じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] クマゼミ。図鑑によれば、セミは6年ほどを地中で過ごし、地上に出て最後の脱皮をして成虫となる。成虫の寿命は約2週間だけというから、セミの一生の主要な生活空間は地下であって、子孫を残して死ぬために地上にはい上がってくるとも言えよう。
 であるとするならば、長期間の環境変化に耐えうるような仕組みは要らない。あまり丈夫でない羽根、大音響の発声器官、2週間だけ持ちこたえられるだけの簡素なエネルギー補給装置があればよいのだ。
 写真のクマゼミは、朝のうちだけ鳴くのが特徴。本州に生息するセミのなかではいちばん大型ではなかったかと思う。



7月26日(木)

【思ったこと】
_10726(木)[心理]オーストラリア研修(その15)「治療手段としてセラピー」と「ポジティブな変化を実現するセラピー」:高齢者福祉におけるセラピーの2つの役割

 6/27の日記から12回にわたり、「ダイバージョナルセラピー(Diversional Therapy、以下『DT』と略す)」について思ったことを連載してきた。アデレードでのレクチャーで配布された資料には、これまでに紹介した内容のほか、「REMINISCENCE(「回想療法」)」、「DOLL THERAPY(人形療法)」、「PET THERAPY(ペット療法あるいは動物介在療法)」についての解説があったが、時間の関係で十分な説明を受けることができなかった。これらについては別の機会に考えを述べたいと思う。

 さて、今回の研修旅行に関連して、7/27の夜に大阪で報告会とセミナーが予定されており、私自身も10分ほどのスピーチをすることになっている。そこで、このあたりでもういちど、DTおよび高齢者福祉におけるセラピーの役割について、私なりに考えたことをまとめておきたいと思う。




 今回の研修に参加して、私自身の中でいちばん見方が変わったのはセラピー(療法)の役割についての考え方である。私はこれまで、セラピーをある種の治療法、社会復帰、精神もしくは身体機能を回復させるための手段として考えてきた。DTにもそうした要素は含まれていたが、そればかりではなかった。じっさい配付資料をみると、
WHAT SHOULD A DIVERSIONAL THERAPY PROGRAM INVOLVE?
A quality Diversiorial Therapy program should:
  1. Be interesting
  2. Be fun
  3. Be educational
  4. Be stimulating
  5. Have a range of choice
  6. Provide oortunity for reminiscence
  7. Contain activities which build on life-long interests
  8. Provide opportunity for new challenges
  9. Contain activities which meet physical and cognitive function
  10. Be developed in consultation with clients, relatives, and staff
というように多彩な内容が組み込まれていることが分かる。つまり、失われた部分を回復させたり衰退をくい止めるというセラピーとは異なり、もっとポジティブで前向きの活動を志向しているのである。7/22の日記でも引用したように、DTのこうした特徴は、福井県立大学社会福祉学科の舟木先生のページでも
【DTは】回想法、音楽療法、運動療法、陶芸療法、趣味活動、バス旅行など様々な手法が使われるがいわゆる「治療」という目的で実施されるのではない。個人が自己実現を感じ、自分の価値の向上を目的にプログラムが実施される
として紹介されている。

 セラピーを治療や回復のための手段として捉えるか(便宜上、これを「治療手段としてセラピー」と呼ぶ)、自己実現や価値の向上の活動として捉えるか(便宜上、これを「ポジティブな変化を実現するセラピー」と呼ぶ)によって、有効性の検証方法や代替手段の導入のしかたも大きく変わることになる。この点については7/57/6の日記で考察した。要するに、「治療手段としてのセラピー」では、治療効果が検証されなければならない。効果が認められないセラピーは無駄なものとして排除される。現状より有効性の高いセラピーが開発された場合にはそちらへ切り替えられることが求められる。

 ところが、「ポジティブな変化を実現するセラピー」の場合には、有効性を検証することは殆ど不可能に近い。そもそも「自己実現」や「価値向上」を集団の平均値の変化で比較すること自体ナンセンスであるし(7/6の日記参照)、その変化をダイレクトに測る客観的指標があるとも思えない。第三者が知りうることは、セラピー(あるいはもう少し要素に分けてとらえた時の個々の介入や機会提供)がクライアントの全般的な活動にどういう変化を及ぼしたかという点だけである。であるとするならば、「ポジティブな変化を実現するセラピー」は、治療効果とは別の次元で評価を行う必要がある。その有用な物差しとなるのが、行動分析で言うところの強化力、それも単に行動を増やす力という意味ではなく、強化の質(行動内在的か付加的か)や生活全体のバランスを考慮した上での強化力ということになるのではないかと思うのだが、この点についてはさらに検討を進めてみたいと思う。

 じゅうらい、「治療手段としてのセラピー」に比べると、「ポジティブな変化を実現するセラピー」は、「必要性の低いもの」、「ぜいたくなもの」、「あればそれに越したことは無いが、真っ先に予算削減の対象にすべきもの」として受けとめられてきたところがあるように思う。おそらくこれは、医療保険制度との関連(7/9の日記参照)、あるいは「限られた資源は、治療や回復を必要としている人々に優先的に配分されるべきものである」との社会通念に起因するものと思われる。

 こうした考え方は、新しいセラピーを宣伝・普及する際にも反映されている。あるサイトでは
○○療法の対象は広く、身体的・精神的問題を含んだすべての人々が対象ですが、療法である以上、健常人が○○を楽しんで心の満足を得る趣味の行動とは一線を画しています。
と説明されていた。この発想は、「○○を楽しんで心の満足を得る趣味の行動」は療法には含まれないという意味にもとれる。じっさい、ネット上で「療法 & 協会」などをキーワードに検索してみると、殆どすべての「療法紹介サイト」において、(真偽はともかく)医療効果が強調されていることがわかる。

 確かに、健常なお年寄りが趣味として何かを楽しむ場合には、地域の同好会や生涯学習のための施設がそれをサポートすれば済むことであろう。しかし、介護施設で生活している高齢者の場合には、身体的な衰えや施設上の制約から、自力でそういう心の満足を得ることはできない。こういう状況のもとでは、「ポジティブな変化を実現するセラピー」は「治療手段としてのセラピー」と同じぐらいに大切である。

 2000年4月の紀要論文でも述べたが、スキナーは、人間にとって最も大切な権利として、「能動的に働きかけて結果を得る権利」を繰り返し強調している。衣食住の環境がいくら整っても、この権利が尊重されない限り、生きがいは生まれてこない。介護施設のような、制約の多い生活環境の中でそうした権利を最大限に保障するためには、ボランティアによる単発的な慰問では不十分。「ポジティブな変化を実現するセラピー」をシステマティックに実施することがぜひとも求められる。その企画・推進者として、DTは大きな役割を果たすものと期待される。

]研修旅行の報告(未完成)をhttp://www.aa.aeonnet.ne.jp/~hasep/_106Aus/index.htmlにまとめました。よろしかったらご覧ください。