インデックスへ


人間・植物関係学会設立総会


2001年9月30日(土)
三田市の兵庫県立「人と自然の博物館」



目次


【思ったこと】
_10930(日)[心理]人間・植物関係学会設立総会(1)進士・東京農大学長の基調講演(1)「木を見て森を見ない」研究

 三田市の兵庫県立「人と自然の博物館」で行われた人間・植物関係学会設立総会(第一回大会)に出席した。この学会は、九大大学院の松尾英輔・教授が中心となって設立されたもので会員数は8月末の登録数で正会員156名、学生会員7名となっている。昨年10月14日に行われた設立準備会発足記念講演会にも参加したことがあった。

 今回の設立総会ではまず、進士五十八(しんじ・いそや)東京農業大学長から「ランドスケープ分野における人と植物の関係」というテーマで基調講演があった。わずか1時間であったが濃い内容かつ分かりやすく、非常に参考になった。

 進士先生と言えばこちらのプロフィールにもあるように、全国の大学長の中でもきわめてアクティブに活躍されているお一人。 また、大学サイト内のメッセージも、“「農」の思想の中の知恵”、“ 百姓(トータルマン)”、“ 都市の『農村化こそ』”、“ 新しい都市と農村の共生をめざす”など、斬新なアイデアが盛りだくさん。ともすれば、バイオテクノロジー一辺倒に走りがちな農学研究の中にあって、人間と自然との関係性を重視したトータルな視点を示しておられる点で際だっている。

 今回の講演ではまず、近代科学が発展していくなかで研究対象が細分化され、「木を見て森を見ない」研究の弊害が表れていることの問題点が指摘された。
  1. 農学の場合、もっぱらモノを対象とし、生産拡大の条件が検討されてきた。
  2. 工業は大量生産により文明の画一化を推し進める。その反動として生物多様性を尊重する動きが出てきた。
  3. 要素に分け、特定のfactorだけを取り出して分析するという方法からはおさらばすべき。
といった内容であった(あくまで長谷川のメモに基づく)。

 このうち特に3.については、私自身さいきん特に問題として感じるところでもある。例えば、あるセラピーの有効性を実験的に検証しようとすると、必然的に、要素を細かく分けた上での実験操作が行われることになるが、これでは、全体の関係を把握することができない。進士先生はその一例として、戦後の都市緑化の誤りを指摘された。例えばキョウチクトウは、公害がもたらす劣悪環境の中でもちゃんと花を咲かせる樹木として選ばれた。このほか、常緑樹化が進んだのも単に一年中緑を保つというだけの分析的発想による。人間が求めているのは色彩としての緑ではなく、緑に象徴される自然とのふれあいなのだが......。

 このことでふと思ったが、本物そっくりの観葉「植物」インテリア、本物そっくりの熱帯魚インテリアなども同じ発想かと思う。多少の装飾にはなるにせよ、充たされることはあるまい。



 さて、モノを対象とした分析的な研究から、関係を対象とした全体的な研究への転換とはどういうことを言うのだろう。これは、ある意味では、「モノ」中心の英語から「コト」中心の日本語表現の中で初めて正確に記述できるものかもしれない。ちなみに「行動分析」はどうなるのかと思ったが、よく考えてみたら、個体が能動的に環境に働きかけるという意味で、「行動」それ自体が、関係性を示す概念になっていることに気づく。

 それから、この関係性は、衣食住それぞれにおいて重視されるべきもの。「衣」は「文脈や気候に応じてすでに反映されているが、食や住でも同じような全体的視点が必要であろう。「住」においては、街並みや新興住宅地の全体的な景観など、「食」については、まさに「人間食物関係学会」があってもおかしくないと思うほどの改善が必要。食べ物をどう加工するかよりも、食べ物と人間との関わりを第一に考えていく必要がある。NHKが今年取り上げている「食」をめぐる番組を時々視ているが、そういう点ではよくできていると思う。
【思ったこと】
_11001(月)[心理]人間・植物関係学会設立総会(2)進士・東京農大学長の基調講演(2)ガーテン、果樹園、田園公園など

 講演の初めのほうで進士先生は、ガーデンはguardに通ずるという話をされた。エデンの園に象徴されるように、古代の庭園は植物や動物がセットとなり、安全で人間が生きていくための条件がすべて整えられている場所のことを意味したとか。gardenとguardはスペリングが違うのでは?と少々疑問に思ったが残念ながら質問する機会が無かった。

 中国では、毛沢東の時代から、公共の場に、漢方薬に利用できる木や果樹を植え、池には食用となるソウギョやライギョを入れたという。これを聞いたある日本人は「中国って貧しいんですねえ」と言ったというが、考えてみれば、日本の講演の樹木はあまりにも素っ気ない。管理が大変だとは思うがもっと果樹を入れてもよいように思う。

 講演の途中では「樹芸(アーボリカルチュア)」の話も出た。樹芸や園芸の「芸」というのは、ありのままの自然ではなく、人間が手を加えて関係をつくることを意味するのだという。盆栽もその1つで、対象植物の性質を活かして手を加えていくことになる。

 植物と人間の関わりにも、ペット型、家畜型、野生動物型があるという話も面白かった。ペット型というのは、室内で育てる観葉植物のようなもの。家畜型というのは、屋外で、ある程度手を加えて育てる花壇のようなものを言うのだろう。その1つとして田園公園という構想もあるらしい。私の住んでいる地域では年々田んぼがつぶされて宅地の造成が行われているが、用水自体はまだまだ活きている。市街地と農村を分断するのではなく、市街地の中に田んぼを残すという発想をぜひ大切にしたいものだ。
【思ったこと】
_11004(木)[心理]人間・植物関係学会設立総会(3)新会長挨拶/研究発表会(1)柿との関わり

 進士・東京農大学長の基調講演のあと、設立総会。最初の会長に選ばれた松尾・九大大学院教授より簡単な挨拶があった。松尾先生は、進士学長の講演の内容を受けて、
  • 「核分裂」を繰り返してきたこれまでの自然科学の研究を「核融合」の方向に持っていく必要があること。
  • そのためには「関係」に注目する必要があること。
  • これまで人間にとって植物は空気と同じぐらい当たり前の存在であったが、これからはそういうわけにはいかない。
  • 食物連鎖の上に位置する種ほど、バランス崩壊の影響を受けやすい。
といった点を強調された。

 引き続いて、11時30分から、4件の研究発表があった。今回は、いずれも学会誌第一巻第一号掲載論文の執筆者による発表であった。



鶴岡(山形県)と弘前(青森県)における市民の果物観の比較調査--カキに対するる意識を中心として--

 この発表でスゴイと思ったのは、アンケート調査を実施するにあたって、各市役所の選挙人名簿から年齢も配慮して500人ずつを無作為に抽出したという点である。依頼は郵送、回収率も4割台ということなので、まずまず。全市民を対象に調査した場合とあまり違わない結果を出せたのではないかと思う。

 結果の中で面白かったのは、両市とも、リンゴが最も好まれること、いっぽう、「秋を感じさせる果物」としては、鶴岡がカキ、弘前がリンゴというように地域差が現れたことである。人々の季節感が、それぞれの地域で生産されている果樹の種類を反映しているという証拠を得た点で興味深い。このほか、小中学生との比較データも公表された。もっとも彼らの場合は、選挙人名簿から無作為に抽出できない。このあたりが世代間比較をする上での難しい点かと思う。

 この研究の本来の特徴は、カキと人との関わりについて、全国有数の産地である鶴岡市と、リンゴの産地である弘前市を比較することにあった。季節感を与える果樹に違いが出るなど、信頼性の高いデータが得られた点は評価できるのだが、行政単位別の群間比較にどれだけ必然性があるのかという点にはちょっと疑問を持った。なぜなら、果樹との関わりはもっと個別的な生活環境に依存してからである。自分が鶴岡市民であるか弘前市民であるかということはその遠因にすぎない。また、いくらが似ているからといって、両都市には、気候、風景、交通、産業さまざまな面での違いがあるはずである。両市民の果物観に違いが見られたからといって、その原因を直ちにリンゴと柿の生産量の違いに帰属させることには無理がある。

 それではどうすればよいか。個体別に、例えば、
  • 住居の周辺○○m以内に何本の柿の木があるか
  • 一日にのべ何本の柿の木を見るか
  • 毎年何個ぐらいの柿を食べるか
  • 自分の手で干し柿作りをするか
といった形で、こうした個人別の数量データと好物や季節感などのデータの相関をさぐったほうがより生産的な結論が得られたのではないか。その場合、必ずしも選挙人名簿から無作為に抽出することに労力を費やす必要は無いのではないか、というのが率直な印象であった。

 もっとも今私が述べたような研究方法は、要因を細かく分けて効果を見るという伝統的な近代科学の手法に基づくものであって、先に進士・農大学長が強調された「全体を見る」という視点が活かされていない。もう一歩研究を進める時には、細かい要因の列挙ではなく、カキと関わることが個人の生活をどう形成していったのかを全体的に把握するようなアプローチが別に必要となる。これは、アンケートに基づく平均値比較ではなく、個別的な聞き取り、事例研究を通じて達成されるものかもしれない。
【思ったこと】
_11005(金)[心理]人間・植物関係学会設立総会(4)研究発表会(2)高齢者の園芸活動の効果評価

 昨日の続き。

アンケート評価法による老人福祉施設における園芸活動の効果についての評価に関する一考察

 老人福祉施設のスタッフに入所者個々人についてのアセスメントを依頼。園芸活動が入所者に及ぼす効果を数値化、主成分分析により「園芸活動および介在する人間への積極的関与」と「表情の変化」という2つの主成分を抽出したというような内容だったと思う。

 内容から外れて恐縮だが、この研究発表ではまず、タイトルが冗長ではないかという第一印象をもった。1つのタイトルの中に「評価」が2回も出てきたり「による」、「における」、「についての」、「に関する」というのは無くてもよいはずだ。単に、

老人福祉施設における園芸活動の効果評価〜質問紙法を用いて〜

ぐらいでもよかったのではないか。

 次に内容について気づいたことをいくつか。
  • こちらでも論じたように、高齢者の行動のアセスメントは大切である。主観的印象や思い入れの影響を受けないような工夫、個別の行動ではなく生活全体を捉える工夫という点で、今後の発展が期待される。
  • とはいえ、表情の明るさのような評価がスタッフにどこまでできるのか、盲検法を導入すべきではないか、まずは、スタッフ自身が行う評価にどのようなバイアスがかかるのかをチェックしておくべきではないか、といった疑問が残った。
  • この種の調査は、スタッフ側に過重な負担をかけないという制約のもとで実施せざるをえない。その点はよく分かるのだが、「作業に集中できているか」、「話をよくするか」などの細かい変化は、やはり第三者の観察やビデオ記録を通じて客観的に把握すべきだと思う。
  • 各質問項目はそれぞれ5段階評定で数値化されるようになっているが、選択肢を見ると、とうてい間隔尺度とは言えない。、道具を扱うことについての質問項目を例にあげるならば、
    • 指導することなく適切な道具を選び、正しく使いこなせる→5点
    • 口頭による指示により適切な道具を選び、正しく使いこなせる→4点
    • 身体的誘導及び身体的援助により道具を扱うことができる→3点
    • 最大限の援助を行うことにより道具を扱うことができる→2点
    • 道具を扱うことができない。→1点
    となっているが、これはどうみても順序尺度。しかも、ここでは「道具を使う」困難性について、能動性の程度と、道具知識の程度、身体的障害の程度というように複数の要因が混在していることを考えると、もはや名義尺度的な分類にすぎないようにも見える。それらをそっくりと多変量解析にかけたり、平均や標準偏差を求めるデータに使ってしまってよいものか、疑問が残る。

【思ったこと】
_11010(水)[心理]人間・植物関係学会設立総会(4)研究発表会(3)「育てる」ことの精神的効果


プランターでの植物栽培が脳波、心拍変動、感情に及ぼす影響

 大学生を2つのグループに分け、実験群はハツカダイコンの栽培、統制群は苗をみるだけという条件を繰り返し、その前後で、感情プロフィールテスト(POMS)や脳波、心拍変動係数を測定し、「育てる行為」によってどのような変化が生じたかを検討したものであった。結果として、実験群ではPOMSのいくつかの項目で負の感情が減り正の感情が増える傾向が認められ、また、α波の有意な増加も認められたという。

 被験者数が少ないこと(男女別の比較をした場合には各群6名となる)、「育てる」、「見る」ための時間が少ないこと、「育てる」作業のどの要素が有効であったのかが明白でないことなど、いくつかの問題点は残っているが、伝統的な実験的手法を忠実に守ったという点では、非のうちどころのない内容になっている。辛口の表現をするなら、論文になりやすい研究と言うことができる。

 むしろ、この種の実験研究では、
  1. 得られた成果をどこまで一般化できるのか。
  2. 平均値の差だけで有効性を判断できるのか。
ということのほうが問題ではないかと思う。

 このうち1.について言えば、仮にこの実験で、心理テストや各生理指標に顕著な有意差が現れたとしても、
  • その効果はハツカダイコンの栽培に限られたものなのか
  • 被験者が学生(それも、栽培が大好きと思われる某大学園芸学部の学生)であったために現れた効果なのか
  • 長期的な有効性はあるのか
  • 単に体を動かしたことによる効果ではないのか(同じ程度に体を動かすという条件のもとで、「育てる」作業と「育てない」作業の比較が行われていない)
といった疑問が残る。そして、もしそれらの要因を個別に取り出して検証しようとすると、一人の研究者が一生それにかかりきりになってもカバーしきれないほどの組合せができてしまう。この学会の基調講演でも指摘されたように、これでは「木を見て森を見ない」、あるいはもっと極端に、「葉っぱの細胞を見て森を見ない」悪癖に陥ってしまうだろう。

 もうひとつの2.は、1.とは別の視点からの批判である。この種の実験では「植物を育てる」作業がすべての人にポジティブな精神的効果をもたらすとの仮定から出発しているわけだが、もしかしたら、100人のうち5人の人だけにしか有効でないかもしれない。その場合、平均値の有意差によって万能な効果の有無を検討しても意味がないことになる。つまり、万能性よりも、多様性にどう対処するかという視点が求められるようになる。

 余談だが、この3番目の研究発表の座長は長谷川が引き受けさせていただいた。フロアからは少なくとも3人の方から挙手があったものの、制限時間オーバーにより座長権限で質疑をうち切らせていただいた。発言を希望された方々には、この場を借りてお詫びさせていただく。

]上記の問題点についての一般的な考察は、こちらにあります。】
【思ったこと】
_11011(木)[心理]人間・植物関係学会設立総会(6)研究発表会(4)1つでも「よかった」があれば...../「学会誌=印刷物」の発想を改めよう

 9/30に行われた学会の報告の最終回。

高齢の脳梗塞患者への園芸療法の実践事例

 4番目の発表は、脳梗塞で片麻痺の障害を抱える高齢者に対して園芸療法を実施し、QOLやADL(Activities of Daily Living)の向上を評価するという内容だった。Relfの評価項目などを取り入れ、40週にわたり変化を観察した結果、30週以降において行動上の改善がみられ笑顔も増加、これらの結果から
  • 園芸療法は、実施する環境やモチベーションの向上といった意味ではリハビリ室での訓練と比べて利点が認められる
  • 草花に囲まれた戸外という園芸療法の環境条件が潜在能力を引き出す上で効果をもたらした
というようにまとめられていた。

 この発表では、医療効果よりも生活指導面を重視する園芸療法の側面が活かされているように思った。フロアからの意見交換の時にも似たことが言われたが、「医療効果があるか無いか」などという実証性に固執するよりも、園芸療法を実施することで何か1つでも良い結果が出てくるならばそれでよしとする考えがあってもよいのではないかと思う。もちろん、だからといって全体的な評価を怠ってはいけないし、主観に基づく自己満足であってもならない。心理学や行動分析学で培われた評価法は必ず役に立つはずである。

 昨日も紹介したが、このあたりについての私の考えをこちらの小論にまとめてある。




 以上、6回にわたり人間・植物関係学会第一回大会参加の感想をまとめてみた。今回は、口頭発表が各20分、4件だけという短さであったが、他分野の研究者の意見交換を重視するためにも、各テーマに1時間ぐらいの討議時間をさいてもよかったのではないかと思った。

 また、学会誌の刊行にあたっては、原著論文だけでなく、レフェリーの修正意見やそれに対するリプライも同時に掲載し、いわゆるオープンリビュー形式としたほうが読み手に多様な視点を与えるという意味で情報的価値があるように思った。

 もう1つ、この学会の会費は一般会員が年間1万円となっていて、心理学関係の諸学会に比べると少々割高である。すでに別の学会にいくつも入っている人にとっては、結構負担になるのではないかと思う。ではどうすればよいのか。学会が必要とする経費の半分近くは、機関誌の印刷や郵送にあてられているのである。印刷をとりやめ電子ジャーナル一本にしてしまえば、会費を半額にすることもできるはずだ。学会誌は何がなんでも印刷物にすべきだという発想はもう古い。論文は不特定多数に無料公開し、印刷費や郵送費の節約分はサイトのメンテ、各種研修会の実施、その他、運営に必要な事務経費に限るべきではなかろうか。