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第30回

京都心理学セミナー

ことばと体験をつなぐもの〜心理療法からエコマネーまで〜
2001年5月12日(土)13時30分〜17時
京都大学文学部・新館第3講義室


2020.9.13.リンク切れ部分を修正しました。



【思ったこと】
_10512(土)[心理]京都心理学セミナー(1)セルフマネジメント/エコマネー

 5/12の13時30分〜17時、京都大学文学部で「京都心理学セミナー:ことばと体験をつなぐもの〜心理療法からエコマネーまで〜」が開催された。このセミナーは、私の指導教授でもあったM教授の御退官を記念して創設されたものであり、教室のOBが順番に世話役を引き受け、他大学の心理学関係者を招いてお話しを聞く企画である。30回目は長谷川がそれを引き受けることになった。


 トップバッターの杉山尚子氏(山脇学園短期大学)からは、例えば「甘い物を食べ過ぎると太る」とか「タバコを吸うと健康に悪い」といった、理屈では分かっていることがなぜ改善行動に結びつかないのかについて、ご自身が指導しておられる大学でのセルフマネジメントの実例を挙げながら、行動分析学的視点からの話題提供をいただいた。

 杉山氏によれば、行動を変えるには
  1. 知識
  2. 技能
  3. 随伴性
という3点セットが大切。特に「どういう行動を強化するのか」という見極めのほうが難しいということ、また随伴性に関しては、誰によって強化されるのか、どういうコミュニティの中で強化されるのかという問題があり、この点でまだ検討の余地が残されていると指摘された。杉山氏の話題提供は、これまで行動分析について関心の無かった方に強いインパクトを与えたものと思う。




 次に「エコマネーの世界が始まる〜人間に優しい社会〜」といいうタイトルで、エコマネーネットワーク事務局長の中山昌也氏から話題提供があった。エコマネーに関してはこの日記でも何度か取り上げているが、御本家から直接お話しを伺うのは今回が初めてであった。ちなみに中山氏は京大大学院工学研究科のご出身。私にとっては同じ大学の先輩にあたる。

 まず、「エコマネー」はしばしば「エコロジー」+「マネー」であるように思われてしまうが、実際は加藤敏春氏の造語「エコミュニティ+マネー」を略したものであるということだった。今回、中山氏からいただいた

『エコマネーの新世紀』(加藤敏春、頸草書房、2001年)

によれば、エコミュニティは次のように規定されている。
「エコミュニティ」においては、生活者である人間が、コミュニティ・ビジネスが活発に興る“経済”(Economy)と生活者が帰属意識を感じる“コミュニティ”(Community)が一体となった経済社会構造の下で、“自然”(Ecology)と共生し、地球に優しく持続的な発展をめざすことが目的とされる。[p.30]
エコロジーも重要な要素ではあるが、さらに広い概念を含むものであると言えよう。

 次に、5/10の日記(2001年6月以降は、こちらに移動)でも紹介したように、エコマネーは、
「エコマネー」とは、環境、福祉、地域コミュニティ、教育、文化などに関する多様な価値を媒介する、二一世紀の「新しいお金」です。従来の市場経済の尺度でははかれない価値を、その多様性を評価したうえで、流通させるものです。[『エコマネーの世界が始まる』(加藤敏春、講談社、2000年)]
と定義されているが、この「多様な価値を多様なまま評価し、媒介できるマネー」という発想は、実は、原始時代のお金の原型なのだそうだ。ところが、コミュニティの中で通用していたお金が外との交易にも使われるようになり、さらに、それを貯えたり、他人に貸して利息をとったりするようになる。中山氏によれば(加藤敏春氏の『エコマネーの新世紀』の14頁にも記述あり)、現在世界で流通しているお金は300兆ドルほどであるが、地球上に存在するすべてのGDPの合計は50兆ドル(加藤氏の著書では30兆ドル)にすぎない。残りはいわばバブルなお金で、現在の我々はそれに振り回されて生活している。それを見直す役割を果たすのがエコマネーということになる。

 このあたりまでは私も理解していたのだが、今回の話題提供で、エコマネーには次のような重要な特徴が含まれていることに気づいた。時間が無くなったので次回に続く。
  1. コミュニティの中だけで通用すること。外に出れば何の価値も無くなる。
  2. 有効期限があり、使わないと無効になる。貯えても意味が無い。
  3. 他者との関わり合いに価値を与えることが基本である。
【思ったこと】
_10514(月)[心理]京都心理学セミナー(2) 「エコマネー」の特徴として新たに気づいたこと

 昨日の日記で「エコマネーの世界が始まる〜人間に優しい社会〜」に関して、エコマネーには次のような重要な特徴が含まれていることに気づいた。
  1. コミュニティの中だけで通用すること。外に出れば何の価値も無くなる。
  2. 有効期限があり、使わないと無効になる。貯えても意味が無い。
  3. 他者との関わり合いに価値を与えることが基本である。
 このうちの1.は、一般のマネーと違って、植民地支配、国家間の貧富の差、資本流出といった問題が起こりえないことを示している。今の世の中では「自助」や「扶助」が強調される一方、「互助」や「共助」はきわめて不足している。1.にはそれらを活性化する効果があるように思う。

 次に2.だが、「有効期限」というのは、「エコマネー」以外でもしばしば重要な役割を果たしている。その基本は
  • 有効期限内に使う→何らかの好子が出現
  • 有効期限内に使わない→好子出現が阻止
という複合的な随伴性で強化されているように思う。例えば、5月末で期限切れとなるレストランの飲み物無料サービス券があったとする。
  • レストランをよく利用する人は、期限を気にせずに使い、飲み物という好子を得る。
  • あまり利用しない人の場合、期限切れになるということは、飲み物という好子の出現が阻止されることを意味する。この「予定された好子」の消失を阻止するために、「あまり好きなレストランではないが、せっかくだから足を運ぼう」という行動が生じるのである。


 ゲームの中には「使わないと罰」というものもある。例えば、七並べではしばしばジョーカーを混ぜてカードが配られる。ジョーカーは、それに続くカードと一緒に使わなければならない。ジョーカーは、カードを並べる機会を増やすという点で好子である。ところが、最後まで持っていると最下位になってしまうのである。このルールでは、プレイヤーは常に、「使わなければ負け」というルールを念頭に、どのカードを出すかを判断していかなければならない。

 エコマネーの場合、期限切れになることはどんな効果をもたらすだろうか。もちろん「七並べ」のルールのように最下位になることはないが、「せっかく残っているのだから使い切ろう」という好子消失阻止の随伴性は同じように働くはずだ。となると、提供サービスのリストを見て、何かサービスをしてくれる人は居ないかを探すことになる。これは結果的に、相手方の互助・共助的な行動を引き出す効果をもたらす。

 最後の3.であるが、すでに述べたように、
「エコマネー」とは、環境、福祉、地域コミュニティ、教育、文化などに関する多様な価値を媒介するお金
という特徴を備えている。これは、エコマネーによって評価されるものが、コミュニティ内の「関わり合い」を基本とするという意味を含んでいる。それゆえ、不用となった箪笥と畑で採れたサツマイモを交換するという場合にはもはやエコマネーは要らない。物々交換だけで済むからである。いっぽう、「不用となった箪笥を家の奥から運び出し、処分場まで運ぶ」というのは評価対象となるだろう。モノではなく行動が対象となっているからである。

 中山氏も言っておられたが、「他者と関わる行動」というのは通常のお金ではなかなか強化されにくい。財産を貯えているお年寄りは、わずかの小遣いをもらって技能の伝授などしない。高齢者対策事業として行われる町内美化作業なども、通常のお金で強化しようとするので職種や参加者が限られてしまうのである。「着付けのしかたをお年寄りから教えてもらう」というのは、お年寄りに現金を払ってもまず実現しない。エコマネーを支払うことで初めて、お年寄りの「それなら、ちょっと教えてあげようか」という気になるのである。

 エコマネーについては、もうひとつ「信用通貨から信頼通貨へ」という興味深い話題があった。これは、

『エコマネーの新世紀』(加藤敏春、頸草書房、2001年)

の302頁の図表6-1に基づくものである。加藤氏の図によれば、通貨システムは、「ボランティア経済か貨幣経済か」という軸と、「信頼関係か債権債務関係か」という軸により2次元平面上で4通りに分類される。すなわち、
  • 貨幣経済+債権債務関係→マネー(通常の通貨)
  • ボランティア経済+債権債務関係→タイムダラー(時間預託、ふれあい切符)。健康な時にサービスを提供しておけば、年をとってから対価としてサービスを受ける権利が発生するという債権債務の考えあり。
  • 貨幣経済+信頼関係→LETS。カナダで始まった地域通貨。1999年末には1600以上の地域に拡大。
  • ボランティア経済+信頼関係→エコマネー
という図式になるというのだ。

 我々がふだん使っているお金以外をすべてエコマネーであるように思っていたが、このように考えてみると、一般の地域通貨やふれあい切符などとは区別すべき部分があることに気づいた。なお、この問題については、上掲の『エコマネーの新世紀』に詳しい比較考察があった。

 以上、エコマネーの話題提供について感想を述べてきたが、この発想は、例えば、研究者相互の校閲サービスとか、大学のゼミ内での学生の互助・共助を活性化する上でも大いに役立つのではないかと思う。今後さまざまな試みが行われることを期待したい。
【思ったこと】
_10516(水)[心理]京都心理学セミナー(3) 「行動を変える心理療法」の新しい視点
 今回からは3番目の

武藤崇氏(立命館大学)・高橋稔氏(広島国際大学):ことばの「ふるさと」と心理療法〜「閉じた『ことば』の世界」に亀裂を入れるには?

について感想を述べていくことにしたい。

 武藤・高橋氏の話題提供は、「Acceptance and Commitment Therapy (以下、ACT) 」に関するものであった。この新しい視点を理解するためには、まず、その発端となるヘイズ(Hayes)らの1989年の論考:

Avoiding and Altering Rule-Control as a Strategy of Clinical Intervention.
In Hayes (ed.) (1989). Rule-governed behavior:Cognition, contingencies, and Instructional control. Plenum.

に目を通しておく必要がある。そこで、今回はまず、ヘイズらの論考を参照しながら、「行動を変える心理療法」の意義と限界について私なりに考えをまとめておきたいと思う。

 さて、言うまでもなく、行動分析的視点に立った心理療法では、行動をいかに変革するかが最大の課題となる。これには
  • 望ましくない行動をどう減らすか
  • 望ましい行動をどう増やすか
という2つの方向がある(←何が、「望ましい」、「望ましくない」かは、個々人の価値観や社会的妥当性を考慮しつつ別途議論されなければならない)。

 念のためお断りしておくが、「行動を変える」ことを強調してしまうと、具体的行動に表れにくい「気分」や「感情」、「充実感」などは変えられないのかという疑問が出てくるがそうではない。それらは、行動と表裏一体となって湧き出るようなものであり、行動を変えることで初めて変化させることができる。例えば、「無気力」や「怠惰」な気分は、能動的な行動に着実に結果が伴うようになった時に自然に消失するものである。「悲しみ」は、もちろん時の流れとともに忘却する場合もあるが、より前向きに取り組む行動が強化されれば、より早く、過去に囚われない生活に復帰することができる。いずれにせよ、行動をどう強化(あるいは弱化)するかを検討する過程では、変革を妨げるネガティブな感情を克服する必要に迫られるであろうし、変革を推進する感情は勝手についてまわるようになるはずだ。

 ところで人間のように言葉を使うことのできる動物の行動は、直接体験に基づいて形成・維持される場合と、ルールによって形成・維持される場合がある。行動を変革する際にもこれら2つに分けて考える必要がある。

 このうち、ルールによって形成・維持される場合から先に考えてみよう。ちなみに、ここで言う「ルール」とは、直接体験(正確には行動随伴性)を言語的に記述したものとして定義されるが、一般に言われる「信念(ビリーフ)」と似たものと考えても当面は差し支えない。そこでは2つのタイプの弊害が起こりうることが想定される。
  1. ルールがうまく機能しないことによる弊害
  2. ルールに囚われてしまうことによる弊害
 1.としては、例えば、若者の薬物依存では、「薬物は体を蝕む」というルールに従わず、直接効果的随伴性(=目先の快感)によって維持されてしまうという問題がある。「喫煙は有害だ」や「甘い物を食べ過ぎると太る」といったルールがうまく機能しないのも同様だ。

 いっぽう2.としては、言語コミュニティがあまりにも強力なルールを維持すると、直接経験でそれを変えることができなくなる。論理療法で対象とされるイラショナルなビリーフなどがこれに相当する。反社会的宗教団体によるマインドコントロールも同様だ。



 次に、直接体験に基づいて形成・維持される場合には
  1. 望ましいがなかなか生じない行動は、人為的に結果を付加することによってそれを強化する
  2. 望ましくない行動が多発している場合は、人為的に結果を付加することによって、それを弱化する
という2つの方向がある。直接体験に基づいて行動を変化させる技法の1つとしては「The direct shaping strategy(社会的スキルの訓練)」がある。ヘイズ(1989)によれば、そうした行動変容を成功させるには
  1. 特定の領域で、特定のスキルの不足または過剰を改善するという視点
  2. セラピスト(あるいは実験者)は改善/変化に必要なスキルを同定し記述することができる
  3. セラピストは言語的教示が使える
  4. セラピストは一定の範囲で新しい、より効果的な行動を形成することができる
という前提が必要である。障害者支援施設などで、特定の具体的な行動を増やしたり減らしたりする際にはこの前提は満たされるし、現に成果をあげている。しかし、対象者の生活全般を変革する場合には、現実社会の文脈にも配慮しなければならない。例えば、施設内だけではうまく行動が生じても、外に出た瞬間にたちまち機能しなくなるようでは困るのだ。ヘイズ(1989)はこれらを含めて、
  1. 社会的スキルの要素を記述するということは、現実には非常に難しい場合が多い。
  2. 標的行動が操作可能であるようなごく一部の行動しか扱われてこなかった。
  3. 社会的行動はどれもみな非常に複雑であり、個別に数え上げることが困難。
  4. 個々の行動の形ばかりでなく、タイミングや状況に応じた設定を考慮した社会的スキルの形成が必要だが実際には困難。
  5. 仮に個々の行動改善のための詳細な目録を作っても膨大なものとなり教示は到底不可能だ。
 といった社会的スキル訓練の困難点を指摘している。

 このうちの2.は、大きな反省材料となるかもしれない。実験論文では「真に問題とすべき行動」ではなく、「実験的に操作しやすい行動」が研究対象となりやすいからである。

 なお、ヘイズは「文脈から切り離して区別しやすいような社会的困難の場合には形態的定義が有効」であるとも述べている。例えば、毎日1万歩歩くという行動は、自宅でも旅行先でも、文脈から切り離して実行可能である。喫煙のように具体的に「何本吸う」という量的把握ができる行動も同様である。しかし、現実の行動は相互に連関しており、文脈フリーというわけにはいかないのだ。
【思ったこと】
_10517(木)[心理]京都心理学セミナー(4) 「経験の回避」の悪循環

 昨日の日記では、
  • 行動分析的視点に立った心理療法では、行動をいかに変革するかが最大の課題となる
  • 「気分」や「感情」、「充実感」などは、行動と表裏一体となって湧き出るようなものであり、行動を変えることで初めて変化させることができる。
  • とはいえ、個々の独立した行動の改善だけでは、生活全般を変えるのが難しい場合がある。
という3点を指摘した。

 ここでさらに補足させていただくが、「行動を変える心理療法」と言っても、何も行動を変えることだけを万能と考えているわけではない。そもそもスキナーの提唱した行動分析は、自発される行動(=オペラント)だけがすべてとしたわけではない。行動には、自発される行動と、刺激によって誘発される行動(=レスポンデント)の二種類があるというのがまず出発点にあり、そのうえで、生活体が外界に能動的に働きかける機会の重要性を考慮した上でオペラント条件づけや行動随伴性の原理が重んじられるようになったのである。

 それゆえ、レスポンデント的に形成される不安や恐怖、嫌悪感などは、当然のことながらレスポンデント的に消去されていかなければならない。
  • よく行われる系統的脱感作、馴化などはその1つである。
  • クライアントが過去の体験を語り、セラピストが黙ってそれを聞くというのも「消去」の操作として有効。
  • 性的同一性障害の治療(←あくまで本人が治療を望んでいる場合の話)において、異性への性的興奮を高める操作を行う場合にもレスポンデント的手法が用いられる。


 さて、元の話題に戻るが、「個々の独立した行動の改善だけでは、生活全般を変えるのが難しい場合」というのは他にもいろいろなケースがある。

 今回の武藤・高橋氏の話題提供の中で取り上げた「経験の回避」(Experiential Avoidance)はその中でも特に深刻な悪循環をもたらす。「経験の回避」は、ある個人が
  • 特別な内的経験と接することを渋り続けるときに生じる
  • その経験の形態や頻度、さらにその経験が生じる文脈を変えようとする
現象。これは、言語の双方向的な特性(Cognitive Fusion)、自己知識・自己評価(Self Evaluation)、回避・逃避反応が即時強化される(Avoidance)、行動の理由が内的事象であるとされる(Reason Giving)、「指示」に従う行動が賞賛される(Rule FollowingあるいはPliance)などによって形成・維持される。そして、そこから脱出するための援助手続として開発されたのが、今回の話題提供の中心となるAcceptance and Commitment Therapy (ACT) であった。

 武藤氏によれば、ACTの援助手続のポイントは、次の6点にまとめられる。
  1. 「救いがない」ことが「救い」なんだというところから始めよう
  2. 「コントロール」というやり方こそが「問題」なんだ
  3. ことばの「毒抜き」をしよう
  4. 自分を「一歩下がって」見てみよう
  5. 求める「価値」とは何なのか
  6. アクションに移す前に準備を始めよう
【思ったこと】
_10518(金)[心理]京都心理学セミナー(5) 「経験の回避」から脱出する方法

 武藤氏は、Acceptance and Commitment Therapy (ACT) の援助手続のポイント:
  1. 「救いがない」ことが「救い」なんだというところから始めよう
  2. 「コントロール」というやり方こそが「問題」なんだ
  3. ことばの「毒抜き」をしよう
  4. 自分を「一歩下がって」見てみよう
  5. 求める「価値」とは何なのか
  6. アクションに移す前に準備を始めよう
に関していくつか具体例を紹介された。面白いと思ったものを2つほど挙げてみると、
  • blameからresponsibility(response-ability)、hoplessnessからworkability.
  • 「評価」と「記述」の違い。「私はダメな人間だ」→「私は人間だ。そして自分に対して『ダメだ』という評価をしている」
 これらは、表面的な特徴としては、論理療法(2001年1月の日記indexの1/8、1/10、1/18等を参照)にも似ているようにも思えたし、メタファを多用している点で「生きがい本」や「励まし本」のキャッチフレーズと同じようにも見えたが、どうやらその根本は、既存の

内的事象が行動の問題を引き起こす。だから内的事象を変えよう!

という「内容(content)」指向のアプローチ自体の発想の転換を求めるもの、つまり、

内的事象が行動の問題を引き起こす。だから内的事象を変えよう!という「問題設定」自体を変えよう!

という「文脈(context)」指向のアプローチ」を実現させるところにあるようだ。また、その転換の実行原理には、行動随伴性のパラダイムが活かされている。これらの点では、行動分析の延長上で発展したものと言えないこともない。
【思ったこと】
_10520(日)[心理]京都心理学セミナー(5) 「acceptance」の技法

 武藤氏は、Acceptance and Commitment Therapy (ACT) の援助手続のポイント:
  1. 「救いがない」ことが「救い」なんだというところから始めよう
  2. 「コントロール」というやり方こそが「問題」なんだ
  3. ことばの「毒抜き」をしよう
  4. 自分を「一歩下がって」見てみよう
  5. 求める「価値」とは何なのか
  6. アクションに移す前に準備を始めよう
に関していくつか具体例を紹介された。ここで、今回のセミナーの内容から少し外れるが、私自身が入手している資料:


●Hayes, S. C., Kohlenberg, B. S., & Melancon, S. M. (1989). Avoiding and Altering Rule-Control as a Strategy of Clinical Intervention.
In Hayes (ed.) (1989). Rule-governed behavior: Cognition, contingencies, and instructional control. Plenum.

●Hayes, S. C., & Wilson, K. G. (1994). Acceptance and commitment therapy: Altering the verval support for experiential avoidance. Behavior Analyst, 17, 289-303.

をもとに、ACTが確立された経緯についてもう少し述べておくことにしたい。

 ACTの援助手続については、すでにHayes et al.(1989)の中で、お馴染みとも言える事例がいくつか紹介されている。その後のHayes & Wilson (1994)などを見ると、その技法は100以上にもなる。いま少し、いくつかの事例を紹介すれば、
  • ミルク・エクササイズ:「ミルク」を何度も、出来るだけ早く大きな声で言わせることで、「ミルク」が喚起する心理的イメージが消える。これにより、「ミルク」のsense-makingをヤメさせる効果がある。
  • 「but」ではなく「and」を使う協定:「ワタシは行きたい。but 不安である」というように、「X but Y」という表現は、XとYの共存を否定し、生産的な活動の足をひっぱる効果がある。そこで常に「and」を使うようクライアントと約束する。
 前回も少しふれたように、Acceptance and Commitment Therapy (ACT)で言うところの「acceptance」は、行動分析家が新たに発明した概念ではない。むしろ、種々の心理療法(例えばRogersのクライアント中心療法、ゲシュタルト療法など。おそらく論理療法もこれに含まれる)でキーコンポーネントとしての役割を担ってきた。Hayesらの貢献は、その概念の有効性を、行動分析の概念的枠組みに基づいて実証しようとした点にあるというのが私の考え。もっとも、この方面ではまだまだ文献が読み足りない。誤りがあればご指摘いただきたいと思う。
【思ったこと】
_10521(月)[心理]京都心理学セミナー(6) 「言葉」による「行動の支配」のつながりを解放すること


 連載の最終回。今回のセミナーで、高橋氏は

●Hayes, S. C., Bissett, R. T., Korn, Z., Rosenfarb, I. R., Cooper, L. E., & Grrundt, A. M. (1999). The Impact of Acceptance versus Control Rationales on Pain Tolerance. The Psychological Record, 49, 33-47.

が行った実験、および、それらを発展させた高橋氏と武藤氏による実験の内容を紹介された。

 上記の文献は高橋氏の話題提供後にさっそく入手したが、まだ読んでいない。あくまで、孫引きということになってしまうのだが、Hayesらの実験は、「摂氏0度の冷水に手を入れる」という「痛み」課題において、事前に、ACT理論に基づくrationaleあるいは、認知行動療法やストレス免疫訓練といった考え方を元にした講義(Control rationale)が、痛みに耐える時間や報告される「主観的な痛み」にどういう効果を及ぼすかを検討したものであった。ここで「rationale」というのは、理論的な説明とエクササイズ、実習を含むものであったという。概略としては
  1. ACT理論に基づくrationale:「言葉による統制」といったprivate eventsが行動に大きな影響を与えていることを前提とし、この「言葉と行動のつながり」を「切り離す事」が有効である、としている立場に基づいた講義内容
  2. Control-based rationale:認知行動療法の一つとしてあげられているストレス免疫訓練や痛みへの対処法をもとに、private events や痛みを直接コントロールすることが有効である、という趣旨の内容。具体的には、positiveな自己教示やイメージ、呼吸法という対処法。言語により行動を統制しようと試みている点で1.と根本的に異なる。
  3. 統制群「attention placebo rationale」:痛みという現象についてそのタイプ分類や要素、あるいは行動療法的な説明といった教育的なプレゼンテーション。
高橋氏は時間の関係で、耐久時間についての結果だけを紹介されたが、それによれば、1.のACT理論に基づくrationaleを受けた群の被験者のほうが他の2群の被験者より、有意に長い時間、冷水に耐えることができたという。

 次に高橋氏は、武藤氏と共に行ったオリジナルの実験研究を紹介された。Hayesらの元の実験でrationaleの内容が「講義」と「エクササイズ」とに分かれていた点について、特に、「エクササイズ」に注目し、エクササイズの内容の違いの効果を検討したものであったが、未だ公刊されていない研究であるのでネット上で内容に立ち入ることは差し控えたいと思う。

 以上2つの実験研究を通じて導かれる

Acceptanceの状態は知識として獲得できるものではなく、経験を通して獲得されるものである

という結論、特に

「言葉」による「行動の支配」のつながりを解放する。

ことに注目した点は多いに評価できると思った。

 もっとも、私自身が日頃から主張している心理学研究における実験的方法の意義と限界という視点(こちらに続編あり)から見れば、これらの実験研究だけでは納得のいかない点もある。それらは
  1. 「冷水に耐える」という課題で得られた結論はどこまで一般化できるかという疑問。
  2. 質的に異なる条件を設定したことの問題。
という2点に要約することができる。特に2.に関して、Hayesらの実験では、
  • ACT理論に基づくrationale
  • Control-based rationale
という比較が行われているが、両者いずれも、どういう説明項目やエクササイズを取り入れるかによって内容が大幅に異なってしまう恐れがある。要するに、

中学校の宿泊研修は、海の近くがよいか、山の中で行うのがよいか。

を比較したようなもの。一口に「海の近く」という条件でも、海水浴ができるのか、海を眺めるだけなのかによって内容は著しく異なる。ロケーションも大きく影響する。

 となると、Hayesら、あるいは武藤・高橋氏の主張は、結局のところ、実験によって実証されるというより、実践活動の中で多様な成果をあげることによって有効性が確認されていくべきものではないかと感じた。

 なお、Hayesらの研究は、1999年に

●Hayes, S. C., Sstrosahl, K. D., & Wilson, K. G. (1999).Acceptance and Commitment Therapy: An Experiential Approach to Behavior Change. Guilford Publications.ISBN 1572304812.

として出版されており、その書評が2000年のThe Psychological Record誌(51巻、167-170頁)に載せられていることが後日わかった。上記の書籍は現在注文中である。入手後、細かく拝見した上で、さらにコメントさせていただきたいと思っている。



[5/22追記]武藤さんから、この日記(一連の連載分を含む)に対するリプライをいただいた。御本人から了承をいただいたので、ここに転載させていただく。ありがとうございました。[改行箇所、見出しのアンダーラインは一部長谷川のほうで改編]
発表内容の「輪郭」を描いていただいて感謝しております。
以下、発表に関する補足などをさせてください。

a) ACT手続きの6つのフェーズの「ネーミング」について
確かに「励まし本」風に武藤が「意訳」しましたが、原本では

1) Creative hopelessness: Challenging the normal change agenda
2) Control is the problem, not the solution
3) Building acceptance by defusing language
4) Discovering self, defusing self
5) Valuing
6) Willingness and commitment: putting ACT into action

でした。当日いらっしゃったオーディエンスの方々でしたら、原本のままでもよかったかもしれません(想定では大学学部2年生(心理学専攻)を考えておりました)。

b) メタファーを多用している点
Hayes らの1999年のマニュアル本のサブタイトルは

An "Experiential" Approach to Behavior Change 

なのです。ここでの「体験的・経験的」という意味は、1)ルールではなく直接的な随伴性を強調、2)メタファーやエクササイズによる「疑似体験」を利用、というように解釈しております。確かにACTでは言語のもつ特性から生じるネガティブな側面を軽減することを第一義としています。しかし、逆に、積極的に言語の持つポジティブな「表象的」機能を利用して「体験」させるという特徴も見逃せません(私の発表冒頭で実際に「間違い探し」のエクササイズをやっていただいて、発表の「核心」を感覚的に理解していただいたことからもご理解いただけたかと思います(たぶんですが...))。

また、メタファの乱用は注意するようにそのマニュアルにはありまして、今回の発表はメタファがバラバラとありすぎで散漫になっていたという反省もあります(なにか発表しながらテンションが上がり過ぎて予定にないメタファもかなり使用してしまったのです。とある学生さんからは「何かが憑いていたようだった」と言われてしまいました)

c) 行動随伴性パラダイムによる記述
 行動随伴性パラダイムによる記述は、今回の発表のために初めて行いました(もちろん、Hayesらによってそのような記述されてはいません)。最初は、説明効率の良さから、そのパラダイムを使用してプレゼンテーションすることを思い立ったわけですが、結局は自分の理解・整理にとても有効だったというのが率直な感想です。つまり、ACT手続きの各フェーズを機能分析するということになったからです。

d) Acceptanceの概念
 行動的な「Acceptance」アプローチをしている人は、Hayes派以外にもいます。例えば、Jacobson & Christensen のCouple Therapyです。私の印象では、Hayes 派が特にAcceptanceの状態を「いかに作り出すか」という手続きを一番、体系的にまとめていると言えます(「哲学→理論→実験→臨床」という一貫性から言っても)。しかし、全面にAcceptanceという語を押し出すことは新たな誤解を生み出さないかとやや心配ではあります。Hayesは、「経験の回避」という問題と連動した形でAcceptanceのアプローチを考えています。心配なのはそのスタンスを理解していないと、「実際の行動で外的環境を変化させることのできるようのもの」についてもAcceptanceをすることが有効なんだという「般化」が生じないかという不安です。この概念は一般的であるが故に誤解も生じやすいので、それに対するケア(説明をする際の)を最初から考える必要があるなぁと考えています。

取り急ぎ、リプライまで。