じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

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2009年版

目次
  • 【2009年1月13日】「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(1)
  • 【2009年1月14日】「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(2)
  • 【2009年1月15日】「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(3)「血液型シナリオ」を演じる人々
  • 【2009年1月16日】「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(4)他人の血液型をあてられる確率(1)
  • 【2009年1月17日】「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(5)他人の血液型をあてられる確率(2)
  • 【2009年1月19日】「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(6)他人の血液型をあてられる確率(3)
  • 【2009年1月20日】「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(7)やはり弊害があるのでは?
【思ったこと】
_90113(火)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(1)

 少し前の各種報道によれば、2008年は、血液型による性格診断を扱う書籍がブームとなり、年間ベストセラー10冊に『血液型自分の説明書』シリーズ4冊がランクインした。「血液型は非科学的」と主張する科学誌も出版不況の中で好調な売れ行きを確保。“2匹目のどじょう”を狙った類似本の出版も相次いだという(以上、日経ネットから要約引用。2008年12月3日配信の読売新聞でも同様の記事あり)。

 1月にはちょうど、1コマ限りの分担授業でこの話題を取り上げるので(実は本日だ!)、これを機会に、最近の「血液型現象」について私の考えをまとめておくことにしたい。

 ちなみに、このWeb日記では、昨年1年間は、血液型の話題を殆ど取り上げていなかった。過去ログをざっと検索した限りでは、北京オリンピック野球日本代表は血液型性格判断に汚染されていたか? が唯一の話題。9月に北海道大学で行われた日本心理学会第72回大会では、大村政男先生の

L03 血液型性格と郷土性(県民性)を科学する

という小講演が行われた模様であるが、残念ながら他の会場に出席していて拝聴することができなかった。

 それから、今回の連載を書くにあたって、血液型人間「学」で有名な能見俊賢氏が2006年9月27日に、脳出血のため57歳の若さでお亡くなりになっていた、ということを初めて知った。2007年の日本心理学会第71回大会では、能見俊賢氏がお亡くなりになったというような話は一言も出なかったと記憶している(あるいは、能見氏がお亡くなりになったという話を聞いても、だいぶ前に能見正比古がお亡くなりになっていたことと、私だけが混同していたのかもしれない)。今さらでまことに恐縮だが、謹んでご冥福をお祈りします。




 さて、冒頭の『血液型自分の説明書』がベストセラーになったという話題であるが、私自身は、当該の本を1冊も買っていないし本屋で立ち読みをしたこともない。いずれ、古本屋で1冊100円程度で売られるようになったら買いそろえてみたいとは思っている。

 ということもあって、現時点ではその内容については、一言たりとも論評できる立場にはないが、私が面白いと思ったのは、Amazonの情報を見る限りでは、これらのシリーズの著者は
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
Jamais Jamais
東京都出身。大学の工学部をリタイア後、美大の造形学科でリスタートを切る。現在は建築設計を生業としている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
となっていて、本名ではなく(←フランス語読みで「ジャメ ジャメ」と読むのだろうか?)、ネットでざっと検索しても、正体がよく分からない人だということである。

 いや、心理学の専門家でないからこれらの本がインチキだというつもりは毛頭ない。重要なのは、これらの本を買った人が、著者の正体、履歴、専門性、エビデンスなどにはおそらく無頓着であったに違いないということである。

 新聞折り込みなどの、健康食品のチラシではそうはいくまい。健康食品の場合は、○○大学教授・医学博士△△先生の推薦、××大学の学会発表(←たいがいは、どこぞの学会でポスター発表した、「とんでも」発表程度のようだが)といった「権威付け」や、何となく胡散臭い「実験データ」のグラフなどの「エビデンス」がないと宣伝が難しいようだが、この血液型本に関しては、私の知る限りでは、そのような権威付けは一切行われていない模様である。つまり、健康食品と当該の血液型本では、購入動機が質的に異なっているということが示唆される。

 であるからして、心理学の専門家が、あれは非科学的だから信用できないなどと演説したところで、本の売れ行きに影響を与えることはまずない。おそらく、
  • 「性格判断」などは、単なるお遊び。
  • 外れていたからといって健康被害を受けたり、大損をするわけではない。
  • 心理学者が何と言おうと、心理学を全く知らない人気作家が何を書こうと、面白ければそれでよい。
ということが、その背景にあるのではないだろうか。これが、私が考える「「血液型性格判断」が廃れない本当の理由」の1番目である。

【思ったこと】
_90114(水)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(2)

 昨日の日記で、「血液型性格判断」が廃れない本当の理由の1番目として、
  • 「性格判断」などは、単なるお遊び。
  • 外れていたからといって健康被害を受けたり、大損をするわけではない。
  • 心理学者が何と言おうと、心理学を全く知らない人気作家が何を書こうと、面白ければそれでよい。
ということを挙げた。しかし、単に遊びとか面白いといううだけでは、そんなにたくさんは売れないはずだ。『血液型自分の説明書』(書名としては、4つの血液型別に『×型自分の説明書』という名称になる)多くの読者にとっては、もっと積極的な理由があるに違いない。

 これに関連して、昨年12月上旬にヤフーバリューインサイトが20歳〜59歳の男女800人(血液型ごとに200人ずつ)を対象に行ったインターネット調査(出典はこちら、2008年12月25日付け、PDF形式)は、報告書冒頭で
日本人の間で決して廃れずに訪れるこのような血液型ブームの背景には、表現の面白さや売り方等のそのときどきの理由があるのはもちろんですが、それに加え、何らかの普遍的な『心理的ベネフィット』が存在するに違いないという仮説から、この一端を探る目的で調査を実施しました。
と述べている。この仮説は私もその通りではないかと思う。というか、行動分析学的な見方をすれば、ある行動現象(ここでは「血液型本を買って読む」という現象)の背景には必ず、その行動を強化している要因がある。当該調査会社が言っている「心理学的ベネフィット」ということと、行動の強化因(=好子、あるいは強化子)を探るということはほぼ同義と考えてよいだろう。

 さて、その調査結果によれば、回答者のうち、血液型本(「血液型占い」は除く)を「よく見たり・読んだりする」という人は60人、「ときおり見たり・読んだりする」という人は338人、「あまり見たり・読んだりしない」は273人、まったく見たり・読んだりしないは129人となっていて、読むか読まないかの比率はほぼ半々になっている。さらに、「よく見たり・読んだりする」人であるほどその内容を信用しているという結果が見られる。ま、おみくじでもそうだろうが、内容を全く信用していないならわざわざ買ったりはしない。あるいは、無神論の人は、(宗教関係の資料を集めている人を別とすれば)、宗教団体の勧誘パンフを読もうとはしない。血液型本をよく読む人ほど、内容を信用しているというのは当たり前という気がしないでもない。

 冒頭にも挙げた『心理的ベネフィット』が存在するに違いないという仮説に関してだが、調査結果【3】を拝見する限りでは
見る・読む関与度が高い人ほど「共感・納得」「自己表現」「役立つ」「自分の血液型への愛着・誇り」が高い
という傾向があることは裏付けられている模様である。但し、この調査は、予め用意された回答項目のうち、あてはまるものをすべて選べる(いくつでも複数選択可能)という調査方式となっている。この種の質問方法ではいっぱんに、肯定的な比率や、回答者がもともと想定していなかったような項目まで選択される比率が高くなる傾向があり、比率自体の大きさについては注意が必要(こちらに関連記事あり)。

 いずれにせよ、「よく見たり・読んだりする」という人や「ときおり見たり・読んだりする」という人においては、自分を肯定したり、自信を持ったり、自己の改善・向上をめざす上で、血液型本が役立っている可能性があることは確かなようである。

 以上を踏まえると、「血液型性格判断」が廃れない本当の理由の2番目としては次のようなことが考えられる。
  • 「血液型性格判断」には、自分の「持ち味」を知り、それを活かして向上につなげたいという潜在的なニーズに応える機能がある。自分の「持ち味」を知る方法としては、性格検査、適性検査、占い、おみくじなどいろいろあり、基本的にはどれでも構わないが、(ネット上の遊びではないホンモノの)性格検査や適性検査を受検するには手間と費用がかかる。占いも同様。この点、血液型本は安価な「持ち味」発見ツールとなる。
  • もともと、「自分の持ち味」は科学的方法で発見するものではなく、「これが自分の持ち味だ」と信じ込むことが肝要(おみくじも同様)。よって、自分の「持ち味」を知るためには、必ずしも専門家の診断は必要ではない。
  • 当たっているかどうかは二の次、他人に当てはまるかどうかも二の次。とにかく、書かれてある文章の中に、「共感的に理解」できる部分が見つかり、それを実践することで自信がもてるならそれでよい。
  • 多くの人は、自分の行動の原因をさぐり行動を改善したいと思っているが、現実にはなかなかうまくできない。自分一人で(オンリーワン)で何かを達成しようとしても途中で挫折しやすい。その点、多くの人が読んでいる本の内容であれば安心できるし(おみくじも同様)、ある程度励みになる。「血液型」に基づく自己改善・向上をめざすということであれば、少なくとも、同じ血液型者という「仲間」がいるので、心強い。
 こうして考えてみると、心理学の専門家が「血液型本はインチキです」と演説するのは、初詣で賑わう神社の鳥居の前で「おみくじには科学的根拠はありません。」と叫んでいるようなもので、全く、お門違いということになる。そんな批判をしているヒマがあったら、もっと有効性の高い自己改善法のプログラムを提唱するべきだ、そうすれば必然的に、血液型本に頼る人は減ってくる、と考えたほうが妥当であろう。

【思ったこと】
_90115(木)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(3)「血液型シナリオ」を演じる人々

 昨日の日記で、
もともと、「自分の持ち味」は科学的方法で発見するものではなく、「これが自分の持ち味だ」と信じ込むことが肝要(おみくじも同様)。よって、自分の「持ち味」を知るためには、必ずしも専門家の診断は必要ではない。
という形で、自分の「持ち味」を「探す」(←実際は「信じ込む」)手段として血液型本を利用している人がいるのではないかと論じた。

 今のような不確実な時代にあっては、自分一人で考えてもどうしてよいか分からないことが多い。科学的な根拠があろうと無かろうと、とにかく、何らかの指南書、ガイドブック、マニュアルのようなものがあれば、あれこれと思い悩む負担が減り、自信を持って道を進むことができる。血液型の場合は4通りというようにパターンが少ないので、このことが同じ血液型者の間で妙な連帯感をもたらしている可能性もあると思う(←本当は4通りではない。ABO型以外の血液型を組み合わせると、その総数は日本人の人口を遙かに超えるとは言われている。)。




 さて、もしこのような形で血液型本が読み続けられていくとすると、本当の自分が何であれ、とにかく、血液型本のシナリオを演じようとする人、つまり、血液型本に書かれた「特定の型」に自分自身を合わせてしまおうという人が増えてくる可能性がある。そういう人たちに質問紙調査を行えば、回答内容は血液型本通りになってしまう。結果的に、「大規模な質問紙調査の結果、回答傾向には血液型による有意な差違が認められた」というようなことにもなりかねない。

 これは大げさに言えばこういうことだ。血液型本に「X型の人は仏教、Y型の人はキリスト教が適している」と書かれてあったとする。それを読んだ人に「あなたはどの宗教が好きですか?」という質問紙調査を行ったら、その比率に、X型とY型で有意な差があったというようなことである。




 じっさい、ヤフーバリューインサイトの調査結果の【4】を見ると、
  • A型:自己肯定よりも、他の血液型を羨ましがる傾向。
  • O型:自分の血液型に対して最も前向き。
  • B型:「否定されている」と感じる人が最も多い。
  • AB型:「貴重な存在」という自己肯定が強め。
というように【長谷川による要約引用】、血液型本や記事などの表現物を(多少なりとも)見たり・読んだりする人たちのあいだではすでに、各血液型別に「独自の「血液型」観」が形成されていることが分かる。

 こうなってくると、日本人の行動特性等について大規模な質問紙調査を実施し、そこで何らかの血液型別の有意な差が確認されたとしても、それが、生来の血液型別の差違を反映したものなのか、それとも、血液型本のシナリオを演じている人たちの「血液型別の血液型観の違い」を反映したのかを区別することはきわめて困難ということになる。もし、血液型による行動特性の違いを純粋に学術的に調べようと思うのであれば血液型本が全く出回っていない別の国で調査するか、もしくは、「血液型本を全く読んだことが無く、関心も無い」という日本人に限定して調査を行わなければ、信頼できる結果は得られないと言っても過言ではない。

【思ったこと】
_90116(金)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(4)他人の血液型をあてられる確率(1)

 少し前のYahooのニュースに「他人の血液型をあてられる確率は47%?」という「意識調査」結果が紹介されていた。今回はこの問題を取り上げてみたいと思う。この調査は、2008年12月3日〜2008年12月13日まで、ネット上の投票により行われた。投票総数は20799票。質問内容は
2008年の書籍の年間ベストセラー(トーハン調べ)の10位までに血液型本が4冊入っているそう。あなたは、他の人の性格からその人の血液型をどれぐらいの確率であてられる?
となっており、0%〜100%まで10%刻みの選択肢の中から1つを選ぶという方式になっていた模様である(投票実施時の画面はすでに削除されているので、あくまで、最終結果画面からの推測)。




 このことについて考察を行う前に、当該の「意識調査」に関して、3つほど留意すべき点を挙げておきたい。

 まず、当該画面でも「※統計に基づく世論調査ではありません。」と断っているように、この結果はランダムサンプリングによる世論調査とは異なる。あくまでネット上で投票に参加した人たちの内訳であり、参加者は、ネットにアクセスでき、かつ、そのような問題に関心を持った人に限られている。今回の調査に関しては不明であるが、この種の投票では、しばしば「組織票」や、(当該問題に対して)感情的に反応している人が、より多く参加する可能性もあることに留意しておく必要がある。

 第二に、ニュースの見出しでは、「他人の血液型をあてられる確率は47%?」となっていたが、結果の棒グラフを見ると、10%刻みの各選択肢の比率の分布は拡散しており、47%のあたりにピークがあるというわけでは必ずしもない。「回答者の圧倒的多数が47%であると答えた」というケースと、「回答者が選んだ選択肢は0%から100%まで多種多様であり、強引に平均をとったら47%になった」というケースでは、同じ「平均47%」という結果であっても解釈は全く異なってくる。今回の結果は、後者に相当するものであり、要するに、「投票参加者の間では、あたると思われる確率についての考えは多種多様、マチマチであった」と解釈するのが妥当であろうと思う。

 第三に、「他の人の性格からその人の血液型をあてられるか」という議論と、「血液型によって性格に違いがあるかどうか」という議論は、別物である。その理由としては、ベイズの定理として知られる条件つき確率の議論があることに加えて、

「他の人の性格からあてる」と言うが、そもそも、性格とは何か、そして、他の人の性格をどうやって知るのか?

という問題がある。

 性格をめぐる諸問題については、日本心理学会第72回大会の参加報告・感想の中でも取り上げたように、そもそも、心理学の中でも、特性論的理解への批判はもはや常識と言っても過言ではなく、他人をパッと見ただけで「あなたは○○という性格ですね」などと判断できるような「性格」が存在するかどうか、甚だ疑わしい。

 とすると、当該の調査で「他の人の性格」と呼ばれているのは、「性格」そのものではなく、むしろ、種々の行動傾向のうち、(気分や疲労といった短時間の変化を除いた)比較的永続的な特徴のことを意味しているものと推測される。しかし、行動傾向一般には、民族や文化や生活習慣の差、当人自身の語り(←「私って、○○という性格なのよ」といった表明)なども含まれており、それらと明確に区別することはできない。

 例えば、アンデスの山奥のホテルに10人の宿泊者がおり、そのうち5人は日本人、残りの5人は先住民族の子孫であったとする。この場合、日本人に対して「あなたはA型でしょう?」と言えば40%の確率で当たるし、先住民族の子孫に対して「あなたはO型でしょう?」と言えばたぶん90%以上の確率で当たるだろう(南米の先住民族は殆どがO型者であると言われている)。宿泊先での日本人と先住民族の子孫の行動傾向は著しく異なると思われるが、血液型が当てられたからといって、性格の違いを手がかりに血液型を当てた証拠にはならない。

 また、昨日の日記でも述べたが、血液型本をよく読むと、血液型本に書かれた「シナリオ」通りに演じる傾向が出てくる可能性がある。あるA型者が「私はおだてりゃ木に登るタイプなのよ」と表明し、それを聞いた第三者が「あなたはA型でしょう」と言えば、いちおう当たったことになるが、もしかしたら、そのA型者は「タブチさんが、A型はおだてりゃ木に登るタイプと言っていたけれど、私もきっと、うまくおだてられたら木に登ってしまうかもしれないわ」と表明していただけなのかもしれない。この場合、そのA型者は、「自分は、他者に比べて、おだてられる傾向が特に強い」ということを他者との客観評価により検証したわけではない。単に、著名人がA型者はこういう傾向があると言っていたことに納得していただけである。また、「あなたはA型でしょう」と言い当てた人も、同様の風説を判断の手がかりにしていただけかもしれない。要するに、あてられる人とあてた人が、共通の「合い言葉」を使っていただけという可能性がある。

 以上の3つほど留意点を挙げてみたが、これとは別のところでも、「当たりやすい」と錯覚させるような別の強化因が潜んでいるように私は思っている。

【思ったこと】
_90117(土)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(5)他人の血液型をあてられる確率(2)

 昨日に続き、

あなたは、他の人の性格からその人の血液型をどれぐらいの確率であてられる?


というネット投票の結果について考えてみることにしたい。

 さて、そもそも、「血液型をどれぐらいの確率であてられる?」とはどういうことなのだろうか。

 数学的に言えば、血液型(ここでは、ABO式血液型)の分からない人に「あなたは○○型ですね?」と予想を行い、実際に調べた血液型がどのくらい正解であったのかということが、「あてられる確率」という意味になる。

 こうした確率の見積もりは、基本的には、過去の体験によって決まってくる。すでに何百回も予想を行った人であれば、正解率イコール「あてられる確率」になる。しかし、実際の主観的確率の大きさは、リスクの重大さ、当たった時の印象の強さなどによっても変わってくる。例えば、天気予報が外れてずぶ濡れになった経験を持った人は、天気予報の当たる確率を統計的な数値より低く見積もる。いっぽう、ショッキングな事故や事件が報道された直後では、同種の災いに巻き込まれる確率は高く見積もられるであろう(よく言われることだが、中東の某国で爆弾テロに遭う確率は、同じ国で交通事故に遭う確率より高く見積もられる。しかし、実際には交通事故に遭う確率のほうが高い。)。




 次に、「他の人の性格からその人の血液型をどれぐらいの確率であてられる?」という設問のうちの「他の人の性格から」という部分であるが、これはかなり曖昧な意味を含んでいると言わざるを得ない。まずは、昨日も述べたように、「性格とは何か」という根本問題がある。さらに、回答者自身が、

【1】他人の性格をトコトン調べれば、その人の血液型を当てられる確率は100%にまで高めることができるか。100%に達しないとすれば何%程度だと思うか?

という意味に解釈していた可能性もあるし、

【2】他人の性格について何らかの情報を得た場合と、そういう情報が全く無かった場合で、その人の血液型を当てられる確率に違いがあると思うか? あるとすれば、「性格についての情報」が正解率を押し上げる効果は何%程度があると思うか?

という意味に解釈していた可能性もある。

 ネット投票の結果によれば、あてられる確率は0%であると回答した人が16%(4091票)もあったということだが、本来、どんなにデタラメに血液型を予想しても、正解率がゼロになるということはあり得ないはずだ。この種の回答をした型はおそらく設問を、上記の【2】の意味で解釈していたのではないかと思われる。

【思ったこと】
_90119(月)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(6)他人の血液型をあてられる確率(3)

 1月17日の日記の続き。

 「血液型をどれぐらいの確率であてられるか?」というのは、数学的には、
血液型(ここでは、ABO式血液型)の分からない人に「あなたは○○型ですね?」と予想を行い、実際に調べた血液型がどのくらい正解であったのか?
ということを意味している。前回いろいろ指摘したように、主観的確率の大きさは、リスクの重大さ、当たった時の印象の強さなどによっても変わってくる。しかし、基本的には、過去の経験の中で「当たった」回数が多ければ多いほど、回答に際してより高い確率を選ぶことは間違いない。

 その際、日本人の場合、A、O、B、ABという4つの血液型の比率は、大ざっぱに言って、順に、4:3:2:1というように偏っており、25%ずつではないという点に留意する必要がある(より正確には、A型38%、O型31%、B型22%、AB型9%というデータもあるらしい)。

 ウィキペディアの当該項目にも
日本人総人口に占めるA・O・B・AB型の割合はそれぞれ4:3:2:1なので、毎回A型と言えば約40%の高確率で正解することになるので、仮にA型の人を高確率で言い当てたとしてもそれだけでは仮説の正当性の根拠にはならない。
と記されているように、ありふれた「性格」を手がかりに「あなたはA型ですね?」と予測すれば約40%の確率で正解となる。偶然に当たる確率が25%であると誤解している人は、40%も当たれば、「他の人の性格からその人の血液型を当てられる確率」はかなり高いものだと思い込んでしまうことになる。




 ここで、9月11日の日記の一部を再掲しておこう。
 記事では冒頭、
北京五輪日本代表の最終メンバー24人が17日に発表されたが、血液型では、A型が10人(41.7%)と圧倒的多数。O型は7人、AB型は5人、B型は2人しかいない。
と記されている。A型が圧倒的多数と書かれているが、日本人全体のA型者の比率はもともと40%前後ではなかったのか。 いっぽう、B型者が若干少ないのが気になる。スポーツ界で差別されたり、B型者であるという理由で偏見を持たれなければいいのだが...。

 記事の後半では、
「A型は、おだてりゃ木に登るタイプ。俺もそうだからよくわかる」と田淵コーチ。こうなると、A型の多いジャパンを束ねるには、星野監督の鉄拳や一喝より、A型で「人当たりが良い」田淵コーチが前面に出た方がうまくいくのかも。
とあったが、何型であろうと、うまくおだてれりゃ木に登る。上記の引用部で「A型は」、「A型の多い」、「A型で」という部分を取り去っても、主張内容は大して変わらないのではないだろうか。
 引用部分の前半にあるように、元の記事の執筆者は、日本選手24人のメンバーにA型者が10人含まれていたことを「圧倒的多数」と表現しているが、おそらくこの人は、A型者が偶然に含まれる確率は4分の1であると誤解していたのであろう。しかし、実際には、41.7%含まれていたことは何ら驚くにはあたらない。

 また引用部分の後半では、田淵コーチが「A型は、おだてりゃ木に登るタイプ。俺もそうだからよくわかる」と発言したと伝えられているが、A型者であろうとなかろうと、日本人の圧倒的多数が「おだてりゃ木に登るタイプ」であったとすれば、「あなたは、おだてりゃ木に登るタイプだから、きっとA型でしょう?」と予測して正解になる確率はやはり40%であると期待され、偶然に当たる確率が25%であると誤解している人などは、「当たっている」と思い込んでしまう可能性が高い。




 では、そうではないケース、例えば、「あなたは変わっているからAB型でしょう?」と予想して正解になる確率はどうだろうか。この場合、「変わっている」という性格は、定義上、そんなにありふれたものではなく、非常に稀なケースでなければならない。「変わっている」性格と血液型との間に何の関連がなかった場合、

「あなたは変わっているからAB型でしょう?」

と予測して当たる確率は、各血液型の4:3:2:1の比率にあてはめればおよそ10%ということになる。いっぽう、

「あなたは変わっているからA型でしょう?」

と予測すれば正解率は40%になるので、そちらのほうが高く、単純に考えれば、「あなたは変わっているからA型でしょう?」と言明する行動のほうが強化されやすいということになる。

 しかし、上にも述べたように、「変わっている」という性格の人に出会う頻度は、「おだてりゃ木に登るタイプ」というタイプの人に出会う頻度よりきわめて小さい。よって、「あなたは変わっているからAB型でしょう?」と予測して不正解になるというケースは、「あなたは、おだてりゃ木に登るタイプだから、きっとA型でしょう?」と予測して正解になるケースよりもきわめて少なく、弱化される可能性はあまりない。

 AB型に関して「変わっている」、「ユニーク」、「貴重」、「二面性」といった偏見が持たれやすいのは、今回述べた「条件づけ型の信念形成」というプロセスではなく、むしろ、「AB型はAとBが混在」という観念的な発想に基づくものではないかという気がする。また、どのような人でも、何かしらユニークな部分は持っているはずであり、血液型性格判断信奉者がAB型者に出会った時には、相手のユニークな部分にことさらに目を向け、それが1つでも見つかれば「確信」してしまうという可能性もありうる。

【思ったこと】
_90120(火)[心理]「血液型性格判断」が廃れない本当の理由(7)やはり弊害があるのでは?

 昨日までの連載で、「血液型性格判断」(ウィキペディアでは血液型性格分類というように「分類」に重点が置かれている)が、いっこうに廃れず、また、特段の新発見があったわけでもないのに流行を繰り返すのはなぜだろうかということについて考察をした。

 現時点で私が考えている理由をまとめると、
  1. 「性格判断」などは、単なるお遊びであり、外れていたからといって健康被害を受けたり、大損をするわけではない。 心理学者が何と言おうと、心理学を全く知らない人気作家が何を書こうと、面白ければそれでよい。
  2. 「血液型性格判断」には、自分の「持ち味」を知り、それを活かして向上につなげたいという潜在的なニーズに応える機能がある。もともと、「自分の持ち味」は科学的方法で発見するものではなく、「これが自分の持ち味だ」と信じ込むことが肝要(おみくじも同様)。よって、自分の「持ち味」を知るためには、必ずしも専門家の診断は必要ではない。自分一人で(オンリーワン)で何かを達成しようとしても途中で挫折しやすい。その点、多くの人が読んでいる本の内容であれば安心できるし(おみくじも同様)、ある程度励みになる。「血液型」に基づく自己改善・向上をめざすということであれば、少なくとも、同じ血液型者という「仲間」がいるので、心強い。
  3. ABO式の血液型は4通りあるが、その比率は異なっており、他人の血液型をあてられる確率は1/4とは言えない。この種の統計学的問題について誤解があると、「血液型性格判断は当たりやすい」というように条件づけられてしまう可能性がある。
というようなことになるかと思う。

 このうち1.や2.は、もはや心理学とは無関係の現象であって、1月14日の日記にも述べたように、
心理学の専門家が「血液型本はインチキです」と演説するのは、初詣で賑わう神社の鳥居の前で「おみくじには科学的根拠はありません。」と叫んでいるようなもので、全く、お門違いということになる。そんな批判をしているヒマがあったら、もっと有効性の高い自己改善法のプログラムを提唱するべきだ、そうすれば必然的に、血液型本に頼る人は減ってくる、と考えたほうが妥当であろう。
というのが、妥当な方向ではないかと考えている。

 とはいえ、「血液型」が流行することにはやはり弊害があると思う。

 まず、血液型の違いに影響されて、他者にお節介をしたり、偏見をもつ恐れは多分にある。偏見についての警戒レベルは、性、人種、干支、六曜、きょうだい、出身地などと同等であり、常に監視を続け、問題現象に対しては徹底的に批判を加えることが必要である。

 血液型喧伝者などは、自分は一切差別も偏見も持っていないと言い張るだろうが、差別や偏見というのは、それを吹聴する人の態度ではなく、それを受ける側の問題として捉えなければならない(これは、セクハラ、パワハラ、アカハラでも同様)。「血液型」によって精神的に苦痛を受けたり実害を被る人が1000人中1人でもあれば、安易な言動は慎むべきであろう。現に、就職や結婚に影響なしとは言い難いし、スポーツ界には深刻な偏見を持った指導者が居るという話もチラホラと聞く(こちらの資料集参照)。

 このほか、上記2.では、「血液型性格判断」には、自分の「持ち味」を知り、それを活かして向上につなげたいという潜在的なニーズに応える機能がある。」とは述べてみたが、血液型というのはしょせん、生まれながらにして変わらない特性であるので、固定された4つのパターンの壁を乗り越えて「持ち味」を活かすことができない。結局のところ、個の多様性を否定し、自己の可能性の範囲を狭めてしまうことになるのではないかという問題点も考えられる。



この連載はまだ続いております