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日本行動分析学会第20回年次大会


2002年8月22日(木)〜8月24日(土)
日本大学生物資源科学部(神奈川県・藤沢市)


「シェイクスピアと能と行動分析」のご講演者の上田邦義先生から、8/27付および8/28付の報告・感想について、ご丁寧なご挨拶と長文のお返事をいただきました。たいへん恐縮かつ光栄に存じます。私だけが拝読するのは勿体ないと考え、このサイトへの転載をお願いいたしましたところご快諾いただけましたので、以下、公開させていただきます。


9/16付でいただいたお返事です。
8月27日分。
 先生が「しばしば引用」されるとおっしゃるスキナー教授の文章は、私が引用した社会的行動に関わる文章の、心理的根底に関わるものなのでしょう。実は私も最初、その箇所も引用しようと思いながら、長過ぎる引用を恐れて省いたのでした。

 というのは、私があそこで特に言いたかったことは、スキナー教授の本質は「心理学者」以上に「社会改革者」、すくなくとも若きスキナーが目指していたものは、それだったのではないか、ということでした。

 ちょうどN.チョムスキーが言語学者であると同時に(それ以上に、もしくはその本質は)、社会活動家(改革者)であり、その結果としていま、「アフガン報復爆撃に反対して」いる、というように。故に、先生ご指摘のとおり、スキナー教授も存命なら、チョムスキーと活動を共にしたであろうことは十分考えられますね。

 そして、「報復」が決してよい結果を生まないことを、行動分析学者なら、自明のこととして、受け止めておられることでしょう。

 行動の結果だけを問題とせず、そのよって来る原因をつきとめ、相手を理解する努力がなされないなら、この「報復」行動は、まったくの負であり、人間心理を解さぬ行動ということになるでしょう。

 その後、アメリカ政府は、アメリカ在住のイスラム系移民を拘束しているそうですね。そして、その行方が分からない、ということで、アメリカでも問題になりつつある、ということのようですね。

8月28日分。
 さて、人生観もしくは死生観に関する大問題。

 鈴木大拙の、来世のことは「わからんなあ」や、ヘンリー・ソローの "One world ata time." 「一時にひとつの世界」や、またスキナー教授も不可知論を抱いておられたらしいのに対して、私は(不遜にも並べて申し上げてよければ)、「さらに美しい世界に生きたいと思って死ぬ」、とあの時、申し上げたのです。それは今も変わりません。このあたりの私見についての先生のご賢察は、すべてそのとおりでございます。

 私は、科学はまだ極めて未熟な段階にあって、今後加速度的に進歩すれば、これまで知られなかった多くの新たな発見をすると期待しています。

 さらに、人間の可能性に対する期待・願望・意思の強さは、人間の遺伝子さえも変えるであろう事を信じている、といってもいいくらいです。 人間としてそのように未来を信じて生きたいし、そうなる研究もしたいし、それを目指すような教育を行いたい、と思っています。

 人間は、明日への希望やヴィジョンなしには、現在の生を真に生かし、全うすることは難しい。本当に現在の生を価値あるものとして生きるためには、目標ないしは方向(デイレクション)が必要である、と考えるものです。

 そしてその目標とは、すべての人間の幸福でなければならないと考えるものです。そうではないでしょうか。

 そのためには、世界中のすべての民族、すべての文化が尊重されなければならない。比較や優劣や競争ではなく、すべての生あるものの尊重であり、その調和あるいは融和・融合が必要である。「生あるものはひとつである」という意識、私はそれが必要であると思うのです。

 そのために、数年前、新たに「国際融合文化学会」( International Society for Harmony and Combination of Cultures )「世界のすべての文化の調和と結合を求めての国際学会」なるものを、結成した、というわです。

 さて、先生の、「『当面の課題に最善を尽くす』生き方がをとったほうが気楽で、結果的に間違いも少なくて済むように思うのだがどうだろうか」というご提案もしくはご質問ですが、これは人類全体にとっての最大の問題かもしれませんね。

 というのは、先ず「当面の課題」の問題です。

 なぜなら、私たちの多くにとって、「当面の課題」というのは、職場や家庭での仕事であって、私たちの環境(国や地球)がどうなってゆくか、にそれほど関わらないからです。ということは、それを管理者(政治家)にお任せするということになる。

 キリスト教でも仏教でも、「明日を思いわずらうな」「いま、ここに最善を尽くせ」と言っています。実は私も最近までこれを信じていました。[実はもうひとつ、この世で一番大事なものは人間の生命である、を信じ込んていたように。(今もそう信じていると言ってもいいのですが、これだけが一番大事とは言い切れない)]私は「明日を願い」「今ここに最善を尽くすためにはヴィジョンが必要だ」と言いたいのです。

 つまり、この宗教的教えは、現実には、「今やっていることをただ誠実にやればいいのですよ」という、これは考えようによっては、現在の保守的な管理者に都合のよい教えになりうる、と思うからです。戦争にも協力しかねない。

 まだ進化の途中で、成長発達段階にあるヒトとしての生き方を考えるとき、これは、少なくとも人類の精神的進化に貢献する生き方としては、最善ではないのではないか。

 私たち人間は、できるだけ広い視野と、高い意識を持ちたい、と思うわけです。

 私があのとき、私たちは過去と現在と同様に、いやそれ以上に、未来に関心を持つべきではないか、と申し上げたのも、実はそのことと関連してなのです。

 人間はアメリカ人だけではなく、人類全体であり、その明日やあさってや、未来への見通しや、ヴィジョンを持つことは、絶対に必要なことではないでしょうか。

 過去についての研究ないしは考察(分析の結果の解釈とそれをどう生かすか)が間違っているために、また現在の「まだ不完全な人間」の研究に関わりすぎているために、私たちは理想的な人間のあり方を、忘れてしまっているのではないか、と言いたいのです。理想的な社会のあり方(スキナー教授のユートピア)を忘れてしまっているのではないか、と。

 『英語能・ハムレット』の件。

シェイクスピアにも能にも、霊の存在を前提とした作品がある。
私は「死は肉体の死にすぎないのではないか」と言っている。

 今日なお、インド人の多くが、イスラム教徒の多くが、この世の命よりも、来世(死後に行く世界)の命を大事に思っているという。

 一方、キリスト教徒(キリスト教の教会へ行って祈る人たち)の多くは、この世しか信じていないらしい。しかし彼らの『聖書』は明らかに、来世の存在を暗示していると思うのに。イエスが「金持ちが天国に入ることは、らくだが針の穴を通るより難しい」と言ったとき、「天国」とは、死後の世界でのことではないのか。

 以上、またしても舌足らずのご返事ですが、今日のところはこの辺にさせてください。 ご多用と存じますので、ご返事には及びません。

 なお、私どもの学会、国際融合文化学会のホームページは次のとおりです。
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/index.html
参照していただければ幸いです。

 また、次回、岡山大会の、成果の多からんことを、期待いたしております。
以下、長谷川から上田先生に差し上げたお返事の一部を追記させていただきます(9/17付)。
 さて、先生の、「『当面の課題に最善を尽くす』生き方がをとったほうが気楽で、結果的に間違いも少なくて済むように思うのだがどうだろうか」 というご提案もしくはご質問ですが、これは人類全体にとっての最大の問題かもしれませんね。

というのは、先ず「当面の課題」の問題です。
なぜなら、私たちの多くにとって、「当面の課題」というのは、職場や家庭での仕事
であって、私たちの環境(国や地球)がどうなってゆくか、にそれほど関わらないか
らです。ということは、それを管理者(政治家)にお任せするということになる。
このあたりは、私も悩むところであります。
ウェスタンミシガン大学のマロット博士による行動分析の教科書

Malott, R. W., Malott, M. E., & Trojan, E.A. (2000). Elementary principles of behavior (4th ed.). New Jersey: Prentice Hall.

にはそのあたりのプランが書かれておりますが.....。

 じつは、本日の日記で、たまたま、"One world at a time." 「一時にひとつの世界」 についての考えを再度記してみました。

 先週のNHK「にんげんゆうゆう」で

「新老人の時代が来た〜日野原重明医師に聞く」

というシリーズが放送されており、その中で

R.ブラウニングの

●小さな円を描いて満足するより、大きな円の一部である弧になれ

という言葉が引用されていました。

これは、先生のお考えに一致するピッタリの言葉ではないかと拝察されます。

それについての小生の考えは
http://www.okayama-u.ac.jp/user/le/psycho/member/hase/journal/psy-rec/_20910/index.html#_20916
に述べたところであります。

小生のような我が儘者には、「大きな円の一部の弧」になるのはやはり重荷であり、もうすこし気楽に
やはりこのあたりは、

●自分は大きな木から岩盤の割れ目に潜り込もうとしている細い根っこである。伸びた先に水があるかどうかは分からないが、とにかく根っこの一部なんだ。

と気楽に考えて頑張ってみるぐらいがよろしいのではないだろうか。

自分が根っこの一部としてどれだけ水分や養分を運んでいるかは分からないが、すでに朽ち枯れていても風に押し倒されないための支えにはなっているかもしれない、
少なくとも、この樹木の害虫にはなっていないはずだという生き方である。
と考えてみてはどうだろうか、というのが現時点での結論になっております。

今後さらに、先生の御著者や、日野原先生の御著書などを拝読し、さらに研鑽を積んでまいりたいと考えておりますので、ご指導のほど何卒よろしくお願いいたします。
9/19付でいただいた上田先生からの追記です。
日野原先生は鈴木大拙氏のホームドクターもなさった方ですね。
実は先日、大拙氏の故郷の金沢市を訪ねた折に、「ふるさと偉人館」なる建物を発見し、立ち寄ったところ、大拙氏に関する最近の図書が展示されており、1時間ほど読みふけりました。その中に、日野原先生が数回登場しました。
あのような先生に人生の最後をお任せしたいものですね。

行動分析学会の会員で、お医者さんの方ですが、同じようなタイプの方がいらっしゃいますね。

私は自分を、肉体よりは精神で生きている人間と思っていますから、人間を単なる肉体と見て診断する医師にはかかりたくないのですが、その方は私の意志を十分に尊重してくださるようなのです。生きている間も死ぬときも。

私は人間の生き方として、その人が何を残したかという結果よりも、その人が何を目指して生きたのか、というデイレクション(方向)の方がもっと大事なのではないかと考えています。目指す方向。

生きてる時も、死ぬときも、人間にとって一番大事なものは、意思の、自由意志の、デイレクション(目指す方向)ではないかと。

先生のおっしゃる「能動主義の心理学」に関心を持ち始めています。