じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 講義棟前のホウキ草。36度を超える猛暑の中、心を和ませてくれる。



7月25日(水)

【思ったこと】
_10725(水)[心理]オーストラリア研修(その14)「主観」を活かすセラピー/客観的認識が推奨される2つの理由

 昨日の日記で紹介した「Reality Orientation」(以下「RO」と略す)は、高齢者が現実世界に適切に関われるためのセラピーであると言えるが、痴呆が進むと、もはや、現実を正しく認識することが困難になってくる。そのような段階では、誤認識をいちいち訂正させずクライアント自身の判断や主観的経験をそのまま受け入れるほうが望ましい場合が出てくる。じっさい、そのような対応をとることで、クライアントの不適応行動が減少し、薬の使用量が減り、コミュニケーションが増加するなどの好ましい変化が現れるとの研究もあるという。

 超高齢者の主観的判断を、真偽にかかわらず受け入れる実用的対応技法は「VALIDATION」と呼ばれる。「RO」と同様、この「VALIDATION」もダイバージョナルセラピー独自の方法ではない。vfvalidation.orgというサイトに本格的な解説があるので、興味のある方はそちらをお読みいただきたい。ちなみに、このサイトのタイトルにRマークが付されているように「VALIDATION」には商標権が設定されている模様。セラピーの分野でこの名称を使う時には注意が必要である。

 上記のサイトの中のWhat is Validation?には、「Ten Principles of Validation」という示唆にとむ記述がある。最初の2項は、超高齢者以外のすべての人にあてはまることだろう。
1.All people are unique and should be treated as individuals.
人はすべて固有の存在であり、個人として尊重されなければならない。
2..All people are valuable, no matter how disoriented they are.
どれだけ分別が失われたとしても、人間としての価値が損なわれることはない。
[意訳は長谷川による]
 ところで、超高齢者の主観的世界は、我々がふだん楽しむフィクションの世界や、昨今話題の仮想現実と同じものなのだろうか? いや、否である。
  • 少し前に聞いた話であるが、ある痴呆症介護施設で、妻に先立たれた男性が、同じ施設のお婆さんを本当の妻だと思い込み、手を引っ張って徘徊をするようになったという話を聞いた。お婆さんのほうも別段、迷惑がっていないという。その男性にとっては手を引いているお婆さんは現実の妻そのものなのであって、フィクションや仮想では決してない。
  • すでに子どもたちはとっくに成人になり孫まで生まれているにもかかわらず、「はやく家に帰って子どもたちの食事の支度をしなくては...」と外出したがるお婆さんが居るという話はよく聞く。この場合も、「家で子供が待っている」というのは、そのお婆さんにとって現実そのものなのである。
 そもそも我々が感じ取る世界というのは、多かれ少なかれ主観的なものである。もちろん、そうした世界は、我々から独立した客観世界が存在して初めて構成されるものであることは間違いないのだが、生物として特性上、客観世界そのものをそっくりそのまま認識することはできない。

 多くの人々が、自己の主観的な世界をできる限り客観世界に近づけようと努力するのはなぜだろうか。私は次の2つの理由があるからだと思う。
  1. 適応上のメリットがあるから。例えば、ジャングルで生き延びる場合、食べ物や外敵を主観的に判断していたのではすぐに死んでしまう。
  2. 集団生活の中で合意の基準となるから。個人個人が好き勝手に判断していたのでは衝突は絶えない。全員を納得させる唯一の基準は、客観的な証明である。
 しかし裏を返せば、上記の2つの障壁さえクリアできるのであれば、主観的世界に埋没することは必ずしも悪いことではないと言い切ることもできる。もちろん、介護施設内でも、事実と異なる主観的判断が多発すれば、食事が終わっているのに「まだ食べていない」と言ったり、配偶者を取り違えるといった不適切行動は起こりうるわけだが、それらを減らすための最適な手段は、必ずしも「客観的事実を示した上での説得」とは限らないのである。そういう段階での「VALIDATION」の意義は大きいのではないかと思う。

 余談だが、研修のさい、私のほうから少々意地悪な質問を出してみた。

痴呆症では、何も盗られていないのに被害を訴える人がおられます。その場合でも、「盗まれた」という主観的判断を認めてやるのですか?

それに対する回答は、「そのような訴えがあった場合も、真っ向からは否定しない。とりあえず受け入れ、当人の関心が違う方向に向くように努力する」というものだった。問題行動それ自体を弱化するのではなく、別の方向へと切り替えを促すという発想は、まさに「ダイバージョナル」の元の意味そのものであると思った。