じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] まだまだ元気、センダンの実。





2月15日(金)

【ちょっと思ったこと】

冬季オリンピックにおける割引原理・割増原理

 ソルトレイクシティで冬季オリンピックが行われているが、日本人選手は残念ながら当初の期待されたほどの成果を上げていないようだ。こうした無念さを和らげるためにしばしば使われるのが、原因の帰属を重みづける2つの原理である。『クリティカルシンキング 入門編』(ゼックミスタ・ジョンソン著、宮元・道田・谷口・菊池訳、北大路書房、1996年)では、これら2つの原理は次のように説明されている(87-93頁)。
  • 割引原理
    その状況で合理的に見える原因(促進的な原因)が他にあれば、その重要性は低くなる
  • 割増原理
    外的原因の中に抑制的に働く力を見つけると、内的原因の重要性を割増して考える
 このうち割引原理は、一般には失敗の自己責任を軽減する方向で使われやすい。入試で不合格になった時、前日から39度近い熱を出していたという情報があれば割引原理として働く。いっぽう、割増原理は、成功談などで、困難性を強調することで「それにもかかわらずこれだけの成果を上げた」ことを強調する方向で使われやすい。偉人伝やNHK「プロジェクトX」ではしばしばこの原理が使われている。

 いっぱんに割引原理・割増原理では、課題に特定した知られざる困難さや、偶発的妨害要因が引き合いに出される。例えばトンネル工事をすすめようとしたら予想外の出水に遭遇したとか、冷戦状態の中で救出作業が難しかったなど。

 しかしオリンピック競技の場合は、選手がみな同じ環境条件で同じ課題に取り組むので、それらは促進あるいは抑制要因にはなりにくい。それゆえ、どうしても、選手本人のケガや体調不良などに言及されることが多い。あくまで仮想の例だが
  • A選手は、昨年大けがをして回復は困難と言われていたが銅メダルをとった。
  • B選手は、大会前にお父様の訃報があったが、その哀しみを乗り越えて銅メダルをとった。
と言えば、割増原理として働く。いっぽう、非常に不本意な結果に終わった場合でも、ケガや体調不良に言及されれば割引原理として働く。

 このほか、「日本人としてはこれまで最高の6位」とか「日本人として初めて2大会連続の...」などは割増原理として働く(いずれも仮想の例)。

 偉人伝にみられるように、適度の割増原理は感動を増幅し、観客自身の人生にもポジティブな教訓を与えてくれる。しかし反面、地道な努力のプロセスに目を向けず結果の賛美だけに終わってしまう恐れもあるので注意が必要だ。それと、スポーツは何よりも健康さをアピールすることが大切。過度の練習で骨や筋肉をボロボロにしないとメダルがとれないような種目は、本人の自己管理責任を責める以前の問題として、競技自体に問題があるように思う。
【思ったこと】
_20215(金)[心理]今年の卒論・修論研究から(9)そろそろ見直したい「因子分析」型卒論(前編)

 社会心理っぽい卒論の1つのスタイルとして
  • 心理学関連科目受講生に質問紙アンケートを配る
  • 因子分析にかける
  • 因子負荷量に基づいて、各因子にもっともらしい名前をつける
  • 統計学上は「名は体を表す」ことにはならないハズなんだが、命名された因子がいつの間にか独り歩きして説明概念になっていく.....
というものがある。私が学生の頃などは電卓もパソコンも無い時代だったから、因子分析などと言っても、カードにパンチしたデータを持って大型計算機センターに通わなければならず大変な手間がかかっていた。今では、パソコンでも使えるような統計パッケージがあるので、処理にはあまり手間がかからない。となると、上記のスタイルは、手っ取り早くデータを集めて論文に仕上げるにはうってつけのツールということになる。

 しかし、この因子分析、主因子法やらバリマックス回転やらいろいろ言われるけれども、ホンマにその原理を分かって使っているのだろうか。いや私自身どこまで理解できているか心もとないけれど...。

 このWeb日記は研究室ではなく自宅で書いているため手元に統計の本を置いていないのだが、たまたま書棚に『複雑さに挑む科学〜多変量解析入門〜』(柳井晴夫・岩坪秀一、講談社ブルーバックスB297、1976年)という、私が大学院に入った頃に刊行された古い本が見つかった。事例が古いとはいえ、因子分析のツボはよく押さえられているのではないかと思う。それによれば、因子分析の目的は次のように分類される(109〜110頁、一部は長谷川が要約)。
  1. 実際のデータに因子分析を適用する究極の目的は、相互に関連して複雑な絡み合いをもつさまざまな事象の背後に潜む潜在因子を発見することにあるが、ある標本デー夕に基づいて抽出された因子が、分析のねらいとした実質科学の分野における真の潜在因子を反映していることはきわめて稀である。したがつて、抽出された因子が真の潜在因子を反映していると考えるよりは、むしろそれが、分析の対象となった変数間の相互関連を規定する一つの仮説的な因子であると解釈すべきであろう。
  2. 説明的因子分析:変数間の相関係数を規定する因子が全く未知の因子を探索する探索的利用、さらに、ある事象の相関係数を規定する因子があらかじめ見当づけられている場合に、因子分析によって確かにこの仮定された因子が存在していると結論づけてよいか否かを調べる仮説検証的利用がある。この二つの利用法ば相互に独立なものではない。
  3. 過剰なまでの情報が氾濫している現在、それらの中には多数の冗長な情報が含まれていて、そのままの形では自己の知識として役立てることが困難。多くの情報をそのままの形で覚えこむよりは、それらの中から冗長で不要な情報を切り捨て、重要な情報のみをとり出すことが先決となる。このように情報を圧縮するために利用される因子分析を記述的因子分析という。
  4. 説明的因子分析と記述的因子分析の立場は、全く独立なものではなく、冗長な情報の排除というプロセスを経ることによって、第一の立場である未知の因子の探索につながっていくことが期待される。
 ところが、どうしたことか、卒論研究では、自分の見つけた因子があたかも真の「潜在因子」であるかのような解釈をしている場合が見受けられる。各因子にもっともらしい名前をつけたのが自分自身であったことを忘れて、素朴概念が独り歩きしてしまうのである。

 いずれにせよ、真の「潜在因子」なるものが見出されたところで、「潜在因子に影響を及ぼす具体的操作」を確定しなければ、現実を変えることはできない。あやふやな「潜在因子」に引きずられるよりも、具体的な操作が目前の現象のどの部分を変えうるかを検討したほうが近道、かつ安定的な成果が得られるのではないかと思われる。

 となれば、少なくとも卒論・修論研究段階では、因子分析は、上記3.に挙げられた

●冗長で不要な情報を切り捨て、重要な情報のみをとり出し、自己の知識として役立てるツール

として利用すべきではないだろうか。考察段階においても、潜在的な何かを発見したと主張するよりも、そのようなツールを用いることで複雑な現象がどれだけ簡潔に整理され利用しやすくなったのかということを強調するべきであると思う。なお、後編では、『複雑さに挑む科学〜多変量解析入門〜』に挙げられていた分析事例が、25年たったいま、どう評価されるべきか考えてみたい。