8月30日(月)

【イランで思ったこと(11)】
990830(月)[旅行]地層が見える山

[イランの写真] [イランの写真]  イランは、標高(訪問地でおおむね1000〜1500m)、山岳が多いということなどからみて、日本の長野県、それも清里高原など小海線沿線と地形的によく似ているところがあるが、決定的に異なるのは樹木が無く、黄褐色の砂礫の山が連なっているという点だ。日本の子供に山の絵を描かせれば、たいがいはなだらかな曲線を引き緑色に塗るだろう。イランの子供だったら、おそらく、黄褐色に塗った上に地層の線を何本か引くに違いない。日本では昔から水源、材木、果物、山菜、狩猟など、山とに依存する生活が続けられてきたが、イランの山々からは見かけ上「生」を感じることができない。山との関わりは日本とはずいぶん違ったものになっているであろう。

 バスの窓からの見る山々は人類が誕生する前と殆ど変わっていないような地層むきだしの山ばかり。写真左上はペルセポリス、残りはその帰りにに撮影したものであるが、いずれも褶曲や断層の様子がよく分かる。日本の理科の授業のように特別の模型を使わなくても、山や谷はこういうふうにできたんだということが一目瞭然だ。日本の山は森林や表土に覆われているために特別の場所を除いて地層を直に眺めることはできないが、山の造りはイランと一緒。同じような褶曲や断層が眠っているのであろう。

 日本では「緑」の景色があまりにも普通であるため、黄褐色の土肌を見ると活火山か工事現場のような特殊な場所を連想してしまうが、地球全体規模で考えるなら緑の山というのはそれほど多くないものと思う。一週間ほど禿げ山ばかり見ていたせいか、成田から上野に戻る時、車窓から見える低い山並みが、一瞬、毛カビのような異様な生命体に覆われているように見えた。
[イランの写真] [イランの写真]  ところで、このように乾燥した風土であるにもかかわらず、訪れた都市はいずれも水に恵まれていた。いま“イランの山々からは見かけ上「生」を感じることができない”と書いたが、これはあくまで見かけ上の話。イランでは都市の水道も農地もすべて高い山々からの雪解け水が作る川や地下水に頼っているとのこと。見かけ上は「死の山」でも本質は「生の源」というところに一段と神秘的な雰囲気が漂っていた。