じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa



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第27回京都心理学セミナー:「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」

1999年9月25日〜9月28日
【思ったこと】
990925(土)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その1)

 京大文学部で行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」に参加した。このセミナーは、私の指導教授にあたる本吉良治先生の御退官を記念して開設されたもので、毎年2回、各回3人の講師をお招きして最先端の研究の話を聞くという集まりだ。殆ど広報らしい広報を流していないので出席者は大部分が京大文学部の院生やOBに限られているが、趣旨としては誰でも参加自由。参加費無料となっている。今回のテーマは「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」。企画・司会は金児暁嗣氏(大阪市大)、講師は、遠藤由美氏(奈良大)、北山忍氏(京都大)、濱口惠俊氏(滋賀県立大)であった。

 「自己」という概念は社会心理学やパーソナリティ心理学においてこの20年の間、最も関心を集めてきたテーマの1つだと言う。もっとも、私が専門とする行動分析学の分野では相対的に関心の度合いが少ない。個々人の行動を説明するにあたって、自己概念を必ずしも必要としていないためである。それだけに、「自己」を専門的に研究している第一線の研究者から話を聞くのはまたとないチャンス。できれば日頃の疑問もぶつけてみようと上洛した次第。

 まず今回のセミナー全体に共通する特徴をあげれば、自己を外部世界から切り離された独立的存在としてとらえるのではなく、他者との関係の中でとらえようとしている点にある。これは最近の社会心理学の中心的な流れであるという。もっとも、私のような行動分析学的な見方をする者から言わせてもらえば、もともと行動というのは外界との関わりの中で規定されるもの。外界や共同体から独立した自己などあり得ないし、言語行動すら共同体を前提として定義される。基本的な見方自体はそれほど目新しいものではないようにも思えた。自己が個人の内部に確固として独立的に存在し、そこから発する意志に基づいて行動が発現するいう見方をとってきた人たちにとってはかなり斬新なアイデアであるのかもしれない。

 さて順序に従ってまず遠藤氏の講演から。遠藤氏の中心テーマは共有現実性(shared reality)。現実は他者と共有できる程度において確かなものになるという考え方だ。少し前にイラン皆既日食に関連して
どんな体験でもそうだと思うが、送り手と受け手の間に何らかの類似体験が無ければ、言葉や映像をどのように駆使してもその感動を伝えることはできないものであると私は思う。そして、類似体験による例え話にも限界がある。何かに似ていると伝えることは、本物を伝えたことにはならない。
と書いたことを思い出した。もっとも、フィクションとはいえ長期間孤独な生活を強いられたロビンソンクルーソはどうなるのだろう、共有現実性より「共有随伴性」のほうがうまく説明できるのではないかなあ、などと思ってみたが残念ながら質問をする機会がなかった。

 そのあと、「逸脱とみなす者(マジョリティ)とみなされる者(マイノリティ)」、「関係性自己・対人的自己」などに関して興味深い話が続いたがここでは省略させていただく。

 講演の終わりのほうで、「現代社会とアイデンティティ」に関してネット愛好者にとって興味深い事例が紹介された。それは、もともと現実社会で人間関係の希薄な人がチャットで別の人物を装うと人格が分裂し混乱・不安を増大させる恐れがあるという話。正確には聞き取れなかったけれど、例えば中年男性が女子高校生のハンドルでチャットに参加し受け答えを繰り返しているととんでもないことになるというような話が紹介された。「匿名でWeb日記を書いている人が裏日記で別のキャラづくりをめざすとどうなるんでしょう?」と質問してみたいところだったが、これも残念ながら機会が無かった。

 上記とも関連するが、例えば特定の職業やキャラを装って社会的接触を保っていると、ホンマにその人物になりきってしまうという可能性があるようだ。これを敷衍すると、例えば大学院生の方が大学教授を装ってWeb日記を書き続けていると、大学教授らしいパーソナリティが形成されるということになる。もっともパーソナリティだけ教授らしくなることが現実の就職や昇進を早めることになるのか、逆に反発を招いて就職・昇進を遅らせる効果をもたらすのかは定かではない。

 明日以降に続く。
【思ったこと】
990926(日)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その2)自己高揚のアメリカ人、自己批判の日本人

 京大文学部で9/25に行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」の参加報告2回目。今回は北山忍氏(京都大)の講演「自己の心理・対人・状況的基盤---文化心理学の視点---」について感想を述べることにしたい。

 北山氏は今回の演者の中では唯一、院生時代からの顔見知りで一応後輩にあたる。私がオーバードクターだった頃にフルブライトでミシガンの大学院に入学。そのまま向こうで学位をとり、オレゴン大学で確か准教授をつとめてから京大に赴任。社会心理学、文化心理学方面では世界的な権威として知られており、後輩とは言っても雲の上の人。京大出身の歴代心理学者の中では間違いなく5本の指に入る天才だ。

 分野が違うせいもあって、北山氏の講演を直接拝聴するのは院生以来初めて。スピーチの内容がすべて頭の中できっちり体系化されておりさすが世界のキタヤマは違うという印象を受けた。

 講演はご自分のミシガン大学留学の体験を通じて、社会心理学の諸理論がアメリカの文化をうまく説明できる反面、日本で同じことを当てはめようとしても時として逆の結果が出てしまうことに気づいたという話から始まった。そして、その違いは単に文化と主体の相互の影響というレベルではなく、それらを相互に構成しあうものとして理論化されなければならないというのが今回の主たるテーマであると理解した。

 講演では日本人とアメリカ人の違いを示すいくつかの調査、実験例が引用された。それらを簡単にまとめると、アメリカ人は一般に仕事(あるいは試験、試合など)が成功した時にはそれを自分の能力に帰属させ、失敗した時には課題の悪さ(課題自体や出題者...)に帰属させ、このことを通じて自己高揚的な傾向を維持する。ところが日本人で同じような調査や実験をやっても、自己高揚的な傾向が出てこない。日本人の場合はむしろ自己批判的、しかも単なる表面的な謙遜にとどまるものではないという。

 日本とアメリカの文化差は動機づけシステムにも違いをもたらしている。子どもをしつける時、親はどうしても基準を高く設定して完璧主義に走る。例えば、テストで80点を取った時はその努力を褒める代わりに「もっと頑張りなさい」と言う。95点の時は「あと5点ね」、それなら100点取ったら褒めるかと言えば「次も100点取りなさい」と言う。こうした傾向は、日本古来の伝統芸能や柔道、剣道に見られる「型重視」に根ざすものかもしれない。野球解説者が清原選手のフォームにばかりこだわるのも同じというような話だった。

 またある実験によれば、アメリカ人は課題に成功した場合に任意(やってもやらなくてもよい)の課題を自発的に取り組むことが動機づけづけられるのに対して、日本人被験者はむしろ失敗した時に「もっと一生懸命やろう」という形で動機づけづけられる傾向が見られたという。このあたりを行動分析的に再解釈すればアメリカ人は「好子出現」の随伴性で、日本人はそれよりも「好子消失阻止」や「嫌子出現阻止」の随伴性で制御されやすい(←文化的に、そういう確立操作がはたらきやすい)ということになりそうだ。

 こうした文化差は対人関係をつかさどる「ゲーム」にも違いをもたらす。アメリカ人では相手が成功した時にその自己高揚(Having and willing to express a high self-esteem)を賞賛(Approval, praise, and admiration)するような働きかけが潤滑油となって自己と対人関係の相互構成過程を形成する。これに対して日本人の場合には、自己批判(Having and willing to express a self-critical attitude)に対する調整や思いやり(Adjustment, sympathy, and compassion)が重要な役割を果たしているという。

 セミナー終了時に質問を述べる機会があった。私は、この北山氏のモデルについて
自己高揚と自己批判の違いはよく分かったが、Inter-individual phaseとして挙げられている賞賛(Approval, praise, and admiration)と調整・思いやり(Adjustment, sympathy, and compassion)はどちらも言語的な強化という点では変わらない。単に強化の対象が違うだけであるようにも見える。機能的な違いがあるとしたらどういう点か、両者を区別する必要があるのか
と尋ねてみた。北山氏はそれはたいへん良い質問だと褒めてくれた上で、その部分だけを取り上げれば両者ともポジティブな働きかけという点で変わらないが、2つの相互構成過程の歴史的生成まで考える時には区別が必要であろうとの見解を述べられた。

 北山氏は、日本の農耕的気風、俗的現実主義、儒教思想、禅や浄土仏教などの文化的自己観まで組み込んで日本的自己の歴史生成を考えておられるようだ。今後の御研究の発展に期待したい。
【思ったこと】
990927(月)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その3)自我原理主義の限界と日本型システムのなかの<にんげん>

 京大文学部で9/25に行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」の参加報告3回目。今回はトリをつとめられた濱口惠俊氏(滋賀県立大)の「日本型システムのなかの<にんげん>---「関係体」の存在論的検討を通して」についての感想。

 濱口氏は今回の演者の中では最年長にあたる。こういうスピーチをする場合、まずジョークから始めるのがアメリカ人、言い訳から始めるのが日本人という話から始まった。ジョークを聞く側にも国民性があるという。ジョークを半分ぐらい聞いたところで笑い出すのがフランス人。そのジョークは古いぞと相手をけなすのがアメリカ人、一日経ってから笑い出すのがドイツ人。で、聞いている時にはニコニコしているが実は何も分かっていないのが日本人だという。これは英語でジョークを聞いた時の話だろうか。

 というような面白い話ばかりかと思っていたところ、本題に入ったところで「自我原理主義とその限界」という難しい話が始まった。配布資料を参考にしながら私の理解した範囲を記せば
  • デカルト主義では、主体は客体との関係を考慮せず無条件に存在しうると考えるが、これは独我論的な自我肯定にすぎない。「われ思う、ゆえにわれあり」は、「われ」の根拠として<思う>主体としての「われ」を設定することは循環論的誤謬。<思い>の帰属する主体が確かに「われ」であることを立証していない。→木村敏、滝浦静雄
  • 「孤」のままで自己充足しうると考えられてきた「個」は、自然界でも人間界でも存在しえず、観念上の虚構にすぎない。→藤沢令夫
  • 「有るものは、何かに於いてでなければならぬ」つまり「場所」における存在こそが真の実在。自己は主語そのものとしてではなく、述語的統一として存在。→プラトン、西田幾多郎
講演はさらに、相関存在論、方法論的個別主義から方法論的関係体主義へのパラダイムシフト、関係集約型タイプとしての「間人」(the contextual)と、個体集約型タイプとしての「個人」(the individual)の区別という話題に発展していったが、抽象的な話題が多く、私自身の言葉に翻訳して語れるところまでは理解できなかった(ぢつは、ちょっと居眠りをしてしまった。ごめんなさい)。

 後半では、「間人主義」「個人主義」の国際比較調査の結果も紹介された。これは例えば「私は、自分の役に立つような人としかつきあわない」とか「まわりの人が悩んでいると、とても平気な顔はしていられない」などの質問にあてはまるかどうかを尋ねる調査であり、25カ国、約8000人を対象にした大規模なものだ。「間人主義」「個人主義」それぞれのスコアを横軸と縦軸にとった散布図を見ると国別に大きな違いが表れていたが、時間の関係で細かい解釈までは伺うことができなかった。

 以上、3回にわたってセミナーの内容を私なりに要約してみた。次回は私自身が考えたことを述べる予定。それにしても京大構内は建物の工事で騒がしい。昨年秋に来た時も工事をやっていた。何だか一年中工事現場というような気がする。文学部新館南側は依然として発掘調査中、私が学んだ頃の本館はすでに取り壊され、新館(東館)は複数の学部の共同利用になっているとのこと。建物の中に入ればそれなりに快適な研究環境があるものの、岡大のような自然とのふれあいの場が殆ど無い。東大のような鬱蒼と茂る樹木も少なく、全体としてお茶の水近辺の私立大型に様変わりしているような印象を受けた。
【思ったこと】
990928(火)[心理]「自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」(その4)にんげんは蜘蛛の巣のようなものか

 京大文学部で9/25に行われた「第27回京都心理学セミナー:自己と他者--アイデンティティの根源を求めて」の参加報告の最終回。私自身の感想を述べることでまとめに代えたいと思う。なお、これまでの連載は以下の通り。。
 まず、社会心理学の研究の流れの中で、自己を外部世界から切り離された独立的存在としてとらえるのではなく、他者との関係の中でとらえようという傾向が強まっていることは、まことに結構なことだと思う。物事を何かに例えるとかえってその本質を見失う恐れがあることを承知であえて例えるならば、個人というのは林の中に張りめぐらされる蜘蛛の巣のようなものかとふと思った。蜘蛛の巣のどういう点が人間に似ているかと言えば
  • 枝(他者を含む外部環境)に掴まらなければ存在しえない。
  • それぞれの巣は独立しているが、どこからどこまでが巣の中心部というわけでもない。
  • 巣の形は多少違っても材質は同じ。
  • 巣を作るプロセスには共通性がある。
  • 巣に振動を与えた時の反応のしかたに共通がある。
  • 巣が多少壊れても修復できる。
  • 同じ場所に張られた巣でも常に修復が加えられている。
 遠藤由美氏の共有現実性(shared reality)はたいへん興味深い概念であると思ったが、25日の日記にも書いたように、行動分析学的には「随伴性の共有」ということで説明ができるように思う。社会心理学では随伴性概念はどのように捉えられているのだろうか。

 北山氏と濱口氏の講演の中では日本人と欧米人(主として米国人)との違いを示す実例がいくつか挙げられた。こうした違いを単に正確に記述するというレベルにとどまるだけでなく、リアリティの基盤にアイデアをという置くという視点で心理学の研究を進めていくことは、文化人類学や社会学諸分野にも大きな影響を与えることだろう。

 もっとも、「日本人は○○、米国人は××」というような区別は、通俗的な話題として一人歩きしやすく、時にはステレオタイプな外国人観を形成する恐れがある。日本人の中でも自己高揚的な人もいれば自己批判的な人もいる。日本でもある種の集団の中では自己高揚的な行為が賞賛される場合もあるだろう(営業目標重視の職場、スポーツ界、学習塾、ひょっとして大学院研究室)。時代によっても変容しうるものである。北山氏は“「文化」そのものは見つけられない。アイデアに基づいて構成される状況の性質のかたまり”のようなものだと言っておられたが、その普遍性がどの範囲まで及ぶのか、今後の検討を待ちたいと思う。

 「日本人は○○、米国人は××」というような区別は、おそらく教育現場や企業内で何かの行動を増やそうとするときに有用な知識を与えてくれるに違いない。例えば子供のしつけ、大学改革、企業の生産性向上など。ただそれらが「有用」というレベルを越えて、本質的に異なる原理を必要とするほどの違いになるかどうかは疑わしい。北山氏にも質問したように(26日の日記参照)、賞賛とか思いやりというのは、言語的な強化という点では変わらない。単に強化の対象が違うだけであるようにも見える。もしそうならば、文化という概念は、強化の随伴性をより有効に働かせるための補助的有用情報としてのみ意義をもつことになる。

 北山氏は、米国(自己高揚とそれに対する賞賛)や日本(自己批判とそれに対する調整や思いやり)がそれぞれどういう歴史的基盤の中で淘汰され定着するようになったかということまで関心をもっておられるようだった。ただ、異なるタイプのシステムというのは、生物進化と同様で、適応性の高いものが生き残るとは必ずしも言えない面がある。なかには偶然的に残る場合(=運がよかった)もあるだろう。個人レベルの行動でさえ過去のヒストリーにさかのぼって原因を求めるのは困難。科学的・実証的な研究がどこまで可能であるのか、このあたりも今後の発展に期待していきたいと思う。