じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Copyright(C)長谷川芳典

1999年11月7日(日)〜8日(月)

【思ったこと】
991107(日)[心理]泥沼の上にビルを建てることと「血液型性格判断」(前編)

 すこし前、世界○化社の『モ○イルビギン』という雑誌編集者から私のHPを紹介させてほしいとのメイルをいただいた。まことに光栄であると思ってよく読むと、紹介してくださるのは、「じぶん更新日記」でも長谷川公用HPでもない。血液型性格判断資料集のページだという。そういえばそんなページを作っていたなあと思って、改めてファイルを開いてみたが、昨年の12月19日以来全く更新していないことに気づく。

 これほど滞らせてしまったのは、特別の理由があるわけではない。最後の更新:「この連載は、なぜあまり更新されないのか」に記したように、
.....「血液型性格判断」の議論なんぞに時間をかけても人間理解に役立つような生産的な知識は得られる見通しが薄い。もっと他に時間をかけるべき問題がたくさんある。
というのが主たる理由だ。

 性格や気質や行動傾向などと血液型との間に何らかの関連があることを肯定し、否定的な見方をする心理学者たちの実名を挙げて攻撃してくる人達がいる。ここではそういう人達の主張を「肯定」論と呼ぶことにするが、実際にはさまざまなロジックがあるため、ひとくくりにして反論することは難しい。あくまでそのうちの一部の人達に言及しているにすぎないとお断りした上で印象に残ったことを掲げてみるならば:

 かつてある「肯定」論者は、私が
まず「血液型と性格は関係が無い」というところから出発し、データを収集する中でもし安定的に関係のありそうな部分が見つかったら、さらにデータを積み重ねていく
というように示した指針をご自分の都合の良いように曲解し、雑多なデータの中から有意差が出た部分だけをつまみ食いして「ほら、この部分に有意差がありましたよ。これを認めますか?」というようなことを言っておられた。私が主張していたのは、つまみ食い部分を認めるかどうかという問題ではない。
必要なのは、具体的に「どういう関係があるのか」を主張すること。その主張は過去の資料とどういう整合性を持っているのか、根拠とする個々の資料にデータのゆがみは無いのか、これらを細かく立証していくこと。
が必要であると言っているのである。そういう努力を怠って「壱か零か」という抽象的な議論に結びつけたところで何の価値もない。

 例えば、50種類の職業について血液型の比率を調べたところ東京都知事という職業だけはAB型が飛び抜けて多かったとしよう(←じっさい、青島氏も石原氏もAB型だと聞いたことがある)。ここで次に進むべき道は、他の県知事でも比率に偏りがあるのか、総理大臣ならどうか...というように関連する資料をひたすら集めること。それを怠って、「有意差」が出た部分だけを切り取ってきた「だから、関係があるじゃないか」と決めつけて思考停止してしまったら生産的な議論はできない。

 統計的な検定では常に「タイプ1」と「タイプ2」のエラーがつきまとう。具体的には、「本当は関係が無いことを関係ありと結論してしまう」エラーと、「本当は関係があるのに無いと結論してしまう」エラーだ。肯定論者の人々は、後者のタイプ2エラーについてはエラく厳密に反論してくるクセに、前者についてはまことに「寛大」。能見父子の記述などもほぼ無批判に受け入れている。ひとくちで言えば、「遊びながら肯定し、否定論を否定する時には厳格な統計学者ヅラをする」というアンバランスが目立つ。

 マルチスタンダードというのだろうか。心理学者と議論するときには有意差のある部分だけをつまみ食いしてきて、厳密な議論をふっかける。心理学者の主張の信頼性を損ねるために、本筋と全く関係のない「反論のための反論」に終始する。その一方で、一般向けには、エエ加減なデータしかないのに何でも関係がありそうなことを言う。50種類の職業の比率のうち1種類で有意差が見られた場合は、その1種類に安定的な有意差が認められるかどうかという検討と、残り49種類は有意差が無かったという結果とをセットにして受け入れていかなければ科学的な議論とは言えない。そのときどきで反論のための反論として無節操に基準を変えていくような人を相手にしたところで何も得るところはあるまい。

 いわゆる「肯定」論者の中には、心理学者が集めたデータだけを攻撃の対象にしている人がいるがこれも奇怪。なぜ、能見父子のデータ?や自分たちが集めたデータで物を言わないのかとかねがね不思議に思っているのだが、なんでも「心理学者は自分たちの集めたデータしか信用しない」というのがその理由らしい。しかしいつ心理学者がそんなことを言ったのだろう。データの信頼性は集めた人の信頼性とは無関係。サンプリングの妥当性、意図的な基準の変更や歪曲がないということが信頼性の唯一の拠り所であるはずなのに。

 能見俊賢氏はかつてテレビの取材で、自分たちの本を買った読者からのアンケートを元にデータを集めたと言っておられた。そういうデータに信頼性が無いのは、能見さんが心理学者で無いとか能見さんを信頼していないからではなく、集め方という方法が信頼性を損ねるものであるからだ。心理学者批判にエネルギーを注ぐヒマがあったら、もっと自分たちで信頼のおけるデータ集めをしたらよさそうに思うのだが、さて、この一年間にどれだけの努力をされたことだろうか。

 ということで、血液型性格判断資料集が今後とも開店休業状態を続けざるを得ない。「血液型性格判断」を泥沼の上にビルを建てることに例える話については、この連載の後編で取り上げる予定。
【思ったこと】
991108(月)[心理]泥沼の上にビルを建てることと「血液型性格判断」(後編)

 昨日の日記の続き。本日は「血液型性格判断」を泥沼の上にレストハウスを建てることに例えてみたいと思う。初めにお断りしておくが、例え話というのは何ら論証にはならない。あくまで私がこれまで主張してきた内容を分かりやすくイメージしてしまうための補助手段のようなものとして受け止めていただきたいと思う。

 ここではまず、何らかの体系的知識を展開することを、ビルを建てることに例える。地震や風水害に耐えうるビルを建てるためには、しっかりした基礎工事が必要である。もちろん骨組みの構造もちゃんと設計されていなければならない。

 戦前の古川竹二、戦後の能見正比古・俊賢父子、その他もろもろの自称「心理学研究家」たちの血液型性格判断(正しくは「血液型・気質相関説」)に異論や否定論が出たのは、彼らの建てたビルに欠陥があることに気づいたためである。基礎工事にあたる「性格」や「気質」についての厳密な定義、実際の建築に必要なデータに問題があることが批判された。

 例えば「血液型によって性格が異なる」と主張するためには、性格とか気質についての厳密な定義、そしてある人と別の人とを区別するための客観的な分類基準が無ければならない。単なる印象や思いこみで当たっているとか外れていると言うだけでは再現可能性も反証可能性もない。これでは科学を標榜することはできないのだ。

 「血液型性格判断」のレストハウスが建てられる沼地というのはおそらく風光明媚な土地にあるのだろう。「血液型」を話題にした本や週刊誌がよく売れ、TVの視聴率が上がるのはそのせいである。ネット上の各種診断サイトなども同じだが、そういうものがもてはやされるのは診断の正確さゆえではない。遊びとして、コミュニケーションの手段として有用であるがゆえ。すぐに老朽化してしまうような安普請のレストハウスでも眺めさえよければそれなりに客が集まる。

 レストハウスの基礎工事や構造上の欠陥を指摘していることに対して、心理学者たちの実名を挙げて攻撃してくる人達がいる。こういう人達のロジックというのは、「欠陥を指摘する方法には不備があるので受け入れられない」というレベルでの「否定の否定」だ。

 もちろん、心理学者たちの中にも問題がなかったわけではない。何度か指摘しているように、初めから「血液型と性格は一切関係がありません」という形で頭ごなしに否定するのは科学的態度とは言えない。実際に建っているレストハウスに目を向けずに「こんな沼地にはレストハウスなど建てられるはずがない」という形で頭ごなしに否定しているのと同じことだ。ただ、「否定の否定」論者がいくら頑張って血液型性格判断否定論を否定してみたところで「この沼地にもビルが建てられる」という証明にはならない。そういうヒマがあったら、自分でちゃんとしたビルを建ててみろ、というのが私の主張だ。

 ということで、血液型性格判断資料集は、今後とも開店休業状態を続けざるを得ない。私に対するあまりにも理不尽な個人攻撃が伝えられれば何らかの対処をすることもありうるけれど、基本的には「否定の否定」論者の相手などしているヒマはない。「否定の否定」論者さんたちもいずれそういうことにエネルギーを費やし一生を終えることに空しさを感じるようになるだろう。はやく立派な建物を建ててくれまへんかな。そのうえでご招待いただきたいものである。