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日本行動分析学会第19回年次大会 西南女学院大学(北九州市)2001年8月23−24日


目次

※Web日記形式のため、各記事の順番は必ずしも日程順にはなっておりませんのでご了承ください。

  1. 2日目夕刻:痴呆性高齢者をめぐるシンポジウム
  2. 2日目午後:口頭発表
  3. 2日目午前:ジャネット・トゥワイマン氏(Dr. Janet S. Twyman)の特別講演「スキナーの言語行動論にもとづいたコミュニケーション指導」
  4. 2日目午後:シンポジウム「ネットを利用した大学教育〜行動をいかに強化するか〜」
  5. 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(1)
  6. 1日目午後:行動分析学の点検::強化と強化スケジュール(2)対応法則
  7. 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(3)反応を抑制する罰と、促進する?罰/強化概念の天動説、地動説(1)
  8. 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(4)強化概念の天動説、地動説(2)「行動の原因」の2つの意味
  9. 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(5)強化概念の天動説・地動説(3)能動表現と受動表現/言語に依存した概念的枠組
  10. 1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(6) 強化の因果性
  11. 1日目午後:21世紀への展望〜行動分析学の現在・未来(1)
  12. 1日目午後:21世紀への展望〜行動分析学の現在・未来(2)/まとめ


長谷川ゼミ構成員の感想



8月24日(金)

【思ったこと】
_10824(金)[心理]行動分析学会年次大会(1)痴呆性高齢者をめぐるシンポジウム


痴呆性高齢者をめぐるシンポジウム

 大会2日目の夕刻に表記のシンポが開催された。シンポでは、まず、「もの忘れ外来」で有名な山田達夫先生(福岡大学医学部)から、アルツハイマー病(AD)について医学的見地からの小講演をいただいた。

 医学の専門的なことはよく分からなかったが、私が理解した範囲では、アルツハイマー病は
  • 痴呆の6割以上を占める。
  • 病理学的には、タンパク質の構造異常により凝集不溶化し組織への沈着(→脳に発生する老人班)が起こる疾患である。具体的にはβアミロイドというタンパク質が何らかの原因で不溶化するために起こる。これが蓄積されると脳の神経細胞、とりわけ側頭葉海馬の部分の細胞死をもたらし痴呆へと至る。これは10年という長いスパンで進行していく。
  • 医学の重要な使命は、細胞死が起こる前の時点でADをいかに早期発見し、沈着や細胞死を防ぐかという所にある。病気が進行してしまった後でもアリセプト(donepezil)などの薬で改善することはあるが、もはや治療はできない。
  • 画像による早期診断は無理。それよりも
    • 何度も同じことを言う
    • 捜し物が多い
    • 愛想がよく、もっともらしくふるまう
    といった行動特徴から専門家が的確に診断することが必要。
  • 同居家族は上記の変化に気づかないことが多い。加齢にともなうごく普通の老化現象であると見誤ってしまう。
  • 急激な環境変化、要職に就くことによるストレス、近親者の死などをきっかけに急に発病することがある。
  • 予防策としては一般に、「◎魚 ×肉」、「昼寝の習慣」、「タバコを吸わない」、「ワインは抑制因子」などがあると言われている。
  • CDRI期からII期に進行する過程では、「少し前屈みになる」、「肩が左右どちらかに下がる」といった特徴が出てくる。
 痴呆の進行が細胞死を伴うものであるとすると、例えば自分の配偶者の顔を忘れてしまった場合、無理にそれを思い出させようとしても限界があるはずだ。「心の旅路」やコナン・ドイルの『五十年後』という小説では記憶喪失は何かをきっかけに劇的に回復することがあるが、同じことを痴呆性高齢者に期待することは不可能。それよりも、御本人の脳の状態に合わせて、最善の生活環境を整備したほうがより良い余生を送れるのではないかと思われる。

 ある程度の高齢に達した人が痴呆にならずに亡くなる場合と、重度の痴呆を伴って亡くなる場合で、どちらが幸せな最後にあたるのだろうか。目標をもち、計画的な人生を送ってきた人にとっては、過去をきっちりと総括し、近親者や知人に感謝の言葉を述べてから死ぬことで初めて人生を全うできることになる。そういう人にとっては痴呆は最悪の障壁となる。しかし、痴呆になったからといって何から何までマイナスということでもあるまい。ある意味では死の恐怖や、家族との離別の悲しみから逃れられることもある。ポジティブに考えていくほかはないだろう。

 以上、山田先生の御講演と若干の感想を述べた。山田先生はさらに、痴呆の諸特徴をふまえ
  • 残存能力を利用し、自立した状態を保つ
  • 分かりやすい人間関係を築く
  • 役割を持たせ生活行動を立て直す
といった点でグループホームのメリットを説いておられた。高齢者を施設に入居させることを拒絶する家族も多いと聞くが、上にも述べたように、脳の細胞死によって家族への記憶が失われてしまった場合、それを取り戻すことにこだわったり過去のしがらみに囚われることよりも、本人の今の状態を事実として受け止め、生まれ変わった人として接し、最善の生活環境を用意してあげることも大切かと思う。もちろんその前提として、施設側が入居者の能動的な行動に対して多様な結果を用意していることが求められるわけだが。

 このほか山田先生は御講演の最後のところで「生涯現役社会」の重要性を強調しておられた。真の親切とは、本人に成り代わって要求を満たしてあげることではない。本人の能動的な行動に対して適切に結果が随伴するように若干の手助けをするという姿勢こそが、「行動分析的親切」の本質と言えるだろう。




 シンポでは引き続き、現場での観察や実践についていくつかの話題提供があった。特に気づいた点を2つだけメモしておきたい。
  • グループホームにおける入所者の生活行動を1年間にわたり観察するという報告があった。そのご苦労は大変なものであろうと拝察されるが、できれば観察のカテゴリーをもう少し「具体的行動および結果」という形で記述してほしかった。
    例えば、「居室で過ごした時間」という記録があるが、「居室に存在する」というだけなら死人でもできるので行動とは言えない。居室でどういう行動を発し、どういう結果が伴っていたのかを細かく記録する必要があるかと思う。
    この点についてフロアから質問したところ、プライバシーの問題もあり、居室での行動の把握は難しいとのご回答をいただいた。その通りではあるが、例えば、テレビやカラオケ機器の使用時間や頻度のようなものは自動的に記録できるのではないかと思った。
  • デイサービスの際に、バス乗車や入浴をことごとく拒否する重度痴呆高齢者の事例が紹介された。興味深いのは、デイ時間に「ちょっと、ちょっと」と言いながら近寄り、ささやきながら要件を言うと、「おう、そうかね」と受け入れる頻度が多くなるという行動変化があった点である。集団全体に対して命令口調で誘導する場合と、その人だけに個別に依頼をする場合の効果の違いではないかと思ったが、本当の原因は何だったのだろうか。

8月27日(月)

【思ったこと】
_10827(月)[心理]行動分析学会年次大会(2)

2日目午前中の口頭発表

 最初は、“学校現場で発達障害児のリテラシー獲得を支援する:「等価関係」成立のためのコンピューター支援指導”(山本淳一氏ほか)という長いタイトルの発表だった。タイトルにも含まれている「等価関係」は重要な視点ではあると思うが、漢字のように複数の読みが存在し、文字よりも熟語として意味をなす性質のものについては、固定的な一対一対応関係を作らないほうがよいという気もした。また、これは私自身がかつて『行動分析学研究』掲載論文のなかでも指摘したことでもあるが、発達障害児の場合、漢字熟語と事物との対応は比較的学習しやすいが、書き取りは苦手というケースも多く見られる。「読み書き万能」よりも、学習可能なスキルを最大限に伸ばしたほうが良いと思うのだが、現場ではどう考えられているのだろうか。
 このほか、コンピュータを用いることによる、機械的な対応関係だけの学習に終わってしまう恐れもあるのではないかと思う。日常生活で直接接することのできる事物を中心に、自ら操作することと言葉で表現することを関連づけて学習させていったほうが効果があるようにも思った。

 4番目の“セキセイインコの反応変動性の分化強化”(真邉一近・河嶋孝氏)は、私自身がかつて発達障害児やサルを相手に実施した「行動可変性response variability」の実験と密接に関連しており、興味深く拝聴した。実験では、パネルをつつく位置について、「直前と異なる位置をつついた時に強化される」という「1-back」の随伴性と、「直近2カ所のいずれとも異なる反応をした時に強化される」という「2-back」の随伴性のもとで、被験体がどのような反応パターンを形成するのかが検討された。
 最初から位置や数が固定されている反応キーと違い、この実験では、四角いパネルのどの部分も自由につつくことができる。にも関わらず、「1-back」では2カ所、「2-back」では3カ所(主として三角形型)に反応位置が収束してしまうという所が面白かった。動物は無駄な変化はしないということである。
 なお、表題の「反応変動性」という点に関しては、ここで形成された反応パターンが必ずしも変動性を高めたことになるかどうか疑問が残る。発表者ご自身も指摘しておられたように、反応のシークエンスは「1-back」(左右交代型)でも「2-back」(三角形の頂点をぐるぐる回る)でもきわめて固定的であり、variabilityの増大とは必ずしも言えない。反応リパートリーの増加、もしくは等頻度性の保障という変化はあったと思うが。

 最後の“行動分析は生活習慣改善に向けてどのように生かせるか”(小関唯未氏ほか)は、実践報告もしくは体験談に近い内容であった。フロアからは、発表の内容自体ではなく、一般的な生活習慣改善に関する発言がいくつか出された。その中で、ダイエットがある程度軌道に乗り体重が安定して維持されるようになると、「体重減少」という成果(=好子)の随伴が無くなってしまうことの問題が指摘された。それに対して、杉山尚子氏から、阻止の随伴性(「○○しないと、体重が増えてしまう」)による自己管理の重要性について貴重なコメントがあった。

8月30日(木)

【思ったこと】
_10830(木)[心理]行動分析学会年次大会(3)スキナーの言語行動論にもとづいたコミュニケーション指導

2日目午前:ジャネット・トゥワイマン氏(Dr. Janet S. Twyman)の特別講演

 今回の講演タイトルは「スキナーの言語行動論にもとづいたコミュニケーション指導 違いはどこにある?」というものであった。彼女はまず、
  • 言語で重要なのは「構造」ではなく「機能」である
  • 「どんな時に」「どのように」「何のために」使うのかを教える。
として、スキナー流のコミュニケーション指導の大原則を提示した。

 ついで、スキナーが1957年に刊行した『Verbal behavior』に沿って、マンド、タクト、イントラバーバル、オートクリティック、自らを聞き手とした話し手行動などに分けて、指導の具体例が紹介された。

 1時間という短い時間の中では無理であったとは思うが、できれば、「行動分析に基づかないコミュニケーション指導」との違いを現場に即して対比してもらいたかった。

 そして、結局のところ、行動分析の視点を取り入れることの是非は、その成果によって評価されることになる。発達障害児施設で応用行動分析の手法が多く取り入れられているのは、「理論的な正しさ」が納得されたためではない。目に見える形の成果が確認されているためである。

 先日、大学の図書館で、第二言語習得の理論を解説した本が新着棚に置かれているのが目にとまった。そこでは脳生理学の知見なども引用されていたが、残念ながらスキナーの言語行動理論についての記述は見当たらなかった。

 念のためお断りしておくが、スキナーの『Verbal behavior』は言語行動についての理論書であって、言語学習についての理論書ではない。言語学習に応用するためには、スキナー以後の諸研究の蓄積を活かす必要がある。早い話、行動分析の理論に基づいた、より効果的な外国語教育が開発されれば、理論上どういう論争があろうと、その優越性は多くの人々に認められることになるはずだ。

8月31日(金)

【思ったこと】
_10831(金)[心理]行動分析学会年次大会(4)ネットを利用した大学教育〜行動をいかに強化するか〜

2日目午後:シンポジウム「ネットを利用した大学教育〜行動をいかに強化するか〜」

 このシンポは長谷川自身が企画したものであり、パネリストとタイトルは
  • 河嶋孝・真邉一近(日本大学):ネットを利用した通信制大学院の現状
  • 向後千春(富山大学):個別化教授システム(PSI)における強化要因
  • 【指定討論】望月要(メディア教育開発センター)
という構成になっていた【敬称略】。

 企画主旨は
ネットを利用した大学教育についてはすでに多くの場で議論が行われているが、教員と学習者のあいだの行動に焦点をあてたものは少ない。いくら設備を充実しても、あるいはいくら講習会を実施しても、適切な利用行動が強化されなければ教育方法として機能しない。本シンポは、ネットを利用した教育において、教員と学生間、あるいは学生どうしのコミュニケーションを活性化するために、何をどう強化すればよいのかを考える目的で企画された。
となっており、初めに長谷川のほうから、15分ほどの補足説明を行った。その中では、学部教育におけるネット利用に関して
  • 授業を補完する手段として利用する場合
  • ネット利用を前提として演習を行う場合
の2つがあることを指摘し、私自身の公用サイトのコンテンツを紹介しながら、教える側の行動と学ぶ側の行動それぞれにおいて、授業専用掲示板書き込みなどいくつかの行動を強化する必要のあることを強調した。

 河嶋孝・真邉一近氏(日本大学)の話題提供では、1999年に開設された通信制大学院教育におけるネット利用の現状と問題点が報告された。Eメイル送信やディスカッションルーム(ネット掲示板)書き込みにはかなりの個体差が見られること、特に非専任でEメイル返信の割合が低い教員が見られることなどが指摘された。

 2番目の向後千春氏(富山大学)は、ちはるの多次元尺度構成法(日記)の執筆者の、ちはるさんであった。話題提供者の御紹介の際にも、日記才人の画面を投影しながら「向後さんとはこれまで4回ぐらいしかお会いしたことは無いが、Web日記のおかげで、何をしておられるのかが毎日わかる」と、ネット利用の有用性(有害性?)を強調させていただいた。

 実際の話題提供内容とフロアからの反応については、ちはるさんの日記(8/24分)に記されているのでそちらをご参照いただきたい。ちはるさんが紹介された授業風景、あるいは佐藤方哉先生のコメントにもあったが、。PSIというのは、教材作りの面でも運用面でもかなりの負担を強いられるような印象を受けた。Web化により機械化できる部分があるとはいえ、事前の準備はもちろん、学ぶ側の行動と、教える側の個別対応行動の負担はそれほど軽減されない。(一部重なる面もあるが)通常の教材を使った少人数グループ学習との効率性比較も必要になってくるのではないかと思った。

 最後の、望月氏による指定討論は、ネット利用の本質に関わる重要内容を含むものであった。望月氏によれば、コンピュータやネットを利用することには2つのタイプがある。長谷川自身の言葉でこれを解釈すると次のようになるかと思う。
  • それらの媒体・手段の特性がもたらす強化因
    →例えば、「直ちに結果が出る」、「動画が面白い」、「手間が減る」、「膨大なデータを処理できる」など。
  • それらを利用する中で人間自身によってもたらされる強化因
    →例えば、「MLや掲示板での発言に反応する」、「日記才人での投票や日記読み」
 望月氏によれば、このうちの前者は言わば「目新しさ」のようなもので、書籍と紙と鉛筆を主体に生活していた世代にとっては大きな強化因となるが、最初からパソコンやネットが存在していた時代に育った世代にとっては遅かれ早かれ「当然のこと」として受けとめられるようになる。結局のところ、重視されるべきなのは、人間行動によってもたらされる強化(あるいは時として弱化)因のほうである。望月氏はこういうことを強調されたのではなかったかと思う。

 確かに今のうちは、「目新しさ」だけで強化される面が多い。このシンポを含め、最近ではパワーポイントを使う講演者が増えてきた。最初のウチは、内容に多少不備があっても、スクリーンのカラフルな画面、効果音、背景、文字の動きなどの目新しさに救われて何となく素晴らしいプリゼンテーションであるかのように錯覚されてしまうことが多い。しかし、発表者の全員がパワーポイントを使うようになった時点では、結局のところは、発表の内容性、ロジックの妥当性などが物を言うようになる。

 パソコンを利用した教育の場合も同様であり、例えば、幼児向け教材でいくら動画やインタラクティブな機能を増やしても、それだけで売り上げを伸ばすことはできない。けっきょくは教材が充実した内容を含んでいるかどうか、学習行動を適切に強化できる仕組みが備わっているかどうかが物を言うことになろう。ビデオゲームも、種々の案内サイトも同様である。

 今回のシンポを契機に、ハード面での目新しさや機能性ばかりでなく、利用者側の行動面での強化の問題に、より多くの関心が向けられるようになることを期待したい。



9月4日(火)

【思ったこと】
_10904(火)[心理]行動分析学会年次大会(5)強化と強化スケジュール

1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(1)

 このシンポは、学会の研究委員会が企画したものであり、企画者は坂上貴之氏と山本淳一氏。話題提供者には、平岡恭一氏、吉野俊彦氏、井上雅彦氏、指定討論者には久保田新氏と山本淳一氏という、まことに豪華な顔ぶれであった。

 特に印象に残ったのは、冒頭に行われた、坂上氏による企画主旨説明であった。坂上氏は、行動分析学の最も基本的な概念である「強化」に関して、循環論をどう克服すべきか、特にプレマックの原理[Premack, D. 1962. Reversibility of the reinforcement relation. Science, 136, 255-257. ;Premack, D. 1965. Reinforcement theory.In M. R. Jones (Ed.), Nebraska Symposium on Motivation: 1965 (pp.123-188), Lincoln: Univ of Nebraska Press.] で「強化の相対性」が明らかにされて以後、新たな概念体系の構築が行われていった経緯について説明が行われた。

 強化の循環論をめぐっては、私自身、98年11月17日の日記で少しだけ考察したことがある。その中で特に強調したのは、
  1. 場面間転移性(Meehl):ある事象が強化事象であるということを知ると、その事象が(同一個体または、同じ種の別の個体の)別の行動の強化刺激にもなりうると予見できること。
  2. 制御可能性:ある事象が強化事象であるということを知ると、その事象を随伴させる確率(強化率)や随伴のパターン(強化スケジュール)を操作することによって、行動の起こり方を制御することができること。
の2点であった(上記の呼称は、あくまで長谷川が独自に定義し直したもの)。

 今回の坂上氏の説明では、上記のうち1.が、プレマックの原理(例えば、輪回しと水飲みという2つの行動が遮断化という確立操作によって、強化する側にもされる側にもなりうるという相対原理)によって必ずしも普遍性をもたなくなり、それを克服する形で反応遮断化理論が作り上げられ現在も支持されている点が強調された。

 なお、強化の循環論を克服する試みとしては、坂上氏は、他に
  • Catania:強化を説明概念ではなく記述概念として用いる
  • 心的概念で説明:動因低減説
  • 生理的概念で説明:無限後退性
を挙げておられた。また、強化相対性の考え方が果たした役割については
  1. 強化の行動的定義に貢献
  2. 刺激-反応パラダイムから反応-反応パラダイムへの脱却
  3. ある活動に従事するというような行動事象が強化子として利用できることを示し、応用場面に貢献
  4. 強化理論と他分野の理論との結合に貢献
などが挙げられた。

 雑多に生じる日常生活行動は、それぞれ対応する好子(強化子)が個別に随伴して独立的に強化されているわけではない。競合する場合もあるが、一方の行動が手段、他方が目的として強化随伴関係になることもあるし、目的であった行動が手段化してしまうこともある。

 99年10月10日の日記で取り上げた伊達公子さんの例のように、「もともと遊びの延長上で」始めたテニスが、国際舞台で活躍するようになって手段化し、再び子供を相手にすることで楽しみに戻ることがある。あるいは家庭菜園で楽しみのために野菜を作っていた人が、農業に転じて日々畑仕事に出るようになると、収穫を減らさないために義務的に働くようになることがある。これらは「好子出現の随伴性」が「好子消失阻止の随伴性」に転じることによって説明可能ではあるが、では、どういう状態が続くと「阻止の随伴性」に変わるのかという点については何も予測できない。こういう場面で予測性を高め、せっかくの楽しい行動が義務化しないようにするにはどこに注目すればよいのか、こういう点で、坂上氏が紹介されたような強化相対性や反応遮断化についての考え方が役に立つ分野が広がるのではないかという気がした。



9月5日(水)

【思ったこと】
_10905(水)[心理]行動分析学会年次大会(5)行動分析学の点検(2)

1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(2)対応法則

 1番目の話題提供は、平岡恭一氏の「強化と選択行動理論」であった。平岡氏は、まず、ソーンダイク(1913)の「効果の法則」からHerrnsteinの「対応法則(マッチング法則)」[Herrnstein, R. J. (1970) . On the law of effect. Journal of the Experimental Analysis of Behavior, 13, 243-266. ]へと発展させられた中で何が付け加わったのかという点を説明された。

 ここで念のため、ソーンダイクの「効果の法則」を確認しておこう。
満足するような結果をもたらす反応は強められ、不満足あるいは嫌悪を伴う反応は弱められる
この「法則」の循環論的記述に関わる問題は、9/4の日記ですでに述べた通りであるが、この「法則」は

●行動はその結果によって変わる

という行動随伴性の基礎に関わる原理のほかに、

●有用な結果をもたらす行動は増え、有害な結果をもたらす行動あるいは何の役にも立たない行動は減る。

という意味を含蓄している。しかしこの原理だけでは、有用な行動は無限に増えていくことになる。果たして動物はそれだけで環境に適応できるだろうか。「対応法則(マッチング法則)」は、それらに対して、「ただ際限なく反応を増やすのではなく、最適な遂行をめざす」ということを示唆するものであった。平岡氏は
  • 背景的強化を考えなくてはならない
  • 強化は複数の行動の間の均衡点を設定する
という2点を挙げる一方、説明理論としての不十分さを指摘し、その上で、逐次改善理論、巨視的最大化理論、微視的最大化理論、その他の諸モデルを概観し、今後の方向を展望された。



 以上が平岡氏の話題提供の概要であった。「対応法則」は、実は私自身の卒論のテーマであった。
  • 日常行動のすべては選択行動であること
  • 選択行動はしばしば葛藤状態をもたらすこと
という状況のもとで、動物や人間がどこまで最適な行動を取りうるのか、を考えるツールとして対応法則は大いに意義があると思う。もっとも、私が知りうる範囲で言えば、この方面の研究は
  • 量的モデルの改訂のために研究のエネルギーが注がれることの問題点や限界
  • 質的に異なる好子(強化子)が個別に随伴するような選択行動(←実際の日常生活はこれ)をどこまで分析できるか
  • 「強化率」や「強化数」というように、随伴させる事象の機能を固定的にとらえることの弊害。
という点でいろいろと問題点をかかえているようにも思う。



9月6日(木)

【思ったこと】
_10906(水)[心理]行動分析学会年次大会(6)行動分析学の点検(3)

1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(3)反応を抑制する罰と、促進する?罰/強化概念の天動説、地動説

 2番目の話題提供は、吉野俊彦氏の「反応を抑制する手続としての罰、促進する?手続としての罰」であった。吉野氏は、罰手続に反応を抑制する効果があることを説明する代表的な2つの理論として、
  • 対称的効果の法則:罰は罰せられる反応を維持している強化価を減少させる。
  • 競合反応理論:罰は罰せられる反応以外の反応を強化する効果をもつ。
という2つを挙げた。

 ここで念のためお断りしておくが、 罰刺激(あるいは嫌子、負の強化子)は、普通、
行動後にそれが出現すると行動が起こりにくくなるような刺激事象
として定義される。マロットの教科書(杉山他『行動分析学入門』)では、これと並行して
嫌子とは、我々が接触を最小にしたいと望むものである
とも定義している。いずれの場合も、何が罰となるかは行動の起こり具合を観測して初めて判断できるようになるものであり、そのような行動的定義に立脚する限りにおいては、なぜ罰が抑制効果をもつかというような疑問は出てこない。しかし吉野氏も指摘しておられるように、副次的な効果を考えるときにはこれは重要な問いになる。

 吉野氏は最近の御自分の実験研究を引き合いに出しながら、競合反応理論がより適切な罰理論であること、また、罰は副次的な効果として、罰せられる以外の反応を間接的に強化すること、これらから、
罰が単純に反応を抑制する効果を持つだけでなく、反応を促進する効果を持つ手続である
ことを考慮する必要を強調した。

 以上は全体として量的なデータに基づく推論であるように思われた。吉野氏の抄録の中では「応用・臨床場面においては重要な意味をもつと考えられる。」という記述があったが、時間があれば、具体例を挙げてもう少し詳しく説明していただきたいところだった。



 さて坂上氏の「強化相対性」(9/4の日記)や今回の吉野氏の「促進する?手続としての罰」などという話を聞くと、「嫌子」(「負の強化子」)という概念はかなり相対的であるように思われてくる。じっさい、それらの呼称は、モノの機能をそう呼ぶだけであって、地球上に存在するモノそのものではない。さらに言えば、モノの機能と言っても、本当のところは、生活体側がそのモノによってどう影響されるのか、どう反応するのかを言い表す概念ということになる。例えば、
●ある事象が習得性好子になる というのは、
●ある事象が習得性好子としての機能を獲得する
と言い換えてもよいが、その事象をどのように物理的・化学的に分析しても「習得性好子」という性質は出てこない。それは、生活体側の変化を意味する概念だからである。

 そのことを承知で、「○○は好子である」、「○○は条件刺激になった」、「○○は弁別刺激である」などと呼ぶのは、地動説の立場を承認しながら「秋分とは太陽の黄経が180度になった瞬間のことである」というように、便宜上、天動説の視点から天空を眺めるようなものと言えよう。生活体の行動を予測したり変容をサポートしていくためには、「条件づけ操作によって生活体内部で起こる変化」を「外界の事象の機能の獲得」として捉えたほうが議論がしやすいからである。

 上記の「天動説」的視点を前提とした上で、刺激事象の機能が文脈や相対関係によって逆転する現象が頻繁に見られるとするならば、「モノ」的把握よりも「コト」的把握のほうが優れたとらえ方ということになる。現時点ではどちらが有用かは分からない。

 いずれにせよ、罰や嫌子をめぐる議論においては、進化の中で培われた根本的特徴:
有害なものは避ける
を軽んじるわけにはいかない。となると現実的な課題は、

●長い目で見た時には非常に有害な結果が出現するような事態

において、
●如何にして目先の利益による強化を克服し、将来の有害な結果の出現を阻止するか

に注意をはらうことであろう。具体的には環境保護問題、食品添加物の問題、核兵器廃絶の問題などがこれにあたる。



9月9日(日)

【思ったこと】
_10909(日)[心理]行動分析学会年次大会(8)行動分析学の点検(4)

1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(4)強化概念の天動説、地動説(2)「行動の原因」の2つの意味

 前回も述べたように、例えば「習得性好子」となる事象は、それをどのように物理的・化学的に分析しても「習得性好子」という性質は出てこない。生活体側の変化を意味する概念だからである。同じことは、レスポンデント条件づけの条件刺激についても言える。メトロノームの音を聞いてヨダレをたらす犬が居る。メトロノームの音はその犬にとって、ヨダレを誘発する条件刺激となるが、音自体をどのように精密に分析しても、条件刺激なる成分は全く出てこない。犬が勝手に行動を変えただけなのである。

 では、習得性好子も条件刺激も、生活体側の「認知の変容」に置き換えてしまってよいのだろうか。

 この問題は「原因」の2つの意味を区別することによって明らかになる。
  1. 何を原因として生じるのか
  2. 何を原因として変わるのか
を分けて考えてみることが必要なのだ。

 車の運転を考えてみよう。車が動き出したり、スピードを上げたりする原因は上記の2.に関する問題である。いっぽう1.はガソリンがどのようにして動力に切り替わるかという問題である。1.はさらに、なぜガソリンはポテンシャルなエネルギーを蓄えているのか、それが太陽エネルギーの化石であるとすると、太陽エネルギーはどのようにして生じるのか....という問題へと発展していく。しかし、車の安全運転の徹底や、車の故障の原因を解明する際には、エネルギーの根源的な問題に言及する必要はない。

 家庭内の調理も同様。半熟の卵を作る時に、卵を熱する時に使うガスがなぜエネルギーをもたらすかについて言及する必要はない。どのような温度で何分茹でればよいかが関心事となる。

 行動の原因を考える場合にも同様である。「行動が何を原因として生じるのか」という問いに対する徹底的行動主義の立場は
  1. 特定の刺激に対して応答的に生じる場合
  2. 特定の刺激が無くても自発される場合
に分けて考えようということである。言うまでもなく、前者はレスポンデント行動、後者はオペラント行動である。このうちのオペラント行動については
  1. 行動は何を原因として自発されるのか(行動はなぜ自発されるのか。行動の「発生原因」)
  2. 自発される行動は何を原因として変わるのか(行動の「変化原因」)
という2つの疑問が出てくるが、1.のような根源的な問題は、上記の太陽エネルギー云々と同じレベルの問題であって行動分析の検討課題ではない。強いて言えば、

人間や動物は、行動を自発することを本質として備えた存在である。自発される行動のリパートリーは、進化の過程の中で系統発生的に形成される。

と答えるしかない。いっぽう2.については、確立操作、強化、弱化、行動随伴性といった概念が用意されている。



 ここで、念のため「行動随伴性」と「行動の変化原因」について確認をしておきたいと思う。「行動分析は、行動の原因を外部に求める」とよく言われるが、行動変化(強化あるいは弱化)は、
  1. オペラントを自発する生活体
  2. 行動の自発を可能にする操作対象(環境の一部)
  3. 変わるべき環境
  4. 行動随伴性(行動が自発されると環境がどう変わるのかという関係)
という4点セットが揃って初めて可能となる。

 そもそも無生物の世界では行動は生じないから1.は絶対に必要。生物は真空中を浮かんでいるわけではない。歩くときには地面が、木を登る時には枝が、肉食獣では獲物の存在というように2.がなければ働きかけは起こりえない。3.も同様である。そして通常、1.から3.は、いずれも一目見ただけで存在が確認できる。原因というよりは、前提条件と言うべきものかもしれない。

 では1.から3.だけで十分なのだろうか。否である。もし環境側が全くデタラメにしか変化しなかったら、あるいは、全く変化しなかったら、行動を自発しても生存可能性は高まらない。幸いなことに、地球上の環境は、自発された行動に対して一定の規則性をもった変化が生じるようにできている。だからこそ、行動を自発するような生物が繁殖してきたのだとも言える。

 自発された行動と結果との関係性はモノそのものではない。しかし、その規則性は環境側(外部世界)の物理的・化学的性質に依存している。「行動の原因を外部に求める」とはそういうことを言っているのである。次回に続く。



9月17日(月)

【思ったこと(2)】
_10917(月)[心理]行動分析学会年次大会(9)行動分析学の点検(5)

1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(5)強化概念の天動説・地動説(3)能動表現と受動表現/言語に依存した概念的枠組

 9/6の日記で、強化概念の天動説、地動説という話題をとりあげた。強化概念は、モノの機能のように表現されるが、モノの機能と言っても、本当のところは、生活体側がそのモノによってどう影響されるのか、どう反応するのかを言い表す概念ということになる。そして、敢えてモノ側からの作用として動詞の能動形で表す理由については、
天動説の視点から天空を眺めるようなものと言えよう。生活体の行動を予測したり変容をサポートしていくためには、「条件づけ操作によって生活体内部で起こる変化」を「外界の事象の機能の獲得」として捉えたほうが議論がしやすいからである。
と述べた。

 このことをさらに押し広げてみると、我々が使っている動詞表現そのものがしばしば天動説的な視点に立っていることに気づく。
  • 「台風が速度を上げて北に進んでいる」→台風自身が能動的に速度を上げたり、進路を定めているわけではない。少し前の台風16号の動きを見ればわかるように、台風は動かしてくれる気流が無ければ自分では進めないのである。
  • 「月が出た」、「日が沈む」→地球の自転に伴って動いているように見えるだけのことだ。
  • 「インターネットは我々にたくさんの情報を提供する」→ネットが情報を提供するのではなく、我々がネットを通じて情報を獲得するのである。
 動詞を能動的に使うか受動的に使うかは、言語によっても変わってくるように思う。英語は、例え主語が無生物になろうとも能動態を好む言語であり、例えば、
  • 推奨されない英語表現(受動態):
    The following results of this experiment were obtained......
    In this experiment, the following results were obtained.
  • 推奨される英語表現(能動態):
    We obtained the following results in this experiment : ..
    This experiment yielded the following results:
といった事例が挙げることができるだろう(原文は『日本人の英語』[マーク・ピーターセン、岩波新書]による)。しかし、これを日本語に直した時には、
  • 実験から以下の結果が得られた。/実験から得られた結果は以下の通りであった。
  • 本実験では以下の結果が得られた。/本実験の結果は以下の通り。
というのはごく普通の表現であり、逆に
  • 我々は、この実験において以下のような結果を得た。
  • 本実験は次のような結果をもたらした。
というのは直訳的で不自然な印象を与える。



 以上は能動態を受動態という切り口から捉えてみたわけだが、日本語は必ずしも受動態志向というわけではない。岩谷宏氏の『にっぽん再鎖国論』(1982年)は、次のような例を挙げている。
  • 英語:Two and two make four.
  • 日本語:2と2で4になる
ここで、「Two and two make four.」は明らかに能動態だが、「4になる」というのは受動態とは異なる。これに関連して岩谷氏は、
  • Makeは"つくる"から派生している。
  • 日本語の「なる」は決して「つくる=make」ではない。またそれは、becomeでもない。becomeは、なにか、主語であるそのもの自身が別のものになることを意味するからである。上記の日本語には助詞が「で」であるから、この意味での主語はない。
  • 英語の世界には、「事」から成り立つ「世界」がない。「世界」は抽象的な空間であって、そこに「物」の「動作」という“演技"が行われる。「動作」すなわち、Two and two make……なのである。
  • 日本語の世界には、あらかじめ抽象的な空間として設定される、"舞台"みたいな、「世界」という観念はない。
  • 日本人にとって、世界とは、「事」の連関、それ自体である。すなわち、2と2で4(という「事」)になるのであって、2と2が4(という「物」)を"つくる"のではない。
という本質的な違いを論じている。

 行動分析の概念的枠組みは、大部分、英語を母国語とする研究者によって構築された。それに引きずられて、本来は、コトとコトの連関を表すような状況においても、モノが舞台で振る舞うような表現になってしまった。このことを肝に銘じておく必要があると思う。

9月18日(火)

【思ったこと】
_10918(火)[心理]行動分析学会年次大会(10)行動分析学の点検(6) 強化の因果性

 昨日の続き。このシンポのまとめ。

1日目午後:行動分析学の点検:強化と強化スケジュール(7)まとめ/強化における因果性の見直し

 いろいろ脱線してしまったが、「行動分析学の点検:強化と強化スケジュール」というシンポについて、考えをまとめておきたいと思う。

 このシンポでは、もう1件、井上雅彦氏による「応用行動分析における強化に関する研究経緯と課題」という話題提供があった。そのなかでは、臨床家にとっての強化の課題として、
訓練室内で対象児との2者間の反応形成にかかわる問題だけでなく、日常生活場面において対象児の当該行動が強化されるためのシステム自体を設計すること[表現は長谷川が一部変更]
の重要性を強調された。これは各種依存症の治療や非行においても言えることだろう。治療施設内でいくら行動が改善されたとしても、その人の現実の生活場面での随伴性環境が変わらない限りは、復帰後に再び同じ問題が発生することは避けがたい。

 このほか、「choice making」つまり、「強化を行動形成の手段から目的へ」、「活動選択の機会設定」というような議論が印象に残った。前にも書いたことがあるが、高齢者介護施設では、特定の行動を形成する手段として強化を用いることよりも、高齢者が能動的に働きかけを行う多様な機会を保障することのほうが大切ではないかと思う。




 そのほか、指定討論で久保田新氏が「強化関数の逆関数は可能か」という発想を披露された。これは、時系列上での反応生起の様子から、いつ強化があったのかを逆に推定するというような視点であったと思う。




 最後にまとめ。

 ある反応事象が「強化する側」になったり「強化される側」になるというような強化相対性がある以上、実験方法の紹介で「強化子を○○回提示した」などと記述するのはおかしいのではないかと思った。なぜなら、提示するものが実験中にずっと強化子であり続ける保証は無いからである。「強化回数」とか「強化率」というのも、その事象の強化力が刻々と変化する中では、独立変数の記述概念としては非常に奇妙であると思う。このようなことをフロアから発言したところ、小野会長から、「強化子の提示」という表現に代えて「ミルクペレットの提示」とか「穀物の提示」というような表現が推奨されているとのフォローをいただいた。

 さらに根本的な問題であるが、強化というのは、「生活体側が勝手に自発する反応」と「生活体側からの働きかけに対して、一定の規則性をもって応じる環境側の変化」の両方を前提として初めて成り立つ概念であることを確認しておく必要があると思う。いっぱんに心理学では、「独立変数=刺激、外界の変化」、「従属変数=反応」であると受けとめられがちであるが、オペラント強化の場合には、反応と結果が相互に影響しあって初めて一定の行動現象が生まれるのである。どんなに巧みに強化随伴性を設定したところで、生活体側が全く反応しなければ何の行動も生まれないことを見れば、その関係は明らかであろう。「対応法則(マッチング法則)」に象徴されるように、強化についての法則は因果法則というよりも、均衡点の記述と言うべきかもしれない。「刺激、外界の変化」を独立変数としてとらえるのは、あくまで操作可能性という切り口で現象をとらえることが有用であるからにすぎないのではないか。



9月20日(木)

【思ったこと(2)】
_10920(木)[心理]行動分析学会年次大会(11)21世紀への展望(1)

1日目午後:21世紀への展望〜行動分析学の現在・未来(1)

 8/23の13時から14時10分の間に行われた佐藤方哉先生の記念講演について感想を述べさせていただきたいと思う。

 今回の講演はわずか1時間10分という短いものであったが、非常に内容が濃く、21世紀最初の年次大会の記念にふさわしい方向性が示されていたと思った。

 講演ではまず、行動分析学の創始者スキナーの活動が年代を追って紹介された。長谷川のほうで別の文献を頼りに主なポイントをまとめると、
  • 1930年代:パヴロフの条件反射とは別に、もう1つのの条件づけがあることを主張/ 『The behavior of organisms』刊行
  • 1940年代:徹底的行動主義/スキナー学派の旗揚げ/小説『Walden Two』刊行
  • 1950年代:行動療法(今で言う応用行動分析)/『Science and human behavior』刊行
  • 1960年代:私的出来事/ルール支配行動/『ntingencies of reinforcement』刊行
  • 【行動分析は、ある意味では停滞期に入る】
  • 1970年代:『Beyond freedomw and dignity』刊行/佐藤先生により、スキナーの理論が日本で初めて紹介される/ABA誕生/1979年来日
  • 【1970年代後半から、スキナーの意に沿わない「分派」が現れ始める】
  • 1980年代:行動経済学、結果による選択
  • Skinner, B. F. (1990). Can psychology be a science of mind? American Psychologist, 45, 1206-1210.
というふうになるかと思う。スキナーは非常に長生きしたため、20世紀のうちの60年間にわたり影響を与え続けたことがよく分かる。




 佐藤先生は次に、行動分析学の特徴として
  • 行動それ自体が研究対象であること
  • できるだけ少ない原理(=行動随伴性)で説明
  • 外部に行動の原因を求める
  • 単一事例法:反復実験による再現
を強調された。また、行動分析学においては基礎研究と応用研究の乖離は無いこと、行動の原理は1970年頃までにほぼ明らかにされており、これからは、

●行動の原理がどう働いているのか

の研究に重点が置かれるべきであると指摘された。そして、マロットの教科書を引用しながら、行動分析が今後
  • 学問的課題:行動分析学で世界を知ろう
  • 実践的課題:行動分析学で世界を救おう
という2つの課題のもとに発展していく可能性を示された。




 スキナーの『Science and human behavior』ですでに予言されていたように、21世紀に入って、自然科学と行動科学のアンバランスはますます拡大し、その弊害は至る所に現れているように私は思う。昨日の日記でもちょっと書いたが、大学の研究は今なお自然科学に重きが置かれている。もちろん我々はその恩恵を最大限に受けているわけだが、反面、科学技術が進歩したことによって、地球温暖化や核戦争など新たな危機を招くことになった。それらを救うためには、
  1. 科学技術は人類には扱いきれない危険物。このさいすべて博物館に封印し、原始的生活に戻ろう
  2. 科学技術を扱う行動を分析し、それをうまくコントロールする方策を考えよう
という2つの選択肢のいずれかを選ばなければならない。しかし、原始時代に戻ってしまえば、再び食糧難、重労働、疫病、自然災害に見舞われることになる。となれば、後者2.の道を選ぶしかない。そのためにこそ、人文社会系の幅広い研究が求められているのである。

 ちょっと考えてみれば分かることだが、
  • いくら医学が進歩したところで、平均寿命はせいぜいあと10年〜15年程度伸ばせるだけ。しかも寿命が延びれば延びるほど、年金や保険、介護に負担をかけることになる。難病の克服ならともかく、健康な人間の寿命を延ばすことはそれほど必要ではない。そんなことよりも、むしろ、人生80年をどう充実させるかに頭を使うべきではないか。
  • 我々が生きていくために必要な食糧は、いまの科学技術でも十分にまかないきれる。生産技術の開発に力を注ぐよりも、農業を生きがいにするにはどうしたらよいかを考えるべきではないか。
  • みんなが生産活動にそこそこ従事すれば、飢え死にせずに、もっとゆったりとした生活をおくれるはずだ。我々は奴隷ではない。なのに、なんで長時間勤務の末に過労死しなければならないのだ。
こういう問題は、科学技術をいくら進歩させても解決できない。行動科学こそがこれを救えるのだ..........少なくとも私はそう思っている。

9月22日(土)

【思ったこと(2)】
_10922(土)[心理]行動分析学会年次大会(12)21世紀への展望(2)

1日目午後:21世紀への展望〜行動分析学の現在・未来(2)

 佐藤方哉先生による講演の後半では、
  • 学問的課題:行動分析学で世界を知ろう
  • 実践的課題:行動分析学で世界を救おう
のうちの学問的課題について、これから取り組むべき諸問題がいくつか挙げられた。

 学問的課題は、人間行動分析学と比較行動分析学に大きく分けられるが、今回は前者の問題として、「言語」、「発達」、「個人差」が特に詳しく取り上げられた。

 いずれの場合も、閉じた分野として研究するのではなく、他の心理現象(例えば知覚)にどう影響するのかといった関連づけが必要であること、また、1970年頃までにほぼ確立した「三項随伴性(弁別刺激→オペラント→強化/弱化/無結果)」という枠組みでの分析を進めることの重要性が強調された。

 特に興味をひいたのは「見本合わせは条件性弁別か?」、「継時弁別は刺激弁別だが、同時弁別は反応分化である」といった問題提起であったが、専門的になりすぎるのでこの話は別の機会にゆずりたい。

 講演のいちばん最後では、「行動分析からみたパーソナリティ」という興味深い話題が取り上げられた。
  • 行動的パーソナリティ観では、行動リパートリーの構造を明らかにすること
  • 行動リパートリーの中のレスポンデントとオペラントの相互作用を明らかにすること
が主要な課題となる。この話題は「パーソナリティに関する行動分析学的一考察」[佐藤方哉 (2001)、帝京大学文学部紀要, 6, 19-30.]にまとめられている。別の機会に、コメントさせていただきたいと思っている。

 以上、12回にわたり、8月23日〜24日に行われた年次大会に参加した感想をまとめてみた。前回も少し書いたが、科学技術が人類の幸福に貢献できる可能性はほぼ限界に達している。もちろん、難病の克服、発展途上国における飢餓や疫病の克服、地球環境に優しいエネルギー資源の確保などまだまだ課題は多いが、これからはむしろ、80年余りの人生において、皆が前向きに楽しく学べる教育環境をどう作っていくか、働きがいのある労働環境はどうあるべきか、生涯現役をつらぬきながら生きがいのある老後を送るには何が必要か、自然との共生を保ちながら循環型の消費の中で不自由を感じさせないためには何が必要か、といった問題に重点的に取り組んでいく必要がある。そうした研究を進めるにあたって、人間の能動的な働きかけそのものを対象とする行動分析学が果たす役割はますます大きくなってくるのではないかと感じた。