じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

12月28日(月)

【思ったこと】
981228(月)[因得]ネット上で批判をすることについて(3)発言者個人を「批判」すること

 12月25日の日記で、「一口に批判、批評、評価などと言ってもいろんなレベルがある」として、その5番目に
5. 個人全体に関わる批判:
「Aさんは一貫性のない人だ。その証拠に、ある時は『○○は××だ』と言い、別の時は『○○は××でない』と言っている。」というように、相手の姿勢、態度、基本方針、思想全般について意見を述べること。
をかかげたところ、あるWeb日記作者の方がこれに反応してくださり、
ネットのやりとりで発表者のパーソナリティーに言及したらもう終わったも同然だ。
と述べておられた。私もこれには全面的に同感だが、じつは25日の日記ではそこまでは想定していなかった。ご指摘のように、相手の人格にまで言及するようになったらもう議論はおしまいだ。そこからは生産的な結論は何一つ得られない。

 学会の討論でもごく稀にみかけるが、議論が白熱する中で、うっかり相手の人格に関わる批判をする人が出てくる。こうなると聴衆はたまったものではない。暇つぶしの娯楽のつもりで応酬を観戦するならともかく、その場に居合わせても学問的に得られるものは何も無い。逆に、どんなに議論が白熱しても、議論の対象に関わる発言内容(個々の発言または一連の発言全体)に限定して批判を続ける限りは、感情的な対立には至らない。時間切れで何も結論が得られなかった場合でも、会場を去る前に笑顔で握手して「また続きをやりましょう」ということになる。

 ネット上で「批判」をする人の中にも、相手の人格を攻撃することで自分の正しさを強調する人がいる。「あの人は別の場所でこんな卑劣なことをしている人だから、その発言内容も間違っている」というようなレトリックである。人格攻撃までは至らなくても、相手方のちょっとした言い間違いや勘違いを列挙して、その人の信頼性を損ねる印象を与えた上で当該発言を批判する人もいる。これらはいずれもフェアなやり方とは言えない。発言内容に反対であるならば、その部分だけを論破すればよいのだ。

 発言者の性別、職業、年齢などについて、読者の多くがいだいているステレオタイプなマイナスイメージを利用して発言内容を攻撃するパターンもある。「女のくせに」、「学生のくせに」、「東大生のくせに」、「年寄りのくせに」などがこれにあたる。私個人の場合は、たまに「国立大の助教授のくせに」などというレッテルをはって発言内容を攻撃してくる人がいる。上記同様、発言内容に反対であるならば、その部分だけを論破すればよいのに、と思う。

 というように考えていくと、25日の日記の5.の部分には不適切な部分があった。「Aさんは一貫性のない人だ。」と言ってしまえば個人に言及したことになってしまうからである。そこで5.は次のように分けて考えてみたいと思う。
5. 一連の発言内容や発言姿勢(※)についての限定的な批判:
「Aさんの発言内容には一貫性がない。その証拠に、ある時は『○○は××だ』と言い、別の時は『○○は××でない』と言っている。」というように、個々の発言を超えた一連の発言内容や発言姿勢を、批判すること。
※ここでいう「発言姿勢」とは、掲示板で長文の書込を執拗に繰り返す行為や匿名による発言など。
6. 発言内容や発言姿勢を発言者自身に関連づけて「批判」すること
「Aさんは平気でウソをつく人だ。その証拠に...」とか、「Aさんは東大生のクセにあんなことを言っている」というように、議論の対象範囲を超えて、発言内容の人格、能力、職業と関連づけて「批判」し、時には人格攻撃にまで及ぶもの。
 このうち、6.についてはもはや論外。いっぽう、上記のように再分類した上での5.については、一定の条件を満たせばフェアな批判が可能であると考えているが、これは話題の性質、議論を行う人の実名性によってケースバイケースになるかと思う。 この点を含めて今後、匿名問題、「名指しなどにより対象を明確にして批判すべきか対象をぼかして批判すべきか」という問題、あるいは、「いったん批判を行っておきながら反論を受けたり都合が悪くなるとこっそりその箇所を削除して知らん顔をする」ような行為について、考えていきたいと思っている。但し、年末年始は妻の実家に居候する手前、ネットに繋げるかどうか分からないので、この連載の続きは正月明けにさせていただく。

 最後に、三省堂の『新明解』(第五版)によれば、「批判」は
物事のいい点については正当に評価・顕彰する一方、成立の基盤に関する欠陥については徹底的に指摘・検討し、本来どうあるべきかを論じること。(「揚げ足取り」の意にも用いられる。...)...
というように定義されている。11/19の日記でも述べたように、私はもともと、ネット上での議論には限界があると考えているけれども、「本来どうあるべきかを論じる」というレベルでの発言が続く限りは、合意には至らなくても、何かしらお互いの「更新」に役に立つような有用な結果がもたらされる可能性があると期待している。