高齢者のQOLの維持をめざした予防的健康支援

 昨日の続き。今回は2日目午後の「健康支援とQOL〜高齢者を対象とした具体的展開に向けて〜」というセミナーについて。この企画は、財団法人日本予防医学協会西日本支部の共催で市民公開講演会「第10回ヘルスサイエンスセミナー」として行われた。司会は下方浩史氏(国立長寿医療研究センター)、話題提供は
  • 新開省二氏(東京老人総合研究所):高齢者のQOLの維持をめざした予防的健康支援
  • 田中喜代次氏(筑波大学):健康支援とQoL(quality of life)〜高齢者を対象とした具体的展開に向けて〜
のお二人であった。本日はこのうちの新開氏の話題について感想を述べたい。

 新開氏はまず高齢者のQOLを構成する要素として、
  1. 客観的QOL
  2. 認知されたQOL
  3. 居住環境(ソーシャルネットワークを含む)
  4. 主観的幸福感
  5. 生きがい
の5点を挙げられた。但しこれらは並列できではない。上記1.〜3.から4.の主観的幸福感、さらに役割達成感が関与して生きがいがもたらされるという構図だ(柴田モデル)。

 歳を取ることで一番問題となるのは、QOLの基盤としての生活機能の低下である。その低下には階層性があるのだが、面白いことに、
  • 都市部高齢者:社会的役割>知的能動性>手段的自立
  • 農村部高齢者:知的能動性>社会的役割>手段的自立
というように、社会活動性の順番に違いがあった。

 いずれにせよ、我々は、事故死や突然死にならない限りは

要支援→要介護→死亡

というステップをたどる。その過程で手段的自立(IADL)が障害される予知因子を見出し、予防的な健康支援を行うことが必要であると理解した。

 質疑の際にも話題になったが、多変量解析で得られた予測関係の中には、血清アルブミン別の生存率などのほか、「中高年女性では、コレステロールが高いほうがむしろ生存率がよい」というような意外な結果も含まれていた。

 この種の統計で多少疑問に思うのは、予測にすぐれたファクターが見つかったとしても、それが本当に因果性を示しているのかどうかということだ。例えば、気圧計の針が下がると雨の予測はできる。しかし、干ばつが続くときにその針を無理矢理下げたところで雨が降るわけではない。私が中高生のころ「背の高い生徒のほうが学業成績がよい」などと新聞の雑誌広告に書かれてあって、背の伸びない私はムッとしたことがあったが、この場合も、仮に相関があったからといって、背を伸ばせば学業成績が向上するとは考えにくい。おそらく、上記のコレステロールの場合なども、共通原因が別にあるものと推測される。

 要するに、ある種の生理的指標などを調べて「○○が高いほど生存率がよい」という結論が得られたとしても、直ちに「○○をふやすと生存率がのびる」という結論には至らないということだ。毎日のように流される健康食品情報も同様であり、「○○を食べている人は健康だ」ということと「○○を食べたら健康になれる」は別物だろう。

 このほか、手段的自立を高めることには大いに意義があるとしても、一日の大半をリハビリに費やすことが生きがいをもたらすとは限らない。何か目ざすものや、楽しみとして強化されるものがあった上で、それを維持する手段として体力等の維持がはかられるべきであろう。
【思ったこと】
_30224(月)[心理]日本健康支援学会(7)登山と旅行と園芸とQOL

 しばらく間があいてしまったが、2/15〜2/16に行われた日本健康支援学会学術集会の感想。2/16午後には「健康支援とQOL〜高齢者を対象とした具体的展開に向けて〜」というセミナーが、財団法人日本予防医学協会西日本支部の共催で市民公開講演会「第10回ヘルスサイエンスセミナー」として行われた。司会は下方浩史氏(国立長寿医療研究センター)、話題提供は
  • 新開省二氏(東京老人総合研究所):高齢者のQOLの維持をめざした予防的健康支援
  • 田中喜代次氏(筑波大学):健康支援とQoL(quality of life)〜高齢者を対象とした具体的展開に向けて〜
のお二人であった。本日はこのうちの田中喜代次氏の話題提供について感想を述べたい。

 まず、この演題で気になったのは田中氏が「QOL」の「O」部分を「QoL」というように小文字で統一していることだった。質疑の時間に、敢えてこの点を質問させていただいたところ、特定の信念や学問的立場を強調するというような意図は無く、単に、通常小文字で表されている「of」が大文字になるのはオカシイというお考えに基づくものであった。確かに「of」が大文字になるのはオカシイしいし、特に語呂合わせの必要もないのに略称に含まれるのも奇妙だ。仮に「QL」と略して何か不都合が起きるのかと思ったが、辞書で引く限りでは、「q.l.」が「処方箋で)quantum libet 希望するだけ,適宜(as much as is desired)」(ランダムハウス英語辞典)となっている程度で、特に混乱を招くとは考えにくい。

 それはそれとして、ここでは他の演題に合わせて「QOL」で統一させていただき、話題提供の中味に進むことにしたい。体育学系の御所属ということもあるのだろうか、基本は、運動の習慣化の強調ということにあった。キーフレーズとして“健康利益と生きがい確保のための運動”、“運動は「健康のため」か「生きがい確保のため」か?”などが特に印象に残った。

 高齢になると、病気以外の死亡事故は、交通事故より転倒のほうが多くなる。また、要介護状態となるきっかけの第3位は転倒であることなどから転倒予防はやはり大切である。このほかにも、さまざまな「ニュースポーツ」が普及されつつあり、AT(一定強度)にこだわらない指導をすることで楽しさを優先することの大切さが強調された。

講演の終わりのほうで私が特に元気づけられたのは、高齢となり体力や健康が衰えるなかで
  • 体力的に良好な人&健康である人→登山のサポート
  • 体力的に不良な人&不健康であるが自立できる人→旅行のサポート
  • 低体力・虚弱の人&不健康で自立困難な人→園芸のサポート
という、個人のニーズを尊重した、地域内での暖かい「サポートシェアリングシステムが」強調されたことである。「登山」、「旅行」、「園芸」といえば、まさに私が最も楽しみとする趣味ではないか。こういうサポートシステムが確立していれば私の老後は安泰である。

 このほか、QOLの意味を問う一例として、米国大統領経験者として長寿記録を更新しているレーガン氏が今年の2月6日に92歳の誕生日を迎えたことが挙げられた。よく知られているようにレーガン氏は1994年にアルツハイマーを発症し、数年前からナンシー夫人を認識できなくなっているという。ここでは、「単に長寿であることがQOLには繋がらない」という意味で引き合いに出されたのではないかと思うが、痴呆であってもそれなりのQOLがあり、それを最大限に保つのがダイバージョナルセラピーなどの目的になるかと思う。但し、痴呆にならなければそれに越したことはない。そのための予防策を講じるのはもちろんのことだ。

【思ったこと】
_30226(水)[心理]日本健康支援学会(8)スポーツ行動とQOL/「Quality of Life」とは「気 of Life」のこと

 2/15〜2/16に行われた日本健康支援学会学術集会についての連載。今回は、大会の最終イベントとして行われた会長講演:

佐久本稔氏(九州女子短期大学):スポーツ行動とQOL

について感想を述べたいと思う。

 講演ではまず、人間が、Homo-Modens、Homo-Rudens、そして、Homo-Sportiusであるという言葉を掲げて、スポーツの意義を強調された。R.Morrisの生き方13類型にも言及されたが、これはまた別の機会に考えを述べさせていただく。

 スポーツ行動は全身協応運動の獲得をもたらすが、これには、弓道のようなクローズドスキルと、サッカーのようなオープンスキルがあるという。後者の場合は、文脈が多様に変化するため、それらに即応できるスキルが要求される。




 大学でも一般社会でも、スポーツ非実施者、あるいは「運動嫌い」が必ず存在する。佐久本氏によれば、同じ非実施者の中でも、関心はあるが情報不足型、潜在型に分類されるタイプと、無関心層を形成する拒絶型、くわず嫌い型がある。私自身の場合は、「スポーツをする暇が無い。スポーツに関わる時間があるぐらいだったら他にやりたいことがある。」と考えてしまうので、拒絶型ということになるだろうか。

 もっとも、外国では、スポーツという概念が遙かに広い意味で使われているようだ。配付資料によれば、例えばカナダ(1995年)において、高齢者が参加する運動・スポーツ細目のTop3は、ウォーキング、ガーデニング、家庭での運動となっていた。私などもウォーキングなら毎日2回実践しているし、週に2〜3回はガーデニングもやっている。そういう意味なら、必ずしも運動嫌いではないことになる。




 講演の終わりのほうで、主体性を顕在化していく過程としてスポーツの意義づけがなされた。私自身はスポーツ、特に競技スポーツというのは

●能動的に関わり努力を積み重ねていく行動のセットであり
●それらの行動をすること自体、ある種の内在的結果(スピード、発散など)をもたらすものであるが、
●併せて、適切な大きさで適度かつある程度偶然性を含む確率で、人工的に結果(得点、勝利、金メダルなど)を付加する随伴性が準備されたシステム

として定義することができると考えている。「主体性を顕在化していく過程」とは、おそらく、能動的行動が付加的な結果の随伴の中で精緻化され、リパートリーを増やしていく過程のことを言うのだろう。




 最後のあたりで、佐久本氏は、「気」ということの大切さを強調された。
 私自身は、「気」というものは客観的・科学的には測定不可能なオカルトまがいのものであると受け止めているが、構成概念としてなら、QOLの代わりに東洋的な「気」を使ってもいっこうに構わないと思っている。佐久本氏に語呂合わせの意図があったのかどうかは定かではないが、そう言われて見れば、
「Quality of Life」とは「気 of Life」のこと

と言えないこともない。

【思ったこと】
_30228(金)[心理]日本健康支援学会(9)学会の細分化と適正規模

 2/15〜2/16に行われた日本健康支援学会学術集会についての連載の最終回。2/15の日記に書いたように、この学術集会はネット上で「QOL」関係の資料を集めている時に偶然知っただけであり、私自身は会員ではない。

 QOLに関する様々な知見を吸収できたことは私にとっては大きな収穫であったが、1つ意外に思ったのは、これだけ重要なテーマが掲げられているにもかかわらず、参加者は比較的少数。主として、九州地域の保健学科や体育関係の研究者に限られているように思った。

 そんななか、会場で偶然、心理学関係の知り合いに出会ったので、最近の各種学会の動向について話した。その方によれば、かつて私が入会していた某学会(複数)を含めて、最近は、ますます、小規模の学際的な学会が次々と作られ、うっかり理事などを引き受けてしまうと、雑務に追われて大変なことになるのだという。

 そう言えば、私が最近入った某学会なども会員数は100〜200名前後。会費は1万円程度となっている。100名の会員が1万円の会費を払えばとりあえず学会誌の発行ができる。そして、いったん学会を作ってしまうと、いろいろなしがらみからそう簡単には解散できない。小規模であればあるほど退会しにくいという事情も出てくる。

 年次大会で会員全員が発表するとなれば、むしろ100〜200人規模のほうがアクティブな活動ができるかもしれない。しかし、規模が小さければ小さいほど、内輪の情報交換だけに終わってしまう可能性があり、外部に影響を及ぼすことができない。どんなものかなあと思う。

 今後の方向として、年次大会を合同開催したり、ネット上で非会員との交流を活発にするなどの手だてが考えられる。ま、基本的には学会も競争社会。使命を終えれば解散あるいは自然消滅ということになるんだろうが。