じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

10月20日(火)

【思ったこと(2)】
981020(火)[一般]匿名サイトの気軽さと、はかなさ
 仕事上の利用を除けばネットではWeb日記ばかり読んできた私は、これまで日記の作者が匿名であるのか、実名であるのかということにあまり注意を払わなかったし、むしろ匿名日記のほうが面白いと思うことさえあった。
 じっさい、特に個人の私生活を描いたり、私生活と関連づけながら日々の話題を論じる日記のような場合、実名では書ける範囲が非常に限定されてしまう(←実名でも赤裸々に書く人もおられるが)。自分自身だけならともかく、家族やカイシャ(大学)に迷惑がかかるおそれがある以上、匿名にするのはやむを得ないところがあると言えよう。

 ところが、最近、血液型性格判断の話題の連載を再開するようになって、研究者の実名をあげて過去の著作に反論したり誤植や勘違いをあげつらう匿名サイトが複数あることが分かった。私がたまにリンクするサイトは、いずれも、ハンドル名とメイルアドレスは明記してあるが、実名かどうか、かつての藤子不二雄のような複数作者のペンネームなのか、もうすこし人数の多い研究会なのかどうか、全く見えてこない。なぜ、実名で語りたがらないのか、私には不思議でしようがない。

 上にも述べたように、Web日記を書く場合なら事情は分かる。また、言論が弾圧されるおそれのある国とか、組織内の不正を内部告発するためのサイトであれば匿名で執筆を続けるという必要もあるだろう。しかし、血液型性格判断を肯定する人々、あるいは「否定論を否定する」人々が、なぜ自分のほうだけ実名を隠し続ける必要があるのか、私には理解できない。

 匿名でも情報的価値があればそれでいいじゃないかという人もいるだろう。しかし議論を求めるサイトとなるとまるで違う。
  • 匿名で批判を続ける人は、HPの存続に当たって自分を守る必要がない。イヤになったらヤメしまえばよい。いつヤメても私生活では何の不都合も生じない。気が向けば別のサーバーから別のHP立ち上げればよいだけ。いっぽう、実名で批判を受けた人は、枝葉末節な点に至るまで反論や追加の説明を加えなければ、実生活全般にわたって信用を失うおそれがある。極端に言えば自分のクビをかけて、発言の内容の社会的責任を負わなければならない。この点、匿名サイトはまことに気軽なものだ。
  • 匿名のサイトの主宰者は、そこに記されているコンテンツの範囲でしか批判されない。これに対して、実名のサイトは、HP以外のあらゆる著作物や発言を引用して批判される。
  • 匿名で批判する人は、じぶんの主張内容には何の体系性、何の一貫性がなくても、相手の主張をローカルな(つまり断片的な)理屈だけで反論することができる。違う基準(スタンダード)で反論する時には、別のハンドルを名乗ることだってできる。

 ざっと言えばこんなことになるだろう。
少々脱線するが、匿名サイトというのは、(リモートホストを探知しない)伝言板の匿名発言と似通ったところがある。この件に関しては、1997年の10/8頃の日記を参照していただきたい。ま、インターネットという巨大な掲示板における匿名発言と似たようなものだろうか。

 以上もっぱら「匿名サイトの気軽さ」を論じてきたが、そのいっぽうで、はかなさ、空しさを感じる人もいるに違いない。匿名サイトは、いくら充実していて正確なコンテンツがあったからといって、その発言の資料価値はほとんどゼロに等しい。だってそうでしょう。実名の人がネット上で展開した主張であれば何らかの別の媒体に保管され引用することができるが、正体が分からない人の主張なんてサイトが閉鎖されたらそれっきり。オリジナリティを評価することもできない。
 長谷川の実名をかかげて、勝手に「現在議論が沸騰中!!」などと言っている方、本気で論争したいんだったら
「一応男性ですが、あまり若くないので年齢はヒミツです。f(^^;; ハンドルネームは、とりあえずは"*****"です。」
なんて恥ずかしがらず(?)に、いいかげん正体を明らかにしたらどうですか。